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「相手の男性は私の父なの」
芳と会って浮ついていた気持ちが、すっと冷たくなるのが分かった。画塾の講師だったとしか知らない。馨の話に嘘はないと思いたいが、自分が知っているのはあくまでもお子様向きにリライトされたストーリーでしかないのだ。
「そんな顔をしなくても大丈夫。大丈夫っていうのも変ね」
返事のしようがなくて宥己があいまいな笑みを浮かべていると、芳はちょっと首をかしげてほほ笑んだ。
「父が画塾を開いたのは母と別れてからよ。お腹、空かない? レストランに予約を入れているの。水道騒動で大遅刻よ。連絡するのも忘れていたわ。まだ大丈夫か、聞いてみるわ」
シェフとは知り合いのようだ。電話口で冗談を言いながら、楽し気に話している。芳はクスクスと笑いながら言った。
「お待ちしていますって。ちょっと待っていて。着替えてくるから」
「あの、洗面所をお借りしてもいいですか」
「ええ。そこのドアが洗面所よ」
宥己は顔を洗い青ざめた頬をごしごしとこすった。
ふと傍らを見ると、ピンクの歯ブラシが一本、コップにさしてあった。この団地が建った頃はユニットバスはなかったから、トイレは別室になっている。アパートのユニットバスはトイレットペーパーーが湿ってしまうのが難だ。トイレはやっぱり別室にかぎる。
仕事に絡め無関係なことを考えて、宥己は二人の『かおる』から気持ちを切り離した。
壁は白いタイル、床はグレーの小さなタイルが張ってあり、ほぼ正方形の水色のホーローの湯舟の脇には手回し式の着火装置がついた湯沸かし器が備え付けてある。資料を読んで知ってはいたが、こんな古い型式の湯沸かし器を見るのは初めてだった。
「そろそろ行きましょうか」
「はい」
振り返ると、芳がほほ笑みながら立っていた。水彩画のような軽やかな色合いのスカートと柔らかいブラウス。ごく薄い化粧が白皙の整った顔立ちをひきたてていた。
「ここから歩いてすぐなの。お店でお会いしようかとも思ったのだけれど、場所が分かりづらいから。でも、良かったわ。貴方がここに来てくれたから水道管破裂事件が無事に解決したのよ」
芳は上背があって、長い脚でさっさと歩くからうっかりすると置いて行かれそうになる。宥己は慌てて後を追った。
閑静な住宅街の一角にその店はあった。なるほど、パッと目ごく普通の住宅で、言われなければレストランとは分からない。
「住宅街の中にあるでしょう。派手な宣伝をして人がたくさん来ると困るんですって」
一見さんお断りなのだろうか。それにしては、装飾レンガが施してあるツーバイフォーの輸入住宅はこじんまりとして可愛いらしく、厳めしい雰囲気とは程遠い。
「お待ちしていました! 奥へどうぞ」
芳がドアチャイムを鳴らすと、ピンクの頬をした学生のような若い女が迎え入れた。
「ご迷惑かけちゃって、ごめんなさいね」
「いいえー。おじいちゃん、芳さんのオトモダチを一目見てみたいって楽しみにしてたんですから」
「もう、美奈ちゃんったら。何よ、その言い方。佑士さんに怒られるわよ」
芳が憤慨してみせたが、
「ちょっ。やだ、可愛い」
美奈はお構いなしに感想を述べた。この歳になって可愛い、と言われるとは思わなかった。最近の若者は言葉を知らん、なんでも可愛いですませる、と文句を言っていた上司の顔を思い出す。多分、肯定的な意味なのだろう。ありがたく受け取ることにして会釈すると、美奈は頬に笑みを残したまま、店の奥へと案内した。
「こちらへどうぞ」
ドアを開けると、広々とした空間が広がっていて、大きな窓からは手入れの行き届いた庭が見渡せる。内装はオーク材の床材、壁は漆喰のこて仕上げで、マナーハウス風のレストランといった趣だ。窓際にテーブルが三つ、部屋の真ん中には大きな丸いテーブルが一つ。客は四組しか入れないらしい。三つとも既に席は埋まっていて、皆、静かに話をしながら食事をしていた。平日のせいか、年配の客が多い。案内されたのは窓際のテーブルで、席に着くと、視線の先に桔梗が咲いているのが見える。座ったまま庭を眺めると、葛が行儀よく地面を覆っていて、可憐な花を咲かせていた。
美奈がライムのスライスを浮かべた氷水の入ったピッチャーとバケットの入った籠とオリーブオイルの入った小皿を持ってきた。
「素晴らしい庭ですね」
立って見るのと座って見るのとでは趣が全く違う。一見すると野趣に富んだ庭だが、隅々まで手入れが行き届いているのがわかった。
「ありがとうございます」
フロアには他のスタッフはいない。さっきと同じ人物かと思われるほど、美奈の切り替えは見事だった。美奈はさっと一礼すると静かにバックヤードへとさがっていった。
「佑士さん、美奈ちゃんには甘いんだけれど。仕事に関しては別みたいね」
「美奈さんがフロアマネージャー?」
「ええ。美奈ちゃんも本気で修行してるみたい。将来は自分達のお店を開きたいんですって。その人は修行中だから、まだ佑士さんには秘密だそうよ」
美奈と入れ替わりに佑士が厨房から出てきてテーブルの傍らに立った。長身痩躯に纏った白いコックコート姿は威厳がある。油気のない手と深爪になるほど短く切ってある爪は料理に携わる者としての自負がうかがわれた。佑士の目に叶うのにはかなりハードルが高そうだ。美奈がまだ〝その人〟を秘密にしているのが分かるような気がした。
佑士は長年訓練されてきたと思われる無駄のない動きでそれぞれにメニューを手渡すと、簡潔な説明をした。
「メインはラムのリブロースソティか鯛のポワレのどちらかをお選びください。デザートの選択はお食事が終わってから伺いにまいります」
どこどこで採れた魚だ、当店では有機野菜を使っております等々、延々と説明をするシェフもいるが、佑士は必要事項だけを述べるとさっと一礼して厨房に戻っていった。料理を味わうのに予備知識は必要ない、ということか。
芳はいつの間にか眼鏡をかけて熱心にメニューを見ている。
「ラム、嬉しいわ。大好きなの。デザートはアイスクリームね。貴方は?」
「僕は鯛のポワレを。デザートは後で決めます」
「何かお飲みになる?」
「いいえ。今日は車なので」
「失礼。うっかりしていたわ」
そういいながらも芳はアルコールのリストに名残り惜しそうな視線を向けている。
「遠慮なさらずにどうぞ」
「そう?」
「ええ、もちろんです」
芳はにこりとすると、片手を小さく上げて美奈を呼んだ。
「お決まりですか」
「メインはラムのリブロースを。シャンパンはどれがお勧めかしら」
「芳さんはブリュットがお好みでしたね。こちらのシャルル・ペルティスはいかがですか」
「ではそれをお願い」
小さな泡のたっているシャンパンを一口飲んだ芳は、幸せそうにほっと小さくため息をついた。午後の緩やかな光がシャンパングラスに反射して金色の影をテーブルクロスに投げかけている。バケットをちぎってはオリーブオイルに浸し優雅に口に運び、シャンパンで喉を潤す度に白い頤とほっそりとした喉元が見えた。酒には強い質ではないらしく、芳の頬は早くも赤みを帯び目が潤んでいる。芳の無防備な姿を盗み見たような気がして、宥己はさりげなく目を逸らせた。
「パンは? 食べないの? 美味しいわよ」
「パンでお腹がいっぱいになりそうなので。メインディッシュと一緒にいただきます」
「若いのに。情けないわねえ」
そういいながら、芳は再びパン籠に手を伸ばした。
「馨さんが貴方は食が細いって言っていたけれど。今もそうなの?」
「子供の頃の話ですよ。今は違います」
宥己は自分の言葉を証明するかのようにバケットを手に取った。パンは程よく温められていて、皮はぱりぱり、内側はしっとりとしている。パンの温め方一つにも佑士の心配りが感じられた。料理もきっとうまいに違いない。芳を見習ってパンを小さくちぎり、オリーブオイルに浸して口に入れたが、匂いも味もしない。面の皮は相当に厚くなったはずなのだが、舌はいまだに子供の頃と同じに軟なままらしい。緊張すると味が分からなくなるのだ。
「やっぱりねえ。馨さんが言っていた通りね」
宥己の手の中で一向に減らないバケットを見て芳が小さく笑った。
「離婚したのは馨さんのせいじゃないんだから。父がハンサムで優しすぎたのがいけなかったの」
「そんなにハンサムだったんですか」
「こんな顔だったの」
芳は悪びれもせずに自分の顔を指さした。
「男でそんな顔をしていたらさぞかし」
「でしょう」
芳はお道化て目をクルリ、と回した。
芳の両親は共に高校の教師で母の真紀子は数学の教師、父の圭佑は美術の非常勤講師だった。圭佑は学生時代に二科展に入選し画家を目指したものの、それ以降は全くの鳴かず飛ばずで、そのうち芳が生まれた。
あなたの夢を支える、と目を輝かせていた真紀子も夢をみているわけにはいかない。圭介も現実に直面せざるをえなくなった。保険代わりに取得していた教職免許が役に立ったが、ツテもなく教師の経験もない圭介に常勤教師の口などあるはずもない。非常勤の口も真紀子の口利きでようやく得たものだった。
両親が勤めている高校は県内でも有数の進学校だった。正規職員の数学教師と非常勤の美術講師では立場も授業のコマ数も違う。大学への進学に美術は必要ない。美大を目指す変わり種とみなされている生徒でさえ、受験のためには『大学に受かる絵』を教わりに塾に通うのだ。芳の記憶に残る父親は、帰宅するとすぐに家族の食事を作り、洗濯をしている姿だった。
「あの頃の父の唯一の趣味はカルチャーセンターに絵を習いに行くことだったの」
「でも、習う必要なんて……」
「人物画を描くにはモデルが必要でしょう。モデルを雇うお金なんて使わせてもらえないから、父は人が描きたくなるとカルチャーセンターの講座を受講していたの。自分のお小遣いの範囲で人物を描ける場所がそこしかなかったのね。カルチャーセンターから帰ったらすぐに夕飯の支度。家では絵のことは一言も話さないし、絵筆さえも持たなかった」
前菜の夏野菜のソテーを口に運びながら芳は話を続けた。
「私がいなければあの人はダメなのよって、母に言われてもただ笑っていて。情けない父親だって思っていたわ」
前菜は一緒ね。お野菜はお好き? 野菜の味が濃厚ね。塩だけでこんなに美味しいなんてすごいわよね。それでね。食べたり話したり、忙しく口を動かしてついでの世間話でもするように芳は話し始めた。
芳と会って浮ついていた気持ちが、すっと冷たくなるのが分かった。画塾の講師だったとしか知らない。馨の話に嘘はないと思いたいが、自分が知っているのはあくまでもお子様向きにリライトされたストーリーでしかないのだ。
「そんな顔をしなくても大丈夫。大丈夫っていうのも変ね」
返事のしようがなくて宥己があいまいな笑みを浮かべていると、芳はちょっと首をかしげてほほ笑んだ。
「父が画塾を開いたのは母と別れてからよ。お腹、空かない? レストランに予約を入れているの。水道騒動で大遅刻よ。連絡するのも忘れていたわ。まだ大丈夫か、聞いてみるわ」
シェフとは知り合いのようだ。電話口で冗談を言いながら、楽し気に話している。芳はクスクスと笑いながら言った。
「お待ちしていますって。ちょっと待っていて。着替えてくるから」
「あの、洗面所をお借りしてもいいですか」
「ええ。そこのドアが洗面所よ」
宥己は顔を洗い青ざめた頬をごしごしとこすった。
ふと傍らを見ると、ピンクの歯ブラシが一本、コップにさしてあった。この団地が建った頃はユニットバスはなかったから、トイレは別室になっている。アパートのユニットバスはトイレットペーパーーが湿ってしまうのが難だ。トイレはやっぱり別室にかぎる。
仕事に絡め無関係なことを考えて、宥己は二人の『かおる』から気持ちを切り離した。
壁は白いタイル、床はグレーの小さなタイルが張ってあり、ほぼ正方形の水色のホーローの湯舟の脇には手回し式の着火装置がついた湯沸かし器が備え付けてある。資料を読んで知ってはいたが、こんな古い型式の湯沸かし器を見るのは初めてだった。
「そろそろ行きましょうか」
「はい」
振り返ると、芳がほほ笑みながら立っていた。水彩画のような軽やかな色合いのスカートと柔らかいブラウス。ごく薄い化粧が白皙の整った顔立ちをひきたてていた。
「ここから歩いてすぐなの。お店でお会いしようかとも思ったのだけれど、場所が分かりづらいから。でも、良かったわ。貴方がここに来てくれたから水道管破裂事件が無事に解決したのよ」
芳は上背があって、長い脚でさっさと歩くからうっかりすると置いて行かれそうになる。宥己は慌てて後を追った。
閑静な住宅街の一角にその店はあった。なるほど、パッと目ごく普通の住宅で、言われなければレストランとは分からない。
「住宅街の中にあるでしょう。派手な宣伝をして人がたくさん来ると困るんですって」
一見さんお断りなのだろうか。それにしては、装飾レンガが施してあるツーバイフォーの輸入住宅はこじんまりとして可愛いらしく、厳めしい雰囲気とは程遠い。
「お待ちしていました! 奥へどうぞ」
芳がドアチャイムを鳴らすと、ピンクの頬をした学生のような若い女が迎え入れた。
「ご迷惑かけちゃって、ごめんなさいね」
「いいえー。おじいちゃん、芳さんのオトモダチを一目見てみたいって楽しみにしてたんですから」
「もう、美奈ちゃんったら。何よ、その言い方。佑士さんに怒られるわよ」
芳が憤慨してみせたが、
「ちょっ。やだ、可愛い」
美奈はお構いなしに感想を述べた。この歳になって可愛い、と言われるとは思わなかった。最近の若者は言葉を知らん、なんでも可愛いですませる、と文句を言っていた上司の顔を思い出す。多分、肯定的な意味なのだろう。ありがたく受け取ることにして会釈すると、美奈は頬に笑みを残したまま、店の奥へと案内した。
「こちらへどうぞ」
ドアを開けると、広々とした空間が広がっていて、大きな窓からは手入れの行き届いた庭が見渡せる。内装はオーク材の床材、壁は漆喰のこて仕上げで、マナーハウス風のレストランといった趣だ。窓際にテーブルが三つ、部屋の真ん中には大きな丸いテーブルが一つ。客は四組しか入れないらしい。三つとも既に席は埋まっていて、皆、静かに話をしながら食事をしていた。平日のせいか、年配の客が多い。案内されたのは窓際のテーブルで、席に着くと、視線の先に桔梗が咲いているのが見える。座ったまま庭を眺めると、葛が行儀よく地面を覆っていて、可憐な花を咲かせていた。
美奈がライムのスライスを浮かべた氷水の入ったピッチャーとバケットの入った籠とオリーブオイルの入った小皿を持ってきた。
「素晴らしい庭ですね」
立って見るのと座って見るのとでは趣が全く違う。一見すると野趣に富んだ庭だが、隅々まで手入れが行き届いているのがわかった。
「ありがとうございます」
フロアには他のスタッフはいない。さっきと同じ人物かと思われるほど、美奈の切り替えは見事だった。美奈はさっと一礼すると静かにバックヤードへとさがっていった。
「佑士さん、美奈ちゃんには甘いんだけれど。仕事に関しては別みたいね」
「美奈さんがフロアマネージャー?」
「ええ。美奈ちゃんも本気で修行してるみたい。将来は自分達のお店を開きたいんですって。その人は修行中だから、まだ佑士さんには秘密だそうよ」
美奈と入れ替わりに佑士が厨房から出てきてテーブルの傍らに立った。長身痩躯に纏った白いコックコート姿は威厳がある。油気のない手と深爪になるほど短く切ってある爪は料理に携わる者としての自負がうかがわれた。佑士の目に叶うのにはかなりハードルが高そうだ。美奈がまだ〝その人〟を秘密にしているのが分かるような気がした。
佑士は長年訓練されてきたと思われる無駄のない動きでそれぞれにメニューを手渡すと、簡潔な説明をした。
「メインはラムのリブロースソティか鯛のポワレのどちらかをお選びください。デザートの選択はお食事が終わってから伺いにまいります」
どこどこで採れた魚だ、当店では有機野菜を使っております等々、延々と説明をするシェフもいるが、佑士は必要事項だけを述べるとさっと一礼して厨房に戻っていった。料理を味わうのに予備知識は必要ない、ということか。
芳はいつの間にか眼鏡をかけて熱心にメニューを見ている。
「ラム、嬉しいわ。大好きなの。デザートはアイスクリームね。貴方は?」
「僕は鯛のポワレを。デザートは後で決めます」
「何かお飲みになる?」
「いいえ。今日は車なので」
「失礼。うっかりしていたわ」
そういいながらも芳はアルコールのリストに名残り惜しそうな視線を向けている。
「遠慮なさらずにどうぞ」
「そう?」
「ええ、もちろんです」
芳はにこりとすると、片手を小さく上げて美奈を呼んだ。
「お決まりですか」
「メインはラムのリブロースを。シャンパンはどれがお勧めかしら」
「芳さんはブリュットがお好みでしたね。こちらのシャルル・ペルティスはいかがですか」
「ではそれをお願い」
小さな泡のたっているシャンパンを一口飲んだ芳は、幸せそうにほっと小さくため息をついた。午後の緩やかな光がシャンパングラスに反射して金色の影をテーブルクロスに投げかけている。バケットをちぎってはオリーブオイルに浸し優雅に口に運び、シャンパンで喉を潤す度に白い頤とほっそりとした喉元が見えた。酒には強い質ではないらしく、芳の頬は早くも赤みを帯び目が潤んでいる。芳の無防備な姿を盗み見たような気がして、宥己はさりげなく目を逸らせた。
「パンは? 食べないの? 美味しいわよ」
「パンでお腹がいっぱいになりそうなので。メインディッシュと一緒にいただきます」
「若いのに。情けないわねえ」
そういいながら、芳は再びパン籠に手を伸ばした。
「馨さんが貴方は食が細いって言っていたけれど。今もそうなの?」
「子供の頃の話ですよ。今は違います」
宥己は自分の言葉を証明するかのようにバケットを手に取った。パンは程よく温められていて、皮はぱりぱり、内側はしっとりとしている。パンの温め方一つにも佑士の心配りが感じられた。料理もきっとうまいに違いない。芳を見習ってパンを小さくちぎり、オリーブオイルに浸して口に入れたが、匂いも味もしない。面の皮は相当に厚くなったはずなのだが、舌はいまだに子供の頃と同じに軟なままらしい。緊張すると味が分からなくなるのだ。
「やっぱりねえ。馨さんが言っていた通りね」
宥己の手の中で一向に減らないバケットを見て芳が小さく笑った。
「離婚したのは馨さんのせいじゃないんだから。父がハンサムで優しすぎたのがいけなかったの」
「そんなにハンサムだったんですか」
「こんな顔だったの」
芳は悪びれもせずに自分の顔を指さした。
「男でそんな顔をしていたらさぞかし」
「でしょう」
芳はお道化て目をクルリ、と回した。
芳の両親は共に高校の教師で母の真紀子は数学の教師、父の圭佑は美術の非常勤講師だった。圭佑は学生時代に二科展に入選し画家を目指したものの、それ以降は全くの鳴かず飛ばずで、そのうち芳が生まれた。
あなたの夢を支える、と目を輝かせていた真紀子も夢をみているわけにはいかない。圭介も現実に直面せざるをえなくなった。保険代わりに取得していた教職免許が役に立ったが、ツテもなく教師の経験もない圭介に常勤教師の口などあるはずもない。非常勤の口も真紀子の口利きでようやく得たものだった。
両親が勤めている高校は県内でも有数の進学校だった。正規職員の数学教師と非常勤の美術講師では立場も授業のコマ数も違う。大学への進学に美術は必要ない。美大を目指す変わり種とみなされている生徒でさえ、受験のためには『大学に受かる絵』を教わりに塾に通うのだ。芳の記憶に残る父親は、帰宅するとすぐに家族の食事を作り、洗濯をしている姿だった。
「あの頃の父の唯一の趣味はカルチャーセンターに絵を習いに行くことだったの」
「でも、習う必要なんて……」
「人物画を描くにはモデルが必要でしょう。モデルを雇うお金なんて使わせてもらえないから、父は人が描きたくなるとカルチャーセンターの講座を受講していたの。自分のお小遣いの範囲で人物を描ける場所がそこしかなかったのね。カルチャーセンターから帰ったらすぐに夕飯の支度。家では絵のことは一言も話さないし、絵筆さえも持たなかった」
前菜の夏野菜のソテーを口に運びながら芳は話を続けた。
「私がいなければあの人はダメなのよって、母に言われてもただ笑っていて。情けない父親だって思っていたわ」
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