カオルの家

内藤 亮

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 最初は二週間に一度。次は三週間に一度。その次は一か月に一度。検診の間が少しずつ長くなり、緑が日に日に濃くなるのと呼応するかのように芳は健康を取り戻していった。
「さらば戦友!」
 ベリーショートの芳はウイッグを引き出しに放り込んだ。生えたての髪の毛が形のいい頭を覆っている。
「髪型、素敵ですね」
「ありがとう。久しぶりに美容院に行ったの。やっと娑婆に戻った感じよ」
「あの、触ってもいいですか。ちょっとだけ」
「特別に許可しましょう」
 芳が勿体ぶった口ぶりで言った。生まれたばかりの髪の毛はくせ毛で艶々としていて黒い子羊のようだった。そっと頭に触れると柔らかなくせ毛が指にまとわりつく。掌に伝わる芳の体温が命そのものの様に思えた。
 検診の終わった週は会うことに決めた。大げさだ、と笑われたが、芳の顔を見るまでは落ち着かなかった。心の中では毎回が快気祝いのつもりだった。検診日は金曜日で、週末は一緒に過ごすことをやっと芳に許可してもらった。順番に取る土日の休みは、全て芳のスケジュールに合わせた。
 寝るのは相変わらず薪ストーブの傍だが、少なくとも芳の胃袋は掌握できたらしい。
 今までは必要最低限の料理しかしなかったが、芳の喜ぶ顔が見たくて料理を習った。佑士はプロだからおいそれと教わるわけにはいかないが、吉本はもちろんのこと、山本の奥方や娘の洋子、奥村の細君にまで料理を教わったことはもちろん秘密だ。
 芳が料理担当の日はメインディッシュだけでなくデザートまで作るから結構本格的なフルコースだった。デザートや菓子など作ったことはなかったから、アシスタントの役目をするのも楽ではない。芳は手近な材料を組み合わせてたちまち様々な惣菜を作ってみせた。
 実践と経験に基づいた芳の料理はにわか仕込みの料理ではとうてい敵わない。つい先日も、芳は特売品のブリのアラと、寸足らずのこれもまた特売品の大根を使って料亭さながらの見事なブリ大根を作ってみせた。
「旨いですね」
 ブリは口の中でほろほろと崩れるほど柔らかく、飴色になった大根は味がしっかりと沁みている。
「この料理はね、時間をかければいいのよ。焦がさないように注意して、最後に醤油を足すのがみそね」
「最初から醤油は入っているのに。どうして最後に醤油を足すんですか?」
「ずっと煮ているうちに醤油の香りが飛んじゃうから、最後に香りを足すのよ」
「物知りだなあ」
「何だか上手にできないから本で調べたのよ」
「芳さんでも料理の本、見るんだ?」
「そりゃあそうよ。若い人向けの料理の本は思いがけない手抜き方法が載ってたりして、目から鱗、よ。今のピーマンはね、種もヘタも取る必要ないんですって! 品種改良されて柔らかいし苦くないからだそうよ。丸ごと切って青椒肉絲にしたけど、美味しかったわ」
「まだまだ修行が足りないなあ」
「これだけできれば女の子はイチコロよ」
「僕は芳さんのために料理をしてるんです」
「さて、今夜は何を作ろうかしらね」
 友情のラインを超えようとするといつも無視される。踏み込もうとしても柔らかな壁は断固としていた。一緒に買い物に行き、料理を作り、共に食卓を囲む。貴重な逢瀬を台無しにしたくはないから、弱気になって壁の前ですごすごと引き返す。いつもその繰り返しだった。
「今夜は佑士さんのお店の予約を取りました」
「まあ!」
 芳は少女の様に胸の前で両手を組んで目を輝かせた。

 今度は貴方が飲む番よ、といわれて運転は芳がした。芳の車は重厚なフォードアセダンだ。夜のディナーには芳の車のほうがふさわしいのは言うまでもない。 
 最寄りのコインパーキングに車を停めて歩いた。台風が去ると空が一気に高くなった。もうすぐ夏が終わる。バカンスの喧騒が過ぎ去って町は本来の静かな趣を取り戻しつつあった。日が落ちると澄んだ風が頬を撫で、秋がそこまで来ていることを告げていた。
「お待ちしていました」
 ギャルソンエプロンをキリリとしめた美奈がフロアに案内した。席は初めて芳と食事をした時と同じ席だった。
「まあ、この席って!」
「ごゆっくりどうぞ」
 美奈は小さく会釈してバックヤードに下がった。窓から見える草花が女郎花、萩、桔梗と秋のものに一変している。木々の間に巧みに配置されたグランドライトが野の草花をさりげなく照らしていた。庭の設えも、素材を生かす、という主の考え方を反映しているかのようだった。
 佑士の後ろからひょろりとした若者がついてきた。コック帽の高さが違うが、コックコートはお揃いだ。
「先月から厨房に入ることになった濱田です。以後、お見知りおきを」
 佑士が紹介をすると、若者はぴょこん、とお辞儀をし、また厨房に戻っていった。夜のメニューはスープ、前菜、メインディッシュ、デザートと、それぞれの種類が昼よりも多くて値段もそれなりだ。美奈はメニューを渡しながら、
「これとこれは濱田君の担当なの」
 と、小声で前菜とデザートのいくつかを示した。 
「じゃあ、いよいよなのね」 
 つられて芳も小声で言うと、美奈はちょっと肩をすくめた。
「やっとスタートラインです」
 新しい味も開拓しなくちゃね、と芳も前菜は濱田が作ったテリーヌを選んだ。サーモンピンクとグリーンと白の三色が層をなすテリーヌだった。素材は鮭、アスパラ、緑の帯もアスパラだ。二種類のアスパラが調和していてサーモンを引き立てている。丁寧に裏ごしされたテリーヌは淡々あわあわと口の中で溶け、後をひく旨さだった。
「もう二、三切れ、食べたい感じよ」
「ですね」
「飲まないの?」
「素面で料理を味わいたいから」
「魚介類が好きなのね」
「ええ。だけど魚介類の料理って難しそうで。家だと干物ばっかりです」
 メインは帆立貝のプロヴァンス風というのを注文した。パセリとニンニクの香りがきいていて表面がパリパリとしている。味付けはあっさりしていて岩塩が帆立貝の濃厚な味を程よく引き締めていた。
「このフィレもちょっと食べてみて」
 そういうと芳は牛フィレ肉のソテーを一切れ、さっと帆立貝の皿の隅に載せた。
「お行儀、悪いけど」 
 そういってちょっと片目をつぶった。
 フィレ肉は安定定番のおいしさだ。レアすれすれの焼き加減が絶妙で、デミグラスソースは色々な野菜のエキスと多分骨付き肉のスープだろう。両者が程よく調和して深い焦げ茶色をしている。見た目はシンプルだが、この味は素人にはとても出せそうもない。
「どう?」
「さすがですね。今度頼むときは肉系にしようかな。帆立貝も食べてみますか?」
「ありがとう。貴方が美味しそうに食べるからちょっと食べたかったの」
 芳に倣って、人目に立たないよう素早くフィレ肉の端に帆立貝を移した。
「表面のカリカリが堪らないわね」
 メインがたっぷりしていたから、デザートまで辿りつけそうにない。健啖家の姿を取り戻しつつある芳もさすがにギブアップ気味で、食事が終わるとほうっと、ため息をついた。
「次回はお昼に来ませんか? 濱田君がメインも作るそうですよ」
「まあ! 優秀なのね。デザートは何にする?」 
「グレープフルーツのシャンパン添えにします」
「私もそうするわ」
「意見が合いましたね」
「ふふふ。そうね」
 勘定は宥己が払った。いつもは割り勘で、端数がでたり、ちょっとした物を食べたときは、年長者だから、といって芳が必ず払うのだ。たまには宥己も格好をつけたかった。
「快気祝いです」
 芳に有無を言わさずに、銀のトレイにカードをおいた。
「分かったわ。ありがとう」
 帰り際、美奈が赤と白のワインの包みを芳に渡した。
「これ、おじいちゃんからです。元気になられて良かった。またいらしてくださいね!」
「ありがとう!」
 夜も更けて家々の灯りがまばらになっている。胃袋の中で食べたものが燃焼していて、身体がホカホカと温かい。ひんやりとした夜風が心地よかった。
 いつもと違う料理を食べ、寝る前には極上のワインを楽しんだ。いい雰囲気だ。
 気分も変わって今夜こそは芳の寝室に入れるかも、と宥己は思ったのだがやはり甘かった。芳はさっさと布団を出してきて、当たり前のようにストーブの傍に敷いた。
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