カオルの家

内藤 亮

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 木箱を開けると拙いクレヨン画が何枚も出てきた。書いたときのことなど、本人もとっくに忘れている。クレヨンでくっついた画用紙の間に精緻なデッサンが挟まっていた。クレヨンを左手に握りしめた幼児が一心に絵を描いている。クレヨンから鉛筆、水彩画へ。絵が大人びるにつれて馨の絵の中の自分も成長していた。
 箱の底に油紙に丁寧に包まれたスケッチブックが入っていた。油紙にはセロハンテープが貼ってあって、古くなったテープの糊が滲んでいる。また、馨の絵を見ることができるのだ。期待に胸を膨らませ、包みを開こうとした手が止まった。
 トレーシングペーパーで包まれたスケッチブックの表紙には流麗な筆記体でDear Kaoruと書かれていた。

 もうここには来ない、と決めたはずなのに、山小屋の前に立っていた。芳にスケッチブックを渡したらすぐに帰るつもりだった。
「一緒に見ましょうよ」
「でも」
 男に応えた女がここには描かれているのだ。
「絵を見るのが怖い?」
「そうかもしれません」
「私もよ」
 男になった父親がこの中にいる。芳も同じ思いなのだ。
 リビングダイニングは新しい薪ストーブが備え付けられていて、部屋は心地よく温められていた。それなのに芳の顔は白っぽくなっていた。
 二人ともが黙ったまま、ダイニングテーブルに並んで腰かけた。芳がトレーシングペーパーに貼られたセロテープを丁寧に剥がし、包みを開いた。
 様々な姿態の馨が描かれていた。蕾のような身体を無防備に横たえ、馨は遠くを見つめている。馨の命だけが輝いていて、この絵を描いた男の匂いは感じられない。モデルの存在そのものに意識を集中できる。そんな絵だ。
「父の絵、初めて見たわ。馨さん、どれもいい顔をしてる」
「モデルがのびのびやっているのが分かります」
「本当ね」
 芳はそういって小さく笑った。最初は恐る恐るだったが、ページを繰るうちに絵そのものを楽しめるようになっていた。少女から成熟した女への変遷が透徹した眼差しで余すところなく描かれている。
「二人だけで見てるのがもったいないくらいね」
 芳が静かにスケッチブックを閉じた。二冊目のスケッチブックを開いた芳の手が止まった。
「父だわ」
 馨の勢いのある筆致はよく覚えている。
「こんな顔をして笑うのね。知らなかった」
 二人の絵は個としての存在を軽く飛び越えている。甘ったるいラブストーリーは何処にも描かれていない。描かれているのは命そのものだ。タッチは対照的といっていいほど違いはあるが、二人の目指すところは同じだったのだろう。 
 スケッチブックにポラロイド写真が挟まっていた。掘っ立て小屋のような家にそぐわないダイニングテーブルセットが置かれている。二人で画塾を開いていたころの写真らしい。壁には子供の絵が沢山張ってある。洗いざらしのコットンシャツとジーンズをはいた二人が、いま芳とスケッチブックを繰っているこのテーブルにもたれかかり笑顔で写真に収まっていた。
 芳はテーブルを愛おし気にさすった。
「父との接点は通帳に振り込まれる養育費だけだったから。父もこのテーブルを使ったのね」
「御両親が離婚してからはお父さんに会っていないんですか」
「ええ。父は私と会うことを禁止されていたから。父がもう長くないことがわかって。馨さんがようやく私の居所をききだしたそうよ」
「棟梁が油絵も預かっているそうです」
 芳と一緒に二人の絵を見たくなった。
「まあ! これから見に行きましょうよ!」
 西の空が一日の終わりの弱弱しい光で微かに染まっている。群青色の空には早くも銀の盆のような月が懸かっていた。車のライトをつけると周囲が闇に沈み、道だけが白く光った。

 インターホンを押すと、奥村が驚いたような顔をして出てきた。今まで飲んでいたらしく顔が赤くなっている。
「今からか?」
「夜分にすみません。スケッチブックを見ていたら、油絵の方も見たくなっちゃって」
「やっぱり絵が好きなんだなあ。お前の建物の絵はなんか雰囲気があるもんな」
 どうも、と宥己は小さく頭をさげた。 
「叔母の絵はほとんど手元にないものですから」
「車庫の鍵はポストに入れておいてくれればいいから」
「ありがとうございます」
 今夜は贔屓の野球チームの大一番の試合があると言って、奥村は鍵を渡すとそそくさと家の中へ入っていった。
 職人を何人も抱えていたころの名残で、車庫といってもちょっとした倉庫くらいの広さがある。シャッターの傍にあるキーボックスを開き、ウインチのスイッチをいれると、大きなシャッターがゆっくりと上がった。向かって右側は乗用車、軽トラック、軽自動車と、車が三台並んでいて、左側が物置になっている。木箱に整然と収められている仕事道具の隣には、歩き始めの幼児が押す木製の押し車や空気を抜いたゴムプールが積んであった。車庫の壁際に茣蓙が敷かれていて、キャンバスは段ボールで養生された脚立に挟まれていた。絵を痛めないようにという奥村の配慮だろう。
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