カオルの家

内藤 亮

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「父の絵もあるのかしら」
「多分」
 チカチカする蛍光灯の青白い光の下で色が奔流となって目に飛び込んできた。描き込まれた油絵は、みっしりとした肉の質感と体温があって迫力がある。モデルは、男も女もいる。老いた人、若い人、着衣、脱衣、人、人、人の洪水だ。絵の中の人々は饒舌に己を語っていた。
「これは馨さん」
「これは圭佑さんの絵ですね」
 馨が圭佑と暮らしたのは十年にも満たない。その短い間に二人はこれだけの作品を残していたのだ。数だけでなく、作品の濃度にも圧倒される。
「父に絵を描かせてあげればよかった……」
 芳は肩を小さく震わせ嗚咽を堪えている。宥己が肩を抱き寄せると、柔らかい身体が何の抵抗もなく委ねられた。
 ひとしきり泣いた後、芳はそっと身体を離した。瞳が霧のように霞み、唇がわなないている。宥己が衝動に耐えかねてもう一度抱き寄せようとしたら、
「お腹、すかない?」
 涙を浮かべたままの笑顔で芳は言った。
「確かに。飯を食うのを忘れてました」
 宥己も笑顔を作り、慌てて答えた。
「美味しいうどん屋を知ってるの。ちょっと寄りましょうよ」
「いいですね」
「いやだ。降ってきたわ」
 車庫の外に出ると世界が一変していた。さっきまで煌々と輝いていた月は雲の合間で頼りない光を放っている。小さな雪片が舞い、地面がきらきらと光っていた。
「タイヤ交換、した?」
「まだです。このくらいなら大丈夫ですよ」
「だめ。危ないわ。うどんはまた今度にしましょう。棟梁を呼んでくるわ。車を借りないと」
「大げさだなあ。芳さんを送ったら、すぐガソリンスタンドに寄りますから」
 ここから芳の家は目と鼻の先なのだ。不満げな顔の芳を車に押し込むと宥己はエンジンをかけた。
「馨さんに、貴女は父のことを誤解してるって、何度も言いそうになったのよ」
 車窓の外を白い帯のように流れていく雪を見ながら芳が言った。
「俯いて料理をしている姿しかなかったものだから。いつも母の言いなりで言われたい放題。情けない人だなあって思っていたの。今夜はありがとう。父を尊敬できるようになったわ。二人にもっと絵を描かせてあげたかった……」
「そうですね」 
 収まりの悪かった思いが胸に落ち、馨への愛惜が一層深くなった。何とはなしに二人ともが黙ったまま、車を走らせた。
 芳の家に着くころには雪が本降りになっていた。真っ暗な空から雪片が途切れることなく落ちてくる。道の片隅や地面がうっすらと白くなっていた。
「じゃあ、僕はこれで」
 芳を玄関まで送り届け、帰ろうとしたら芳の手が伸びてきて手首をつかんだ。
「積もり始めているわ」
「まだ平気ですよ」
 笑いながら手をほどこうとしたら芳の手に力がこもった。
「今夜は泊っていきなさい」
「いや、そんな、ダメです」
 宥己は慌てて言った。まだ腕の中に芳の感触が残っている。このまま芳の家に泊まるわけにはいかない。
「事故はもう嫌なの」
 あの事故は芳にも楔を打ち込んでいたのだ。
「すみません……。お言葉に甘えて、今夜は泊らせていただきます」
 不埒な自分を詫びているのか、芳に恐縮しているのか。
「ゆっくりしていきなさい。明日、あきら君に電話するから。タイヤを交換してから帰りなさい」
 いかにも副校長らしく芳は命じた。
「昌君?」
「元教え子で、近所でガソリンスタンドをやっているの。このくらいの雪が一番危ないのよ。今日は週末でしょう。観光客はスタッドレスタイヤなんてつけてませんからね」
 ドアを開けると新しい家の匂いがする。木材と土壁が息をしているのだ。下駄箱の上には、幼児が描いたとおぼしき可愛らしいクレヨン画が額にいれて立てかけられていた。馨と圭佑のことで頭がいっぱいになっていて、さっきは気がつかなかった。
「うどんでいいかしら?」
 対面キッチンから芳の声がする。
「はい。手伝います」
「あら、嬉しい。そこで手を洗って。ご飯、炊きそびれちゃったでしょ。若い人はラーメンの方がいいんでしょうけれど。あいにく、私はおばさんなものだから」
「芳さんはぜんぜん、おばさんじゃないですよ」
 まくり上げた二の腕は白く艶やかで、ついさっき抱いた芳の身体の感触を思い出してしまう。
「あらまあ。お世辞でも嬉しいわ。タオル、これを使って」
 宥己が手を拭いているのをじっと見ていた芳が言った。
「その掌の火傷、どうしたの?」
 ぼんやりと芳の妄想を楽しんでいた宥己は、慌てて現実に自分を引き戻した。
「ええと。ちびの頃、母が目を離した隙にやっちゃったらしいです」
 左の掌に引きつれたような傷跡が残っている。タオルを受け取るときに気が付いたのだろう。うっかりしていた。
「男の子ってやんちゃですものね。姪と甥がいるけれど動きが違うもの。卵、落とす?」
 咄嗟に嘘をついてしまったが、芳はなんの疑いもなく信じたようだ。
「ネギだけで」
 宥己はほっとしながら答えた。
「貴方は痩せすぎよ。蒲鉾ならいい?」
 どうしてもたんぱく質を食べさせたいらしい。宥己が笑いながら、はい、お願いします、と言うと、芳は満足げに頷いた。芳は大きな鍋に昆布を入れて湯を沸かすと驚くほどたっぷりと鰹節を入れた。
「贅沢ですね!」
「今夜は粗食だから、せめて出汁くらいはちゃんとね。鰹節と昆布は炒り煮にして佃煮にするから勿体なくはないのよ。あら、手際がいいじゃない?」
 蒲鉾とネギを切っているだけだが、芳が感心したように言った。
「どうも」
「包丁も左手に持つのね」
「はい」 
 真っ白な饂飩の上にとろろ昆布と薬味のネギがたっぷりと盛られ、とろろ昆布が湯気でふわふわと踊っている。芳の丼には落とし卵と蒲鉾が、宥己の丼には分厚い蒲鉾がのっている。このくらい食べなさい、と芳が蒲鉾を追加したのだ。
「いただきます」
 つゆを口に含んだ宥己は目を瞠った。
「この味、馨ちゃんと同じです」
 昔の呼び方がつい口をついてでてしまった。

 泰明と一緒に学習塾に通うようになって間もない頃だ。
「兄さんね、また左手で字を書いていたんだよ」
 泰明が言うと、綾も続けて言った。
「前にも言ったでしょ。直さないとだめよ。お箸は右手を使えるじゃないの。ちゃんと練習しなさい」
「今のうちに直さないと困るのはお前だぞ。文字は右手で書くように出来ているんだ」
「だって。左手で書かないと泰明に負けちゃうんだもん」
 学習塾は速さと正確さで教材の進度が決まる。右手でよちよちと文字を書いていると頭の回転速度も落ちるらしく、計算ミスが増えるのだ。漢字やひらがなも右手だと、マス目にきちんと収めるのにも苦労する。
 食事はごく幼いうちに、綾が右手にスプーンを持たせるところから始まったから、右手を使えるのだが、字や絵はそうではない。物心ついたころから独りで絵を描いていたから、左手に筆記具を持つことが身についている。直すのは容易ではなかった。
「言い訳をするな」
「だって」 
 宥己は口を尖らせた。
「買ってやったグローブもちっとも使わない。お前は何が気にくわないんだ?」
「父さんは泰明ばっかり褒めるんだもん。つまんないよ」
「お前が練習しないからだ。泰明を見てみろ。いい球を投げるようになって、あの学年でただ一人、レギュラーだぞ」
「だけど」
 真新しいグローブをもらった時は嬉しかったのだ。サウスポーは有力選手になれるぞ、と義明に言われ、すっかりその気になっていた。義明を手本にしてボールを投げるのだが、利き手が違うからフォームを逆にして真似をなくてはならない。教わった通りに投げているつもりなのだが、球はあらぬ方向へ飛んでいった。何度も投げそこなう息子に、しびれをきらした義明の怒号がとぶ。楽しいはずのキャッチボールがあっという間に苦痛の時間となった。
「また言い訳か? お前は言葉で言っても分からないようだな。こっちへ来い」
 義明の口調が変わった。綾は泰明をつれてそそくさと部屋を出て行った。
 左手は不浄の手だ、という義明の言葉と傷の痛みが残った。
 それから絵が描けなくなった。火傷はすぐに治ったが、絵筆を持つと身体が強張ってしまう。唯一の拠り所だった絵をもう描くことが出来ない。そう思うと胸が押しつぶされそうだった。久しぶりに馨に会ったというのに、宥己はぐずぐずと泣くばかりだった。
「お饂飩なら食べられる?」
「父さんが左手はふじょうの手だって。ふじょうってなに?」
 宥己は泣きながら馨に尋ねた。
「汚い、ってことよ」
「やっぱり僕がいけないんだ」
 宥己の泣き声が一段と高くなった。
「昔、文字を書くことは神聖な仕事だったの。昔の人は文字を書くことは神様と会話をする特別な手段って考えていたのね。右利きの人が多いから、大切な仕事は右手、汚い仕事は左手って、決めちゃったのよ」
 馨は義明の非難は一切しなかったが、話をしている間ずっと宥己の両手を包み込むように握っていた。
「それ、だけ?」
 しゃくりあげていた宥己が目をあげた。
「そう、それだけ。単なる役割分担よ。お箸を右に持つのもそう。いただきますっていうのは、命をいただきますって、こと。昔の人は命をくれた生き物に感謝して、食事は汚れていない手を使わないといけないって考えたのね。お尻を拭くのは左手って決めている宗教もあるわ。でもね、汚いことを避けて生きることはできないのよ。ミルクの匂いのする赤ん坊も、いつしか老臭がするようになってやがては死ぬ。死体は腐って微生物に分解され、ほかの生き物の養分になる。清濁併せた循環の中で人は生きているのよ」
 宥己が不思議そうな顔をしていると、馨は照れ臭そうに笑いながら言った。
「右手も左手も両方大切ってこと。今、宥の左手が使えないのは力を蓄えるために冬眠しているからなのよ」
「熊みたいに?」
「そうそう。だから大丈夫。絵はじきに描けるようになるわ。さ、食べましょう。お饂飩、冷めちゃう」
 温かい饂飩といっしょに馨の言葉も腹におちていった。いつの間にかまた絵が描けるようになっていた。画力が飛躍的に伸びたのはそれからだった。

 芳の饂飩はあの時と同じ味だった。味醂も砂糖も入れずに、酒だけでつゆの角を落としてある。
「日本酒ですね」
「よく分かったわね! 父のやり方なの。砂糖の甘さは分かりやすいけれど、本当の旨味はそれだけじゃないって」
「馨ちゃんも同じようなことを言ってたな。でも、ネギの旨さが分かったのは大人になってからです」
「私もそうよ。子供の頃はネギが苦手だったのに、今は大好物。まあ! ネギの切り方が父と同じだわ!」
 薬味のネギは軽やかな辛味が、ぶつ切りにして火を通したネギは仄かな甘みがある。ネギの切り方を二種類にして入れるのは馨のやり方だった。
「馨ちゃんの切り方、ね」
 芳の目が笑っている。
「不思議ね。饂飩のおかげでもういない人の話ができるなんて」
「饂飩を食べながら、清も濁もひっくるめて生きるのが人なんだ、とか、循環の中に真理がある、なんて言っていたな。あの頃は、馨ちゃんが何を言っているのか分からなかったけど」
「今は分かるの?」
 目元に笑みを湛えたまま、芳がきいた。
「うーん、どうなんだろう」
「歳を重ねないと、分からないことってたくさんあるのよ。ネギの美味しさみたいにね」 
 さっきまで雪がさらさらと微かな音をたてていたが、いつの間にか静寂に包まれている。ストーブの薪のはぜる音が静かな部屋に響いた。外に目を遣ると、積もり始めた雪が白樺の林を水墨画のように彩っていた。
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