カオルの家

内藤 亮

文字の大きさ
上 下
29 / 32

29

しおりを挟む
 布団を畳んでいると芳が起きてきた。
「おはよう。いい天気ね!」
「今日は胡桃を採りに行きましょう。先日の台風で実が落ちてると思うんです」
 風は冷たいが乾いた空気が心地いい。バックパックには芳が作ったサンドイッチとコーヒーが入っている。コーヒーはもちろんコーヒーメーカーでちゃんと淹れた。豆は極上のブルーマウンテンだ。沼をぐるりと回ってどんぐりの林で昼食をとることにした。
 ショートカットまで伸びてきた芳の髪が木漏れ日で艶々と光っている。初めて会った時と同じように芳は力強い足取りで、歩いていく。このところ急に充実してきた芳の腰回りにどうしても目がいった。現代医療の進歩に感謝だ。
 落ち葉を踏みながらしばらく歩くと、昔と同じ姿で椎木は立っていた。ごつごつとした幹はコケが生えて風格が増し、根元にはひこばえが沢山生えていた。老いた木が子孫を残そうとしているのだ。
「立派な木ねえ。おじい様、はじめまして」
 芳も樹勢の衰えに気が付いたのだろう。そういいながら、目の前の枝に残っている古い葉を落としてやっている。さすがに、元生物の教師だ。椎木には自力で落とせなかった葉が枝に沢山残っていた。
「秘密基地だったんです」
 南側に大きな洞ができていて、中に座ると身体をすっぽりと包み冷たい北風を遮ってくれる。ここは子供の頃のお気に入りの特等席だった。乾いた落ち葉を敷き詰めて芳を座らせた。
「さあどうぞ」
「素敵ね! 女王様になった気分よ」
 薄く切ってきつね色に焼いたトーストにシーチキン、晒した薄切りの玉ねぎ、レタスが挟まっている。もう一つは卵サンドだ。マヨネーズで和えたゆで卵に入ったピクルスがいいアクセントになっている。仄かな酸味のあるコーヒーが素朴なマヨネーズ味のサンドイッチによく合った。
「急にハイキングなんて言うから。あり合わせよ」
「美味しいです。すごく」
 熱々のコーヒーが冷えた身体を温める。オゾンたっぷりの空気、芳の笑顔、澄み渡った空。どんな店でもこれほど旨いコーヒーは飲めないと思う。
  ゆっくりと食事をし、ゆるゆると歩いて胡桃の木を目指した。
「こんな所の木を見つけるなんて。やっぱり一番弟子なのねえ」    
 胡桃の木を見上げながらしみじみと芳が言った。
「紅葉も綺麗」
 葉が枝から対照に生えているのが胡桃の特徴だ。行儀よく並んだ大きな楕円の葉が黄色く色づいていた。木の根元には褐色の実が沢山落ちている。
「こういうのって燃えるわね」
「ですよね」
 二人で黙々と実を拾い、持ってきたレジ袋がたちまち一杯になった。まだ実が沢山落ちている。もっと実を取ろうとしたら芳が言った。
「あとは動物たちの分。人間は他にも食べる物があるんだから」
 いかにも生物の教師らしい口調だった。
「そうだけど」
 未練がましく落ちた実を見ていたら芳が笑った。
 銀杏と同様、胡桃も果肉を落として中の実を取りだすまでが一仕事だ。しばらく土に埋めて果肉を腐らせてから水洗いする。後は殻のまま天日に干して出来上がりだ。実を出すときは水に浸してから軽く炒ると殻が剥きやすくなる。一連のやり方は吉本が教えてくれた。
 作業は実を土に埋めるところまでで終わった。芳と過ごす週末はいつもあっという間に終わってしまうのだ。

 次に芳の家に行った時には、全部の胡桃が薄茶色の殻付き胡桃になっていた。きれいに果肉が洗い落とされた胡桃からは微かな日向の匂いがした。
「これ全部芳さんが?」
「ええ、そうよ。教わった通り、ゴム手袋をして洗って干したの」
 灰汁が強いからゴム手袋をしろ、とこれもまた吉本の教えだ。
「一人で大変だったでしょう?」
「胡桃、胡桃って唱えながらやったらすぐだったわよ。鬼胡桃だなんて。こんなに可愛い実なのに失礼よねえ」
 芳はいかにも愛おしそうに胡桃を手に取った。
「胡桃割りの道具、買ってきましたよ」
「ありがとう。これで作業がはかどるわね。私からはこれ。開けてみて」
 大きな包みから出てきたのはアルシュの水彩用紙とウィンザー&ニュートンの筆と水彩絵の具だった。

 初めて芳を胡桃の木まで案内したのは梅雨が明けて間もない頃だった。
「私でも行けるかしら」
 薄着になった胸元から鎖骨が浮き出ている。芳はまだ体力に不安があるらしい。
「胡桃は傾斜地に生えているけど、近いし道は平坦だから大丈夫。僕も一緒だし」
「あらま、心強いこと」
 大きな胡桃の木は他の木々を従えて初夏の強い日差しを存分に浴びていた。輝く緑が己の生命力を誇っているかのようだ。
「立派な木ねえ。元気を分けてもらえそう。光合成を沢山してるわよ、きっと」
「でんぷんを作るんでしたっけ?」
「そうそう。胡桃の木って初めて見たわ。葉っぱが大きくてきれいね」
 大きな楕円形の葉が明るく光って目に染みるようだった。
「緑の彩度が高いですよね」
「絵を描く人ってそんな見方をしてるの?」
「建物の色を決める時は色だけじゃなくて彩度も大切なんです。壁や天井は面積が広いし、しょっちゅう目にするでしょう。図面を見て住む人がいいと思った色でも、彩度が極端な方向に振れていると、実際に住むと目障りだったり、疲れちゃったりするんです」
「貴方の作った家はだんだん住み心地が良くなってくるわよ。最初は硬かった革靴が足に馴染んでくるみたいな感じ?」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「建物の絵しか描かないの?」
「今はそうですね」 
「今度、私の絵を描いてくれる?」
「ヌード?」
「バカね」

 あの時の約束を、芳は覚えていたのだ。
「道具はそれでいい? お店の人に教わったのだけれど」
「こんな高価なもの……」
 芳がどんな聞き方をしたのかは分からないが、素人に平気でこんな高い物を売りつけた店員に腹が立った。
「私が持っていたって仕方がないもの。その代わり、うんと美人に描いてよ」
「う。分かりました。ちゃんとした絵なんてずっと描いてないから。練習しないと」
「そんなものなの?」
「絵の具なんてもう何年も触ってないんです。しばらくここに通ってもいいですか。芳さんのスケッチをしないとだから」
 思い切って言ってみた。
「そうくる? いいわよ。うんと練習してください」
 芳が笑いながら応えてくれた。
 水彩画はよく描いていたが、こんなにいい道具は使ったことがない。綺麗に並んだ絵の具のチューブをこねくり回していると、芳が言った。
「行ったり来たりも面倒でしょ。いっそのことしばらくここから会社に行ったら?」
 願ってもいないチャンスだ。翌日、さっそく着替えを段ボールに突っ込んで運んできたら芳が目を丸くした。
「あらま、素早いこと」
「芳さんの気が変わらないうちにと思って」
「女に二言はないわよ」
 そういって芳はカラカラと笑った。
 絵が仕上がるまでの期限付きとはいえ、芳と一緒に暮らし、寝食を共にするのだ。朝も夜も芳がそばにいるのだ!
「お弁当作る? ついでだから」
 芳が当たり前のように言うのが嬉しかった。
「はい! よろしくお願いします」
 たいてい現場を回っているから、昼食はコンビニで調達していたが今は違う。昼時には少し足をのばして見晴らしのいいところに車を停め、綺麗なナプキンに包んである弁当を広げた。毎日、芳の手料理と幸せをかみしめた。
 
「このところえらく急いで帰るんだな?」
 山本が笑いながら言った。
「ええと、まあ何というか」
 もごもごと答えたら、山本はいかにも理解のある笑みを浮かべた。
「あのワンルームじゃあイロイロ不便だろ? 寝室はないし風呂も狭い。お前が今住んでいる建物な、近いうちに売却することになったんだ。大手ディベロッパーのМ社がな、言い値で買い取ってくれた」
「このご時世に強気ですね」
「今のうちに動くと安上がりだからな。資金のある所はじわじわ動き始めてるぞ。リゾートマンションにするんだとよ。施工はうちもかませてくれるそうだ。豪儀なもんだよ。丁度いい機会だ。新しい住居、探しとけよ。無理してうちの物件から選ばなくてもいいんだから」
「はあ、分かりました」
 家に帰ると灯りついているのが新鮮だった。大学に入って以来一人暮らしだったから、真っ暗な家に帰るのが当たり前になっていたのだ。
「お帰りなさい」
 玄関を開けるとエプロン姿の芳が待っている。家の中がほっこりと温まっていて料理の匂いがする。世の既婚者はこんな贅沢が毎日続くのだ。このまま芳と一緒に、と何度思ったかしれない。
「あのねえ。わざわざ生殖能力のないおばさんと一緒になることはないのよ。若いんだから先ずはオーソドックスな結婚を考えなさい。そろそろ絵、描いたら? 練習はもう十分でしょ?」   
 少しでも一緒に暮らすことを匂わせると、芳はわざと直接的な表現をして気持ちを削ごうとするのだ。
「明日から、描き始めます」
 そう答えるのがやっとだった。
 
しおりを挟む

処理中です...