カオルの家

内藤 亮

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 翌朝は真冬に逆戻りしたような天気だった。重く垂れこめた雪雲からは今にも雪が降ってきそうだ。
 湯を沸かしていると芳が起きてきた。
「おはようございます。朝ごはん、何がいいですか」
「早いのね。私は何もいらないわ」
「少しは何か食べた方がいいですよ?」
「薬の投与がある日は食べないほうが楽なのよ。どうせ吐いちゃうし、吐くのもくたびれるから。いつもお茶だけにしているの」
 自分だけ食事をする気にはならなかったが、芳が監視するように見ているので仕方がない。昨夜の残ったポトフを温めてパンを焼いた。完食してみせたら、よろしい、と芳はいかにも教師然として満足げに頷いた。
「薬を投与してから、どれくらいで副作用がでるんですか」
「人にもよるんでしょうけど。私は三時間くらいかしら。心配はいらないわよ」
「看病は任せてください」
「はいはい」
 診察カードや財布をトートバッグに入れながら芳は答えた。こっちの言うことを半分も聞いていないに違いない。返事は一度、という意味がよく分かった。
「また雪ねえ」
 助手席に座った芳はそれきり黙って、窓に額をつけたまま灰色の森をぼんやりと見ている。病院に着いた頃には綿のような大きなボタン雪が降っていた。
 診察の受付は全て機械だ。操作の分からない患者にボランティアらしい中年の女性が操作方法を教えていた。芳は空いている受付機の前に立つと、手慣れた様子で受付を済ませた。
「送ってくれてありがとう。投与が終わるのは昼頃になると思うの。やっぱり先に帰っていて。帰りはタクシーにするから」
「構いません。待ちます。そのために車で来たんですから。帰ったら意味がないでしょう?」
「こんな所で待っていると、またインフルエンザになるわよ」
 芳の言うとおりだった。総合待合室は咳をしたり、赤い顔をした人々がじっと順番を待っていた。熱があると分かった患者はマスクを装着させられ、看護師に別室へ連れていかれている。
「ほら、分かったでしょう」
「芳さんだって同じことでしょう?」
「私は待つところが別なのよ」
「近くで時間をつぶしてますから。診察が終わったら携帯に電話してください」
 ここまで来たのに帰ってたまるか。頑として動かないでいると芳がようやく折れた。 
「分かったわ。寒くないようにしてね」
 血液検査をして、結果を待ち、主治医の診断が始まるまで一時間以上かかる。薬剤のダメージから身体が回復しているか主治医が確認をし、許可が出てからようやく抗がん剤の投与がはじまる。投与の前に嘔吐防止の薬を服用し、薬が効くまで待つことさらに一時間。それから身体に負荷がかからないよう、ゆっくりと抗がん剤を投与する。これがまた一時間以上かかるのだ。抗がん剤の投与は半日がかりの大仕事だ。芳に説明されて一連の手順は頭に入っているのだが、待つ時間は長い。
 車に戻って何となくラジオを入れたら、モーツアァルトのレクイエムが流れてきた。縁起でもない。慌ててスイッチを切った。

 牡丹雪がいつの間にか粉雪に変わっている。じっと待っているのに耐えられなくなって、宥己は病院に向かった。
 午前の診察が終了したらしく、受付窓口にはカーテンが引かれている。総合会計の窓口も一つしか開いておらず、数名の患者が計算書が出来上がるのを待っているだけだった。自動支払機の列にも芳の姿がない。いてもたってもいられず、宥己は携帯電話使用が許可されているブースの中に駆け込んだ。呼び出し音がして、すぐに芳が電話に出た。
「もしもし」
「今、電話しても大丈夫ですか」
「ええ。ちょっと休んでいるだけだから」
「どこに居るんですか」
「診察室の隣にある控室よ」
「迎えにいきます」
 少しの間があって芳の声が返ってきた。
「ええ。おねがい」
 コンビニエンスストアの袋をがさがさいわせながら、看護師が目の前を歩いている。慌てて看護師に声をかけ、控室の場所をきいた。ただならない顔をしていたらしく、看護師は控室の場所を丁寧すぎるくらいに教えてくれた。こういう場所で走ってはいけないと分かってはいるのだが、思わず小走りになった。
「失礼します」
 ドアを開けると、芳が一人で青い顔をしてソファに座っていた。
「大丈夫ですか」
「薬の投与中に吐いちゃって。ちょっと休んでいたの。連絡が遅れてごめんなさいね。診察室によってから帰るわ。声をかけてから帰らないとだから」
 隣室をノックすると、はあい、とのんびりした女の声が返ってきた。
「どうぞ、お入りください」
「お世話になりました。帰ります」
 カルテに何か書き込んでいた女医は、ちらりと目を上げて、お大事に、と素っ気なく挨拶をし、再びカルテに向かった。
 分厚いファイルを抱えた看護師が診察室に入って来た。ファイルと同じに分厚い尻の持ち主だった。ドアのそばに立っている宥己に気が付くと、看護師はホッとした顔をした。
「迎えに来ていただいてよかったわ」
「お世話になりました」
 芳が殊勝に頭を下げた。
「先生、さっさと片付けないと午後の診察が始るわよ」
 看護師はそういいながら、持ってきた分厚いファイルをどさりと女医の机に置いた。
「はいはい。では、お大事に」
 女医が振り返り、芳に会釈をした。
 外に出ると雪雲が厚く垂れこめていて、ひっきりなしに降る粉雪が風に舞っていた。
「本降りになってきたわねえ」
 芳はマフラーを巻き直すと空を見上げた。そうしている間にもみるみる雪が芳に降りかかり、ニットキャップとコートがあっという間に白くなった。芳の雪を払うと、フラノの厚いコート越しに肉の落ちた身体が指に触れた。儚い身体がこのまま雪の中に溶け込んでしまいそうだった。抱きしめようとすると、芳は腕の中からするり、と逃れた。
「運転、気をつけてよ」
 はい、と返事をするしかなかった。
 ヒーターを最強にして暫く走ると、ようやく車内が温まってきた。芳は呑気に讃美歌をハミングしている。
「何ですか、あの医者の態度は」
「え?」
「具合の悪い患者をほっといて。芳さんも芳さんです。具合が悪いなら、もっと騒げばいいんです」
 腹立ちを女医にぶつけていた。なんでも一人でやろうとしないでください。本当はそう言いたかった。
「あのねえ、癌患者なんて掃いて捨てるほどいるのよ。あれくらいのことで時間外の診察までしていたら、お医者だってもたないわ」
 芳は諭すように言った。
「それにしたって……」
「吐き気がひどいっていったら、いつもより多めに吐き気止めの薬をくれたわよ。もっと早く言ってくれればいいのに、ですって」
「それだけですか」
「まあ、そんなもんでしょ。私、あの女医さん好きなのよ。サバサバしていて」
 帰りの車中で芳は饒舌にしゃべっていたから、副作用のことはすっかり忘れていた。芳の体調が急変したのは家に着いて間もなくだった。
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