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「芳さん! こんにちは」
車はあるが呼び鈴を押しても返事がない。買い物か散歩にでも出かけているのだろう。
苗を少しでも早く渡したいと気が急いて、連絡もせずに来てしまったのまずかった。もう一度呼び鈴を押してみたが、やはり返事がない。メモ書きを残し、苗を置いてそのまま帰ろうとしたら玄関のドアが開いた。
芳は真っ青な顔をしてニットキャップを目深にかぶっている。
「今日は具合が悪くて。ごめんなさいね」
言っているはしから芳は玄関にしゃがみ込んでしまった。慌てて助け起こした芳の身体から強い薬の匂いがした。
「大丈夫ですか」
「抗がん剤の副作用だから。平気よ」
芳は短く答えると、宥己の手を振りほどきトイレに駆け込んでいった。ドアを開け放したまま、便器に顔を突っ込んで嘔吐している。目を覆いたくなるようなひどい有様だった。芳は便器にもたれかかったまま、ぐったりとしている。
「あの、これ」
宥己がコップに入った水を差し出すと、芳が驚いたような顔をした。
「まだいたの?」
「とりあえず、口、ゆすいでください」
ガラガラとうがいをして便器に吐き出すと、芳は這うようにしてトイレの前に置かれている毛布にくるまった。
「こんな調子だから。日を改めてちょうだい」
そういうと、すぐに目をつぶってしまった。
「ベッドで休んだらどうですか」
「ここじゃないと吐くのに間に合わないから」
「寒くないですか」
「これでいいの。羽根布団を汚したくないから。もう帰りなさい」
「あの」
声をかけようとしたら芳はもう眠っていた。
外は眩しいほどの日差しなのに、リビングのカーテンは引かれたままだ。脱いだ服がソファの上に雑然と散らかっている。シンクには汚れたままのマグカップが置かれていた。本当は洗濯機も回したかったが、いまだに芳との距離を測りかねている。台所を片付けていたらトイレで物音がした。宥己が慌てて駆け付けると、芳がまた嘔吐している。
「大丈夫ですか」
背中をさすると芳が振り返った。
「まだいたの?」
額に触れると火のように熱い。
「熱があるじゃないですか」
「副作用よ。大丈夫だから。もう、帰りなさい」
「今夜は泊ります」
抵抗する気力もないらしく、芳はため息をつくと毛布に潜り込んでしまった。
リビングでうつらうつらしていると、また芳が嘔吐している。慌てて飛び起きたら、芳が這うようにして台所に入ってきた。うがいをすると、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して飲んでいる。
「大丈夫ですか?」
冷蔵庫の前に座り込んだまま、スポーツドリンクを少しづつ飲んでいた芳は大儀そうに眼をあげた。退院した時はあんなに元気だったのに、今の状態は尋常ではない。ずり落ちたニットキャップから毛髪の抜け落ちた地肌が見えていた。
「大丈夫って言っているでしょう。もう帰りなさい」
言っているはしから、芳はまたトイレに這っていった。宥己はタオルと水の入ったコップを持って芳の後を追った。固形物は何もない。胃液で便器の中が黄色くなっていた。
「病院に行ったほうが」
「昨日行ったばっかりよ。歯を磨くからどいて」
芳は壁に手をついてようやく立ち上がった。宥己が身体を支えると薄くなった肩が手に触れた。そのまま抱き上げたら、子供のような軽さだった。あの夜は重量のある身体を横抱きにすることが出来なかったというのに。
「自分で歩けるから。降ろして」
宥己は芳の抗議を無視して洗面所まで抱きかかえていった。そっと下すと、芳は洗面所の前にぺたりと座り込んだまま歯を磨き始めた。
「シャワーを浴びるから。ここから出なさい」
「そんなフラフラで転倒でもしたら。僕も一緒に入ります」
宥己が服を脱ごうとすると、芳が尖った声を出した。
「そういうのは止めてちょうだい。すぐここから出て」
風呂からあがってきた芳は新しいパジャマを着ている。バスタオルと着替えを持って突っ立っている宥己に気が付くと、芳の口元が歪んだ。
「自分のことは自分で出来るわ。家に帰りなさい」
芳はすぐにトイレの前の毛布にもぐりこんでしまった。芳は口を開けば帰れとしか言わない。宥己は何かあったら連絡してください、と言うのが精いっぱいだった。
外に出ると、待っていたかのようにすぐに鍵の閉まる音がした。買ってきた苗がレジ袋に入ったまま玄関ポーチで萎びていた。宥己は苗の袋をそのままトランクに投げ込むと、荒っぽく車を発進させた。
車はあるが呼び鈴を押しても返事がない。買い物か散歩にでも出かけているのだろう。
苗を少しでも早く渡したいと気が急いて、連絡もせずに来てしまったのまずかった。もう一度呼び鈴を押してみたが、やはり返事がない。メモ書きを残し、苗を置いてそのまま帰ろうとしたら玄関のドアが開いた。
芳は真っ青な顔をしてニットキャップを目深にかぶっている。
「今日は具合が悪くて。ごめんなさいね」
言っているはしから芳は玄関にしゃがみ込んでしまった。慌てて助け起こした芳の身体から強い薬の匂いがした。
「大丈夫ですか」
「抗がん剤の副作用だから。平気よ」
芳は短く答えると、宥己の手を振りほどきトイレに駆け込んでいった。ドアを開け放したまま、便器に顔を突っ込んで嘔吐している。目を覆いたくなるようなひどい有様だった。芳は便器にもたれかかったまま、ぐったりとしている。
「あの、これ」
宥己がコップに入った水を差し出すと、芳が驚いたような顔をした。
「まだいたの?」
「とりあえず、口、ゆすいでください」
ガラガラとうがいをして便器に吐き出すと、芳は這うようにしてトイレの前に置かれている毛布にくるまった。
「こんな調子だから。日を改めてちょうだい」
そういうと、すぐに目をつぶってしまった。
「ベッドで休んだらどうですか」
「ここじゃないと吐くのに間に合わないから」
「寒くないですか」
「これでいいの。羽根布団を汚したくないから。もう帰りなさい」
「あの」
声をかけようとしたら芳はもう眠っていた。
外は眩しいほどの日差しなのに、リビングのカーテンは引かれたままだ。脱いだ服がソファの上に雑然と散らかっている。シンクには汚れたままのマグカップが置かれていた。本当は洗濯機も回したかったが、いまだに芳との距離を測りかねている。台所を片付けていたらトイレで物音がした。宥己が慌てて駆け付けると、芳がまた嘔吐している。
「大丈夫ですか」
背中をさすると芳が振り返った。
「まだいたの?」
額に触れると火のように熱い。
「熱があるじゃないですか」
「副作用よ。大丈夫だから。もう、帰りなさい」
「今夜は泊ります」
抵抗する気力もないらしく、芳はため息をつくと毛布に潜り込んでしまった。
リビングでうつらうつらしていると、また芳が嘔吐している。慌てて飛び起きたら、芳が這うようにして台所に入ってきた。うがいをすると、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して飲んでいる。
「大丈夫ですか?」
冷蔵庫の前に座り込んだまま、スポーツドリンクを少しづつ飲んでいた芳は大儀そうに眼をあげた。退院した時はあんなに元気だったのに、今の状態は尋常ではない。ずり落ちたニットキャップから毛髪の抜け落ちた地肌が見えていた。
「大丈夫って言っているでしょう。もう帰りなさい」
言っているはしから、芳はまたトイレに這っていった。宥己はタオルと水の入ったコップを持って芳の後を追った。固形物は何もない。胃液で便器の中が黄色くなっていた。
「病院に行ったほうが」
「昨日行ったばっかりよ。歯を磨くからどいて」
芳は壁に手をついてようやく立ち上がった。宥己が身体を支えると薄くなった肩が手に触れた。そのまま抱き上げたら、子供のような軽さだった。あの夜は重量のある身体を横抱きにすることが出来なかったというのに。
「自分で歩けるから。降ろして」
宥己は芳の抗議を無視して洗面所まで抱きかかえていった。そっと下すと、芳は洗面所の前にぺたりと座り込んだまま歯を磨き始めた。
「シャワーを浴びるから。ここから出なさい」
「そんなフラフラで転倒でもしたら。僕も一緒に入ります」
宥己が服を脱ごうとすると、芳が尖った声を出した。
「そういうのは止めてちょうだい。すぐここから出て」
風呂からあがってきた芳は新しいパジャマを着ている。バスタオルと着替えを持って突っ立っている宥己に気が付くと、芳の口元が歪んだ。
「自分のことは自分で出来るわ。家に帰りなさい」
芳はすぐにトイレの前の毛布にもぐりこんでしまった。芳は口を開けば帰れとしか言わない。宥己は何かあったら連絡してください、と言うのが精いっぱいだった。
外に出ると、待っていたかのようにすぐに鍵の閉まる音がした。買ってきた苗がレジ袋に入ったまま玄関ポーチで萎びていた。宥己は苗の袋をそのままトランクに投げ込むと、荒っぽく車を発進させた。
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