カオルの家

内藤 亮

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 記憶を頼りに山道の奥へと分け入っていく。水気の多い雪がスニーカーにべたべたとくっついて歩きづらい。くねくねとした道を辿っていくと、右側に白樺が群生しているのが見えてきた。左側には浅い沼沢地が広がっている。凍った水面に朝日が反射して、銀板の様に光っていた。空は小憎らしいほど澄み切って、真っ青な天蓋が広がっている。
 沼の奥に広がっている雑木林は、子供の頃のお気に入りの場所だった。夏はカブトムシやクワガタを捕まえ、秋は工作の材料にするため、様々な形のどんぐりを拾った。縄文人に憧れてどんぐり団子を作って食べたこともある。灰汁を抜いて粉にして、水を加えて団子にする。手間と日数をかけて苦労して作ったのに、団子はちっとも旨くなくて、愕然としたのを覚えている。半べそをかいていたら、食べ物のありがたみが分かったでしょ、と馨は笑っていた。
 馨ちゃん。芳さんを守ってください。
 沼を見ながら道なりに進んでいくと、道は段々と広くなって県道に出る。左の上り坂を進むと、山道が途絶えて針葉樹の森になる。
 木漏れ日が差し込む雑木林と違って、植林された針葉樹の森は昼間も鬱蒼として薄く、生き物の気配が感じられない。枝打ちをされた樹々はどの木も同じような顔をしていて、うっかりすると迷子になりそうだった。
 宥己の記憶に残る地図はこのあたりでひどく曖昧になってくる。針葉樹林には子供の興味を引くようなものは何もなかったから探索がなおざりだったのだ。 
 宥己は腕時計と太陽で方角を確かめてから針葉樹の森に入った。生い茂った樹々のおかげで雪はほとんど積もっていないが、固い針葉樹の葉は腐らずにそのまま木々の下に積もっていて、足元がひどく滑る。針葉樹林は延々と続いていて、こんな所をいくら探しても胡桃の木など見つかりそうもなかった。太陽がいつの間にか高く上がっている。見晴らしのいいところまで移動したほうがよさそうだ。宥己は針葉樹林が途絶えて太陽の当たっている尾根を目指した。
 林を抜けると眼前の風景が突然に開けた。緩やかな斜面には雑多な灌木が生えている。一歩踏み出したら足元がずぶずぶと沈んで雪が崩れた。その下には地面がなかった。上から見るとなだらかな斜面だったが、実際にはかなりの傾斜があるらしい。尻もちをついたまま宥己の身体は勢いよく滑っていった。 
 滑落のスピードがあがり、ようやく掴んだと思った小枝も指の間をすり抜けていく。観念して尻をついたまま、滑るに任せていると、木の根に引っかかって滑落がようやく止まった。頬や掌がひりひりとするが、怪我をしないですんだ。目の前の大きな木のおかげで、斜面にとどまることが出来たのだ。
「ありがとな」
 苔むした幹をポンっと叩いた宥己の手が止まった。丸裸の枝の先端に、黒い鞘がついた小さな角のような芽が出ている。図鑑で覚えたとおりの胡桃の冬芽だった。
 傾斜の下は小さな谷川が流れていて、水際に胡桃の実が落ちていた。宥己はつんのめりながら斜面を駆け下り、濡れたジーンズの尻が凍りそうになっているのも忘れて、夢中になって胡桃の実を拾った。

「芳さん! 胡桃、見つけました!」
 ドアを勢いよく開けると、シーツを抱えたままの芳が目を丸くした。
「びしょ濡れじゃないの! 怪我までして!」
「擦りむいただけです。そんなことより、これ、見てください!」
 手がかじかんでいて、ジャンパーのポケットから取り出そうとした胡桃の実が床に転がった。慌ててしゃがみ込むと目の前に芳の裸足があった。ピンク色をした足の指に思わず手を伸ばすと、足の指がすっと後ろに下がった。
「お風呂を沸かしたから。私の次になっちゃうけど。しっかり温まってきなさい。お尻までびっしょりよ」
 子供みたい、とつぶやいて芳はクスクスと笑った。芳の生まれたての雛のような頭から微かに石鹸の香りがした。
 この家で湯舟に入るのは初めてだった。この湯に芳がつかったのだ。息を止め目を閉じて、頭の先まで全身を湯舟に沈めた。
 身体の奥にまで湯がしみわたっていく。   湯あたりする寸前まで湯に浸かり、風呂から上がった。
「いいお湯でした」
 色々な意味で。口にすると怒られそうだが。
「そう、良かった」
 ダイニングの椅子に座っていた芳が振り返った。ダイニングテーブルの上に、無骨な鬼胡桃の実が子供の整列のように一列に並んでいる。
「沢山拾ったのね」
 残った胡桃を並べながら芳が言った。
「時期が遅いからリスの食べ残ししかなくって。凄く立派な木でしたよ! 秋になったら一緒に採りに行きましょう」
「お昼はどうしたの?」
「あ、忘れてました」
「あらまあ。食べる物、ないわよ。洗濯が終わったら買出しね。汚れものがあったら入れちゃって」
「僕のも一緒でいいんですか」
「かまわないわよ。光熱費と時間が勿体ないでしょ? 手洗いしないといけない服なの?」
「いえ、洗濯機で大丈夫です」
 そういう意味ではなかったのだが。風呂場に戻って汚れたものをすべて入れ、洗濯機のスイッチを入れた。ドームのようなガラス扉の向こうで、縦縞のトランクスとピンクのショーツが一緒にグルグルと回っている。
 これを幸せと言わずしてなんと言う!
「洗濯機、すごいですね」
「ふふふ。いいでしょう? 寒冷地仕様のドラム式よ。あの一台で乾燥もできるの。奮発しちゃったわ。そこに座って。お茶を淹れるわね」
「芳さんは座っていてください。何がいいですか」
 どうして頼ってくれないのだろう。不機嫌な顔になったらしい。芳が慌ててフォローした。
「一人でやるのが癖なのよ。そんな怖い顔をしないで」
「何を淹れましょうか」
 宥己は笑いながら応えた。芳の困った顔をもう少し見ていたいような気もするが、病人を困らせるわけにはいかない。
「紅茶をお願いします」
 戸棚を開けると缶の紅茶は空っぽで、ティーバッグの紅茶が少し残っていた。薪ストーブの上にはいつも鉄瓶が乗っているから湯だけはたっぷりある。ティーポットとティーカップに熱湯を入れて、温めてからポットにティーバッグを四ついれた。冷蔵庫にマーマレードジャムがあったのを思い出し、ミルクと一緒にテーブルに並べた。      
「ミルク、温めましょうか」
「そのままでいいわ」
 宥己は紅茶にたっぷりとマーマレードを入れた。即席のオレンジペコーだ。 
「あら、いい香り」
「いい紅茶にこんな事したら怒られるけど。あ、すいません。この紅茶がどうとかって訳じゃないですよ」
「いいのよ。あとで美味しい紅茶も買わないとね」
「熱が出た後とか、こうやって飲むと美味しいですよ」
「真似してみようかな。ジャム、このくらい?」
 ティースプーンのマーマレードを掲げて芳が尋ねた。
「お好みでどうぞ」
 たっぷりとジャムをいれた紅茶を一口飲むと、芳はほうっと息をついた。
「さっぱりしてるのに甘くって。いいわねえ。貴方は弱ってるときにおいしいものを良く知っているのね。かき餅とお茶も美味しかったけれど、この紅茶もなかなかよ」
 ここに来るとよく熱を出した。その間、馨は飲み物、食べ物、口にするもの全てに心を配り、つききりで看病をしてくれた。手厚い看病にうっとりしていると、熱はすぐに下がった。もう大丈夫ね、と馨に微笑まれれば、ずっと布団に入っているわけにもいかず、しぶしぶ布団から出ることになる。ジャム入りの紅茶は、熱が出た時のお気に入りだった。
 脱水中の洗濯機が高いモーター音をたてて勢いよく回っている。モーターの音が段々と低く小さくなり、洗濯終了を知らせるブザーが鳴った。窓の外に目をやると、太陽が力強く輝き、溶けだした雪がアスファルト舗装された道路の上を勢いよく流れていた。
「洗濯物、干してきます。芳さんは座っていて」
 春は少しずつだが着実に近づいている。

 恰好が悪いが、私が運転するというので仕方がない。芳が運転をして自分は助手席に座り、スーパーマーケットに向かった。
「さあ、好きなものを入れて頂戴。お互い、スタミナをつけなくっちゃね」
 勇ましい掛け声とは裏腹に、芳の足元はひどく頼りない。宥己は芳に合わせて歩調を緩めた。 
「あの胡桃、食べられるかなあ」
「殻がしっかりしていたから、大丈夫なんじゃない?」
 白身の魚や豆腐、火を通して食べられる灰汁の少なそうな野菜等々、少しでも食べやすいものを選んでいると、芳が顔をしかめた。
「私に合わせないでいいのよ。若いんだから、もっとボリュームのあるものを食べなさい。却って気を使っちゃうでしょ」 
「僕は芳さんと同じものを食べたいんです」
 宥己がまっすぐに目を見ていうと、芳はふいっと目を逸らせた。
 芳も台所に立つといってきかなかったから、座って作業が出来る胡桃の係りを任せた。水に浸しておいた胡桃を殻ごと炒って継ぎ目にできた隙間からこじ開けるのだが、在来種の鬼胡桃は改良品種の胡桃と違って殻がやたらと厚く、ちょっとやそっとでは実が出てこない。キッチンスツールに腰かけてしばらく胡桃と格闘していた芳が感嘆の声をあげた。
「やっと割れたわ! これ、そのまま食べるの?」
「少し炒ると美味しいらしいです」
「なるほどね」
 芳はフライパンを棚から出すと、胡桃を炒りはじめた。
「そっちも美味しそうね」
 芳が側から覗き込んだ。太刀魚は塩焼きにした。野菜はうま煮にしようかとも思ったのだが、酒や醤油の匂いも今の芳には辛そうだ。ただの塩茹でにしてすりごまをかけまわし、醤油を添えた。味噌の匂いも鼻につくだろうから、汁物は煎茶に少し塩をいれてかき餅を入れた簡易汁物にした。吉本に教わった知識が役にたった。
「美味しい!」
 そういいながら芳は顔をしかめた。
「どうしました?」
「レモンが口内炎に沁みるのよ」
「レモンをかけないで食べればいいのに」
「レモン無しなんて。美味しくないでしょ」
 そういいながら芳は太刀魚を箸で小さくして、心深く口に運んだ。
「お茶も少し飲んでみてください」
「かき餅がお餅っぽくなってる! 緑茶で、なるほどねえ」 
 食べることに意欲をみせる芳が頼もしい。癌なんて吹っ飛んでしまうに違いない。
 マイナスドライバーと金槌で取り出した胡桃は小さく割れてしまって、茶碗一杯にも満たないような量だった。それでも、鬼胡桃の実は野生種特有の濃厚な香りした。食べると、仄かな甘みが口いっぱいに広がった。
「苦労したかいがあったわね」
 芳は胡桃に手を伸ばしながら嬉しそうに笑った。
「だんだんご飯が美味しくなってきたわよ。貴方のおかげね。ありがとう」
 来週から学校に行くのだという。芳は棚からショートボブのウイッグを取り出すとブラシをかけ始めた。
 
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