石橋書店

内藤 亮

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5月25日

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 「岩佐さんは、ショーペンハウアーなんて読むんですね」
「ヒヤッ」
 振り返ると、めちゃくちゃきれいなシュッとした女性が立っていた。私とは全く接点のなさそうなカテゴリーの女性が、なぜ名前を知っているのだろう。
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル。怖いよ。
「その節はどうも」
 女性は小笠原流のお手本のようなお辞儀をした。
「すみません、どこかでお会いしましたか」
 その節、ってどの節? 高身長、モデルのようなスタイルに加えて、発する覇気がハンパない。頭の中が真っ白になった。
「三芳野、です」
「あの節は、申し訳ありませんでした! 人様への手土産にしたものですから……」
 「その」やら「あの」やら、女性のことを思い出すまで、節がやたら出てきた。あの時、私を睨んでいた女性だ。あの後はイベントてんこ盛りだったから、三芳野の出来事は、すっかり忘れていたのだ。
「瀬田駿です」 
「先生の!」
「そう、娘です」
「瀬田先生にはいつもお世話になってます」
「岩佐さん、カタイですね。私の方が年下なんだから、タメ口にしてくださいよ」
「なるべく、そうします」
「あのぅ、驚かせちゃいました? 母によく言われるんです。あんたは圧が強すぎるって」
「さすが先生。鋭い観察眼ですね」 
「もう、岩佐さんまで。この見た目もいけないのよね。三芳野のときはお腹が空いていて、多分私、殺気立ってたんだと思います」 
 率直な人だ。自分が綺麗なことをさらっと認めているのもいいと思う。落ちついてよく見ると、目元が先生とそっくりだった。
「夕ご飯、一緒に食べませんか? この近くに美味しいインドカレーのお店があるんです」
 いきなりかい! 鳩が豆鉄砲、みたいな顔をしていたらしい。駿はすぐに補足説明をしてくれた。
「岩佐さんのこと、母がすごく褒めていて。一緒に働いて気持ちがいいわって、喜んでました。女手一つでここまできたでしょう。自分が頑張ってきたから、人に厳しいところがあって。受け付けの人がすぐ辞めちゃうの。窓口の人がいい感じってレビューにもありましたよ。見ました?」
 今、さらっとデイープなことを言った? こういうときは、既読、じゃなくて、既聞スルーだ。
「瀬田クリニックのレビューがいいのは知っていたけど。嬉しいわ。カレーも楽しみです」 
「注文していた本、買ってきちゃいます。その本、買わないんですか」
「電子書籍で買うので」
「そっか。ちょっと待ってて」
 駿が買ったのは、英語で書かれたやたら分厚い本だった。Anatomy and Physiology(解剖生理学)と書いてある表題だけは意味が分かった。駿も医師になるのだろう。駿が医師になったら、本当の患者以外の患者も殺到しそうだ。
「難しそうな本ですね」 
「ねぇ。母が改訂版が出たから買いなさいって。寝る前にこれを読んでいると、不思議と眠くなるんです」
「寝る前はそういう本がいいんですよ。面白すぎると寝不足になるから」
「確かにね」
 駿がクスリと笑った。目じりが下がると、ますます瀬田先生に似ている。喋りながら歩いているうちにカレー屋に着いた。
「このお店、前から気になっていたんです」
 エスニック料理は好きだが、スパイスの匂いが残ったまま、クリニックに戻るわけにはいかない。余計な匂いは患者さんの負担になる。夜はアパートに直帰だから、何となく行きそびれていたのだ。
「美味しいですよ。量もたっぷりだし」
 ちょうど夕食の時間で、狭い店内に入れない客が列を作って待っていた。
「ネパール料理と書いてあるのに、本格インドカレーって不思議」 
「ネパールの人がインド料理店で働いて、料理のノウハウを覚えて、独立したから、両方のメニューがあるんです。ここはちゃんとネパール料理もありますよ。このダルバートっていうのがそう」
 店に入ると、スパイスの香りがした。赤いチェックのビニールクロスが、この店は高くないですよ、と教えてくれているようで、安心する。
 ダルバートは夜しかないから、と駿はダルバートを注文した。私はスタンダードにナンとチキンカレーをたのんだ。
「今夜は家にまっすぐ帰りたくない気分だったから。岩佐さんに会えてよかった」
「夜に出歩くことなんて、めったにないから。誘ってくれて、ありがとう」 
 金曜日の週末は、解放感に満ちた客で賑やかだ。いつもアパートで一人飯だから、雰囲気を味わうだけでも、新鮮だ。
「えっと、瑶子さんって呼んでいい?」
「もちろんよ、駿さん」
 駿の顔が、ほころんだ。可愛い。男なら、いや、私でもデートに誘うな、きっと。
「週末に、こんなオバサンとご飯を食べてていいの?」
 冗談めかして言うと、急に駿の目が潤んできた。
「えっと、ごめんなさい」
「瑶子さんのせいじゃないんです」
「あのう、ダルバート冷めちゃう」 
 駿は鼻をかみ、涙を拭くと、いただきます、と言ってダルバートを食べはじめた。姿勢は正しく、音は立てず。お行儀がとてもいい。さすがに、先生の娘だ。
 駿が食べ始めてくれたから、私も安心してカレーが食べられる。熱々のナンがびっくりするほど大きくて、しかも美味しい。カレーもさらさらで私好みだ。ボールにこれでもか、と詰め込んであるサラダも嬉しい。その上、この値段! 嬉しすぎる。先生いわく、私の代謝は普通の人の三倍近いそうだ。だから、夕方になるとめちゃくちゃお腹が空く。今日はいつもより夕食が遅いから、余計にお腹がペコペコだった。カレー、うっま。幸せだ。もっと早くこの店に来ればよかった。
「実は私、ふられちゃったんです」
 おう! またいきなりかい。さすが、次世代型は感覚が違う。
「あらまぁ。勿体ことをする男がいるものね」
 理由をぜひ聞いてみたい、と思っていたら、本人から口火をきってくれた。
「健太君は、あ、健太君って彼の名前です。白くてぽちゃってしてて、優しくて。和み系の人なんです」
 もと彼と言わないところが、駿の痛手を物語っているようで、痛々しい。駿ちゃん、こんな痩せ女でよかったら、すぐにでもハグするよ。
「テスト勉強を一緒にしたり、レポート書くのを手伝ったりしてたんですよ。こんな人と一緒になれたら穏やかな毎日だろうなぁ、って。けっこう本気だったの。それが……」
 駿の言葉が途切れて、また大粒の涙が溢れてきた。後ろの席では、ハッピバースデーの大合唱が始まった。幸いなことに、店内の薄暗い明かりでは駿の風貌はめだたないし、カップルもグループ客も各々の話しに夢中だ。隅の席に座っている女二人に気をとめる客はいない。辛い話をするには、かえってこういう店の方がいいのかもしれない。
「私が一生懸命(一所懸命の方じゃないと思う)教えていたら、段々、健太君の機嫌が悪くなってきて。デートの時も、目一杯可愛い格好をして、私、頑張ったのに……。一緒にいると疲れる。もう別れようって。国家試験が無事すんで、研修が始まる頃だったの。もう、訳分かんない」
 駿はまた、鼻をかんだ。泣いたり鼻をかんだりするのは、やっぱり賑やかな店の方がいいかもしれない。
「肝がちっさくて、姑息な男ね」
「?」
「駿ちゃんは、テストのカンニングとかもさせてあげてたんじゃない?」
 いつの間にか、「さん」から「ちゃん」になってしまった。
「どうして分かったんですか」
「居たのよ、そういう男が。テスト前になると急に親しげに寄ってくるの。私はカンニングまではさせなかったけど」
「私、利用されてたの? 六年間も?」
 そんなに長くかぁ。そりゃあ、辛い。
「健太君も、最初はそんなつもりじゃなかったと思うよ。駿ちゃんの彼氏になれて、嬉しかったと思う。でもね、一緒にいるうちに、だんだん自分が負けたような気持ちになったんだと思う。今でも、男は女を引っ張っていかないと、とかあるじゃない? だから余計に劣等感が増しちゃった、とか」
「う、そうなの?」
「そうなの。才色兼備の人は大変なのよ」
「瑶子さんも、それで一人なの?」
 飲んでいたパッションフルーツのラッシーを吹き出しそうになった。駿がまっすぐに見つめてくる。私には才も色もないよ。見れば分かるでしょ、と言うのも情けない。
「まさか。何となくここまで来ちゃっただけよ」
「瑶子さんはすごく大人っぽいのね。健太君のこともお見通しだし」
「駿ちゃんより、ちょっと経験が多いだけよ」
 地味な子供だったから、何かと痛い目に合うことが多かった。本ばかり読んで、運動は苦手。ヒョロヒョロでダサ眼鏡。絵に描いたような陰キャだった(今もそうだけど)。
 本の知識と叔母の薫陶で知識だけはあったから、イジメの相手を片っ端から論破した。さぁ、どうなったでしょうか。あの頃は私も若かった。おかげさまで、色々学びましたよ。トホホ。
 あ、大切なことを言い忘れていた。今、イジメにあっている人! 自殺なんてしちゃダメよ。イジメる側の人は、自分にウソをつくのがうまい。貴方がタヒんだって、〇〇が悪いんだ。自分のせいじゃないとか自分を誤魔化して、反省なんてしないからね。信頼出来る人にイジメ被害にあっている事を打ち明けて(だけど、この方法は被害者側の自分が傷つくことが多いし、上手くいかないことが多い。残念だけど)。解決しなかったら、とにかく逃げて。
「三十六計逃げるに如かず」韓非子も言ってるから。

「そっか。母の頭脳、父の見た目を引き継いだが故の悲劇だったのね」 
「そうそう」
「何だかスッキリ。瑶子さん、色々聞いてくれてありがとう。あ、ショーペンハウアーって哲学者でしよう。難しそうな本を読むんですね」
 いや、そんな尊敬の眼差しを向けられても……。
「ドイツ語じゃないわよ。日本語だから」
 当方は、ドイツ語はおろか、英語だって怪しいのだ。
「でも、哲学書って難しそう」
「ショーペンハウアーを読んでいると、これでいいのかも、って落ち着くの」 
 駿にさっきダウロードした本をみせた。ショーペンハウアーは学生時代に好きになったのだが、当時のショーペンハウアーの著書はガチの哲学書ばかりで、値段が高かった。彼のお言葉に触れたくなると、大学の図書館に行ったものだ。借りる人があまりいないらしく、いつ行ってもショーペンハウアーは書棚にあった。その時の気持ちに合ったお言葉を探して、写メを撮ってたっけ。
 それがどうだ。コンパクトにまとまった著書が電子書籍で手に入るなんて。いい時代になったものだ。とか言ってるから、私はババくさくなるのだろうな。

「あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ」
「幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる」
「孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならない。なぜなら、孤独でいるときにのみ人間は自由なのだから」
 
「どう? 他にも色々あるけど」
 駿は私のスマホをスクロールしながら、ウンウン、と小さく頷いている。駿はスクロールがめちゃくちゃ速い。私も読むのは速い方だが、駿は私の倍くらいの速度でスクロールしている。きっと頭の回転も倍速なのだろう。
「いいかも。私も買おっと」
 駿は自分のスマホを取り出すと、すぐにポチッとした。行動も早い。
「瑶子さん、近くにワインバーがあるんです。もう少しおしゃべりしませんか」
「嬉しい。けど、明日も仕事だから。今日はこの辺で。ボッチだから休みの日はいつでも大丈夫。また誘って」
 そう言うと、駿が、瑶子さんったら、とケラケラ笑った。元気になったようだ。頭の回転だけでなく、リカバリーも早いらしい。なんにせよ、よかったよかった。
「おやすみなさい」
 駿と店の前で別れた。時計を見たら九時を回っていた。いつもなら、とっくにベッドに入って熟睡している時間だ。久しぶりの夜更かし(まだ九時だけど)は楽しかった。駿ちゃん、ありがとね!






    
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