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『木』
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冷凍していたご飯をレンチンして、丼に入れる。お茶漬け海苔と、昨日の夕飯の残った焼き鮭を乗せれば夕飯の出来上がりだ。野菜はトマトジュースで補った。テーブルにはさっき買った二冊の本が置いてある。
仕事が終わったら、アパートに直帰。寄り道するのは、スーパーで買い物をする時くらいだ。単調な毎日にうんざりするが、逃れる術が見つからない。見つけようとする気力も薄れている。まぁいいや、と惰性で流されるまま、過ごしていた。
そんな私に、静佳は声をかけてくれた。心の奥にさざ波がたっている。何の変哲もない鮭茶漬けがやたらと美味しい。
山崎さんとの打ち合わせは明後日だ。思い切り本が読める。
『木』は幸田文が各地で出会った木々に人生を重ねていくエッセイだった。買った日の一晩で読み終えた。
小説もテンポがよくて読みやすいが、エッセイはさらに軽やかな筆致でスルスル読めた。生きること。死ぬこと。重いテーマが、木のイメージになぞらえてあるおかげで、ストンと胸に落ちていく。
文学史に頻出するお父さんの幸田露伴より、娘の方が凄くない? と、彼女の作品を読み終えるたびに思う。
両親も弟もアウトドア派で、本はほとんど読まない。イマイチ体力がない私はインドア派で、小さい頃から本ばかり読んでいた。
身体を動かす楽しさを教えてやらねば、という親心からだろう。家族イベントは山や海ばかりだった。ばりばりインドア派の私には、夏の海水浴と秋の登山は苦痛でしかなかった。
弟と同時に入ったスイミングクラブは、皮膚が弱くて塩素にアレルギーを起こし、ドクターストップになったから、すぐにやめざるを得なかった。それきり、いまだに水泳とは縁がない。
弟は選手コースの手前までいったから、綺麗なフォームでどんどん沖の方へと泳いでいく。両親の出会いはサーフィンのサークルだったから、二人はそんな弟を目を細めて見つめていた。
泳ぎに自信がないから、海が怖くて仕方がない。そのうえ、皮膚が弱くて日焼けをすると火膨れになって悲惨なことになるから、一人だけラッシュガードをしっかり着てパラソルの下で体育座りだ。陰気な顔をしているのも迷惑だから、ボソボソした海の家の焼きそばを頬張って、精一杯美味しそうに食べてみせた。そこまでが精一杯で、海を楽しむ余裕なんてない。一刻も早く家に帰って本を読みたかった。
秋の登山も苦行だった。海と違って怖くはなかったが、秋の山は実りだけでなく、花粉の宝庫でもある。アレルギー持ちの私は、山に入ると鼻炎になって鼻水とくしゃみが止まらない。とめどなく流れる鼻水のせいで、紅葉もへったくれも無かった。
「仕方ないな。もう下山しよう」、と父がため息をついて、それ以降、秋の登山は留守番をすることになった。そのうち、海イベントも参加しないですむようになった。
「すまんな。夕飯までには帰ってくるから」
留守番はボーダーコリーのグレゴリーと一緒だ。
若い頃のグレゴリーはエネルギーの塊で、アウトドア派の家族にぴったりの犬だった。海(海開きが終われば犬も自由だ)へ山へと一緒に行っていたのだが、老犬になって心臓が弱り、激しい運動が出来なくなった。本人(犬)は夢中になると心臓のことなど忘れてしまって、舌が紫色になって倒れるまで走りまわってしまう。毎日エナカルドという心臓の薬を飲ませていたが、弱った心臓が復活するわけではない。出先で危篤になると大変なことになるから、一緒に留守番、となったのだ。
「お土産、楽しみにしてるね」
元気にそう言うと、皆の顔に安心したような笑みが広がった。グレゴリーと二人(正確には一人と一匹)になると、家の中が急に静かになった。
「さて。ジャーキーでも食べる?」
声をかけると、グレゴリーがフサフサの尻尾をゆったりと振った。紅茶を淹れて、早速本を開く。足元ではグレゴリーがジャーキーを齧っている。時々グレゴリーの頭を撫でながら、本の世界にどっぷりと浸かる。背中にあたる太陽の暖かさが心地いい。昼間から本を読むと、外で遊びなさい! と言われる家だったから、明るいうちから本を読むのは、至福の時間だった。
享年14歳5ヶ月。夜のオシッコをしたあと、痙攣を起こしてグレゴリーはあっけなく逝ってしまった。今でも、太陽の光を浴びながら本を読むと、グレゴリーの日向くさい匂いを思い出す。
母の姉はフリーのコピーライターだった。幸田文と同じように、めちゃくちゃ忙しいのに、仕事の合間を縫うようにして、群馬の山奥に行ったり、屋久杉を見に行ったりしていた。
「稼ぎが良いと、いい男が寄ってこないのよ」、とか何とか言いながら、叔母は独りでコピーの仕事をとりまくっていた。フリーだから、毎回の仕事がコンペティションだ。並み居るコピーライターを押しのけて仕事をとってくる叔母は、神様のような存在だった。
そんな叔母は、私のことを自分の娘のように可愛がってくれた。自分と波長が合ったから? そうだとしたら嬉しい。
父が海外転勤になり、中学は日本人学校に通った。中学二年の夏休みだった。遊びに来た叔母は、呑気に過ごしている私をみて、目を剥いた。
「日本の受験は大変なのよ。帰国子女の恩典が使えないなら、日本でちゃんと受験の準備をしないと」
と、日本の受験事情を教えてくれた。帰国子女の恩典、というのは、帰国子女向けの特別枠のことだ。当時は、外国生活が二年以上必要で、英語、ドイツ語等々、外国語の配点が高くて、他の受験科目が免除になることが多かった。在住期間はそのまま両親と暮らせば満たせるが、ネックは外国語だった。日本人学校の私は、英語を少し学んだだけで、ネイティブ並みに外国語を繰る相手とは、とてもじゃないが太刀打ち出来ない。
独身で、子供の教育のことなど全く知らなかった叔母が、姪のために色々調べてくれたのだ。叔母の昔からの友人に中学の教師がいて、その人から受験事情を教えてもらい、焦ったらしい。
そうして、私だけが日本に帰国して、叔母と二人暮らしをすることになった。仕事づくめの人だったから、会えるのは盆暮れの数日間だけだった。これからは、大好きな叔母とずっと一緒に過ごせる! そう思うと、親元を離れる不安など瞬時に吹き飛んでしまった。
叔母の手にかかると、平凡な単語の羅列が豊かな色彩を帯びて、イメージが流れ込んでくる。叔母のコピーも好きだ。自分の叔母と幸田文を比べるのは畏れ多いが、木を崇拝する二人には共通点があるに違いない。
叔母の庭には、惚れ込んで群馬の山奥から運んできた欅の木と紅葉が植わっていた。紅葉した紅と黃の落葉で地面が覆われる様は壮観だ。土門拳の写真集に出てくる庭のよう、といったら褒めすぎ? 因みに、土門拳は叔母が好きな写真家で、写真集を見せてもらって、私もファンになった。
山の持ち主は、東京まで木を持って帰るという叔母にあきれていたが、叔母の熱意に折れて、目出度く商談は成立した。よく晴れた真冬のある日、主自らがトラックを運転して欅と紅葉を運んでくれた。あの日のことは私もよく覚えている。
欅はスクスクと成長して、電柱よりもずっと背が高くなった。数年後、電線に引っかかるから、とうとう枝を切り詰めた、と、叔母は悲しそうに話していたっけ。
ずっと本好きでいられたのは、叔母という味方がいてくれたおかげだ。あの1年半の間、本だけでなく、絵画、陶芸、写真、建築、音楽、お芝居、歌舞伎等々、叔母は思いつく限りの文化芸術への入り口へと私を導いてくれたのだ。
叔母が教えてくれた本や音楽の感想を母に話すと、「感性なんて言葉、大嫌い」と機嫌が悪くなった。叔母は拙い感想を一心に聞いてくれたのに。
高校三年の頃だ。読書感想文が、年に一度出される学校の文集に載ることになった。クラスの代表になったことが嬉しくて母に報告したら、「くれぐれも、文章で食べていくなんて思わないようにね」と、斜め上からの言葉が返ってきた。
「姉さんに似てるわね」という母の言葉は褒め言葉ではない。母と叔母の姉妹は、あまり仲が良くなかった。専業主婦とフリーランスのコピーライター。叔母が母の悪口を言うのをきいたことはなかったが、私達の間で、母のことが話題にならなかったのは確かだ。たった1年半で、すっかり叔母に傾倒してしまった娘に母は腹をたてていたのだろう。
ファスベンダーの映画の主人公も、アパートで実生の雑木を育てていた。質素な毎日を淡々と送り、小さな喜びを大切にして生きていく。まさに『PERFECTDAYS』だ。
『木』はそんな主人公が選ぶのにぴったりの本だった。外国人のファスベンダーが、この本をどうやって見つけたのだろう。優秀なスタッフがいたのだろうか。クレジットには映画のキーワード「木漏れ日」の説明が英語で書かれ、映画作りに携わったすべての人々に謝意が述べられていた。異文化への敬意が至る所で感じられて、ファスベンダー監督の人柄も好きになった。
アパートで欅を育てるわけにはいかないから、代わりにベンジャミンとテーブルヤシを置いている。テーブルヤシはそれほど大きくならないが、ベンジャミンは成長が早くて、毎年のように鉢を大きくしていたら、あっという間に大きくなった。本で調べると、根を切り詰めて成長を抑えるそうだが、それも可哀想で、伸びるに任せていたら、私よりも背が高くなって、貴重な窓を覆いつくしている。これ以上大きくなると移動するのも難しい。いよいよ根を切り詰めるべきか、鉢を買うべきか。迷っている。
読み残していた電子書籍を一気読みし、部屋の掃除をしたら、休みはあっという間に終わった。
今日は派遣会社の山崎さんと打ち合わせだ。ここから本社ビルまでは、路線の乗り換えがあって、けっこう時間がかかる。久しぶりの満員電車で、会社に着く頃はヘトヘトだった。次の派遣先は、とにかく家から近い所しよう。そうせねば。電車で倒れるよ、ほんと。
「緑川病院は通勤時間が一時間、もう一つの瀬田クリニックは、ええと、岩佐さんが使ってる駅の近くですね。時給は緑川病院の方がいいです。こっちの方が規模の大きい総合病院なので」
「瀬田クリニックはどこにあるんですか」
「このプールの向かい側ですね」
山崎さんがGoogleマップを拡大してクリニックの位置を示した。あれ? 見覚えがある建物だ。この建物は、いつも行くスーパーマーケットの隣に新しくできたビルではないか!
「いいですね。アパートから近いし。瀬田クリニックに決めます」
「岩佐さんはいっつも決断が早いなぁ。そんなにすぐ決めちゃっていいんですか? 通勤時間を1時間以上にすれば、もっと条件のいい派遣先がありますよ。いっそ引っ越ししちゃうとか?」
引っ越しなんてとんでもない。今、住んでいるアパートは破格の安さだし、近隣の店の物価も都内より安い。美味しい和菓子屋もある。それに。静佳のことをもっと知りたい。
仕事への熱意に欠ける、と思われないよう、急いでそれらしいフレーズを捻り出した。
「山崎さんを信頼してますから。ここで大丈夫です」
「皆が岩佐さんみたいなら、僕の仕事も楽なんだけどなぁ」
「山崎さんが優しいから、皆さん、甘えているんですよ」
そう言うと、山崎さんは照れくさそうに頭をかいた。どんどんいい台詞が出てくる。年齢ってコワイわ、と自分でも思う。
「分かりました。では早速手続きを進めます」
「よろしくお願いします」
日曜、祝日が休み。土曜日の診察は午前中のみ。毎週、1日半も休みがある! ざっくり給与計算をしてみると、佐々木医院よりも月三万円の減収だった。時間を買ったと思えば、悪くない。満員電車に乗らないですむのも有り難い。職場がスーパーの隣なら値引きシール商品の争奪戦にも勝てる! 今度の職場も働きやすいことを祈るばかりだ。
仕事が終わったら、アパートに直帰。寄り道するのは、スーパーで買い物をする時くらいだ。単調な毎日にうんざりするが、逃れる術が見つからない。見つけようとする気力も薄れている。まぁいいや、と惰性で流されるまま、過ごしていた。
そんな私に、静佳は声をかけてくれた。心の奥にさざ波がたっている。何の変哲もない鮭茶漬けがやたらと美味しい。
山崎さんとの打ち合わせは明後日だ。思い切り本が読める。
『木』は幸田文が各地で出会った木々に人生を重ねていくエッセイだった。買った日の一晩で読み終えた。
小説もテンポがよくて読みやすいが、エッセイはさらに軽やかな筆致でスルスル読めた。生きること。死ぬこと。重いテーマが、木のイメージになぞらえてあるおかげで、ストンと胸に落ちていく。
文学史に頻出するお父さんの幸田露伴より、娘の方が凄くない? と、彼女の作品を読み終えるたびに思う。
両親も弟もアウトドア派で、本はほとんど読まない。イマイチ体力がない私はインドア派で、小さい頃から本ばかり読んでいた。
身体を動かす楽しさを教えてやらねば、という親心からだろう。家族イベントは山や海ばかりだった。ばりばりインドア派の私には、夏の海水浴と秋の登山は苦痛でしかなかった。
弟と同時に入ったスイミングクラブは、皮膚が弱くて塩素にアレルギーを起こし、ドクターストップになったから、すぐにやめざるを得なかった。それきり、いまだに水泳とは縁がない。
弟は選手コースの手前までいったから、綺麗なフォームでどんどん沖の方へと泳いでいく。両親の出会いはサーフィンのサークルだったから、二人はそんな弟を目を細めて見つめていた。
泳ぎに自信がないから、海が怖くて仕方がない。そのうえ、皮膚が弱くて日焼けをすると火膨れになって悲惨なことになるから、一人だけラッシュガードをしっかり着てパラソルの下で体育座りだ。陰気な顔をしているのも迷惑だから、ボソボソした海の家の焼きそばを頬張って、精一杯美味しそうに食べてみせた。そこまでが精一杯で、海を楽しむ余裕なんてない。一刻も早く家に帰って本を読みたかった。
秋の登山も苦行だった。海と違って怖くはなかったが、秋の山は実りだけでなく、花粉の宝庫でもある。アレルギー持ちの私は、山に入ると鼻炎になって鼻水とくしゃみが止まらない。とめどなく流れる鼻水のせいで、紅葉もへったくれも無かった。
「仕方ないな。もう下山しよう」、と父がため息をついて、それ以降、秋の登山は留守番をすることになった。そのうち、海イベントも参加しないですむようになった。
「すまんな。夕飯までには帰ってくるから」
留守番はボーダーコリーのグレゴリーと一緒だ。
若い頃のグレゴリーはエネルギーの塊で、アウトドア派の家族にぴったりの犬だった。海(海開きが終われば犬も自由だ)へ山へと一緒に行っていたのだが、老犬になって心臓が弱り、激しい運動が出来なくなった。本人(犬)は夢中になると心臓のことなど忘れてしまって、舌が紫色になって倒れるまで走りまわってしまう。毎日エナカルドという心臓の薬を飲ませていたが、弱った心臓が復活するわけではない。出先で危篤になると大変なことになるから、一緒に留守番、となったのだ。
「お土産、楽しみにしてるね」
元気にそう言うと、皆の顔に安心したような笑みが広がった。グレゴリーと二人(正確には一人と一匹)になると、家の中が急に静かになった。
「さて。ジャーキーでも食べる?」
声をかけると、グレゴリーがフサフサの尻尾をゆったりと振った。紅茶を淹れて、早速本を開く。足元ではグレゴリーがジャーキーを齧っている。時々グレゴリーの頭を撫でながら、本の世界にどっぷりと浸かる。背中にあたる太陽の暖かさが心地いい。昼間から本を読むと、外で遊びなさい! と言われる家だったから、明るいうちから本を読むのは、至福の時間だった。
享年14歳5ヶ月。夜のオシッコをしたあと、痙攣を起こしてグレゴリーはあっけなく逝ってしまった。今でも、太陽の光を浴びながら本を読むと、グレゴリーの日向くさい匂いを思い出す。
母の姉はフリーのコピーライターだった。幸田文と同じように、めちゃくちゃ忙しいのに、仕事の合間を縫うようにして、群馬の山奥に行ったり、屋久杉を見に行ったりしていた。
「稼ぎが良いと、いい男が寄ってこないのよ」、とか何とか言いながら、叔母は独りでコピーの仕事をとりまくっていた。フリーだから、毎回の仕事がコンペティションだ。並み居るコピーライターを押しのけて仕事をとってくる叔母は、神様のような存在だった。
そんな叔母は、私のことを自分の娘のように可愛がってくれた。自分と波長が合ったから? そうだとしたら嬉しい。
父が海外転勤になり、中学は日本人学校に通った。中学二年の夏休みだった。遊びに来た叔母は、呑気に過ごしている私をみて、目を剥いた。
「日本の受験は大変なのよ。帰国子女の恩典が使えないなら、日本でちゃんと受験の準備をしないと」
と、日本の受験事情を教えてくれた。帰国子女の恩典、というのは、帰国子女向けの特別枠のことだ。当時は、外国生活が二年以上必要で、英語、ドイツ語等々、外国語の配点が高くて、他の受験科目が免除になることが多かった。在住期間はそのまま両親と暮らせば満たせるが、ネックは外国語だった。日本人学校の私は、英語を少し学んだだけで、ネイティブ並みに外国語を繰る相手とは、とてもじゃないが太刀打ち出来ない。
独身で、子供の教育のことなど全く知らなかった叔母が、姪のために色々調べてくれたのだ。叔母の昔からの友人に中学の教師がいて、その人から受験事情を教えてもらい、焦ったらしい。
そうして、私だけが日本に帰国して、叔母と二人暮らしをすることになった。仕事づくめの人だったから、会えるのは盆暮れの数日間だけだった。これからは、大好きな叔母とずっと一緒に過ごせる! そう思うと、親元を離れる不安など瞬時に吹き飛んでしまった。
叔母の手にかかると、平凡な単語の羅列が豊かな色彩を帯びて、イメージが流れ込んでくる。叔母のコピーも好きだ。自分の叔母と幸田文を比べるのは畏れ多いが、木を崇拝する二人には共通点があるに違いない。
叔母の庭には、惚れ込んで群馬の山奥から運んできた欅の木と紅葉が植わっていた。紅葉した紅と黃の落葉で地面が覆われる様は壮観だ。土門拳の写真集に出てくる庭のよう、といったら褒めすぎ? 因みに、土門拳は叔母が好きな写真家で、写真集を見せてもらって、私もファンになった。
山の持ち主は、東京まで木を持って帰るという叔母にあきれていたが、叔母の熱意に折れて、目出度く商談は成立した。よく晴れた真冬のある日、主自らがトラックを運転して欅と紅葉を運んでくれた。あの日のことは私もよく覚えている。
欅はスクスクと成長して、電柱よりもずっと背が高くなった。数年後、電線に引っかかるから、とうとう枝を切り詰めた、と、叔母は悲しそうに話していたっけ。
ずっと本好きでいられたのは、叔母という味方がいてくれたおかげだ。あの1年半の間、本だけでなく、絵画、陶芸、写真、建築、音楽、お芝居、歌舞伎等々、叔母は思いつく限りの文化芸術への入り口へと私を導いてくれたのだ。
叔母が教えてくれた本や音楽の感想を母に話すと、「感性なんて言葉、大嫌い」と機嫌が悪くなった。叔母は拙い感想を一心に聞いてくれたのに。
高校三年の頃だ。読書感想文が、年に一度出される学校の文集に載ることになった。クラスの代表になったことが嬉しくて母に報告したら、「くれぐれも、文章で食べていくなんて思わないようにね」と、斜め上からの言葉が返ってきた。
「姉さんに似てるわね」という母の言葉は褒め言葉ではない。母と叔母の姉妹は、あまり仲が良くなかった。専業主婦とフリーランスのコピーライター。叔母が母の悪口を言うのをきいたことはなかったが、私達の間で、母のことが話題にならなかったのは確かだ。たった1年半で、すっかり叔母に傾倒してしまった娘に母は腹をたてていたのだろう。
ファスベンダーの映画の主人公も、アパートで実生の雑木を育てていた。質素な毎日を淡々と送り、小さな喜びを大切にして生きていく。まさに『PERFECTDAYS』だ。
『木』はそんな主人公が選ぶのにぴったりの本だった。外国人のファスベンダーが、この本をどうやって見つけたのだろう。優秀なスタッフがいたのだろうか。クレジットには映画のキーワード「木漏れ日」の説明が英語で書かれ、映画作りに携わったすべての人々に謝意が述べられていた。異文化への敬意が至る所で感じられて、ファスベンダー監督の人柄も好きになった。
アパートで欅を育てるわけにはいかないから、代わりにベンジャミンとテーブルヤシを置いている。テーブルヤシはそれほど大きくならないが、ベンジャミンは成長が早くて、毎年のように鉢を大きくしていたら、あっという間に大きくなった。本で調べると、根を切り詰めて成長を抑えるそうだが、それも可哀想で、伸びるに任せていたら、私よりも背が高くなって、貴重な窓を覆いつくしている。これ以上大きくなると移動するのも難しい。いよいよ根を切り詰めるべきか、鉢を買うべきか。迷っている。
読み残していた電子書籍を一気読みし、部屋の掃除をしたら、休みはあっという間に終わった。
今日は派遣会社の山崎さんと打ち合わせだ。ここから本社ビルまでは、路線の乗り換えがあって、けっこう時間がかかる。久しぶりの満員電車で、会社に着く頃はヘトヘトだった。次の派遣先は、とにかく家から近い所しよう。そうせねば。電車で倒れるよ、ほんと。
「緑川病院は通勤時間が一時間、もう一つの瀬田クリニックは、ええと、岩佐さんが使ってる駅の近くですね。時給は緑川病院の方がいいです。こっちの方が規模の大きい総合病院なので」
「瀬田クリニックはどこにあるんですか」
「このプールの向かい側ですね」
山崎さんがGoogleマップを拡大してクリニックの位置を示した。あれ? 見覚えがある建物だ。この建物は、いつも行くスーパーマーケットの隣に新しくできたビルではないか!
「いいですね。アパートから近いし。瀬田クリニックに決めます」
「岩佐さんはいっつも決断が早いなぁ。そんなにすぐ決めちゃっていいんですか? 通勤時間を1時間以上にすれば、もっと条件のいい派遣先がありますよ。いっそ引っ越ししちゃうとか?」
引っ越しなんてとんでもない。今、住んでいるアパートは破格の安さだし、近隣の店の物価も都内より安い。美味しい和菓子屋もある。それに。静佳のことをもっと知りたい。
仕事への熱意に欠ける、と思われないよう、急いでそれらしいフレーズを捻り出した。
「山崎さんを信頼してますから。ここで大丈夫です」
「皆が岩佐さんみたいなら、僕の仕事も楽なんだけどなぁ」
「山崎さんが優しいから、皆さん、甘えているんですよ」
そう言うと、山崎さんは照れくさそうに頭をかいた。どんどんいい台詞が出てくる。年齢ってコワイわ、と自分でも思う。
「分かりました。では早速手続きを進めます」
「よろしくお願いします」
日曜、祝日が休み。土曜日の診察は午前中のみ。毎週、1日半も休みがある! ざっくり給与計算をしてみると、佐々木医院よりも月三万円の減収だった。時間を買ったと思えば、悪くない。満員電車に乗らないですむのも有り難い。職場がスーパーの隣なら値引きシール商品の争奪戦にも勝てる! 今度の職場も働きやすいことを祈るばかりだ。
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