カオルの家

内藤 亮

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「カーテンをするのが勿体ないくらい」
 いつのまにか側に立っていた芳がつぶやいた。仄かな雪明かりに照らされた横顔をいつまでも見ていたくなる。馨も圭佑の顔をこうやって見ていたのだろうか。
「さて。布団を敷かないとね」
 分厚いカーテンを引きながら芳が言った。
「手伝います」
 寝室の押し入れを開けると、真新しい布団が沢山入っていた。
「夏は皆で雑魚寝も楽しいかなあって思って。買っておいたの」
「なるほど」
 芳は次から次へと様々な色の夏掛けを取り出しながら言った。パンダがプリントされたいかにも子供向けの掛布団まであって、こちらはご丁寧にもピンクとブルーの二種類がそろっている。
「ここならいくら騒いでも迷惑をかけないでしょう。思いきり走り回らせてやりたいの。子供は放し飼いが一番ですからね」
 確信をもった口調で芳が言った。
「寒くないかしら」 
 色とりどりの夏掛けを全部掛けた布団はこんもりと丸くなり、蓑虫のようになっている。
「これだけ布団があれば大丈夫です。ありがとう、芳さん」  
「お風呂、お先にどうぞ」
「芳さんからどうぞ」
「貴方はお客様なんだから。それに……」
 芳は少し言いよどんだが、
「私の後に他人ひとを入れるなんて。なんだか落ち着かないもの」
 と、照れ臭そうに一息で言った。       
 身体を洗った宥己は湯気のこもった風呂場を見渡した。左官もいい仕事をしている。寸分の狂いもなく貼られたタイルは、完璧な水平と垂直を形成し清浄な空間を作り出していた。もう一度全体を見回した宥己はすっかり満足し、そのまま湯舟に蓋をして風呂場を出た。 
 洗面所に新しい歯ブラシとタオルが並べてあった。新しくつけられた小窓には小さなテーブルヤシが飾ってある。ここには建付けが悪くて、どうしても二センチほど戸の閉まらない小さな引き戸の窓が付いていたのだが、使い勝手を考慮してレバーハンドルで開閉の出来るジャロジーに交換したのだ。白い窓枠に緑が映えている。宥己は歯を磨きながらハンドルの具合を確かめると、納得したように頷いた。ちょっとした物を置けるように窓枠の幅を広めにとり、片手でも簡単に開閉が出来るように窓のタイプと位置を考えたのだ。頭の中で組み立てた空間に実際に立つことが出来るのは設計士の醍醐味だ。

「あら、早いわね」
「烏の行水なんです」
「ちゃんと温まった?」
「はい。歯ブラシ、ありがとうございました」
「どういたしまして。ゆっくりしてね」
 芳はにこりとすると、部屋を出て行った。
 部屋の明かりは薪ストーブの炎だけだ。薪ストーブは輸入物の洒落た鋳物に代わっているが、炎は昔と同じにトロトロと燃えている。すっかり綺麗になっているが、床板や梁や柱はあの頃のままだ。子供の頃のように何も考えないで眠ろうと試みたが、芳が使う微かなシャワーの音が聞こえてきて、白い裸体が目に浮かんでくる。何度も寝がえりをうって浅い眠りを繰り返しているうちに夜が明けてしまった。
 人の気配がする。目を開けると、薄暗い部屋の中で芳が音もなく動いていた。忍び足でリビングを横切り、電気ポットに水を入れている。
「おはようございます!」
「わ、びっくりした。もう起きたの?」
「充電完了です」
 もちろん、嘘だ。寝不足のせいで頭が重い。
「朝が早いのは年寄りだけと思ってたわ」
「寝ていたら勿体ないですよ」
 芳がことさらに自分の年齢を強調するのを無視してカーテンを開けると、光が奔流のように流れ込んできた。昨夜の雪ですっかり葉を落とした白樺が暁の色で染まっている。薄っすらと雪化粧した落ち葉も同じ緋色に染まっていた。
「この景色を見せたくて」
 芳はほうっとため息をつくと、胸の前で手を組み窓際に立ち尽くしている。オートミール色のスウェットの上下という色気のない格好だが、朝日を浴びて真っすぐに立っている姿は絵になる。
「綺麗……」
 貴女もです、と言いそうになって宥己は慌てて咳払いをした。

 タイヤ交換をしながら昌がこちらをちらちらと窺っている。芳はスウェットにダウンジャケット、宥己はプレスの落ちたスーツにしわくちゃのワイシャツだ。ばつが悪かったが、芳が堂々としているのでそれに倣うことにした。
「朝からありがとう。助かったわ」
 芳が財布を取り出そうとするので、宥己は慌てて料金を支払った。
「ありがとうございました」 
 昌と芳に一礼をして、宥己はそそくさと車に乗った。土曜日に休んでいては不動産屋は仕事にならない。急いで家に戻り着替えを済ませてから会社に直行した。
 会社に着いたのは、朝の業務打ち合わせが終わる頃だった。
「遅刻か? 初めてだな」
 山本が驚いたような顔をした。
「寝坊しました。すみません!」
 勢いよく頭を下げたら、山本が言った。
「女か」
「ええと、その」
 着替えてきたのになぜ分かったのだろう。返事に詰まっていたら山本が勝ち誇ったように笑った。
「やっぱりな。エスティローダだ」
「へ?」
「かみさんと洋子の使ってるシャンプーとリンスだよ。俺が使うと怒られるんだ。オヤジが使うには勿体ないんだと。お泊りは構わんが遅刻はするなよ」
「すみません」   
 改めて説明をすると余計にややこしいことになりそうだ。
「これから棟梁と現場で会うことになってるんです。あの……」
「逃げるのか」
「いえ、そんなつもりじゃあ……」
「分かった分かった。目の下、隈が出来てるぞ。ほどほどにな」
 と肩をポンっと叩かれた。
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