男主人公たちの様子がおかしいのですが、前世を思い出した悪役令嬢は命の危機にさらされているのでそれどころではありません

あいえい

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廃妃の呪いと死の婚姻8―5

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廃妃の呪いと死の婚姻8―5

 フェラーズ家から正式な招待状が届いたのは、ジェネヴィエーヴ達がケリンチパークに落ち着いてから数週間ほど経った頃だった。というのも、フェラーズ夫人と妹のミスター・フェラーズがあれ程言い聞かせていたというのに、ケイ・フェラーズときたら自宅に到着するなり、荷ほどきもそこそこに、父の書斎を研究室宜しく改造した部屋に籠城してしまったからだった。そうして研究室に籠ったが最後、母妹ですら日に幾度と顔を合わせることも稀なことが常だった。
漸くケイ・フェラーズが研究室から姿を現し、久方ぶりにまともな会話を交わせるようになると、彼女たちは彼の研究が一段落したことを悟ったのだった。彼女たちは昔と全く変わらないケイ・フェラーズの行動に呆れつつも、王都に向かう以前の切羽詰まった悲壮感がすっかり鳴りを潜め、前途が開け才能に満ち溢れた男の姿を認めて、ほっと胸を撫で下ろした。
 よれよれの白衣のまま、瞳だけをキラキラと希望で輝かせた息子が数日ぶりに扉の外に現れると、フェラーズ夫人は郵便を出しに行くという彼の言葉を遮って、風呂に入るよう断固とした調子で告げた。しかたなく友人を訪ねに出かけるという妹に手紙を託すと、彼は従容と洗面室へ向かったのだった。
何日かぶりに髭を当たり、髪を梳った彼は男ぶりも上がって見えた。事実、以前の爪の先に非を灯すようなつましい生活の中で、日々の糧を削りながら研究に打ち込んでいた彼とは見違えるようであった。支援者の篤い援助によって、水で薄めたようなほんのりと塩味を感じるかどうかというスープにパラリと燕麦を散らした、粥ともいえぬ食事を日に1度口にするといった生活は絶えてなくなっていた。清潔な住居と十分な栄養、豊富な研究材料と設備の整った広々とした研究室に余て、彼の生活は一変した。こけた頬には肉が付き、慢性的に目の淵をかたどっていた黒い隈もいつの間にかなくなっていた。衣食住に煩わされることなく仕事に打ち込めるようになると、彼の研究精度も上がり、抑圧された才能は劣等感から解放され、朗らかな人柄すら垣間見られるようになった。

帰郷したその日以降はじめて食卓でまともな午餐をとる中で、3個目のパンをにぎりしめたまま舟をこぎ始めた彼を見つめて、フェラーズ夫人は淡く笑みを浮かべた。
――もうそろそろナイトリー嬢をお迎えする準備をせねばなるまい。
 贅沢な美食に慣れきっているだろう貴族令嬢をもてなすためには一体何を用意すべきだろうか。他のご婦人たちならそんなことに頭を悩ませたことだろうが、彼女の頭の中では別の事柄が占拠していた。フェラーズ夫人の表情は硬くこわばっていった。
 彼女はメイドにいくつかの指示を言いつけると、もう何十年も座り続けている彼女の席へと腰を下ろした。二人だけの食卓には息子の寝息だけが静かに響いている。彼女は息子を、正しくは息子の座るその空間を見つめていた。
今でこそ家長の席は息子のものとなっているが、それ以前は何十年も彼女の夫であるミスター・フェラーズのものであった。フェラーズ家は地元では名士として知られていたが、彼自身は学者として尊敬を集めていた。領主である先代のミスター・グレイも彼に一目置いており、若い頃から二人は友人として互いを敬愛していた。
 フェラーズ夫人を娶せたのもミスター・グレイの計らいだった。ケリンチパークの舞踏会で初めて顔を合わせたミスター・フェラーズは、丁寧だがどこか翳りのある若者だった。彼女の父は紳士階級の人で、地方の小さな村の地主でしかなかったが、彼女くらいの階級の女性にとっては十分な持参金を持たせてくれた。一人娘の彼女は明朗というよりも穏やかな気性の持ち主で、母譲りの人並み以上の器量をもっていたから、結婚適齢期になると数人の紳士達から求婚される機会を得た。それでも彼女が決して裕福とは言えないミスター・フェラーズの手を取ることに決めたのは、まさしく彼の手が決め手であった。
 二人の3度目の出会いはとある邸宅での野外遊びの場のことだった。彼はちょっとした手違いで手袋を外していたのだが、風に飛ばされた彼女のリボンを拾い上げてくれたのだった。彼女はどぎまぎしながら受け取りつつ、彼のすらりと長い指の神経質そうな手から目が離せなくなっていた。その時のミスター・フェラーズの顔付きや台詞は全く覚えていなかったが、何故だかその白い手だけが妙に印象に残り続けた。
 そうしてその後も幾度かの偶然の出来事が重なって、ついには結婚し、二人の子どもを儲けた。ミスター・フェラーズは予想通り繊細で気難しい人だった。フェラーズ夫人は彼のことを愛していたし、愛されているという自負もあったから、生家よりも裕福ではない生活にも満足していた。ミスター・フェラーズもまた彼女を敬い、家のことを信頼して任せていたが、彼が本当に心を許し彼女と大切な秘密を共有するまでには十年以上の年月を要した。彼は病の床に着きながら、彼女に長い話を打ち明けた。そうして、長くない闘病の最期の夜に子供たちを枕頭に呼び寄せると、ミスター・フェラーズは妻の手を借りながら長い長い話を聞かせた。
 ミスター・フェラーズは20回目の春を迎えることなく帰らぬ人となり、空いた席には息子が座ることになった。
「ミスター・フェラーズ」
 フェラーズ夫人は結婚前もその後も夫のことをこう呼んでいた。
「どうか、私達の子どもを、そして私達の決断を見守っていてください」
 フェラーズ夫人は目を閉じて両手を組むと、長いこと祈り続けた。

それからは実に慌ただしい日々が続いた。何回かのやり取りの後、ジェネヴィエーヴ一行の訪問日が正式に決定すると、フェラーズ一家は家族会議を開き、準備に取り掛かった。


フェラーズ家は想像していたよりもずっと素敵な家だった。ジェネヴィエーヴはコテッジのような小ぢんまりとした建物を想像していたのだが、予想が外れて目をしばたいた。なるほど流行遅れの古めかしい様式ではあるが、小ざっぱりとして手が行き届いており、全体的に好感の持てる快適な造りだった。雷で焼け落ちたという納屋はすっかり綺麗に取り払われ、木目も新たな小奇麗な物置が建て付けられていた。家の周囲には小さな花壇と、広い畑が隣接している。畑には幾つもの野菜が等間隔に植えられていた。端にある見慣れぬ植物は薬草の一種だろうか。そこだけぐるりと低い垣根に囲われ、どこか無造作に雑多な植物が緑の葉を揺らしていた。
ジェネヴィエーヴにとっては初めて目にするものばかりだった。田舎も初めてならば、見渡す限りの畑も見たことがなかったし、そこを耕す農夫たちの姿を目にしたこともなかった。ジェネヴィエーヴにとっては都のナイトリー侯爵邸が全てだった。お茶会や舞踏会で招かれる屋敷も似たりよったりで、どれも近代的で洗練され、豪奢で華やかなものばかりだった。領地の様子を耳にしても、どこか絵空事の様で現実味がなく、せいぜい旅行記の挿絵を思い浮かべるばかりであった。それがどうしたころだろう、ジェネヴィエーヴは目の前に広がる景色に圧倒された。
「まぁ」
 吐息で言葉を切ったジェネヴィエーヴを隣に降り立ったアリアがうかがう。動きを止めた二人に、乗馬から降りたノクターンが何事かと近づいた。
「絵画のようね」
 感嘆と共にポツリとこぼされた台詞に、意図を察して二人が笑みをこぼす。キョトンと目を丸くしたジェネヴィエーヴもまた一拍置いて笑声を上げた。
 楽し気にさざめき合う3人の様子こそ一幅の芸術作品の様で、馬車から降りるジェネヴィエーヴに手を貸していたケイ・フェラーズは微笑を浮かべた。次いで、ご気分はいかがですか馬車には酔いませんでしたかという問いに、ジェネヴィエーヴが大丈夫だと受け合った。
「多少は慣れたのでしょうか、窓の外の景色を見ながら愉快な時間を過ごせました。実は素敵なお天気なので、バルーシュ馬車で出かけたいと申したのですが、ノクターンとアリアに反対されてしまいました」
「二人ともジェネヴィエーヴ様をご心配されたのでしょう。春とはいえ、川辺の風は随分と涼しく感じますから」
 ケイ・フェラーズに微笑みながら頷くと、ジェネヴィエーヴは招待に対する礼を述べた。そこで、ケイ・フェラーズが間に立って、彼女と母の紹介を行った。フェラーズ夫人はふっくらとした大柄な女性で、笑った時の目じりのたれ具合がケイ・フェラーズとそっくりだった。
一行を出迎えたフェラーズ夫人は貴賓の来臨に感謝を評すとともに、これまでのナイトリー侯爵家からの恩沢の数々に丁重に礼を述べた。実はナイトリー嬢のような高貴な方はひょっと、このような田舎家に尻込みするのではないかと内心懸念していたのであるが、ジェネヴィエーヴが、まるで対極の反応を示したためにほっと胸を撫で下ろした。彼女の瞳は、めったにお目に掛かれない植物や鉱物を見つけた時の息子のそれによく似ていた。ああ、この方はかえって珍しもの好きなのだろうかと僅かに心が軽くなった。
「素敵なお宅ですね」
 客間の居心地の良いソファに腰かけて、ジェネヴィエーヴはふわりと微笑んだ。久方ぶりの外出に多少の気疲れを感じていた彼女はほっと息をついた。フェラーズ夫人の淹れたハーブティーからは、ミスター・フェラーズがケリンチパークまでの道中、彼女のために処方してくれていたものとよく似た芳香が立ち上がっていた。彼女は頬を緩めると、ご子息には大変感謝しておりますと切り出した。
「旅の途中、ミスター・フェラーズの処方してくださったお茶にどれほど助けられたことでしょう。爽やかで軽やかな風味に乗り物酔いも随分と軽減いたしました。あのお茶が無かったらと思うとゾッと致しますわ」
 ケリンチパークに到着するまでもたなかったのではないだろうか、そう言って笑う彼女の隣で、当時を思い返したラトクリフ姉弟が蒼い顔をしながら小さく首を振った。それに気づいたジェネヴィエーヴがあら、といって更に笑みを深めた。
 フェラーズ夫人はというと、三人の美貌の若者たちの親愛と深い絆で結ばれた様子に思わずぼうっと見入ってしまった。娘のフランシスからラトクリフ姉弟の天使のような美貌については事前に聞き知っていたが、実際にこうして顔を合わせるとなると、あまりの現実味のない美しさに心が舞い上がるようであった。フランシスはナイトリー嬢の容姿については彼女の身分と彼らの被った恩恵を憚って口にすることはなかったものの、ジェネヴィエーヴを目の当たりにして、なるほど都の高貴なお方という人は立ち居振る舞いまでこうも気品を感じさせるものかと息を呑んだ。ジェネヴィエーヴに二人が寄り添っている様は、いっそ幻想的ですらあった。歳のいった自分ですら身がすくむ思いがするのに、息子は王宮でこうした貴族の方々と以下にして亘りあっているのだろうかと頭痛すら来しそうであった。
暫くは主にフランシスと一別いらいのの再会に、どのようにお過ごしでしたか、道中は毎日顔を合わせていたのに、こちらに着いてからはなかなかお会いできなかったので随分と久しぶりの気持ちがしますね、などと話を交わしていたが、直ぐに沈黙が下りてしまった。元々多弁な方ではないケイ・フェラーズはともかくとして、これまでならば、年の頃が近いこともあり、もっと気安く接していたはずのフランシスまでも、母親の緊張が染ったかのように黙り勝ちで、ジェネヴィエーヴは内心面食らってしまった。
ジェネヴィエーヴはどうしたものかとアリアに視線で助けを求めた。体調不安もあり中々社交慣れしていない上に、屋敷に籠りきりの生活で、このような訪問の際に相応しい話題選択など思いもよらないことだった。そのうえ彼女は自覚していなかったのだが、彼女の美しさの源泉はアリアのような愛敬にみちた朗らかな美貌とは対極に、こちらの気が引けるほどの気品にあった。だから、ジェネヴィエーヴが困惑して口を噤んでしまうと、場の空気は一度も二度も下がった様に冷え冷えと感じられた。
ナイトリー邸のような大きく古い屋敷であれば厳かな沈黙は似つかわしく、却って好ましいものですらあっただろう。しかしフェラーズ家のように温かく生活感に満ちた家にあっては、まるで相応しからぬものだった。勢い込んで乗り込んだはいいものの、このような雰囲気では重大な打ち明け話などできようはずもない。ほんのりと甘いはずのハーブティーですら、今では冷たく苦み走っているように感じた。ジェネヴィエーヴは思わず空を仰ぎたくなった。
そんな時救いの手を差しのべたのは、意外なことにノクターンであった。
「室内の装飾はフェラーズ夫人の御趣味でしょうか」
 楽を奏でるような涼やかな声音に、一同の視線が集まった。彼は柔らかい笑みでそれを受け止めた。
「暖炉の壁に飾られているのものは楽譜ですね?隣の額は書物の断簡でしょうか。どれも随分と古いもののようですね」
 穏やかな声音に一同の緊張がたちまち解けていく。
「はい。以前はケースにしまい込まれていたものを、せっかくならと表装いたしました」
「美しい筆跡ですね」
「フェラーズ家の子ども達の手本の一つです。今は小さな子供もおりませんので、目にする機会もなくなっておりましたが、先日虫干しの時に見つけまして、感慨深くなりましたの」
「手本というと記されているのは詩歌の類でしょうか」
「はい。子ども達が特に気に入っていた詩文です。春の詩ですから時節柄も相応しいと思いまして」
 それは素敵な思い付きですねと、僅かな笑声すら上げてフェラーズ夫人と話す彼にジェネヴィエーヴは目を見張った。
「先程も通りがけにちらりと目に入ったのですが、隣の部屋にも興味深い品が飾られていましたね。失礼でなければ拝見してもよろしいですか?」
「まあ。お若い方が興味を持たれる物とも思えませんが、よろしければぜひご覧ください」
ノクターンはありがとうございますと折り目正しく礼を述べると、ジェネヴィエーヴ様もご一緒にいかがですか、といって手を差し出した。つられて手を差し出したジェネヴィエーヴは促されるままに立ち上がった。
「もしよろしければ解説していただけますでしょう?」
「勿論です。何分古いものですから、分かる範囲でご説明させていただきますわ」
 一同は席を立つと壁から壁へ、そして隣の部屋へと進んでいった。主にノクターンが質問し、フェラーズ夫人やミス・フェラーズがそれに答えるという図式が成り立っていた。ジェネヴィエーヴはアリアと腕を組みながら、後ろに続き、ケイ・フェラーズが彼女たちと並んだ。
 なるほど、よくよく観察してみると人物画や風景画に混じって、あちらこちらに古い書物の一ページが額装されている。何か詩編の一種だろうか、手始めにすぐ近くの物をじっくりと観察すると、そこに記されているのは奇妙なおとぎ話や、伝奇の類のようだった。
 目をしばたき内心首をかしげながら、側の額に目を移すと、紙面の半分以上をねじくれた顔をした小人がご機嫌に口を開いている挿絵が占めている。添えられているのは民謡の一種だろうか。
「夫のミスター・フェラーズはこうした古い伝説の類を集めるのが趣味でしたの。フランシスの遺跡や遺物に対する興味関心はきっと夫に似たのでしょうね」
「父は新しい断簡を手に入れると、それがどれほど長い時間をかけて、いったいどれほどの紆余曲折を経ながらこの家までたどり着いたのか、書物や地図を片手に語ってくれたものです」
「なるほど、幼い頃から御父上の薫陶を受けて育ったミス・フェラーズが歴史の所産に造詣が深いことにも納得できますね」
「それでも、ふらりと出かけたまま、数日も帰ってこないなんていう所まで似なくてもよかったのにと思いますよ」
 フェラーズ夫人はもうすっかり緊張が解けたようだった。明るい笑い声に、ジェネヴィエーヴの関心は次第に壁に飾られた奇妙な話ではなく、前を歩く人々へと移っていった。
 それにしても、ノクターンは適度に相槌を打つのにとどまらず、この原典は何々でしょうか、確か依然目にした本に類話が載っていたと思いますがなどと、思いがけない博識を披露して、フェラーズ夫人とミス・フェラーズとの会話に花を咲かせていた。
「驚かれましたか」
ミスター・フェラーズの問いかけにジェネヴィエーヴはハッと顔を向けた。思わずはい、と正直に答えてしまった後で、直ぐに我に返って頬を染める。
「あ、そんなことは・・・」
「ミスター・ラトクリフのあのような姿をご覧になったのは初めてのようですね。確かに、普段お屋敷にいる時の心の置けない方々と過ごしている彼とは様子が随分と異なっていますから」
彼はその気になれば大層人好きのする好青年になることができる。彼のような秀麗な姿かたちの有能な人物にあっては、人々はどうしてもつい魅了されてしまい、おのずから心を開いてしまうものですよ。微笑みを浮かべるとミスター・フェラーズはノクターンと、彼に熱心に説明する母親の姿に目を細めた。
「人を惹き込む能力を持っているというのでしょうか。あれだけ緊張しきっていたのに、母の様子を見てください」
「本当に、そのようですね」
 曖昧に頷きながらジェネヴィエーヴがアリアをうかがうと、彼女もまた戸惑ったような笑みを浮かべた。
「ここ何年かの間にノクターンが対外的なお仕事にも関わらせていただくようになったとは伺っておりましたが、私も実際に目にするのは初めてで。何というか、そう、非常に感慨深いですね。以前は率先して人前に出るなんて考えられませんでしたもの」
 どこか感動した様子で温かい眼差しを向けるアリアに、ミスター・フェラーズもまた大きく頷いた。
「得手不得手がある中で生まれ持った性向というものは一朝一夕に変えることはできません。特にネガティブな性質のものを変えるためには、幼い自分と向き合い、己の弱さを知った上でそれを打ち破る強い意志が必要です。井の中の蛙と申すように、弱さを受け入れ自己から抜け出して初めて、広い世界と己を繋ぐことができるようになるのだと思います。ミスター・ラトクリフが以前は繊細さゆえに一方で内向的であったのだとすれば、相当な努力をなさったのでしょう。その中で生まれ持ったもの以上の美質を涵養してきたのだと思います」
 アリアはミスター・フェラーズの言葉に大いに心を動かされたようであった。
「美質と仰ってくださいましたね。身内贔屓になってしまいますが、ノクターンは幼い頃から少なからぬ才能を持ち合わせていました。そしてたゆまぬ努力を積み重ねてきたことも確かです。ですが、それも目指すべき標があってこそ成し遂げられるものだと思います。ミスター・フェラーズがおっしゃった、強い意志、まさにその通りなのでしょう。私たちに手を差しのべ、素晴らしい環境と機会を与え、絶え間ない支援をしてくださった方々への感謝と尊敬の念、そこから発した強い目的意識と、希望こそがノクターンを支えているのだと思います」
そう言いながら、彼女はジェネヴィエーヴと組んだ手にキュッと力を込め、私もそうですからとでも言いたげに穏やかな笑みを浮かべた。

 ジェネヴィエーヴはといえば一人、取り残されたような心持に戸惑っていた。ノクターンの成長、これは紛れもない事実だった。ノクターンもアリアも確固と目標を見定め、たゆむことなく努め、確実に歩を進めている。幼い世界から脱却し、外の社会へと自らの世界を拡げていく彼らを目の当たりにして、ザワザワと心がうずきだす。胸の内を熾火が焦がして行くようだった。
 ふいに思い知らされる残酷な現実にジェネヴィエーヴはうちのめされた。近年めっきりと増えたこの痛みに彼女はなかなか慣れることができなかった。彼らは彼らの成長がジェネヴィエーヴに苦痛を与えているなどとは思いもしなかっただろう。一方で、彼女はアリアやノクターン、クラレンスですら彼女のために駆け足に大人になろうとしていることを知っていた。だからこそ目を見開き、微笑みを浮かべたままで口を噤むことを選んだのである。
 生まれ持った美貌も、才能も、家柄や財産さえ彼女は自分のためにも他人のためにも行使することができない。そしてそれはこれからも変わらないのではないだろうか。彼女は何にもなれず、何も生み出すことのできぬまま露と消えさる定めなのではないか。呪いの苦痛に身をよじる夜などには、恐ろしさに呼吸が絶え果ててしまうのではないかとすら感じた。ざまざと思い知らされる現実が哀しく、耳目を塞ぎたくとも出来ぬこの現状に絶望した。
 なぜか自分だけがこうしていつまでたっても同じ場所でもがき続けている。
 苦しかった。父やアリア達から与えられる好意を、愛情の深さを知れば知るほど苦痛はましてくかのようだった。置いてゆかれる恐怖、それだけではない。アリア達が周囲から認められてゆくほどに、ジェネヴィエーヴがいなくなった世界に於いても彼らが十分にやっていけるであろうと確信した。彼らを愛する気持ちが深まるほどに、彼らが輝かしい未来を切り開くその傍らに自分が居ることができない、それが無情で哀しかった。何よりも、この嫉妬。彼らの大成を祈り喜ぶ気持ちよりも、徐々に黒々とした妬心に傾いてゆく病んだ心が苦しかった。
薄暗い感情が大きくなる。黒い感情に沈んでしまえば、途端に呪いが彼女の生命力にとどめを刺すだろう。小さく浅い息を繰り返し、心を鎮める。

 心に蓋をして、外部に意識を済ませれば熱心に会話を交わす彼らの台詞が遠くに聞こえた。俯き加減になったジェネヴィエーヴに、アリアが疲れましたか、おかけになりますかと不安そうに尋ねていた。
「大丈夫よ」
 淡く笑みを浮かべて首を横に振ふるとアリアがホッとした表情を浮かべた。
そう、彼女自身の目標を忘れてはいけない。誰がどうあろうとも、己自身の問題を一番理解しているのは自分自身なのだから。アリアやノクターンたちと肩を並べるよりも先に解決すべきことが何か、ジェネヴィエーヴは十分わかっていた。前進しているのか、はたまた全く見当違いの方向に向かっているかはかりようもない。だが暗中模索の中であっても眼前の課題に一つ一つ向かい合うよりほかないのだ。
 しかし、この焦燥感をどうしたらよいだろう。一人取り残された迷子のように胸をぎゅっと握りしめた。
「ジェネヴィエーヴ様」
 こちらをご覧ください、という呼びかけに、ジェネヴィエーヴはハッと顔を上げた。微笑みを浮かべるノクターンが彼女に向けて手を差しのべていた。
 穏やかな笑顔を取り繕いながら、なにかしらと歩み寄ると、彼は此方ですと言って一つの額を手で示した。
 それは継ぎの当てられた古いぬいぐるみの飾られた棚の上、小さな額に丁寧に表装されていた。
「古い・・・手紙、でしょうか」
 元は折り畳まれていたのであろう、丁寧に伸ばされたそれは、今日のような上等な手漉き紙ではなく、もっとゴワゴワと厚ぼったいものだった。明らかに他の書付や切れ端よりも古いにもかかわらず、ほとんど日に焼けていなかった。丁寧に注意を払いながら保管されてきたことが一目で分かる一葉だった。それだけに他の装飾とは軌を一にしていることが明らかで、一種異様な存在感を放っていた。
ひょっと材質は羊皮紙だろうか。上部には封蝋の名残がみてとれる。年を経て劣化した端端が大きく欠けている。元々は黒々としたインクで記されていたであろう文面も、所々薄く、紙魚が喰った跡があった。それでも判読に耐えないということはなく、かつての筆跡を今に伝えていた。
 一つの答えに思い当たって、僅かに目を見開いた。じわりと汗がにじむ。
「女性の蹟ですね」
 言いながら喉がからからに乾いていくのを覚えた。声が震えていないだろうか。
「内容は、ええと、家族に宛てたものでしょうか。身体は元気か、どう過ごしているのかと訊ねていますね」
 横に並んだアリアが小さく息をのんだのを感じた。
――これは
 思わず、ノクターンに握られた手に力が籠った。それにこたえるように、彼もまた僅かに手を握り返す。
――この筆跡は彼女のものに違いない。
 もう何度読み返したことだろう。誰のどんな手紙よりも熱心に、心を入れて見つめ続けてきたのだ。見間違うはずがない。
――こんな場所で貴女に再会するなんて。
 さりげない風にノクターンを見上げると、彼もまた確信に満ちた表情で頷いた。突如訪れたこの邂逅に胸が高鳴るのを抑えきれない。彼等の推測は正しかった。漸く巡り合うべき場所で、出会うべき人々に会うことができた。ようやく。ここまでやってきたのだ。

――クレメンティーン

 署名を確認する必要すらなかった。流麗ながら時折淡く膨らみを帯びる癖のある筆跡がそこにあった。

 ようやくあなたに会うことができた。
 
何故かそう感じた。そう感じたことにおかしみを覚えた。
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