カオルの家

内藤 亮

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 芳は玄関のカギを開けるのを待つこともできず、そのまましゃがみ込んでしまった。瘧のようにひどく震えていて、額に触れると火のように熱い。
「ほうら、来た」
 芳は冗談めかしてそういうと、宥己が差し伸べた手には目もくれず、靴を脱ぐと這うようにしてそのまま寝室に入っていった。部屋から出てきたときはパジャマ姿で、手に毛布を抱えている。
「そこ、どいて」
 そういうとトイレの前に倒れこむように横になってしまった。宥己は持参してきたエアーマットをリビングに取りにいった。空気を入れるエアーポンプが微かなモーター音をたてている。芳が薄目を開けた。
「なあに、それ」
「エアーマットです。これなら洗えますから」
 芳を膨らませたエアーマットの上に寝かせた。
「どうですか?」
「いい感じよ。ありがとう」
「本当はもっと幅の広い方がいいんでしょうけど、それだと廊下に入らないから」
 返事がない。様子を窺うと芳はもう眠っていた。居室は温かくすることを考えたが、廊下までは配慮していなかった。断熱はしっかりしたつもりだが、ここで寝るのは想定外だった。薪ストーブの火力を最大にして開閉式のシェラフを毛布の上からから被せた。
 しばらくすると芳はこんもりとしたシェラフから顔を出した。顔が真っ赤だ。
「頑張ってくれるのは嬉しいけれど。シェラフはいらないわ」
 かすれた声でそういうと、芳は四つん這いのままトイレに直行した。うがい用の水とタオルを持ってトイレの外で待っていると水を流す音がした。
「芳さん、これ」
「ありがとう」
 目が覚めたら嘔吐して、スポーツドリンクを飲んでまた眠る。飲んでもすぐに嘔吐してしまう。芳は眠る以外はトイレに顔を突っ込んでいたが、嘔吐しながらも水分を補給する根性は相当なものだった。
 芳はこの三日間、ずっとそんな調子で何も食べていない。何度病院に電話しようと思ったかしれない。そのたびにこれくらいはいつものことだから、と芳に諫められた。三日目の日付も変わるころ、やっと熱も下がって嘔吐もおさまった。芳は静かな寝息をたてている。
 いつの間にか眠っていたらしい。微かな水音で目を覚ました。辺りはうっすらと明るくなっている。長い夜がやっと明けたのだ。
「起きてる?」
 芳が顔を覗き込んでいる。微かに歯磨き粉のミントの香りがした。
「何か食べない?」
 この言葉をどれほど待っただろう。宥己は飛び起きると、台所に行こうとする芳をつかまえた。
「僕が支度します。芳さんはそこに座っていて」
 本当は梅干なんかもいいんだろうけどな。口の中が炎症を起こしていることが多いから、すっぱいものはダメだろう。吉本の言葉を思い出しながら、宥己は煎茶と焼いたかき餅を用意した。
「これ、何? お煎餅?」
「友達の手作りです。かき餅っていうんだそうです。食べてみてください」
 一口齧った芳は顔を輝かせた。
「あら、いけるわ!」
 芳は煎茶で喉を潤すと、二枚目に手を伸ばした。芳はいい音をさせてかき餅を食べた。三日間、自分が何を食べていたかよく覚えていない。芳が食べるのを見ているうちに、腹が減っていたことを思い出した。
「もう少し焼きましょうか」
「ええ、お願い」
 芳が自分でやる、と言わずに任せてくれるのが嬉しかった。
「投与の後は何を食べても美味しくなくて、苦労するのよ。ご飯の匂いも気持ち悪くなっちゃうくらいなの。かき餅はいいわねえ。お腹が喜んでるわ。煎茶も口の中がすっきりしていいわね」 
「他には何が食べたいですか」
 宥己はせき込んで尋ねた。
「そうねえ。もう少ししたら普通にご飯が食べられるから。心配はいらないわ」
「あと何回、抗ガン剤の治療をするんですか」 
「これで最後。後は放射線治療をしながら経過観察ね」
「よかった。治るんですよね」 
「治るというかなんというか。うまく寛解にもっていけるといいけど」
「カンカイ?」
 聞きなれない言葉だった。
「癌と休戦協定を結ぶってこと」
「協定が破られたら?」
「病院の図書室に『再発、再々発でも大丈夫』って本があったわ。癌ってそんなものらしいわよ」
 突然、芳が手で鼻を覆った。指の隙間から血がこぼれている。
「芳さん!」
「ただの鼻血よ。抗ガン剤で粘膜が弱ってるから。よくあるの。ちょっと寝るわ。お昼は美味しいものを食べに行きなさい。病人とずっと一緒じゃあ息が詰まるでしょ」
「芳さんは?」
「留守番しているわ。私は大丈夫だから。今日はお出かけ日和よ」
 芳はテーブルにこぼれた血を手早くふき取ると、洗面所に行ってしまった。しばらく水音が水音がしていたが、やがて寝室のドアの閉まる音がしてそれきりだった。
 寝室の外に暫く立っていたが、コトリとも音がしない。ドアを少し開けて様子を窺うと、芳は静かに眠っていた。真っすぐにベッドに横たわった芳は胸の前で手を組んでいる。否定しようと思っても、あの日の馨の姿が重なってくる。蝋の様に白い顔を見ているうちに宥己は大声で叫びそうになった。
 験を担いではいけない。分かってはいても、何かに頼らずにはいられなかった。宥己は鬼胡桃の木を探しに、まだ雪の残る山道に入っていった。
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