カオルの家

内藤 亮

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 絵に大切なのは勢いなのだ、と馨は言った。水彩画は特にそうだ。描きたいイメージが固まったら、一気呵成に描くことが肝心なのだ。何度も筆をいれると色が濁り、水彩画の持ち味である勢いと透明感がなくなってしまう。だから本番を描きだすまでが大切で、イメージが固まったら絵はもう出来上がったも同然だ。    
 スケッチブックに芳の姿を写しとっていく。イメージを作るのが目的だから瞬間の動き、表情を手の動くままにスケッチしていった。半月ほど芳と生活を共にして、描きたいイメージはとっくに定まっている。
「こんな格好でいいの?」
 朝食を食べ終わった芳が言った。チノパンに白いコットンシャツ、足元は裸足だ。
「ええ」 
 目の前に朝日をいっぱいに浴びた芳が立っている。芳のイメージはやはり朝だ。芳の前で膝をつくと、足が後ろにさがった。
「モデルは言うことをきいてください」
 毅然としてそういうと、芳が後ろに下がるのをやめた。膝づいて足にキス、ではなくて、きれいな足首がよく見えるようチノパンをロールアップした。本当ならキスをしたいところだが、まあ、そういうことは夜のほうが雰囲気がある。
「これでよし、と。ここの椅子に楽な格好で座ってください。そうだな、片膝を椅子の上に立てて、そこに上半身をもたれかけてください。視線は遠くを見る感じで」
「こんな感じ?」
「いいですね」
 芳の髪を整えようとしたら、芳がぱっと頭をそらせて手をよけた。小動物のような機敏な動きだった。
「ですから。モデルは言うことをきいてください。逆立ったままの髪の毛を描くわけにはいかないでしょう? 手の位置もちょっと直しますよ。ポートレートを描くとき、手って大切な構図の一つなんです」
 断りをいれたら、やっと芳の身体から力が抜けた。
「くたびれたら言ってください」
「分かったわ。ありがとう」
 自然の光の下で芳を描きたかったから、ウッドデッキに椅子を運んだ。朝の清冽な光が一番芳に似合う。そう思ったから、絵を描くのは日が高くなるまでの数時間が勝負だ。木漏れ日が白いシャツに反射して芳の顔に綺麗な影を作っている。深呼吸を一つして頭の中から雑念を追い払う。あとは手と目に全てを任せればいい。アルシュ紙はイメージ通りの色を忠実に再現してくれる素晴らしい紙だ。手を動かすにつれて鮮明になる芳のイメージを夢中で追いかけていった。

「そろそろお昼にしない?」
「もうそんな時間?」
「ええ。とっくに十二時を回ったわよ」
 午後の柔らかい光が木々を照らしている。そういわれて改めて見てみると最初に描いたシャツの影の色もすっかり変わっていた。背景を描いていたから気が付かなかったのだ。
「気が付かなくてすみませんでした」  
「いいのよ。すごく集中していたから、声、かけそびれちゃった。絵、見てもいい?」
「ええ、どうぞ」
 芳は椅子から立ち上がり、大きく伸びをするとイーゼルを覗き込んだ。
「まあ」
 そういったきり、芳は目を瞠っている。絵はほとんど仕上がっている。もっと描きこみたい気もするが、そろそろ筆をおかないと絵がダメになるだろう。
「これでだいたい出来上がりです」
 手を動かしながら答えた。背景の色調を整えれば絵は完成だ。
「確かに私なんだけれど。絵のほうが素敵ね」
「そこが絵のいいところなんです」
「まあ、言うようになったわね」
 芳が柔らかく睨んだ。絵が完成してしまった。もうここにいる理由がなくなってしまった。今度芳に会うのは、次の月まで待たねばならない。
「今度の検診は来月ですね」
「いいえ。来週、病院に行かないとなの。今後の治療方針をたてるのだけれど。絵が間に合ってよかった」
「え?」
「休戦協定が破られたの。私が死んだら貴方がこの家に住みなさい。法的なことは済ませてあるわ。弟と話もついてるし」
「そんな……」
「この家の贈与税くらい払えるでしょ?」
「そんな物理的な問題じゃありません」
「物理的な問題よ。循環の中に真理があるって教わったのでしょう。あの椎木と同じ。私にも順番が来た、ただそれだけのことよ」
「僕も一緒に行きます。芳さんの病気をちゃんと知って、一緒に戦いたい」  
「もう、戦うってほどのことは何もないのよ。独りでやれるわ」
 芳の落ち着いた態度がこわかった。
「そんな……。友達でしょう。食事くらいは作れます」
 元はと言えば芳が引いた線引きだが、友達とは便利な言葉だ。
「ずっと一緒にいたいんです!」
 芳は口を引き結び、しばらく黙っていたが、やがて、
「分かったわ」
 と静かに言った。

 アメリカで研鑽してきた、という女医は具体的な数値を上げながら芳の病状を詳しく説明した。身体へのダメージを避けつつ、痛みと腫瘍マーカーの上昇を抑えるため、これからは鎮痛剤を併用しつつ、放射線照射が治療の中心になる、とのことだった。
「ペインコントロールは当病院ではかなりの効果をあげています。私は余命という言葉は使いません。あくまでも平均値のデータですし、個々人によってバラツキが大きすぎるんです。癌とうまく共存して、少しでも長くいつも通りの生活が出来るよう、お手伝いをさせていただきます。これから生きていくうえで何が一番大切なのか。ご一緒によく話し合っておいてください」
 と、女医は結んだ。現実の重みをすぐには受け止めることが出来ず、頷くのがやっとだった。
「先生、ありがとうございました」
 声を出すこともできず、芳が挨拶する後ろで黙ったまま頭を下げた。
 先に立って歩く芳の後をとぼとぼと歩いていると、ぱっと芳が振り返った。
「これじゃあどっちが病人か分からないじゃないの」
「すみません……」
「自分の死因が分かっているって、案外と気楽なものなのよ。その日に備えてちゃんと準備出来るし、最期まで自分を保つことができる。癌って案外悪くない病気なの」
「どうして……。どうして、そんなに強いんですか」
 情けないことに、言っているはしから声が震えて目頭が熱くなっていた。
「私の癌は元々質が悪くてね。いつかこんな日が来るんじゃないかって思っていた。やるたいことはみんなやったし。弟夫婦とはもう話し合ったの。ここにきて貴方が加わったのは予想外だったけれど。おかげさまで楽しかったわ」
 そう言って芳は微笑んだ。過去形なんて使わないでくれ。頼むから。
「これからもよろしくね」
 芳が右手を差し出した。
「ほら、握手して」
 しっかりと芳の手を握ると、芳もしっかりと手を握り返した。
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