海を奔る竜

内藤 亮

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禾(のぎ)

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 この不景気だ。平杓堂に来る客はやはり減っている。千諒は工夫を凝らした料理で何とか店を切り盛りしているが、楽ではないはずだ。道場の稽古日は月に一回となり、啓綜は唐手を小学校に教えに行ったり、宗哲の私塾を手伝ったりしてどうにか糧を得ている。
 それなのに、両親は自分が大学に進むための資金を捻出しようとしているのだ。まだ時間があると先延ばしにしていたのだが、先日の診断で「これからは月単位でものを考えろ」と培元に告げられている。そろそろ話をしないわけにはいかないだろう。
 身辺整理というほど物はないが、とりあえず古びた下帯はすべて処分した。愚痴を書き連ねそうだったから、心臓の病を知った日から日誌の類はつけていない。机の上に広げてある本が目に入った。普猷から借りた貴重な本だ。図書館で借りた本も積まれたままになっている。啓恭は借りていた本を全て風呂敷で包み、図書館に向かった。
 いつものように館長室の樫の木でできた分厚いドアをノックすると、すぐに、どうぞ、と普猷の声がした。
「こんにちは」
「やあ、啓恭。元気にしてたか」
「はい。貴重な本をありがとうございました」
「どうだった?」
「面白かったです。昔の琉球人も今と同じことを考えていたんですね」
「これもいい本だよ。外からの目で見た琉球だ」
 普猷が山のような荷の中から緑色の革表紙で装丁された洋書を取り出した。
「あの、先生これって……」
 ぶ厚い学術書や、書きかけの原稿が崩れそうに積んであった普猷の机がすっかり片付けられている。本棚も空っぽだ。
「ここを辞めて東京に行くことにした。柳田先生(※民俗学者、柳田国男のこと)が後押ししてくださってね」
 普猷は琉球史研究の傍ら、啓蒙活動も盛んに行った。沖縄が沖縄であることに目覚めて欲しいという呼びかけは、普猷の願いであると同時に、沖縄人全体への呼びかけでもあったのだ。沖縄に戻って十余年。数百回に及んだ講演は、多くの人々に理解してもらうため、琉球の言葉で語られた。
「学問だけじゃあ、社会の矛盾なんて解決できないんだよ。話を聞いたって、腹がいっぱいになるわけじゃない。当たり前だがな」
 そう言って、普猷はくすんだ緑色になっている庭のガジュマルに目を移した。
「先生のお話、もう聞けないんですか」
「大学に進むのだろう。一緒に東京に来ないか」
 そう言った時には、いつもの気さくな普猷に戻っていた。
「ありがとうございます。先生の許で勉強をしたいのは山々なのですが、しばらく養生をする事になりました。勉学も休みです」
「学校に戻るときは連絡をくれよ」
 すぐに返事をしかねていると、
「そんなに悪いのか」
 普猷が眉根を寄せた。今更、敬愛する師に隠し立てをしても仕方がない。
「学校に戻るのは厳しいようです。もう本をお借りするわけには……」
 渡されたばかりの洋書を差し出すと、
「その本はお前にやる。論文が仕上がったら一番に送るよ」
 普猷の声が早くも掠れている。
「東京でのご活躍、お祈りしています。本をありがとうございました。読むのが楽しみです」
 普猷は驚くほどの力強さで手を握ると、ゆっくり養生しろ、と言って目を瞬かせた。
 図書館を出ると寒風が首元をかすめた。風はまだ冷たいが、冬の峻厳とした風とは違って、春を待つ生き物の湿りを帯びた息吹を孕んでいる。これまで季節の移り変わりなど気にもしなかったのに、この期に及んで感傷的になっているらしい。啓恭の口元に苦笑がうかんだ。
「兄さん!」
 前方から千遥が走ってくる。千遥が駆け抜けると、埃を被って白茶けた蘇鉄の塊が急に精彩を帯びたようになった。
「そんなに慌てて。すぐに帰ると書き置きをしておいただろう」
「だって」
 上気した頬が雪洞を灯したように艶やかに染まり、健やかに盛り上がった胸が上下している。千遥は今まさに咲こうという花なのだ。付け文をもらうのも当たり前で、そのたびに頬を膨らませたり赤らめたりしているが、本人は自分の変化に少しも気が付いていないらしい。
 普猷と話していたのは思いがけず長い時間だったようだ。いつの間にか辺りには薄暮が立ち込めている。周囲の家々から色が消えて影絵のようになり、千遥の顔だけが白く浮き上がっていた。
「急ごうか」
 千遥を促したその時だった。前方の路地から湧き上がるように人影が現れた。 
「尚昭をたぶらかす性悪はこいつだな」
「尚昭が蛮族の道場に入り浸っているのはお前のせいだ」
 相手は三人。いずれも上等な薩摩絣を身に着けている。ひょろりとした男が千遥との間に割って入った。
「千遥に触れるな!」
「これはこれは。与那嶺道場に女子がもう一人いたとは初耳だ」
「妹より肌が白いではないか。まずはおまえからだ」
 小太りの若者が下卑た薄笑いをうかべ、手を伸ばしてきた。啓恭がその手を無造作にひねり上げると、大げさな悲鳴があがった。
「これが薩摩流の礼儀か?」 
「何を」 
 それが合図となったかのように二人が同時に襲い掛かってきた。啓恭は先に手を伸ばしてきたほうの男の顔の真ん中に正拳を叩き込み、もう一人の金的を蹴り上げた。いずれも稽古では禁じ手とされている攻撃だが効果は絶大だ。相手の顔が鼻血でみるみる赤く染まり、残る一人は股間を抑えたまま呻いている。 
「貴様!」
「ここらで止めにしないか」
 ひょろりとした男を押しのけ、後ろ手に千遥をかばった。道場での活躍ぶりとは別人のように千遥は小さく震えている。
 手加減をしたのはまずかった。股間を抑えていた男が早くも立ち上がり、魔除けとして石垣の上に置いてあったスイジガイ(尖った突起のある大きな巻貝)を手に再び殴りかかってきた。手刀でスイジガイを叩き落とし鳩尾に直突きをねじ込んだ。前かがみになった背中を押さえつけて膝蹴りをいれると、ごきり、と骨の折れる音がした。これも稽古では禁じ手だが火急の時だ。仕方がない。
 耳元で空気が唸った。すんでのところで避け、振り返りざま後ろ回し蹴りで巻くようにこめかみに一撃を加えると、相手は大きな音を立てて地面に倒れた。本来なら踵落としで止めを刺すのだが、さすがにそれはやめにした。倒れた男はすでに白目をむき、泡を吹いている。
「まだやるかい?」
 鼻血を出したまま、茫然と突っ立っていた男は蒼白な顔をしたまま首を横にふると、倒れた二人を助け起こし、そそくさと立ち去って行った。
「もう大丈夫だ」
 自分の声が妙に遠くで聞こえる。視野が急に暗くなり地面が大きく傾いだ。
「兄さん!」
 そのまま啓恭は地面に崩れ落ちた。千遥は家に帰るらしい農夫に金を渡して啓恭の介抱を頼むと、培元の元へ力の限り走った。

 茫洋とした闇の中から強引に引きずり出されるような衝撃で目を覚ますと、培元が顔を覗き込んでいた。
「や、気が付いたか」
 全力で走った後のように心臓が激しく脈打っている。喘いでいると、培元が手早く助け起こした。
「大丈夫か。強い薬を使ったからな。ゆっくり息をしろ」
「はい」
 座ったままようやく息を継いでいると、培元が言った。
「三人とも大怪我だぞ。一人はあばら骨が折れていたし、もう一人は首の筋を違えていた。鼻血を出していたやつも鼻骨が折れていたから、ついでに診ておいた。佳純に後始末を頼んだから、今頃は尚昭の親父にも話がいっているだろう。こちらに類が及ぶことはない」
 一息にそういうと、培元は腕組をしたまま口をへの字に曲げている。
「ご配慮、ありがとうございました」
「無茶をして。お前の泊手はニライカナイへ行く通行票なのか? あの時とちっとも変わらん」
「千遥がいたから。やりすぎてしまいました」
 冷やりとしたが、殊勝な顔をして答えると、
「さすがに優等生の答えだな」
 培元は顔をしかめ、襖に向かって声をかけた。
「もう大丈夫ですよ」
 勢いよく襖が開き千遥が部屋に駆け込んできた。
「兄さん!」
「千遥から話は聞いた。素人相手にやりすぎだぞ」
 稽古着を着たままの啓綜が、部屋に入るなりよく通る声で言った。座っているのを見て安心したらしい。培元の手前、咎めるような口ぶりだが目が笑っている。手洗いの水を持ってついてきた千諒も藍の仕事着のままだ。
「すみませんでした」
「あの時の兄さん、そりゃあ格好が良かったのよ」
「これ、千遥。先方に何かあったらただでは済まなかったのよ」
 千遥は首をすくめると、ごめんなさい、と素直に謝った。
 呑気なやり取りを聞いて培元が咎めるような目で見ている。
「図書館から帰ったら話をするつもりだったので……」
「俺から説明していいか」
「お願いします」
 培元の話が終わると、啓綜は端座してこぶしを握り締めたまま、低い声で言った。
「よくわかりました。先生、今後ともよろしくお願い致します」
 紙のように白い顔をした千諒は黙って頭を下げた。千遥は人目もはばからずぼろぼろと涙をこぼしている。
「先生、ありがとうございました」
 さすがに培元だ。厄介な仕事を自分の代わりにうまく収めてくれた。気が緩んだせいか、瞼が急に重くなってくる。
「薬が効いてきたのだろう。よく休め」
 引きずり込まれるような睡魔には抗いがたく、啓恭はそのまま眠ってしまった。

 波の音が胸の内にまで迫ってくる。轟くような海鳴りに耳を澄ませていると、深海の中に引きずり込まれていくようだった。このまま眠っていたいと思うのだが、身体は心よりもずっと直截的で、気が満ちれば目が覚めるように出来ているらしい。目を開けると障子越しの光で部屋が白くなっている。
「千遥?」
 胸の上から千遥が頭をもたげると、ふっと生暖かい匂いが鼻を突いた。
「兄さんの胸の中には海があるのね……」
「ずっとそこにいたのか?」
 胸の上に手を置いたまま、千遥は黙っている。
「どうした?」
「尚昭さんが。学校を卒業したら鹿児島に来ないかって」
 すぐそばに沈痛な目をした一人の女が座っている。ほとんど眠っていないのだろう。青白い顔をして削げた頬をした千遥は昨日までの妹ではなかった。
「いい話じゃないか。尚昭は好漢だよ。おまけに大地主だ」
千遥に笑いかけると、
「私はここで。兄さんと一緒に居たいの」
 千遥の表情には無意識のうちに認めまいとしていたものが潜んでいる。啓恭は胸の上に置かれたままになっている千遥の手をそっとずらし、言葉を重ねた。
「千遥は僕の大切な妹だ。尚昭のこと、本当に良かったと思っている」
 千遥は拳を口に押し当てて嗚咽を堪えている。
「千遥の前には大きな海原が広がっているんだよ。尚昭と一緒に舟を漕いで行くんだ。もっともっと広い世界を見ておいで」
 これからは上り日を仰ぎ、涙を流さずに生きてほしい。願うのはそれだけだ。
 千遥がすがりついて声を上げて泣き出した。温かい涙が胸元を濡らす。子供の頃と同じように、啓恭は千遥の背中を静かにさすった。
 泣き声が嗚咽に変わり、ようやく千遥は顔をあげた。
「さ、気が済んだかい」
 千遥は目に涙を浮かべたまま、妹の顔になって小さく頷いた。

 平杓堂のほうが診療所が近いし目も届く。千諒は店で寝起きするように命じたのだが、部屋の整理をしたい、と言って家に帰らせてもらった。商売をする場所で病人が寝ているわけにはいかない。
 女手が二つもあるから、母屋は隅々まで磨き立てあげられていて、留守を守るといってもすることがない。手始めに道場の掃除をすることにした。男女平等を標榜する千遥も、一人で道場に入るのは躊躇するらしい。人気の途絶えた道場は屋敷の片隅でひっそりと閉ざされていた。道場の中に入るのは久しぶりだ。滑りの悪くなった引き戸をこじ開けると黴臭い臭いが鼻をついた。床板に雑巾をかけ神棚に新しい榊を生けたが、人気のない道場はやはり眠ったままだ。何もしないよりはいいだろう、と自分を納得させる。さして広くもない道場なのに、休み休み掃除をするせいで思いの外時間がかかってしまった。こうやってできることが段々と減っていくのだろう。息をつきながら掃除道具を片付けていると、
「掃除かね」
 振り返ると白髪頭を古風に結い上げた小柄な老婆が立っていた。
「もう逆さにして尻を叩くわけにはいかんのう」
 金壺眼の黒々とした瞳が自分を見上げている。
「あの、失礼ですがどちら様ですか」
「ま、覚えていないのも無理はない。わしはな、お前をとりあげた産婆じゃ。千諒さんに頼まれてな」
 老婆は無遠慮に啓恭を眺めまわした。まだまだ一人で身の回りのことはできる。老婆に払う手間賃が惜しい。老婆の世話を断る口実を探していると、
「不服そうな顔をするな。ばばの小遣い稼ぎに付き合え」
 こちらの心を見透かしたように老婆が言った。
「はあ……」
「わし名は禾じゃ」
「啓恭と申します」
「知っとる」
 そう言うと禾は梟のような声を出して笑った。
 翌日から毎日禾が家に来るようになった。家の者が出かけると、入れ替わるように禾がやってくる。一人にはさせまい、という千諒の配慮なのだ。かつての自分の浅慮が悔やまれた。
「おはようございます」
「今日はこれを持ってきた」
 禾の手には、絞めたばかりと思われる痩せた鶏がぶら下がっていた。
「旨そうですね」
「世辞を言わんでもいい。よく卵を産む鶏だったが。とうとう今朝は動けんようになってな。まあ、少しは滋養になるだろう」
「ありがとう、禾さん」
「チデークニ(島ニンジン)とヤマン(ヤムイモ)をこいつの出汁で炊こう。東市場は春のものでいっぱいじゃぞ」
「景気が悪いのに」
「大地と海の恵みに景気は関係ない」
 禾はそういって呵呵と笑うとさっさと水屋に入っていった。
 目をあげると、ぼうと霞のかかった空が広がっている。うりずんの季節が廻って来たのだ。沖縄の春を表すこの言葉は〝うるおめ〟がその語源だという。大地が潤いを帯び、草木が一斉に色を増す様は、本土の儚げな早春とは趣を異にする。
 この時期、市場は春の恵みを堪能しようという人々で賑わっているにちがいない。
 戸板にチデークニ、ヤマン、シマナー(からしな)やチンクワー(島カボチャ)が山のように盛られ、威勢のいい掛け声が飛び交っている。すぐ隣は海から上がったばかりの魚が並べられている。グルクン(たかさご)カタナシ(ひめじ)カーハジャー(はぎ)ビタロー(ふえだい)。目も開けていられないような眩しい陽光の下、青や黄色の色鮮やかな鱗が輝いている。
 あれもこれもと買い物かごに入れようとする啓泰を、多津が笑いながらたしなめている。

「どうかしたか」
「手伝います」
 我に返った啓恭は、慌てて包丁を手に取った。
「ほう、達者なものだ」  
 鶏をさばき始めると禾が感嘆の声をあげた。
「母が、ええと、前の母が亡くなってからは食事の支度をしていたので。モツは別に煮つけましょうか」
 前の、と聞いて禾はちらりとこちらを窺ったが、すぐに何食わぬ口調で言った。
「そうじゃな。そっちはお前に任せた」
 ひどく痩せた鶏でモツにも脂が全くと言っていいほどついていない。そのせいかどうか、丁寧に血抜きをしたら思いがけなく旨いもつ煮になった。
「晩酌に合いそうだ」
「飲むんですか」
「子下しをした日はな」
 生まれてすぐ命を絶たれる者もいれば、こうやって生き長らえる者もいる。啓恭は、手際よく煮物を盛り付ける禾の手元しか見ることができなかった。
「若いころは人助けと思うてやってきたが。こうも続くと堪えてな。隠居でもしようかと思っていたら千諒さんに声をかけられたんじゃ。さ、できた。昼餉にしよう」
 赤子はマブイのまま、此岸に足跡を残すことなくニライカナイに行ったのだ。仮死で生まれたことは知っている。あの時、禾が逆さにして尻を叩かなければ、こうやって煮物を食べることもなかった。家族を悲しませることもなかった。多津も自分を責めることなく生きていたかもしれない。
「ほれ。冷めないうちに」
 たっぷりと盛られた煮物から湯気が立っている。禾に促され、箸をとった。
「いただきます」
「やあ! 旨そうな匂いがする」
 庭から声がする。尚昭だ。
「だから。昼餉が終わってから出かけようと言っただろう。食事中にすまない。すぐ暇する」
 佳純が言いながら包みを差し出した。
「流行っている小説本だ。本には疎くてね。暇つぶしにはなるだろう」
「ありがとう」
 持っている本はとうに読みつくし活字に飢えている。しゃれた装丁の表紙を思わず撫でていると、じっと自分を見つめている佳純と目が合った。
「綺麗な本ですね」
 尚昭がくすんと小さく鼻をならした。尚昭を見守る佳純の笑顔を見て、二人が病状を知っていることが分かった。
 尚昭が小さな包みをいそいそと懐から取り出した。
「これ、客家のおじいさまの茶だよ。舶来品だってさ」
 早速に袋を開け、香りをかいだ禾が感嘆し、目を細めた。
「ほう。これはこれは」
「では僕たちはこれで。さ、尚昭、帰るぞ。長居は無用だ」
「こんなにたくさんあるんだよ。一緒にどうだい」
「大したものはないが。皆で食べたほうが旨いぞ」
 禾も昼餉を勧めると、いいのかい、と言いながら、尚昭がそそくさと縁側から入ってきた。
「ではお言葉に甘えて」
 やれやれという風に頭を振り、佳純は脱ぎ散らした尚昭の履物を揃えると、一礼して部屋に入ってきた。
「いただきます!」
「禾さんは料理がお上手ですね」
 佳純の賛辞を受け、禾は誇らしげに鼻を膨らませた。言葉通り、皿の上はあっという間にきれいになっている。
「やあ、旨かった」
「御馳走さまでした」
「あのさ、啓恭」 
 茶を飲み終わるころになって、尚昭がようやく切り出した。
「千遥さんのことなんだけど」
 初めて聞いた、とさも驚いたような顔をすると、尚昭は真っ赤になった。
「報告が遅れてすまん。双方の親に話を通してからと思ったものだから。何があっても、俺、千遥さんのこと守るから」
「うん。千遥に守られないようしろよ」
 佳純が噴き出した。
「それは言えるな」
「なんだよ、人が真剣になってるのに。ひどいな」
「二人一緒なら何があっても大丈夫さ。はねっかえりの妹だけど、よろしく頼む。ああ見えて案外泣き虫なんだ」
 尚昭はとうとうこらえきれなくなったらしく、目頭を拭うと何度も何度も頷いた。
「また遊びに来るよ」
 佳純は苦笑いしながらそう言うと、尚昭を促して帰っていった。見舞いに来る、と言わないのは、かつて友を見送ったことがあるからだろうか。
「いい友じゃな」
「鶏が役にたちましたね。旨いものを食べた後は口が滑らかになる」
「二人の子は薩摩と琉球と大陸の血を継ぐのじゃなあ」
 禾が感慨深げに言った。
「はい」
 その時には自分はもういないだろう。
「死ぬのが怖いか」
「まだ死んだことがないから、分かりません。でも。この目でニライカナイを見てみたい気もします」
「ほ、よう言うた。実をいうとな、わしもそうじゃ」
 禾と目が合うと、どちらからともなく笑みがこぼれた。
「この鶏みたいに胃袋を満たして人を喜ばせて。それで終わりになればいいのですが」
   啓恭が鶏ガラを摘み上げて言うと、
「おまえのことは胃袋ではなくてここに残るぞ」
 禾は節くれだった手で自分の胸を押さえた。
「だから困るんです。なんだか胸焼けを起こしそうだ」
「情けないことをいうな。万人の胸に残ってやる、くらいの気概を持て、気概を」
 禾はやれやれ、とでもいうように白髪頭を小さく振りながら茶碗を洗い始めた。
 
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