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瀬田クリニック
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瀬田クリニック初出勤日だというのに、朝から土砂降りの雨だ。昨日から肩こりがひどかった。ヤバイと思っていたら、やっぱりだった。頭の左側、目の奥がズキズキと痛む。偏頭痛だ。痛みで目が覚めた。時計を見たら午前三時だった。
芥川龍之介が、頭の中のギザギザの歯車、と言っているのは、偏頭痛のことらしい。『歯車』の表現は、文学的というよりも、龍之介のリアルな痛みの表現だったのだ。さすが文豪、上手いことをいう。目の奥で閃光がはしり、ひどい痛みに襲われる。あの痛みは、ほんとうに頭の中で歯車がザリザリ回っているような感じだ。頭痛は辛いが、敬愛する芥川龍之介と同じ病気、と思うとちょっと嬉しい。当時は偏頭痛なんて言葉もないし、もちろん、偏頭痛用の鎮痛剤も無い。龍之介もさぞかし辛かっただろう。原因不明の激しい頭痛にしょっちゅう苛まされていたら、そりゃあ、鬱にもなる。
偏頭痛は、寝不足、寝過ぎ、緊張のしすぎ、気が緩んだ時に起こりやすいそうだ。ワイン、ナッツ類、チョコレートの摂取を控えましょうとも書かれている。相反することが書かれていて、何をしてもなるわけ? とツッコミをいれたくなる。ワインもナッツ類もチョコレートも大好きだよ、悪かったわね。コーヒー等のカフェインを摂取して血管を収縮させるといいという医師もいるし、血圧に作用するものは摂取しないほうがいいという医師もいる。気圧の変化も頭痛の原因となる。頭痛日記をつけて、貴方の頭痛タイプを知りましょう。なんて書いてある病院サイトもあるが、原因は山ほどあるのだ。日記で頭痛が治れば苦労しない。
新しい職場といっても、業務は今までと同じだ。この仕事を初めて八年。私なりにアップデートもしているから、不安は無い。職場が変わったからといって、ストレスはないはずだ。頭痛はきっと低気圧のせいだ。
いつの間にか三十二歳。厄年だ。昔の人は、体調の変わり目とか、人生の節目がこのくらいの歳だったのだ。私の厄年はいつもと同じだ。ツルンとした毎日で、節目も何もない。
「私が若いころはね、25を過ぎるとクリスマスケーキ、29なんて半額どころか廃棄処分なんて言われたものよ」
三十前はそう言われた。廃棄処分どころか、灰になったケーキはとっくに天に召されているよ。トホホ。つらつらとくだらないことを考えていたら、頭がますます痛くなってきた。
普通の鎮痛剤ロキソニンと、偏頭痛の薬、リザトリプタンを飲んで、朝までには何とか動けるようになった。リザトリプタンのいいところは、口の中に入れると、シュワシュワと溶けてすぐに効いてくることだ。甘ったるい妙な味がするから、たっぷりの水で飲むが、緊急時は水無しでも飲める優れものだ。欠点は、単価が高いことと、一回の診察で10錠しか処方してもらえないことだ。単価が安いロキソニンで頭痛が収まればいいのだが、今回はダメだった。短時間に、ロキソニン二錠とリザトリプタンをキメたものだから、ジャンキーのようになった。
早めに家を出て、約束の時間よりも早めにクリニックに到着した。まだフラフラして胃のあたりがムカムカする。ジャンキーはツライよ。
従業員用の出入り口が何処にあるか、山崎さんにきくのを忘れていた。小さい建物だから、すぐ分かるだろうと思ったのだが、それらしいドアが見つからない。時間が早いから迷ったが、クリニックの電気はついているし、患者さん用のオートドアが開いたから、窓口から声をかけた。
「おはようございます! 派遣の岩佐です」
第一印象は大切に。明るく声を張って挨拶をした。
「ま、大変! そこに座って」
瀬田瑞希先生。女医だと今、知った。診察室から顔を出した先生は、小柄で艶々している。薄いピンクの白衣が似合いすぎていて、ピンクの子豚ちゃんのようだ。先生は私を一目見るなり、待合室のソフアに無理やり座らせ、診察室に慌ただしく戻っていった。
「先ず、これを飲んで」
渡されたのは、ペットボトルに入った経口補水液だった。詳しい効能は知らないが、仕事柄、単価は知っている。経口補水液はスポーツドリンクと似ているが、値段がぜんぜん違うのだ。
「あの、えぇと、大丈夫です」
ペットボトルを返そうとしたら、子豚ちゃんが急に怖い先生になった。
「ダメです。すぐ、それを読みなさい」
「は、はい、頂きます。ありがとうございます」
私の様子をじっと見ている先生は、眼光鋭い医師の顔になっている。子豚ちゃん、なんていってスミマセン! 経口補水液は、甘くて薄らしょっぱい妙な味がしたが、一口飲むごとに、水分が内臓に沁み込んていく。めまいと吐き気がみるみるうちに治まった。
「どう? 少しは楽になった?」
「はい。ありがとうございました」
「こんなお天気だから。お天気鬱、って言葉があるくらい、不調になる人が多いのよ」
「なるほど。私だけじゃないんですね」
癌とか透析とか、ガチの病気なら、快く仕事の配慮をして貰えるが、命にかかわらない不定愁訴を訴えても、大抵は嫌な顔をされる。生理休暇でさえ、遠慮して取らない同僚が沢山いた。お天気鬱の沢山の仲間たちが頑張っているのだ、と思うだけでも元気が出てくる。
「まだ顔色が悪いわね。具合が悪くなったらすぐに教えて」
「ありがとうございます」
先生は、これ使って、とフリースの大きなひざ掛けを手渡すと、診察室に戻っていった。フリースをお腹の周りにグルグル巻くと、心身ともにホカホカと温かくなってきた。なんだか泣きそう。
診察時間の十分前になると、患者さんがぞろぞろと入ってきた。クリニックに到着した順番に行儀よく並ぶと、当たり前の顔をして、次々と診察券を箱に入れた。で、さっさと椅子に腰掛けている。患者の一人、三番目に入ってきたお爺さんは、テレビを点け、NHKにチャンネルを合わせると、音を消して文字表示に設定した。皆さんの一連の動きがあまりにスムーズだから、びっくりした。大学病院はもちろん、佐々木医院だって診察時間前に建物の中に入ることは出来なかった。ましてや、勝手にテレビをつける患者などいない。早い時間にオートドアを開けていたのは、今日が初日の私のためだけではなさそうだ。
「すみません。あの、患者さんが入ってきてしまいました」
小声で後ろを振り返ると、先生がニコリとした。
「いいのよ。いつも診察時間の十分前にオートドアを開けるの。外で患者さんを持たせるのも気の毒でしょう」
九時ぴったりに診察が始まった。箱の中に入っている一番下の診察券の患者さんから名前を呼ぶ。咳をしている人、手首にギプスを巻いている人、マスクをずらしてはしょっちゅう鼻をかんでいる人。老若男女、様々な患者がやってくる。内科も外科も一人の先生が診るのだから、町医者は大したものだ。
もうすぐ12時。午前中は途切れることなく患者さんが押し寄せた。要領を得ない患者の説明から、短時間で診断を下す先生の手際のよさは、まるで職人のようだった。患者さんをどんどん捌いていく。私も受付、電話応対、会計と、けっこうな忙しさだった。いつの間にか、頭痛も胸やけもおさまっている。経口補水液とフリースの効果は絶大だった。
さっきの女性が午前中の最後の患者さんだろう。顔見知りらしく、話しが弾んでいる。
「素敵なクリニックね」
「ありがとう」
「それにしても、思い切ったわねぇ。私は前の診療所も好きだったわよ」
「まぁねぇ。駿がもうすぐ卒業でしょ。今がチャンスかなって。ここなら便利だから、新規の患者さんも増えるでしょう?」
「早いものねぇ。あの駿ちゃんがねぇ」
「ねぇ」
「瑞希、ここまで本当によく頑張ったわね。私、なんだかもう……」
「ちょっ、こんな所で泣かないで。何時もの薬、出しておくわよ」
「う、うん。ありがとう」
鼻をかむ音がここまできこえてきた。
「大切なのは、薬よりも正しい食事と運動ですからね。薬は減らす方向でいきたいから」
「分かってはいるのよ。でもねぇ、これがなかなか……」
「でも、はなし」
「相変わらず厳しいわねぇ」
診察室から笑い声がきこえてきた。
そろそろ診察終了の札を出そうと席を立った時だ。オートドアが開いた。静佳だ。真っ青な顔をして、足元がひどくふらついている。
「朝から目眩がひどくて」
「熱はありますか?」
発熱がある患者は、別室で診察を待たないといけないのだ。センサーの体温が平熱でも、念のため、本人に確認することになっている。
「ありません」
「頭が痛くはありませんか?」
「大丈夫です」
「分かりました。診察券をお預かりします」
静佳はカウンターのフチを指が白くなるくらい強く握っている。目眩がひどいのだ。思わずカウンターの外に出ていた。
「私の肩につかまってください」
静佳が目を丸くした。
「もしかして岩佐さん?」
眼鏡、マスクだからすぐには分からなかったのだろう。
「はい。その節はお世話になりました」
静佳の強張っていた頬が少し緩んだ。
「さぁ、つかまって。転倒すると危ないですから、ゆっくり移動しますよ」
静佳は素直に私に身体をあずけた。そろそろと移動すると、静佳の華奢な身体が頼りなく揺れた。
静佳の黒目が小刻みに振動している。頭痛が無いのならメニエール? 最近は偏頭痛が優勢だが、メニエールにもしょっちゅうなっていたから、辛さがよく分かる。酷い船酔いになったようで、気分は最悪だ。地面が大きく傾いで、立っていられない。静佳が吐くといけないから、トイレの側の椅子に座ってもらった。
「移動する時は声をかけてください」
静佳が真っ青な顔のまま頷いた。生唾を何度も飲み込んでいる。吐き気がひどいのだ。先生に静佳の様子を伝えると、すぐに名前が呼ばれた。
診察室から先生の声が聞こえてくる。やっぱりメニエールだった。深刻な目眩でなくて、本当によかった。
メイロンの静注点滴は、最低でも一時間はかかる。よく効く薬だが、短時間に投与すると、頭蓋内出血を起こすことがあるオソロシイ薬なのだ。
「岩佐さん、時間ですから休憩にはいってください。非常口の外階段に出ると控室があります。これ、オートロックの暗証番号です」
「はい。では休憩を取らせていただきます」
先生は番号を書いたメモを手渡すと、足早に診察室に戻っていった。いつの間にか、先生の口調が丁寧になっている。派遣社員をやっていて、寂しさを感じるのはこんな時だ。派遣元が社員を守ってくれるのはありがたいが、残業は規約違反だ。静佳の診察が終わるまでここに居たいが、サービス残業は先生に迷惑をかけることになる。
外はまだ雨が降っていた。こんな時、スーパーが隣なのは助かる。梅干しと赤飯のおむすび、ウーロン茶を買ってクリニックに戻った。朝から何も食べていなかったから、炭水化物が身体に沁みる。おむすびがやたらと美味しい。もう大丈夫。復活だ。
静佳が診察室にはいってから、そろそろ一時間たつ。エレベーターホールで静佳を待つことにした。
「静佳さん!」
「まぁ、待っていてくれたの!」
静佳の顔がパッと輝いた。顔色もすっかりよくなっている。
「そろそろ診察が終る頃かな、って。お一人ですか」
「えぇ」
あたりを見回しても、迎えは見当たらない。石橋書店はすぐ近くなのに。あの道を一人で歩けとでも? 他人が立入ったことを聞くわけにもいかない。昼休みはまだ1時間以上ある。決めた。いざとなったら、私が静佳を送ろう。
「書店が休みだから、今日は皆出かけているのよ」
私の心を見透かしたような返事が返ってきた。
「タクシー、よびましょうか? あの道はお一人だと危ないですよ。私も一緒に行きますから」
「お仕事中でしょう。雨も止んだことだし、大丈夫。それにね、メニエールはゆっくり歩いた方が回復が早まるんですって。そんなことより、貴女の好きそうな本が入ったわよ。またいらっしゃい」
策士だ。本の題名を教えてくれないなんて。気になるじゃないの。
静佳はゆっくりだが、しっかりとした足取りで帰っていった。
もうすぐ午後の診察が始まる。受付に戻ると、先生の声がした。
「ちょっと診ましょうか」
待合室には誰もいない。キョロキョロしていると、先生が笑った。
「岩佐さん、貴女のことよ」
「もう大丈夫です。先ほどはありがとうございました。今日は保険証もないですし」
「新入社員の健康診断よ。遠慮しないで」
今までそんなシステムはきいたことがない。断るのは簡単だが、先生の好意を無にするのもイヤだ。そうだ! 診察代金は自分で明細書を発行すればいいのだ。ここで職権の濫用をしなくてなんとする。
「えぇと、ありがとうございます。よろしくお願いします」
診察室は真っ白で、何もかもが新しい。机の上には大きな液晶画面が二つ並んでいる。見るからにハイスペックなパソコンだ。壁にはゴールデンレトリバーの写真が沢山貼ってあった。構図もピントもイマイチな、いかにも素人くさい写真で、モデルは全部同じ犬だ。多分、先生の愛犬なのだろう。野暮ったい写真のおかげで、無機質な診察室が柔らかい雰囲気になっている。
「そこに座って」
「はい」
先生は血圧を測り、脈をとった。
「低血圧なのね。朝は苦手?」
「いつもは大丈夫です。今朝は頭痛がひどくて、リザトリプタンを飲んだので……」
「なるほど。偏頭痛はいつごろから?」
「十年くらいの付き合いです」
「長いわねぇ」
「もう慣れました」
「辛かったら、頭痛を軽減する注射があるけれど。試してみる?」
「毎月注射する、けっこう高い薬ですよね。偏頭痛が根治するわけでもないそうですし。トリプタンでしのげるから大丈夫です」
「分かりました。さすがによくご存知ね」
先生は苦笑いした。
「両手を前に出してみて」
「?」
「こんな感じ」
先生は手の甲を上にして、腕を伸ばした。言われた通りに腕を伸ばすと、指先が細かく震えている。
「腕、戻していいわ。ちょっと立ってみて」
先生は私の背中に手を置いている。
「はい、座って。日ごろ、疲れやすくない?」
質問しながら、今度は首筋を触診している。
「そうかも。頑張ってるつもりなんですけど、すぐバテちゃって。根性無しってよく言われます」
先生は吹き出した。
「根性の問題じゃあないのよ。甲状腺機能亢進の傾向があるわね。だから疲れやすいの。あとは、内臓を吊っている筋肉が弱いわ。立つと腎臓が4センチも下っているの。調子が悪くなるのも当たり前ね。ずっと立っていると、辛いでしょう?」
「はい。お腹のあたりが重くなってきます。内臓を吊るす筋肉って、身体を鍛えれば強くなるのですか」
「運動では鍛えられないわ。残念だけど。もう少し太れば脂肪が内臓を支えてくれるわ。身体を動かすことは大切だけど、あまり根を詰めないように」
「根性なしでなくて良かったです」
先生がプッとふきだした。
根性なしとか、怠けものとか、今まで散々な言われようだった。自分はダメ人間だと思い込んでいたが、そうではなかったのだ。体質に甘えるのは嫌だが、自分なりに前に進めばいいのだ。先生の診断のおかげで、三十年来のモヤモヤした霧が晴れた。
午後も途切れることなく患者さんが訪れた。先生と私の二人で患者さんをさばけるのか、心配になるくらいだった。先生が少しでも診察に集中できるよう、私は私の仕事を精一杯やるだけだ。派遣だろうがなんだろうが関係ない。
一日目の勤務は無事に終わった。やたらとお腹が空いてきた。値引きシール商品の争奪戦にいざ征かん!
芥川龍之介が、頭の中のギザギザの歯車、と言っているのは、偏頭痛のことらしい。『歯車』の表現は、文学的というよりも、龍之介のリアルな痛みの表現だったのだ。さすが文豪、上手いことをいう。目の奥で閃光がはしり、ひどい痛みに襲われる。あの痛みは、ほんとうに頭の中で歯車がザリザリ回っているような感じだ。頭痛は辛いが、敬愛する芥川龍之介と同じ病気、と思うとちょっと嬉しい。当時は偏頭痛なんて言葉もないし、もちろん、偏頭痛用の鎮痛剤も無い。龍之介もさぞかし辛かっただろう。原因不明の激しい頭痛にしょっちゅう苛まされていたら、そりゃあ、鬱にもなる。
偏頭痛は、寝不足、寝過ぎ、緊張のしすぎ、気が緩んだ時に起こりやすいそうだ。ワイン、ナッツ類、チョコレートの摂取を控えましょうとも書かれている。相反することが書かれていて、何をしてもなるわけ? とツッコミをいれたくなる。ワインもナッツ類もチョコレートも大好きだよ、悪かったわね。コーヒー等のカフェインを摂取して血管を収縮させるといいという医師もいるし、血圧に作用するものは摂取しないほうがいいという医師もいる。気圧の変化も頭痛の原因となる。頭痛日記をつけて、貴方の頭痛タイプを知りましょう。なんて書いてある病院サイトもあるが、原因は山ほどあるのだ。日記で頭痛が治れば苦労しない。
新しい職場といっても、業務は今までと同じだ。この仕事を初めて八年。私なりにアップデートもしているから、不安は無い。職場が変わったからといって、ストレスはないはずだ。頭痛はきっと低気圧のせいだ。
いつの間にか三十二歳。厄年だ。昔の人は、体調の変わり目とか、人生の節目がこのくらいの歳だったのだ。私の厄年はいつもと同じだ。ツルンとした毎日で、節目も何もない。
「私が若いころはね、25を過ぎるとクリスマスケーキ、29なんて半額どころか廃棄処分なんて言われたものよ」
三十前はそう言われた。廃棄処分どころか、灰になったケーキはとっくに天に召されているよ。トホホ。つらつらとくだらないことを考えていたら、頭がますます痛くなってきた。
普通の鎮痛剤ロキソニンと、偏頭痛の薬、リザトリプタンを飲んで、朝までには何とか動けるようになった。リザトリプタンのいいところは、口の中に入れると、シュワシュワと溶けてすぐに効いてくることだ。甘ったるい妙な味がするから、たっぷりの水で飲むが、緊急時は水無しでも飲める優れものだ。欠点は、単価が高いことと、一回の診察で10錠しか処方してもらえないことだ。単価が安いロキソニンで頭痛が収まればいいのだが、今回はダメだった。短時間に、ロキソニン二錠とリザトリプタンをキメたものだから、ジャンキーのようになった。
早めに家を出て、約束の時間よりも早めにクリニックに到着した。まだフラフラして胃のあたりがムカムカする。ジャンキーはツライよ。
従業員用の出入り口が何処にあるか、山崎さんにきくのを忘れていた。小さい建物だから、すぐ分かるだろうと思ったのだが、それらしいドアが見つからない。時間が早いから迷ったが、クリニックの電気はついているし、患者さん用のオートドアが開いたから、窓口から声をかけた。
「おはようございます! 派遣の岩佐です」
第一印象は大切に。明るく声を張って挨拶をした。
「ま、大変! そこに座って」
瀬田瑞希先生。女医だと今、知った。診察室から顔を出した先生は、小柄で艶々している。薄いピンクの白衣が似合いすぎていて、ピンクの子豚ちゃんのようだ。先生は私を一目見るなり、待合室のソフアに無理やり座らせ、診察室に慌ただしく戻っていった。
「先ず、これを飲んで」
渡されたのは、ペットボトルに入った経口補水液だった。詳しい効能は知らないが、仕事柄、単価は知っている。経口補水液はスポーツドリンクと似ているが、値段がぜんぜん違うのだ。
「あの、えぇと、大丈夫です」
ペットボトルを返そうとしたら、子豚ちゃんが急に怖い先生になった。
「ダメです。すぐ、それを読みなさい」
「は、はい、頂きます。ありがとうございます」
私の様子をじっと見ている先生は、眼光鋭い医師の顔になっている。子豚ちゃん、なんていってスミマセン! 経口補水液は、甘くて薄らしょっぱい妙な味がしたが、一口飲むごとに、水分が内臓に沁み込んていく。めまいと吐き気がみるみるうちに治まった。
「どう? 少しは楽になった?」
「はい。ありがとうございました」
「こんなお天気だから。お天気鬱、って言葉があるくらい、不調になる人が多いのよ」
「なるほど。私だけじゃないんですね」
癌とか透析とか、ガチの病気なら、快く仕事の配慮をして貰えるが、命にかかわらない不定愁訴を訴えても、大抵は嫌な顔をされる。生理休暇でさえ、遠慮して取らない同僚が沢山いた。お天気鬱の沢山の仲間たちが頑張っているのだ、と思うだけでも元気が出てくる。
「まだ顔色が悪いわね。具合が悪くなったらすぐに教えて」
「ありがとうございます」
先生は、これ使って、とフリースの大きなひざ掛けを手渡すと、診察室に戻っていった。フリースをお腹の周りにグルグル巻くと、心身ともにホカホカと温かくなってきた。なんだか泣きそう。
診察時間の十分前になると、患者さんがぞろぞろと入ってきた。クリニックに到着した順番に行儀よく並ぶと、当たり前の顔をして、次々と診察券を箱に入れた。で、さっさと椅子に腰掛けている。患者の一人、三番目に入ってきたお爺さんは、テレビを点け、NHKにチャンネルを合わせると、音を消して文字表示に設定した。皆さんの一連の動きがあまりにスムーズだから、びっくりした。大学病院はもちろん、佐々木医院だって診察時間前に建物の中に入ることは出来なかった。ましてや、勝手にテレビをつける患者などいない。早い時間にオートドアを開けていたのは、今日が初日の私のためだけではなさそうだ。
「すみません。あの、患者さんが入ってきてしまいました」
小声で後ろを振り返ると、先生がニコリとした。
「いいのよ。いつも診察時間の十分前にオートドアを開けるの。外で患者さんを持たせるのも気の毒でしょう」
九時ぴったりに診察が始まった。箱の中に入っている一番下の診察券の患者さんから名前を呼ぶ。咳をしている人、手首にギプスを巻いている人、マスクをずらしてはしょっちゅう鼻をかんでいる人。老若男女、様々な患者がやってくる。内科も外科も一人の先生が診るのだから、町医者は大したものだ。
もうすぐ12時。午前中は途切れることなく患者さんが押し寄せた。要領を得ない患者の説明から、短時間で診断を下す先生の手際のよさは、まるで職人のようだった。患者さんをどんどん捌いていく。私も受付、電話応対、会計と、けっこうな忙しさだった。いつの間にか、頭痛も胸やけもおさまっている。経口補水液とフリースの効果は絶大だった。
さっきの女性が午前中の最後の患者さんだろう。顔見知りらしく、話しが弾んでいる。
「素敵なクリニックね」
「ありがとう」
「それにしても、思い切ったわねぇ。私は前の診療所も好きだったわよ」
「まぁねぇ。駿がもうすぐ卒業でしょ。今がチャンスかなって。ここなら便利だから、新規の患者さんも増えるでしょう?」
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「ねぇ」
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「ありません」
「頭が痛くはありませんか?」
「大丈夫です」
「分かりました。診察券をお預かりします」
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「私の肩につかまってください」
静佳が目を丸くした。
「もしかして岩佐さん?」
眼鏡、マスクだからすぐには分からなかったのだろう。
「はい。その節はお世話になりました」
静佳の強張っていた頬が少し緩んだ。
「さぁ、つかまって。転倒すると危ないですから、ゆっくり移動しますよ」
静佳は素直に私に身体をあずけた。そろそろと移動すると、静佳の華奢な身体が頼りなく揺れた。
静佳の黒目が小刻みに振動している。頭痛が無いのならメニエール? 最近は偏頭痛が優勢だが、メニエールにもしょっちゅうなっていたから、辛さがよく分かる。酷い船酔いになったようで、気分は最悪だ。地面が大きく傾いで、立っていられない。静佳が吐くといけないから、トイレの側の椅子に座ってもらった。
「移動する時は声をかけてください」
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診察室から先生の声が聞こえてくる。やっぱりメニエールだった。深刻な目眩でなくて、本当によかった。
メイロンの静注点滴は、最低でも一時間はかかる。よく効く薬だが、短時間に投与すると、頭蓋内出血を起こすことがあるオソロシイ薬なのだ。
「岩佐さん、時間ですから休憩にはいってください。非常口の外階段に出ると控室があります。これ、オートロックの暗証番号です」
「はい。では休憩を取らせていただきます」
先生は番号を書いたメモを手渡すと、足早に診察室に戻っていった。いつの間にか、先生の口調が丁寧になっている。派遣社員をやっていて、寂しさを感じるのはこんな時だ。派遣元が社員を守ってくれるのはありがたいが、残業は規約違反だ。静佳の診察が終わるまでここに居たいが、サービス残業は先生に迷惑をかけることになる。
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「まぁ、待っていてくれたの!」
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「そろそろ診察が終る頃かな、って。お一人ですか」
「えぇ」
あたりを見回しても、迎えは見当たらない。石橋書店はすぐ近くなのに。あの道を一人で歩けとでも? 他人が立入ったことを聞くわけにもいかない。昼休みはまだ1時間以上ある。決めた。いざとなったら、私が静佳を送ろう。
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私の心を見透かしたような返事が返ってきた。
「タクシー、よびましょうか? あの道はお一人だと危ないですよ。私も一緒に行きますから」
「お仕事中でしょう。雨も止んだことだし、大丈夫。それにね、メニエールはゆっくり歩いた方が回復が早まるんですって。そんなことより、貴女の好きそうな本が入ったわよ。またいらっしゃい」
策士だ。本の題名を教えてくれないなんて。気になるじゃないの。
静佳はゆっくりだが、しっかりとした足取りで帰っていった。
もうすぐ午後の診察が始まる。受付に戻ると、先生の声がした。
「ちょっと診ましょうか」
待合室には誰もいない。キョロキョロしていると、先生が笑った。
「岩佐さん、貴女のことよ」
「もう大丈夫です。先ほどはありがとうございました。今日は保険証もないですし」
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今までそんなシステムはきいたことがない。断るのは簡単だが、先生の好意を無にするのもイヤだ。そうだ! 診察代金は自分で明細書を発行すればいいのだ。ここで職権の濫用をしなくてなんとする。
「えぇと、ありがとうございます。よろしくお願いします」
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「そこに座って」
「はい」
先生は血圧を測り、脈をとった。
「低血圧なのね。朝は苦手?」
「いつもは大丈夫です。今朝は頭痛がひどくて、リザトリプタンを飲んだので……」
「なるほど。偏頭痛はいつごろから?」
「十年くらいの付き合いです」
「長いわねぇ」
「もう慣れました」
「辛かったら、頭痛を軽減する注射があるけれど。試してみる?」
「毎月注射する、けっこう高い薬ですよね。偏頭痛が根治するわけでもないそうですし。トリプタンでしのげるから大丈夫です」
「分かりました。さすがによくご存知ね」
先生は苦笑いした。
「両手を前に出してみて」
「?」
「こんな感じ」
先生は手の甲を上にして、腕を伸ばした。言われた通りに腕を伸ばすと、指先が細かく震えている。
「腕、戻していいわ。ちょっと立ってみて」
先生は私の背中に手を置いている。
「はい、座って。日ごろ、疲れやすくない?」
質問しながら、今度は首筋を触診している。
「そうかも。頑張ってるつもりなんですけど、すぐバテちゃって。根性無しってよく言われます」
先生は吹き出した。
「根性の問題じゃあないのよ。甲状腺機能亢進の傾向があるわね。だから疲れやすいの。あとは、内臓を吊っている筋肉が弱いわ。立つと腎臓が4センチも下っているの。調子が悪くなるのも当たり前ね。ずっと立っていると、辛いでしょう?」
「はい。お腹のあたりが重くなってきます。内臓を吊るす筋肉って、身体を鍛えれば強くなるのですか」
「運動では鍛えられないわ。残念だけど。もう少し太れば脂肪が内臓を支えてくれるわ。身体を動かすことは大切だけど、あまり根を詰めないように」
「根性なしでなくて良かったです」
先生がプッとふきだした。
根性なしとか、怠けものとか、今まで散々な言われようだった。自分はダメ人間だと思い込んでいたが、そうではなかったのだ。体質に甘えるのは嫌だが、自分なりに前に進めばいいのだ。先生の診断のおかげで、三十年来のモヤモヤした霧が晴れた。
午後も途切れることなく患者さんが訪れた。先生と私の二人で患者さんをさばけるのか、心配になるくらいだった。先生が少しでも診察に集中できるよう、私は私の仕事を精一杯やるだけだ。派遣だろうがなんだろうが関係ない。
一日目の勤務は無事に終わった。やたらとお腹が空いてきた。値引きシール商品の争奪戦にいざ征かん!
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大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
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