男主人公たちの様子がおかしいのですが、前世を思い出した悪役令嬢は命の危機にさらされているのでそれどころではありません

あいえい

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廃妃の呪いと死の婚姻6-2

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廃妃の呪いと死の婚姻6-2

 娘の病態を確認したナイトリー侯爵は、胸が張り裂けんばかりの苦痛を感じていたが、悲嘆にくれることはなかった。その代わりに愛する娘のために全面的な協力を約束し、この件に於いてのみ彼の有する権利と財産、権力を利用することを許可した。
そして、手始めに王宮に留め置かれている薬師達を開放することを約束し、迅速に動いた。ナイトリー侯爵は国王に対して薬師たちを留めることの無益さを説き、速やかな解放を奏上した。次いで王妃の暗殺未遂に使用された毒薬の分析と、解毒薬の生成を薬剤師に依頼することを提案した。王家の恥部に触れる毒殺未遂の存在を外部の学者に明かすことを国王は躊躇ったが、ナイトリー侯爵の粘り強い説得にとうとう許可を与えざるをえなくなった。
国王の確約を得ると、ナイトリー侯爵はその足で薬師と呼ばれる学者たちと面会すると、薬師専用の研究室の設置と王宮への転属を告げた。ようやく解放された学者たちは安堵すると共に、彼らの学問が世に認められる試金石となるこの試練に奮い立った。

 古今、毒と薬は表裏一体である。何ものも過ぎれば身体を蝕む毒となり、適量であれば心身を整え癒す薬となる。王国では王族貴族や富裕の者達が病や怪我の治療に当たり、治癒魔法をに依存していることは前述のとおりである。高位貴族になるほどその傾向が顕著であり、自生する草木や生物、時には鉱物を以って傷や病を癒す手段としてきたのは、専ら教育や学問とは縁遠い民草達であった。自然、彼らの治療はごく簡易的なものとなり、口伝や経験に則った急場しのぎの色が濃かった。その分閉鎖的で家庭やごく狭いコミュニティーで完結し、その練度・効果に非常に大きな格差を生じた。これこそが系統だった薬学が発展してこなかった理由であり、こうした傾向は隣接する他国でも同様であった。
 しかし、これら卑賤な治療と蔑まれてきた所謂民間療法を、統一的に順序立て、総合的に研究しようとする奇特な者たちが現れた。多くは没落貴族や紳士階級の三男以下の知識と教養はあるが財力や権力とは無縁の者たちであった。成果を発表しようにも見向きもされない分野であったが、彼らは情熱と使命感の灯を何とか繋ぎながら、細々と研究を続けてきた。
 これらの業績がようやく日の目を見ようとしていた。契機となったのはナイトリー侯爵令嬢による金銭的な後援である。その前段階として、第3王子クラレンスの家庭教師の一人に若手研究者の中でも、第一の有望株であるケイ・フェラーズが抜擢されたということもあったが、それも元を辿れば婚約者のナイトリー嬢のためであると後に明らかにされた。
 研究者の中には高位貴族に対する反感を持つ者も少なからずいたが、潤沢な資金援助のおかげで生活に余裕がうまれ、副職を持つ必要がなくなり研究に没頭することができるようになった。研究機材や材料についても良質なものを必要な限り調達することが可能になり、研究成果が目に見えて向上したことで、彼らの反抗精神は押し和らげ、感謝の念へと変わっていった。
 そして、王宮で窮地に陥った薬師達研究者に救いの手を差し伸べたのも、ナイトリー嬢の実父であるナイトリー侯爵その人であった。当代きっての権臣であるナイトリー侯爵の存在は他の貴族たちの見る目を一変させた。今や彼らの学問は王室内外から多大な注目を浴びるようになっていた。勿論、ナイトリー侯爵を快く思わぬ政敵たちは彼らの失敗を願い、ナイトリー侯爵の瑕瑾を求めようと画策していたから、順風満帆とはいかないものの、それでも薬師達にとってこれが彼らの学問にとっての登竜門であることを自覚し、より一層与えられた難題に没入していった。

 ナイトリー侯爵がケイ・フェラーズと初めて顔を合わせたのは、それから数週間後のことだった。その時には、ナイトリー侯爵はフェラーズという若手研究者の身上調査をすっかり終えており、残るはナイトリー侯爵自身による人品評価を残すだけだった。ナイトリー侯爵のもとに呼び出されたミスター・フェラーズはナイトリー侯爵の前に立ちながら、自身が見極められようとしていることを自覚していた。
 しかし、穏やかな性格ながらなかなか胆の据わったところもあるミスター・フェラーズは、極端な畏怖を覚えることもなく、新たに判明した研究成果をたんたんと報告した。険しい環境の中で気難しい学者たちと切磋琢磨してきたミスター・フェラーズにとって、生粋の深窓令嬢であるジェネヴィエーヴと対峙することの方がよほど緊張を強いられることだった。それでも、初めて対面したナイトリー侯爵は尊大さや、他の貴族にあり勝ちのわざとらしい威かめしさなどはないものの、他を圧倒する存在感と威厳を備えていた。尊貴な血筋と品格が、厳しく律せられた精神と明晰な頭脳、能力によって研磨されるとこうした人物が出来上がるのだろうか。彼を冷厳で冷徹な人物だと評する者も多かったが、一方で少なからぬ人々が彼を尊崇していることも事実だった。
 このような人から、どうしてジェネヴィエーヴのような儚げで嫋やかな娘が産まれたのだろうか。それとも、それとみせていないだけでジェネヴィエーヴの中にも、玲瓏透徹な人品が潜んでいるのだろうか。人間に対する興味の希薄だったミスター・フェラーズは、心を動かされた自分自身におかしみを感じた。

「王妃様に用いられた複合毒を構成するおよその原材料を特定致しました。特に、現在最も強く出ている症状の原因はこちらの鉱物であると考えております。この鉱物はある植物を濃縮させた物質と作用することで、非常に高い毒性を発揮します。また、王妃様は貝やエビと言った甲殻類を受け付けないお体とうかがっております。皮膚もお弱く発汗によって皮膚疾患を生じることもあるとか。先程申し上げた植物は王妃様のように病的に過敏な反応をお持ちの方に特に強く作用することがございます。該当する植物を特定するには至っておりませんが、取り急ぎ、現在王妃様を苦しめている症状を取り除くための処方は可能だと考えております」
 滑らかな口調で報告するミスター・フェラーズを、感情を伺わせない顔つきで見つめていたナイトリー侯爵は、右手の人差し指で机をトンと一つたたいた。
「未知の植物の可能性が?」
「確かなことは申せませんが、ある植物の亜種であると推測しております」
 ふん、と一つ間を置くとナイトリー侯爵は頷いた。
「よろしい。陛下にご報告する。直ちに処方の準備をしなさい」
「ありがとう存じます。処方の前に普段から王妃様のお体を見ていらっしゃる主治医の皆様のご意見を頂戴できると幸いです」
「相分かった。材料の一覧と共に作用機序、効能、副反応なども網羅しておくように」
 承知いたしましたと一礼してミスター・フェラーズは退出した。


 ナイトリー侯爵とミスター・フェラーズの初対面に前後して、ナイトリー侯爵邸では一つの問題が持ち上がっていた。クラレンスへの説明の如何をめぐる議題である。
 クラレンスにどの程度の事情を共有したらよいか、当事者とナイトリー侯爵等関係者の相互の見解が自然異なるのは致し方ないことだった。先日の失態について負い目を感じているジェネヴィエーヴとしては、クラレンスが求めるジェネヴィエーヴをめぐる全ての事実の告白を念頭に、クラレンスの再三の訪問要求の受け入れを考えていた。
これに難色を示したのがナイトリー侯爵ならびにクラレンスであった。曰く、なるほど赤裸々な告白という方法を取ることで、良心の呵責に揺れるジェネヴィエーヴの優しい思いやりの情は、押し和らげ充足することであろう。しかし、ジェネヴィエーヴはクラレンスとの未来を果たして望んでいるだろうか。婚約の解消こそ彼女の意図するところではなかったか。これが彼らの反対意見だった。
つまるところ、ジェネヴィエーヴ第一の彼らとしては彼女の中でクラレンスがこれ以上の比重を占めることを望んでいなかった。秘密の共有という重大事を経て、クラレンスに対するジェネヴィエーヴの信頼と親愛の情が深まることを彼らは警戒していた。
「どうせ早晩婚約は解消されるのであるから、不必要な内実の共有は不要ではないか」
こう指摘され、ジェネヴィエーヴは困り果ててしまった。
「確かにその通りでしょうけれど、王室の一員であるクラレンス殿下の協力を仰いだ方が、クレメンティーンの調査の助けになるのではないかしら」
眉根を寄せながら、クラレンスに打ち明けるのは決して罪悪感からだけではなく、クレメンティーンの呪いを解くためにも有用な一手ではないか。このようなジェネヴィエーヴの主張は笑みを浮かべたナイトリー侯爵によって、下記のような理由で一蹴された。
「敢えて高位貴族令嬢が呪詛に侵されているという秘中の秘事を部外者に知らせる愚を犯す必要はない。短期的利益のために中長期的なリスクを率先して追うことは避けるべきである」
 結局両者の溝は埋まることなく、平行線をたどった。クラレンスとの約束の日だけが近づきジェネヴィエーヴは焦燥感に苛まれた。アリアはこの議論には一貫して中立の立場を取っていた。彼女はこの対立がジェネヴィエーヴの健康を損ないはしないかということだけが気がかりだった。ジェネヴィエーヴの精神的安定のためになるのであれば、たとえナイトリー侯爵が反対しようと、ジェネヴィエーヴの意見を押し通してしまえばいい。結局、ナイトリー侯爵もノクターンも狷介な性情ではなく、なによりも徹頭徹尾ジェネヴィエーヴには甘いのであるから、彼女の反感を買ってまで彼らの意見を押し通すことはできまい、最終的にはジェネヴィエーヴの決定を受け入れざるを得なくなるのだ。
 アリアの極端な発言にジェネヴィエーヴは苦笑し、
「お父様もノクターンも心から私のことを気にかけてくれているからこそ反対しているのだし、お二人の意見を無碍にすることはできないわ。でも、そうはいっても、殿下には何と説明したらよいかしらね。あのような姿をお見せして。殿下のことだもの、耳当たりの良い適当な話で取り繕ってもすぐにそれと知れてしまうでしょうから、決してご納得いただけないでしょうね」
 ジェネヴィエーヴの苦悩は尽きなかった。

だが、こうした互いの意見の相違からくる問題の打開策というものは、思いがけぬところからもたらされるものである。今回の場合、それは執事が持参した一通の手紙によってであった。
「あら、グレイ夫人からだわ」
 善良なグレイ夫人は親しい隣人であり、保護すべき教区民であるフェラーズ兄妹が直面した危難に非常に心を痛めていた。手紙によると兄妹の母であるフェラーズ夫人を屋敷に招き、子ども達の身を案じる母親の慰安となるべく、あたうる限りの支援の手を差し伸べていた。そして、グレイ夫人は手紙の中で、可能であればこの哀れな母親のために、詳しい経緯の説明とフェラーズ兄妹の現状を知らせてくれないだろうかと懇請していた。
「すっかり失念しておりました。フェラーズ夫人はどれほど心配されていることでしょう。ジェネヴィエーヴ様さえよろしければ、私がグレイ夫人へご報告させていただきます。そうだわ、ノクターンにミス・フェラーズを訪問してもらって、彼女からのお手紙も同封するのがよいですね」
 すっかり同情してしまったアリアが今にもペンと便箋を求めて部屋を飛び出そうとするのを、ジェネヴィエーヴは慌てて引き留めた。
「あら、ちょっと待ってアリア。御返事の件は是非ともお願いしたいことだけれど、まだ続きがあるの。これを見て、意見を聞かせてちょうだい」
 手紙の最後にはいつも通り、ジェネヴィエーヴの健康を祈念するという一文が記されていたが、それとは別に興味深い内容が追記されていた。それは以前問い合わせていたグレイ夫人の領地内の遺跡群についてであり、特にジェネヴィエーヴが迷い込んだと思われる遺跡の所属についてであった。つまり、クレメンティーンの墓所と思われる場所であり、ジェネヴィエーヴが呪詛を受けたと推察される場所のことである。
「遺跡の帰属についてよ。グレイ夫人によると、遺跡の多くは土地の所有者であるグレイ家に所属しているけれど、数か所は異なるそうなの。私が遺跡に興味があると思ったのね、書類を改めて確認してくださったそうよ。これがリストね。グレイ家に属する遺跡は、安全に留意する限り自由に出入りしたり、調べてもよいと仰っているわ。でも、ここに挙げた三ヶ所はグレイ家の権限の及ばない場所だから、気を付けて欲しいと書かれているわ」
 その三基の遺跡の一つこそが、クレメンティーンの墓所であると考えられる場所だった。
「では、仮に現地に行って調べようとしたら、事前に所轄する家門に断りを入れておく必要があるのですね。それらしい理由も必要でしょうし、どうしましょうか、困りましたね」
 眉根を寄せるアリアに、ジェネヴィエーヴはふふっと笑みを浮かべた。
「何とかなるかもしれなくてよ。それに、このところの悩みの種だったお父様たちの説得についても一挙に解決できるかもしれないわ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべるジェネヴィエーヴに、アリアはどういうことかと首をかしげた。
「実はね、これらの遺跡の所管は王家だというのよ。そして、先般、若い王族たちの成長に応じて、様々な公務が割り振られたのを覚えている?特に王妃様のご負担を軽減するために、大幅な刷新が行われたのだけれど、王妃様が形式的に長として就いていた多くの分野は、今上陛下のご子息である殿下方に割り振られたわ。では、話を戻すけれど、古代遺跡はどういった分野に属するかしら」
「ええ、っと。史学だと範囲が広すぎるでしょうか。では考古学?」
 眉根を寄せつつ応えたアリアにジェネヴィエーヴは満足そうに頷いた。
「その通りよ。そしてこの職掌を王妃様から引き継がれた方こそ、他の誰でもないクラレンス殿下なのよ」
 ジェネヴィエーヴの言葉にアリアはぱあっと顔を明るくした。
「ふふふ。ね、素敵な偶然の一致ね。きっと素晴らしい解決策が思い浮かぶに違いないわ」
 そう言ってジェネヴィエーヴは莞爾と笑った。

 約束の日、クラレンスは時間に違わずジェネヴィエーヴの元を訪れた。緊張した面持ちの婚約者に迎えられたクラレンスは、僅かに頬を青ざめさせるジェネヴィエーヴに、体調が悪ければ日を改めようと申し出たが、ジェネヴィエーヴは首を振ってそれを止めた。
人払いされた応接間には、ジェネヴィエーヴとクラレンス、そしてアリアの3人だけが残された。ジェネヴィエーヴは長椅子に座ったクラレンスの隣に腰を下ろすと、少しためらってから、彼の手を両方の手のひらでそっと包むように握りしめた。
 長じて以降絶えてなかった彼女からの触れ合いに、僅かに頬を赤らめたクラレンスは僅かに伏せられたジェネヴィエーヴから目が離せなかった。睫毛の下で不安気に瞳を揺らす彼女を見つめながら、クラレンスは彼女の手を優しく握り返した。
「殿下」
 伏せていた目を上げたジェネヴィエーヴは一度瞬きをすると、正面からクラレンスを見据えた。
「クラレンス殿下、まずは先日の出来事に対するお礼と、お詫びを申し上げます」
 頭を下げ暫しの後再び顔を上げたジェネヴィエーヴを、クラレンスもまたじっと見つめ返した。春の湖のように澄んだ彼の瞳には、彼の感情をうかがうジェネヴィエーヴの姿が映っている。
「本日私がうかがった目的はお分かりですね。こうして訪問をお許しいただいたことがそのご返答だと理解してよろしいでしょうか」
 硬い表情でそう問いかけたクラレンスを見つめたままで、ジェネヴィエーヴは
「殿下のお気持ちは承知しております。ですが、殿下はお覚悟ができていらっしゃいますか。不躾な問いであるということは存じております。ですが、どうかご容赦くださいませ。引き返すのであれば今しかございません。私が申し上げようとしていることはナイトリー侯爵家の名誉にかかわることでございます。これを申してしまった後は、後戻りはできません。この先きっと、この告白は殿下の枷となりましょう」
 ナイトリー侯爵はジェネヴィエーヴの秘密を知る者たちを、よい意味でも悪い意味でも決して捨て置くことはない。ジェネヴィエーヴを守るためにも、ナイトリー侯爵家の家長としても、ジェネヴィエーヴを裏切り仇なす者達には容赦のない鉄槌を下すことだろう。クラレンスのような後ろ立ての脆弱な側室腹の第3王子が、王国最大の権力と財力を有す家門の総帥を敵に回して生き残る術はない。
ジェネヴィエーヴはクラレンスを引き込もうと決意してはいたものの、彼の立場に対する同情を失ってはいなかった。一方で彼女はクラレンスの裏切りなどというものを露ほども心配していなかった。彼が義理堅く極めて篤厚の人であることをジェネヴィエーヴは十分承知していた。彼女の置かれた状況を知った彼が、誠実に彼女のために尽力してくれることは火を見るよりも明らかだった。ただ、彼の人柄と立場を利用する企図を以って、彼に臨むのは非常に心が痛んだ。もし彼がわずかでも躊躇う気持ちがあるのならば、ここで彼を手放してあげたいとジェネヴィエーヴは思った。
そうした彼女の心情は真っ直ぐにクラレンスに伝わっていた。
 彼を案じるジェネヴィエーヴにクラレンスの感情は昂揚した。このような状況で彼女が自身を気遣ってくれることが嬉しかった。何よりも、彼女が後ろめたさを覚えながらも、クラレンスを必要としているという事実に大きな喜びを感じた。
「ジェネヴィエーヴ嬢、貴女のお話が私の枷になるというのであれば喜んでその荷を負いましょう。貴女の苦しみを知ってしまった以上、その苦しみの理由を知らずにいることはできません。貴方の背負っている重荷を私も分かち合いたいのです。どうか躊躇わないで、私にあなたの心の内を打ち明けてください」
 どうかお願いします、そう懇願しながらクラレンスはジェネヴィエーヴの手の甲に口づけた。僅かに苦しげな表情を浮かべたジェネヴィエーヴは、哀し気に微笑むと口を開いた。
「長い話になります」
 そうして打ち明けられた話にクラレンスは非常に衝撃を受けた。頬を蒼ざめさせながらも、彼は最後までジェネヴィエーヴの手を強く握りしめていた。
 聡明な彼は幼いジェネヴィエーヴがクラレンスに強く執着した訳を理解した。そして彼女が強くクラレンスとの縁組を望み、甚だしい執心を見せていたあの時ですら、ジェネヴィエーヴには一片の恋心すらなかったことに想到し、苦しげに眉根を寄せた。ずきずきと傷む心に封をして、クラレンスは今、目の前で彼の助けを必要としているジェネヴィエーヴを見つめながら、今この時、自分自身を見つめ返している彼女をこそ手に入れたいと思った。クラレンスは彼女の心を渇望する自身の心を認識した。
 ジェネヴィエーヴの告白を聞き終えると、彼は秘密の守秘と可能な限りの協力を申し出た。ジェネヴィエーヴにとっては渡りに船の提案だったから、心からの感謝と若干の呵責に胸を灼きながら彼の手を握り返した。
「打ち明けてくれてありがとう」
 クラレンスは満足げに微笑した。クラレンスは彼の眼差しの強さを厭う様に目を伏せたジェネヴィエーヴの頬に手を添えて、顔を上げさせると、彼は重ねて秘密を打ち明けてくれた彼女の決意に礼を言った。
 これでクラレンスと距離を置こうと努めていた月日は水泡と化してしまった。後戻りできないのはジェネヴィエーヴも同じだった。ジェネヴィエーヴはクラレンスを見つめ返しながら、運命の細い糸に自分が絡めとられてゆくのを感じていた。自縄自縛に陥ったその先に一体どのような未来を望みうるのか。
いや、現状に窮した今こそ攻勢に転じるべき時なのだ。どれほど無様にもがき苦しもうとも、必ず最後に彼女自身の未来を掴み取ってみせる。そのために彼女を愛し彼女が愛してきた人々に助けを求めることを恐れることも、彼らが差し伸べてきた手を掴むことをためらう必要はない。彼女は静かに決意を固めた。


後日、ヒューバードを伴ったクラレンスはナイトリー侯爵邸を再び訪れた。
ヒューバードを引き込むことを提案したのはアリアだった。それまで中立を保っていた彼女は、ジェネヴィエーヴが一度クラレンスに秘密を打ち明けると決めると、それならばいっそのことノートン卿を巻き込んではどうかと進言した。優秀な騎士で顔が広く、一見奔放とも見える彼の身軽さは非常に魅力的だった。何よりもクラレンスに対する信義と忠誠は何よりも信頼を置くことができた。クラレンスがジェネヴィエーヴに全面的な協力を約束した限り、ヒューバードがクラレンスに不利となる行動をとることはあるまい。彼女はそう訴えた。
その後、ジェネヴィエーヴから相談を受けたクラレンスが少し考えこんだ後で、
「全てを話す必要はないでしょう。ジェネヴィエーヴ嬢の立場もあるでしょうし、要点だけであればよい提案だと思います。勿論ジェネヴィエーヴ嬢とナイトリー侯爵がよろしければという大前提のもとですが。ヒューバードが協力者となるのであれば随分と融通の利くことも多いでしょう」
彼が賛意を表すと、事はとんとん拍子に運び、10日もせずにヒューバードはナイトリー侯爵邸に招待される運びとなったのだった。表向きは、先日の出来事への礼という名目であったが、勘の良いヒューバードは招待状をクラレンスから渡された時から常ならぬものを感じ取っていた。
 そうして、何故かジェネヴィエーヴの応接間ではなく、主人の応接間に通されたヒューバードは冷や汗のとまらぬ身体の震えを必死に堪えつつ、家長であり朝廷の最高権力者でもあるナイトリー侯爵と対峙していた。共に訪問したクラレンスはというと、一足先にジェネヴィエーヴの元へと向かっていた。
「ふむ。ノートン卿、なぜ自分がこの場所に座しているのかわからないといった態だね。安心しなさい。今日はなにも君に危害を加えようとなどしていないさ。勿論、これからの君の返答次第、いや、今後の身の振り方次第ではどうなるか保証はしかねるが。君のことだ、クラレンス殿下にとっても君にとっても、きっと賢明な選択をしてくれるだろうと期待しているよ」
 口の端だけで微笑んだナイトリー侯爵は人差し指で、ゆっくりと机上を軽く敲きながら視線だけを動かしてヒューバードを見つめた。
「世慣れた君のことだ。これまでも貴族たちの種々の噂話や醜聞を耳にしたことがあるだろう。中には口を噤み身を慎まねばならぬような話題もあったはずだ」
 ヒューバードはナイトリー侯爵のシャープな下顎辺りに視線を落としつつ、何度も短くはい、と相槌を打つしかなかった。
「今日、私の娘がこれまでほとんど交流のなかった君を招待した真意が気になるだろう」
 自身の台詞に若い騎士がハッと肩をこわばらせるのを見て、ナイトリー侯爵は感情を伺わせない冷酷な表情のまま続けた。
「私としてもジェネヴィエーヴを待たせるのは本意ではない。事前に承諾を与えてもいた。だが、こうして先にノートン卿を呼び出したのにも訳がある。何よりも娘に関することだ。君も理解してくれるだろう」
 ナイトリー侯爵は2枚の書面をヒューバードの前にスッと差し出した。
「これを生涯にわたり、誠実に履行することを約束してもらいたい」
 言葉としては提案であり、願いであったが、身分の差も然ることながら、猛獣を目の前にした子ウサギさながらの心境のヒューバードにとって、これは厳命に等しかった。頭の良い彼は否と返答した途端、彼の貴族生命が終結することを予見した。
 それでも、唯々諾々と屈する彼ではなかったから、どうしても小刻みに震える手で書面を持ちながら、じっくりとその内容に目を通した。
「これは」
 ハッと顔を上げた彼はナイトリー侯爵の勁い視線を受けて、ぐっと口を引き結ぶと
「かしこまりました」
 と答えて2枚の文書に署名し、ナイトリー侯爵に差し出した。ナイトリー侯爵は僅かに顎を引き、控えていた家令の捧げ持つ箱に1通を納めさせた。家令はもう1枚の文書を丁寧に紐でくくるとヒューバードに差し出した。
「ああ、随分と遅くなってあの子を待たせてしまったな。ノートン卿、手間を取らせてすまなかった。ジェネヴィエーヴが首を長くして待っていることだろう、もう下がって結構だ」
 ナイトリー侯爵の応接間を後にしたヒューバードは、執事の一人にジェネヴィエーヴの元に案内されながら、大息した。

 誓約書の大部分はジェネヴィエーヴの「病い」をめぐる文言と、緘口・守秘、一連の約定の厳守に割かれていたが、文末、これを履行する限りにおいて、ナイトリー侯爵がクラレンスとヒューバードの後ろ見となることを約束していた。ヒューバードは朝廷の怪物の如き侯爵を前に畏れを感じながらも、その申し出を拒むことはできなかった。これで王宮の中で孤軍奮闘するクラレンスとヒューバードは救われるだろう。生き残りをかけた彼らの戦闘はようやく報われるのだ。

 ヒューバードは誓約書を握り締めながら、ぐっと顔を上げて陽光の差し込む長い廊下を歩み出した。
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