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元居酒屋は大きな池に面して建っている。駅から歩いて数分という好立地に建っているが、ほぼ自然のまま残されているこの池のおかげで、居酒屋の一帯だけは別世界だ。天気が良ければ、池のまわりを散策する人の姿もあるのだが、オープン当日はあいにくの雨だった。
それでも物珍しさからか、午前中は客がぱらぱらとやってきて、一つ300円の箸置きが5つ売れた。骨壺は、どの客も珍しそうに眺めていたが、それだけだった。
家電メーカーの営業は量販店が主な顧客だ。競合相手は他社の家電メーカーだから、毎日が勝負だった。
いかにいい売り場のスペースを確保するか。継続的に商品を扱ってもらえるかどうか。百戦錬磨の量販店のバイヤーと押したり引いたり、駆け引きも必要だ。
そんな営業はこの店にはそぐわない。ふらりと店に立ち寄った客が器を手に取って、ゆっくり土と対話してほしい。そう思って、店の隅に気配を消すようにして座っていた。
そろそろ昼だ。雨脚が激しくなってきた。水面《みなも》に生い茂った蓮の葉に大粒の雨がぶつかって、ばらばら、と大仰な音を立てている。店の前の砂利道には大きな水たまりができはじめた。
この様子では、もう客は来ないだろう。休憩中の札を取り出そうとしたら、すりガラスの引き戸にすらりとした人影が映った。ここの元の持ち主、島崎だ。
「やあ、お久しぶり。これ、開店祝い」
島崎は、いつも頼んでいた大吟醸〝天狗舞〟を差しだした。
「まぁ! 覚えていてくださったんですか。ありがとうございます!」
「そりゃ、忘れないさ。うちの店で大吟醸を頼むのは、尚子さんと善造さんくらいだったからね」
「善造さん?」
「水曜日の夜に必ず来るお爺さんが居たでしょう」
「あぁ、あの恵比須様みたいな、福々のお爺さんですね」
「そうそう」
言葉を交わしたことはないが、いつも隅のカウンター席に座って、肴をおかずにしてご飯を食べていた。たまに飲んでいたのは、私と同じ〝天狗舞〟だったのだ。
お酒は好きだが下戸に近い。醸造酒だと、たちまち悪酔いしてしまうのだ。独身女たるもの、一人で家に帰れなくてどうする。大吟醸はのど越しが良くて、不思議と悪酔いしない。たしなむ程度しか飲めない私には丁度よかったのだ。善造もお酒に弱かったのかもしれない。ぐい呑み一杯のお酒をゆっくり飲んでいた。ご飯のお代わりはしていたが、お酒をもう一杯、とは言わなかった。
「私もご飯しか頼まないことがけっこうありました。すみません」
小さく頭を下げると、島崎が笑いながら、いやいや、と手をふった。
「そういうお客さんも大歓迎だよ。炊いた飯が余るのも困るからね」
「そう言っていただいて、安心しました」
「内装、変えなかったんだね。店の名前もそのままだ。ありがとう」
島崎は懐かしそうに店の中を見回した。
「菊水庵の暖簾は簡単には下せませんから。実はお金がなかっただけ、なんですけどね」
島崎はクスクスと笑った。島崎はもともと細身だったが、ほんのしばらく会わないうちに、さらに痩せて一回り小さくなっている。頬の肉が落ちて、通った鼻筋がより高くなっていた。
一線を退くとはこういうものなのか……。胸を衝かれるようだった。
「お店、見てもいいかな」
「ええ、勿論です」
ゆっくりと店内を歩いていた島崎が、不意に足を止めた。そのまま、小さな骨壺をじっと見ている。
「手にとってみてください」
「いいの?」
「焼き物の本当の良さは手にとってみないと分かりませんから」
島崎そっとそっと持ち上げると、骨壺を両手で包んだ。そのまま目をつぶって、温かい、と呟いた。
「蓋つきの入れ物とか壺が多いね。どうして?」
「大切なものをしまっておくためです」
島崎なら分かってくれるだろう。
「生きている時は好きなものを入れて、死んだら自分の骨壺にするんです」
「尚子さんは面白いことを考えるなぁ」
年の功ともいうべきか。長年居酒屋をやってきただけのことはある。驚かないところが、さすがに島崎だ。
「祖母が毎年梅干をつけていたんです。自分の漬けた梅干を入れていた壺をそれはそれは大切にしていて。生前から自分の骨壺にしてくれって言っていたんです。不謹慎だって言って、みんなが反対したんですが、遺言書にまで、骨壺は梅干壺にすべし、って書いてあって。さすがに親族も折れて、今は無事、梅干壺の中に入っています。ずっと使ってきた壺と、向こうに行ってからも一緒に居たかったんでしょうね」
「なんだかいいね、そういうの」
「祖母みたいに思う人も、いるんじゃないかなって。そう思ったのが、お店を開くきっかけだったんです」
「なるほどなあ」
島崎は手に取った壺を愛おしそうに撫でた。
「ずっと一緒だった猫が死んじゃってね。今はペットの葬儀社が用意してくれた骨壺に入っているんだけど。その骨壺がひどく味気ない壺でさ」
「でしょう。人の骨壺も同じようなものですよ。白くてつるっとしていて。面白くもなんともないの」
我が意をえたり。勢い込んでそう言うと、島崎はまた、クスクスと笑った。
「確かにね。こんな骨壺なら寅吉も喜ぶだろうな。あ、ペットはダメか」
「大切なもの、なら何を入れてもいいんですよ」
そういうと、島崎の眼がみるみるうちに潤んできた。気付かないふりをしてレジに戻った。そっと窺うと、島崎は慌てて涙を拭っている。
骨壺の値札に気が付いた島崎は、目を瞠った。
「こんな値段でいいのかい?」
「ええ。作家さんが設定した値段ですから」
「それで、いいんだ」
「ええ、いいんです」
「お揃いの骨壺もあるといいのに……」
ふっと言葉がこぼれたようだった。
包み終わった骨壺を渡すと、島崎はまたね、と店を出ていった。
島崎のやつれた姿が気になったが、またね、という言葉を信じて待つしかなかった。居酒屋の店主と客。ただそれだけの関係で、島崎が何処に住んでいるのかも知らないのだ。
いつの間にか雨が止んでいた。外に出るときれいな夕焼けで、池が茜色に染まっていた。
会社の帰りしか居酒屋には行かないから、ここに来るときはいつも夜だった。駅前通りの店もほとんどシャッターを下ろしている。静まり返った商店街をぬけて、街灯のまばらな旧街道沿いをしばらく歩く。ちょっと心細くなったころ、居酒屋「菊水庵」の灯りが見えてくる。
なんとなくほっとして暖簾をくぐると、島崎が会釈する。島崎のリアクションはただそれだけで、客が注文をするまで知らん顔で、酒や肴の支度をしていた。顔なじみの客にも初めて来店した客に対しても接客態度は変わらない。おかげで初来店した者でも気持ちよく飲める、そんな店だった。これからは、私が「菊水庵」に灯りをともすのだ。
マンションの管理は、不動産会社に任せてある。店子が無事に決まったそうで、通帳にはちゃんと家賃が振り込まれていた。毎月通帳にお金が振り込まれる。会社に勤めていたら当たり前のことが、こんなにもありがたいとは思わなかった。今夜は大吟醸「天狗舞」があるのだ。少しだけお金を出して、天狗舞に見合う肴を買いに行くことにした。
店の戸締りをして、裏口から外に出ると、黒猫が走り寄ってきた。すり寄ろうとして、人違いと気が付いたらしく、慌てて後ろに飛びのいた。そのまま、少し離れた場所から、様子をじっと窺っている。
「おいで」
猫を驚かせないよう、しゃがんで声をかけたが、黒猫はそのまま何処かへ行ってしまった。
小さい頃から動物が好きだったが、たいして広くもないマンションで一日中留守番をさせるのも可哀想だ。そう思って、動物愛は封印してきた。今なら犬でも猫でも飼うことができるのだ。デパ地下まで遠征して洒落た肴でも買おうと思っていたのだが、計画は変更して、近所のスーパーマーケットで猫の餌と夕飯の材料を買った。
「おいで」
キャットフードを丼に入れて、離れた場所から声をかけると、さっきの黒猫があたりを窺いながら茂みから出てきた。餌があるのに気がつくと、後ろを振り返り、ニャンと短く鳴いた。子猫が三匹、転がるように走って出てきた。黒猫は夢中になって餌を食べる子猫の後ろにじっと座っている。子猫も痩せているが、黒猫はもっと痩せていた。
私が見ていると黒猫は餌を食べようとしないので、もう一つの丼に餌を山盛りにして、軒下に置いておいた。裏口の引戸に蝶番のついた小さな扉がついて、不思議に思っていたのだが、もしかしたら、あの親子の出入口なのかもしれない。
居住スペースは以前のマンションよりずっと狭くなったから、持ち物の大半を処分した。終活とまではいかないが、心機一転して生活を変える決心をつけるにはちょうどよかった。以前はシモンズのセミダブルで寝ていたのだが、そんな大きなベッドは入らない。引っ越すにあたってベッドは処分し、丸ごと洗える(驚いた。N社やるじゃないの!)布団一式を購入した。布団を敷いて寝るのは何年ぶりだろう。子供の頃を思い出したのか、久しぶりに祖母の夢を見た。夢の中の祖母は、昔と同じように梅干を漬けていた。
翌朝、起きてすぐ軒下を見に行った。丼は二つとも空っぽになっていた。あの親子がまた来てくれることを願いながら、丼に餌を山盛りにした。
島崎の来店を待っているうちに、黒猫親子はあの出入口から自由に出入りするようになった。感心なことに、猫は店の方には出ていかない。子猫たちが店の方に行こうとすると、母猫がシャア、っと威嚇して奥の方へ追いやるのだ。抱かせてはもらえないが、頭を撫でることはできるようになった。その代わり、というのも変だが、子猫は抱っこさせてもらえるようになった。玄関に寝床を作ってやったら、その中で親子仲良く団子になって眠っている。
骨壺は三個売れた。店のホームページに祖母の話を載せたら、興味深く思う人もいたらしい。不謹慎だ、と叱られはしないかと心配していたのだが、いまのところ大丈夫のようだ。
今日の最初のお客は年配の婦人二人だった。
「まぁ、素敵なお店ね」
「ほんと。あら、これが噂の骨壺かしら」
似たような年恰好をしている。着ているものも雰囲気がそっくりで、まるで姉妹のようだ。
次のお客が入って来た。島崎だ。声をかけようとしたら、島崎は人差し指を唇にあてて、しーっというジェスチャーをした。そのまま何食わぬ顔をして商品を見ている。
「いい形ね。藍の染め付けが可愛いわ。私はこの骨壷に決めたわ」
「ご主人の骨壺は?」
「葬儀セットでついてくる骨壺に決まってるでしょ。一緒のお墓に入るだけでも感謝してもらわなきゃ」
「まぁ、ねぇ」
そう言うと、女性はくすり、と笑いをした。
「面と向かって主人を叱ってくれて。級長の面目躍如だったわ」
「親友を裏切るなんて。そう思ったら、居てもたっても居られなくなったのよ。あれだけ懲らしめれば、観念したでしょ」
「あれ以来、すっかり大人しくはなったけれど。女好きなのは相変わらずよ」
「何かあったらすぐ言いなさい。今度はただじゃあ済まさないから」
島崎の背中が震えている。笑うのを堪えているらしい。
「あら、このマグカップ、可愛い」
「良心的なお値段ね」
「ねえ、こうやっていると修学旅行を思い出さない?」
「あの時は、お揃いの湯呑を買ったのよね」
「そうそう。でも骨壺のお揃いはやめにしましょうね」
「当たり前でしょ。そこまでするとなんだか気持ち悪いもの」
二人はからからと笑い、包みをがさがさといわせながら店を出ていった。
「お店、順調みたいだね」
「はい、おかげさまで」
「これ、お願いします」
島崎が差し出したのは、あの時買った骨壺と同じ作家の骨壺だった。島崎は骨壺を持ったまま、ぼんやりと遠くを見ている。
あの……。声をかけようとしたその時だ。住居と繋がっているドアから子猫の一匹が飛び出してきて、母猫が追いかけてきた。鉄砲玉の様に走ってきた母猫がそのまま固まった。次の瞬間、
「ニャア!!ニャアンニャアン」
と、大声で鳴きだした。黒猫がこんな声で鳴くのを初めて聞いた。骨壺を持ったまま、島崎は棒立ちになっている。
「おまえ、あの時の……」
母猫を追って、二匹の子猫も店の方に出てきた。
「寅吉!」
骨壺を持ったままなのに気が付いた島崎は、レジの上に慌てて骨壺を置くと、茶トラの子猫を抱き上げた。
「そうか、そうだったのか……」
子猫を抱いたまま、島崎は声を出さずに泣いている。島崎の邪魔をしないよう、裏口からそっと外に出て、「休憩中」の札をかけにいった。
店に戻ると、猫と戯れていた島崎が慌てて立ち上がった。
「いや、その、さっきは失礼」
「いえ、そんな……」
「お骨をあの骨壺にいれてやったら、毎晩のように寅吉が夢に出てくるようになってね。てっきり向こうに呼ばれているのかと思って……」
「お店、閉めてきましたから、ゆっくりしていってください」
「いいのかい?」
「ええ、もちろんです。今、お茶入れますね」
放蕩な日々を送ってきた。最後に辿りついたのが居酒屋の店主だった。家業の酒屋はすっかり傾いてしまったが、幸い、この店だけは手元に残っていた。
酒の知識はあったから、旨い酒を出すことは出来た。料理の仕込みまでする気はさらさらなかったから、肴は知り合いの割烹料亭から仕入れた。
食いぶちを得るために始めた居酒屋だったが、こうやって独り老いて死んでいくのだ、と思うと店を開けるのさえ億劫になった。いつ店を閉めようか。島崎は、そんなことばかり考えていた。
「何もかもめんどくさくなってね。そんな時に迷いこんで来たのが寅吉だった。寅吉が死ぬまでは自分も死ねない。そう思って店をやっていたんだよ」
菊水庵の酒が安くて旨かったはずだ。島崎は居酒屋で稼ぐつもりなどさらさらなかったのだ。
「このぐい飲みも一緒に包んでくれるかい?」
「はい」
「今夜はこいつで一杯やらないと。あいつもすみにおけない野郎だ。またここに来てもいいかな?」
「お待ちしています。この子たちも。ね?」
島崎の傍らに座っていた黒猫が、ニャン、といい声で返事をした。
それでも物珍しさからか、午前中は客がぱらぱらとやってきて、一つ300円の箸置きが5つ売れた。骨壺は、どの客も珍しそうに眺めていたが、それだけだった。
家電メーカーの営業は量販店が主な顧客だ。競合相手は他社の家電メーカーだから、毎日が勝負だった。
いかにいい売り場のスペースを確保するか。継続的に商品を扱ってもらえるかどうか。百戦錬磨の量販店のバイヤーと押したり引いたり、駆け引きも必要だ。
そんな営業はこの店にはそぐわない。ふらりと店に立ち寄った客が器を手に取って、ゆっくり土と対話してほしい。そう思って、店の隅に気配を消すようにして座っていた。
そろそろ昼だ。雨脚が激しくなってきた。水面《みなも》に生い茂った蓮の葉に大粒の雨がぶつかって、ばらばら、と大仰な音を立てている。店の前の砂利道には大きな水たまりができはじめた。
この様子では、もう客は来ないだろう。休憩中の札を取り出そうとしたら、すりガラスの引き戸にすらりとした人影が映った。ここの元の持ち主、島崎だ。
「やあ、お久しぶり。これ、開店祝い」
島崎は、いつも頼んでいた大吟醸〝天狗舞〟を差しだした。
「まぁ! 覚えていてくださったんですか。ありがとうございます!」
「そりゃ、忘れないさ。うちの店で大吟醸を頼むのは、尚子さんと善造さんくらいだったからね」
「善造さん?」
「水曜日の夜に必ず来るお爺さんが居たでしょう」
「あぁ、あの恵比須様みたいな、福々のお爺さんですね」
「そうそう」
言葉を交わしたことはないが、いつも隅のカウンター席に座って、肴をおかずにしてご飯を食べていた。たまに飲んでいたのは、私と同じ〝天狗舞〟だったのだ。
お酒は好きだが下戸に近い。醸造酒だと、たちまち悪酔いしてしまうのだ。独身女たるもの、一人で家に帰れなくてどうする。大吟醸はのど越しが良くて、不思議と悪酔いしない。たしなむ程度しか飲めない私には丁度よかったのだ。善造もお酒に弱かったのかもしれない。ぐい呑み一杯のお酒をゆっくり飲んでいた。ご飯のお代わりはしていたが、お酒をもう一杯、とは言わなかった。
「私もご飯しか頼まないことがけっこうありました。すみません」
小さく頭を下げると、島崎が笑いながら、いやいや、と手をふった。
「そういうお客さんも大歓迎だよ。炊いた飯が余るのも困るからね」
「そう言っていただいて、安心しました」
「内装、変えなかったんだね。店の名前もそのままだ。ありがとう」
島崎は懐かしそうに店の中を見回した。
「菊水庵の暖簾は簡単には下せませんから。実はお金がなかっただけ、なんですけどね」
島崎はクスクスと笑った。島崎はもともと細身だったが、ほんのしばらく会わないうちに、さらに痩せて一回り小さくなっている。頬の肉が落ちて、通った鼻筋がより高くなっていた。
一線を退くとはこういうものなのか……。胸を衝かれるようだった。
「お店、見てもいいかな」
「ええ、勿論です」
ゆっくりと店内を歩いていた島崎が、不意に足を止めた。そのまま、小さな骨壺をじっと見ている。
「手にとってみてください」
「いいの?」
「焼き物の本当の良さは手にとってみないと分かりませんから」
島崎そっとそっと持ち上げると、骨壺を両手で包んだ。そのまま目をつぶって、温かい、と呟いた。
「蓋つきの入れ物とか壺が多いね。どうして?」
「大切なものをしまっておくためです」
島崎なら分かってくれるだろう。
「生きている時は好きなものを入れて、死んだら自分の骨壺にするんです」
「尚子さんは面白いことを考えるなぁ」
年の功ともいうべきか。長年居酒屋をやってきただけのことはある。驚かないところが、さすがに島崎だ。
「祖母が毎年梅干をつけていたんです。自分の漬けた梅干を入れていた壺をそれはそれは大切にしていて。生前から自分の骨壺にしてくれって言っていたんです。不謹慎だって言って、みんなが反対したんですが、遺言書にまで、骨壺は梅干壺にすべし、って書いてあって。さすがに親族も折れて、今は無事、梅干壺の中に入っています。ずっと使ってきた壺と、向こうに行ってからも一緒に居たかったんでしょうね」
「なんだかいいね、そういうの」
「祖母みたいに思う人も、いるんじゃないかなって。そう思ったのが、お店を開くきっかけだったんです」
「なるほどなあ」
島崎は手に取った壺を愛おしそうに撫でた。
「ずっと一緒だった猫が死んじゃってね。今はペットの葬儀社が用意してくれた骨壺に入っているんだけど。その骨壺がひどく味気ない壺でさ」
「でしょう。人の骨壺も同じようなものですよ。白くてつるっとしていて。面白くもなんともないの」
我が意をえたり。勢い込んでそう言うと、島崎はまた、クスクスと笑った。
「確かにね。こんな骨壺なら寅吉も喜ぶだろうな。あ、ペットはダメか」
「大切なもの、なら何を入れてもいいんですよ」
そういうと、島崎の眼がみるみるうちに潤んできた。気付かないふりをしてレジに戻った。そっと窺うと、島崎は慌てて涙を拭っている。
骨壺の値札に気が付いた島崎は、目を瞠った。
「こんな値段でいいのかい?」
「ええ。作家さんが設定した値段ですから」
「それで、いいんだ」
「ええ、いいんです」
「お揃いの骨壺もあるといいのに……」
ふっと言葉がこぼれたようだった。
包み終わった骨壺を渡すと、島崎はまたね、と店を出ていった。
島崎のやつれた姿が気になったが、またね、という言葉を信じて待つしかなかった。居酒屋の店主と客。ただそれだけの関係で、島崎が何処に住んでいるのかも知らないのだ。
いつの間にか雨が止んでいた。外に出るときれいな夕焼けで、池が茜色に染まっていた。
会社の帰りしか居酒屋には行かないから、ここに来るときはいつも夜だった。駅前通りの店もほとんどシャッターを下ろしている。静まり返った商店街をぬけて、街灯のまばらな旧街道沿いをしばらく歩く。ちょっと心細くなったころ、居酒屋「菊水庵」の灯りが見えてくる。
なんとなくほっとして暖簾をくぐると、島崎が会釈する。島崎のリアクションはただそれだけで、客が注文をするまで知らん顔で、酒や肴の支度をしていた。顔なじみの客にも初めて来店した客に対しても接客態度は変わらない。おかげで初来店した者でも気持ちよく飲める、そんな店だった。これからは、私が「菊水庵」に灯りをともすのだ。
マンションの管理は、不動産会社に任せてある。店子が無事に決まったそうで、通帳にはちゃんと家賃が振り込まれていた。毎月通帳にお金が振り込まれる。会社に勤めていたら当たり前のことが、こんなにもありがたいとは思わなかった。今夜は大吟醸「天狗舞」があるのだ。少しだけお金を出して、天狗舞に見合う肴を買いに行くことにした。
店の戸締りをして、裏口から外に出ると、黒猫が走り寄ってきた。すり寄ろうとして、人違いと気が付いたらしく、慌てて後ろに飛びのいた。そのまま、少し離れた場所から、様子をじっと窺っている。
「おいで」
猫を驚かせないよう、しゃがんで声をかけたが、黒猫はそのまま何処かへ行ってしまった。
小さい頃から動物が好きだったが、たいして広くもないマンションで一日中留守番をさせるのも可哀想だ。そう思って、動物愛は封印してきた。今なら犬でも猫でも飼うことができるのだ。デパ地下まで遠征して洒落た肴でも買おうと思っていたのだが、計画は変更して、近所のスーパーマーケットで猫の餌と夕飯の材料を買った。
「おいで」
キャットフードを丼に入れて、離れた場所から声をかけると、さっきの黒猫があたりを窺いながら茂みから出てきた。餌があるのに気がつくと、後ろを振り返り、ニャンと短く鳴いた。子猫が三匹、転がるように走って出てきた。黒猫は夢中になって餌を食べる子猫の後ろにじっと座っている。子猫も痩せているが、黒猫はもっと痩せていた。
私が見ていると黒猫は餌を食べようとしないので、もう一つの丼に餌を山盛りにして、軒下に置いておいた。裏口の引戸に蝶番のついた小さな扉がついて、不思議に思っていたのだが、もしかしたら、あの親子の出入口なのかもしれない。
居住スペースは以前のマンションよりずっと狭くなったから、持ち物の大半を処分した。終活とまではいかないが、心機一転して生活を変える決心をつけるにはちょうどよかった。以前はシモンズのセミダブルで寝ていたのだが、そんな大きなベッドは入らない。引っ越すにあたってベッドは処分し、丸ごと洗える(驚いた。N社やるじゃないの!)布団一式を購入した。布団を敷いて寝るのは何年ぶりだろう。子供の頃を思い出したのか、久しぶりに祖母の夢を見た。夢の中の祖母は、昔と同じように梅干を漬けていた。
翌朝、起きてすぐ軒下を見に行った。丼は二つとも空っぽになっていた。あの親子がまた来てくれることを願いながら、丼に餌を山盛りにした。
島崎の来店を待っているうちに、黒猫親子はあの出入口から自由に出入りするようになった。感心なことに、猫は店の方には出ていかない。子猫たちが店の方に行こうとすると、母猫がシャア、っと威嚇して奥の方へ追いやるのだ。抱かせてはもらえないが、頭を撫でることはできるようになった。その代わり、というのも変だが、子猫は抱っこさせてもらえるようになった。玄関に寝床を作ってやったら、その中で親子仲良く団子になって眠っている。
骨壺は三個売れた。店のホームページに祖母の話を載せたら、興味深く思う人もいたらしい。不謹慎だ、と叱られはしないかと心配していたのだが、いまのところ大丈夫のようだ。
今日の最初のお客は年配の婦人二人だった。
「まぁ、素敵なお店ね」
「ほんと。あら、これが噂の骨壺かしら」
似たような年恰好をしている。着ているものも雰囲気がそっくりで、まるで姉妹のようだ。
次のお客が入って来た。島崎だ。声をかけようとしたら、島崎は人差し指を唇にあてて、しーっというジェスチャーをした。そのまま何食わぬ顔をして商品を見ている。
「いい形ね。藍の染め付けが可愛いわ。私はこの骨壷に決めたわ」
「ご主人の骨壺は?」
「葬儀セットでついてくる骨壺に決まってるでしょ。一緒のお墓に入るだけでも感謝してもらわなきゃ」
「まぁ、ねぇ」
そう言うと、女性はくすり、と笑いをした。
「面と向かって主人を叱ってくれて。級長の面目躍如だったわ」
「親友を裏切るなんて。そう思ったら、居てもたっても居られなくなったのよ。あれだけ懲らしめれば、観念したでしょ」
「あれ以来、すっかり大人しくはなったけれど。女好きなのは相変わらずよ」
「何かあったらすぐ言いなさい。今度はただじゃあ済まさないから」
島崎の背中が震えている。笑うのを堪えているらしい。
「あら、このマグカップ、可愛い」
「良心的なお値段ね」
「ねえ、こうやっていると修学旅行を思い出さない?」
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「そうそう。でも骨壺のお揃いはやめにしましょうね」
「当たり前でしょ。そこまでするとなんだか気持ち悪いもの」
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「はい、おかげさまで」
「これ、お願いします」
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と、大声で鳴きだした。黒猫がこんな声で鳴くのを初めて聞いた。骨壺を持ったまま、島崎は棒立ちになっている。
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「寅吉!」
骨壺を持ったままなのに気が付いた島崎は、レジの上に慌てて骨壺を置くと、茶トラの子猫を抱き上げた。
「そうか、そうだったのか……」
子猫を抱いたまま、島崎は声を出さずに泣いている。島崎の邪魔をしないよう、裏口からそっと外に出て、「休憩中」の札をかけにいった。
店に戻ると、猫と戯れていた島崎が慌てて立ち上がった。
「いや、その、さっきは失礼」
「いえ、そんな……」
「お骨をあの骨壺にいれてやったら、毎晩のように寅吉が夢に出てくるようになってね。てっきり向こうに呼ばれているのかと思って……」
「お店、閉めてきましたから、ゆっくりしていってください」
「いいのかい?」
「ええ、もちろんです。今、お茶入れますね」
放蕩な日々を送ってきた。最後に辿りついたのが居酒屋の店主だった。家業の酒屋はすっかり傾いてしまったが、幸い、この店だけは手元に残っていた。
酒の知識はあったから、旨い酒を出すことは出来た。料理の仕込みまでする気はさらさらなかったから、肴は知り合いの割烹料亭から仕入れた。
食いぶちを得るために始めた居酒屋だったが、こうやって独り老いて死んでいくのだ、と思うと店を開けるのさえ億劫になった。いつ店を閉めようか。島崎は、そんなことばかり考えていた。
「何もかもめんどくさくなってね。そんな時に迷いこんで来たのが寅吉だった。寅吉が死ぬまでは自分も死ねない。そう思って店をやっていたんだよ」
菊水庵の酒が安くて旨かったはずだ。島崎は居酒屋で稼ぐつもりなどさらさらなかったのだ。
「このぐい飲みも一緒に包んでくれるかい?」
「はい」
「今夜はこいつで一杯やらないと。あいつもすみにおけない野郎だ。またここに来てもいいかな?」
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