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扉の向こう側
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錆びだらけの門扉は、よく見ると意匠を凝らした装飾が施されていた。蔦模様の中に様々な動物が彫られているようだ。指で錆びをこすり落とすと、精緻な鳳凰が姿を現した。他にも何か動物が居そうだ。夢中になってゴシゴシ擦っていると、
「ま、ダメよ! 素手でそんなことをしたら怪我をするでしょっ」
と、けっこう本気で怒られた。
「はい!」
この歳になると当たり障りのない人付き合いをする術に長けてきて、本気で怒ることもないし、怒られこともない。静佳の叱責がなんだか嬉しくて、怒られたのに元気な返事をしてしまった。
「足元、気をつけてね。敷石が苔で滑るの」
門扉の内側も笹藪が迫っていて、歩くスペースが敷石の幅しかない。転ばないよう足元に集中して歩いた。
急に目の前が開けた。こじんまりとした敷地の片隅に、月光に照らされた切妻屋根のニ階家がちょこんと建っている。
「ちょっと待ってて。今明かりをつけるから」
静佳は慌ただしく鍵を開けると、玄関灯をパチリとつけた。庭は雑草が生え、植栽がボウボウに伸びていたが、家の中はきちんと片付けられている。よく磨き込まれた廊下が鈍く光っていた。
「ここがお店よ」
静佳が玄関から入ってすぐの左側のドアを開けると、ふわりと紙と埃の匂いがした。
三方の壁は、本の壁だ。天井近くまである本棚がきっちりとはめ込まれ、整然と本が並べられている。静佳は窓際の本棚の前まで歩いていくと、すぐに一冊の文庫本を取り出した。
「どうぞ」
幸田文の『木』だ。女主はやはり記憶力がいい。
文庫本は小口が変色していたが、それ以外は綺麗な本だった。古めかしい装丁がかえって新鮮で、新しい版の本よりもかえっていいくらいだ。
「版が古いから、活字が小さいのよ。大丈夫かしら」
「はい。目を近づければ大丈夫」
「え? 離せば見えるんじゃなくて?」
「近視だから」
「なるほど。お若いとそうなのねぇ」
静佳はしみじみと感心している。
「若くなんかないですよ」
年齢なんて関係ない、とよく言うけれど、それは毎日を全力で生きてきた人だけが言える言葉だ。未婚、派遣社員というふわふわした身分では、誕生日が年々憂鬱になる。急いで話を逸らせた。
「けっこう冊数がありますね。床が抜けたりしないんですか」
背の高い本棚には本が隙間なく並べられている。ざっと見たところ文芸系がほとんどで、棚の下段には児童書が並べてある。絵本もけっこう冊数があった。
「大丈夫よ。この部屋は主人の書斎だったの。大工さんに頼んで特別に作った部屋だから。根太が普通の部屋より多いのよ」
この部屋の主はもういないのだ。家の中はキチンと片付けられているのに、庭が荒れている理由が何となく分かった。
「他の本も見せてもらってもいいですか?」
「えぇ、もちろん。ごゆっくりどうぞ。ここは立ち読み自由よ」
そう言うと、静佳はクスリ、と笑った。
「ありがとう」
私も笑みを返していた。
あの青い背表紙の絵本は、怒られた時、いつも読んでいた絵本『ちいさなねこ』だ! 懐かしくて、思わず手に取った。
えっ!! 石井桃子作!! 今はじめて知った。『ノンちゃん雲に乗る』の大作家じゃないの。
幼児向けの絵本なのに、リアルに描かれた猫が印象に残っている。母猫は賢そうで、母猫そっくりの毛並みをした子猫はいかにも無邪気そうだ。家を飛び出した子猫は子供に追いかけられたり、犬に吠えられたりと、色々な危険な目にあう。最後は母猫に見つけてもらって、首筋をくわえられて無事家に帰る。めでたしめでたし。
本を読み終えると、ふわっと暖かい気持ちになる。あの頃と同じだ。
『ちいさなねこ』が、いつの間にか家から無くなっていた時は、けっこうショックだった。
「お母さん、猫の絵本が見つからないんだけど」
「あぁ、あの本ね。いとこのマキちゃんにあげたわよ。小学生にもなって、絵本なんて読まないでしょ」
そう言われて、何も言えなかったっけ。
ドアを開ける音で我に返った。
「いい本、見つかった?」
静佳が部屋から出て行ったことに、ぜんぜん気が付かなかった。気を利かせて一人にしてくれたらしい。
「はい。この絵本もいただいていいですか」
「えぇ、もちろん。ここは本屋なんですからね。あら、もうこんな時間! お腹が空くはずね。何かお腹に入れない?」
静佳が努めて軽い調子で誘っているのが分かってしまった。
「ありがとうございます。でも、明日も仕事なので。今日は帰ります。全部でおいくらですか」
夕飯も朝食も一人なのだ。眠るときも目覚めたときも。静佳に寄り添う勇気のない私は、嘘をついた。
「文庫が100円、絵本が200円よ。レシートを渡すわね」
静佳は、すぐにビジネス用の笑顔に戻ってそう応えた。
窓辺に置かれた大きな机の上に、黒光りするレジスターが置かれていた。ガッチャンガッチャンと数字を打ち込み、ボタンを押すと、チーンと部屋中に鳴り渡るような音がしてレシートが出てきた。
「また来てもいいですか」
「えぇ、もちろん」
「お店は何時から?」
「基本、九時から五時まで。私がいる時はいつでもどうぞ。お家は遠いの? 私ったらうっかりしていたわ」
「ここからすぐの所ですから、ご心配はいりません」
そう答えたのに、静佳は、まだしかつめらしい顔をしている。
「これ、持っていきなさい。返すのはいつでもいいから」
静佳がさっきの懐中電灯を手渡した。
「静佳さんが不便するわ。携帯の懐中電灯を使うから大丈夫です」
「ダメよ、あんな頼りないライトじゃ。ほら、あと二つもあるんだから」
静佳が机の引き出しから取り出したのは、旧式の古びた懐中電灯だった。
「こちらの方をお借りします」
古い方に手を伸ばしたら、カサカサの手が素早く懐中電灯を取り上げた。
「ダメよ。LEDの方にしなさい。私は慣れているから大丈夫」
静佳は断固としてそう言うと、LEDの懐中電灯を私に押し付けた。
「近いうちにまた来ます」
夜は別れが重くなる。今度は明るいうちに来よう。
「帰り道、気をつけて」
「はい。装備バッチリですから大丈夫」
懐中電灯を点け、カバンから防犯ブザーを取り出してみせると、静佳が笑った。
「頼もしいこと。またいらっしゃいね」
静佳の本心が、また、こぼれた。
「はい! おやすみなさい」
玄関を出て振り返ると、静佳が手を振っていた。
静佳の懐中電灯が夜道を頼もしく照らしてくれる。アパートへの帰り道、いつの間にか早足になっていた。
「ま、ダメよ! 素手でそんなことをしたら怪我をするでしょっ」
と、けっこう本気で怒られた。
「はい!」
この歳になると当たり障りのない人付き合いをする術に長けてきて、本気で怒ることもないし、怒られこともない。静佳の叱責がなんだか嬉しくて、怒られたのに元気な返事をしてしまった。
「足元、気をつけてね。敷石が苔で滑るの」
門扉の内側も笹藪が迫っていて、歩くスペースが敷石の幅しかない。転ばないよう足元に集中して歩いた。
急に目の前が開けた。こじんまりとした敷地の片隅に、月光に照らされた切妻屋根のニ階家がちょこんと建っている。
「ちょっと待ってて。今明かりをつけるから」
静佳は慌ただしく鍵を開けると、玄関灯をパチリとつけた。庭は雑草が生え、植栽がボウボウに伸びていたが、家の中はきちんと片付けられている。よく磨き込まれた廊下が鈍く光っていた。
「ここがお店よ」
静佳が玄関から入ってすぐの左側のドアを開けると、ふわりと紙と埃の匂いがした。
三方の壁は、本の壁だ。天井近くまである本棚がきっちりとはめ込まれ、整然と本が並べられている。静佳は窓際の本棚の前まで歩いていくと、すぐに一冊の文庫本を取り出した。
「どうぞ」
幸田文の『木』だ。女主はやはり記憶力がいい。
文庫本は小口が変色していたが、それ以外は綺麗な本だった。古めかしい装丁がかえって新鮮で、新しい版の本よりもかえっていいくらいだ。
「版が古いから、活字が小さいのよ。大丈夫かしら」
「はい。目を近づければ大丈夫」
「え? 離せば見えるんじゃなくて?」
「近視だから」
「なるほど。お若いとそうなのねぇ」
静佳はしみじみと感心している。
「若くなんかないですよ」
年齢なんて関係ない、とよく言うけれど、それは毎日を全力で生きてきた人だけが言える言葉だ。未婚、派遣社員というふわふわした身分では、誕生日が年々憂鬱になる。急いで話を逸らせた。
「けっこう冊数がありますね。床が抜けたりしないんですか」
背の高い本棚には本が隙間なく並べられている。ざっと見たところ文芸系がほとんどで、棚の下段には児童書が並べてある。絵本もけっこう冊数があった。
「大丈夫よ。この部屋は主人の書斎だったの。大工さんに頼んで特別に作った部屋だから。根太が普通の部屋より多いのよ」
この部屋の主はもういないのだ。家の中はキチンと片付けられているのに、庭が荒れている理由が何となく分かった。
「他の本も見せてもらってもいいですか?」
「えぇ、もちろん。ごゆっくりどうぞ。ここは立ち読み自由よ」
そう言うと、静佳はクスリ、と笑った。
「ありがとう」
私も笑みを返していた。
あの青い背表紙の絵本は、怒られた時、いつも読んでいた絵本『ちいさなねこ』だ! 懐かしくて、思わず手に取った。
えっ!! 石井桃子作!! 今はじめて知った。『ノンちゃん雲に乗る』の大作家じゃないの。
幼児向けの絵本なのに、リアルに描かれた猫が印象に残っている。母猫は賢そうで、母猫そっくりの毛並みをした子猫はいかにも無邪気そうだ。家を飛び出した子猫は子供に追いかけられたり、犬に吠えられたりと、色々な危険な目にあう。最後は母猫に見つけてもらって、首筋をくわえられて無事家に帰る。めでたしめでたし。
本を読み終えると、ふわっと暖かい気持ちになる。あの頃と同じだ。
『ちいさなねこ』が、いつの間にか家から無くなっていた時は、けっこうショックだった。
「お母さん、猫の絵本が見つからないんだけど」
「あぁ、あの本ね。いとこのマキちゃんにあげたわよ。小学生にもなって、絵本なんて読まないでしょ」
そう言われて、何も言えなかったっけ。
ドアを開ける音で我に返った。
「いい本、見つかった?」
静佳が部屋から出て行ったことに、ぜんぜん気が付かなかった。気を利かせて一人にしてくれたらしい。
「はい。この絵本もいただいていいですか」
「えぇ、もちろん。ここは本屋なんですからね。あら、もうこんな時間! お腹が空くはずね。何かお腹に入れない?」
静佳が努めて軽い調子で誘っているのが分かってしまった。
「ありがとうございます。でも、明日も仕事なので。今日は帰ります。全部でおいくらですか」
夕飯も朝食も一人なのだ。眠るときも目覚めたときも。静佳に寄り添う勇気のない私は、嘘をついた。
「文庫が100円、絵本が200円よ。レシートを渡すわね」
静佳は、すぐにビジネス用の笑顔に戻ってそう応えた。
窓辺に置かれた大きな机の上に、黒光りするレジスターが置かれていた。ガッチャンガッチャンと数字を打ち込み、ボタンを押すと、チーンと部屋中に鳴り渡るような音がしてレシートが出てきた。
「また来てもいいですか」
「えぇ、もちろん」
「お店は何時から?」
「基本、九時から五時まで。私がいる時はいつでもどうぞ。お家は遠いの? 私ったらうっかりしていたわ」
「ここからすぐの所ですから、ご心配はいりません」
そう答えたのに、静佳は、まだしかつめらしい顔をしている。
「これ、持っていきなさい。返すのはいつでもいいから」
静佳がさっきの懐中電灯を手渡した。
「静佳さんが不便するわ。携帯の懐中電灯を使うから大丈夫です」
「ダメよ、あんな頼りないライトじゃ。ほら、あと二つもあるんだから」
静佳が机の引き出しから取り出したのは、旧式の古びた懐中電灯だった。
「こちらの方をお借りします」
古い方に手を伸ばしたら、カサカサの手が素早く懐中電灯を取り上げた。
「ダメよ。LEDの方にしなさい。私は慣れているから大丈夫」
静佳は断固としてそう言うと、LEDの懐中電灯を私に押し付けた。
「近いうちにまた来ます」
夜は別れが重くなる。今度は明るいうちに来よう。
「帰り道、気をつけて」
「はい。装備バッチリですから大丈夫」
懐中電灯を点け、カバンから防犯ブザーを取り出してみせると、静佳が笑った。
「頼もしいこと。またいらっしゃいね」
静佳の本心が、また、こぼれた。
「はい! おやすみなさい」
玄関を出て振り返ると、静佳が手を振っていた。
静佳の懐中電灯が夜道を頼もしく照らしてくれる。アパートへの帰り道、いつの間にか早足になっていた。
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