江津レイクタウン

真田宗治

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最終話 江津レイクタウン

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 その夜、私と真子さんはお布団に入ったまま、遅くまで話し込んでいた。少しだけワインを飲んだせいで、真子さんの顔は少し赤くなっている。
 
「くまモン、ひとつ頂戴」

 真子さんが無邪気に強請る。

「はい、どうぞ」

 私は、近くにあった小さなくまモンを一匹引っ掴み、真子さんに手渡してやる。

「ありがとう」

 真子さんはぬいぐるみを受け取って上機嫌である。
 そうして、私たちは暫し、見つめ合った。

「どうしたの。黙り込んで」

 真子さんが、ちょっぴり不安な顔をする。
 無理もない。私は相当、張り詰めた顔をしているだろうから。

「ねえ真子さん、一つ聞きたいんだけど」
「うん」
「あのね、真子さんは、どうしてすぐに東京に戻らずに、何日も熊本に止まったと?」

 この問いかけの答えを、私は知っている。真子さんは恋人の形見の本を探していたのだ。でも、聞かないわけにはいかなかった。

「ちょっとね、探し物をしていたの。でも、もういいの」

 真子さんは、そう言って微笑を浮かべる。微笑んだ時の方が淋し気な、あの微笑を。

「そう。本当にもういいの? 探し物は見つからなかったんでしょ」
「うん。だけど……」
「だけど?」
「探し物は見つからなかったけど、私は空っぽって訳じゃなかった」

 その言葉を聞いて、私はやっと腑に落ちた。真子さんが探していた本は、真子さんを傷つける物ではなかった。私は理解の次元を間違っていた。
 月の花は、真子さんが、津藤つとう正陰まさかげ弓月ゆづき桃子ももこを愛した証。何もかも失った真子さんの存在を証明する、たった一つの証拠だったのだ。真子さんにとって、津藤つとう正陰まさかげの記憶も、弓月ゆづき桃子ももこの存在も、なくてはならぬアイデンティティそのものだったのだろう。そして真子さんは、もう、その本に依存している訳ではない。本を見つけることが出来なかったのに、自ら帰る決断をしたのだ。
 お陰で、私の心は決まった。

「他に、欲しい物は?」

 ポツリと、真子さんに問う。

「沢山貰ったから、もう、充分よ」
「ううん。まだ足りない。真子さんには、なんでもあげたくなるとよね」
「ふうん。じゃあ、何をくれるのかしら?」

 真子さんがおどけて言う。

「真子さん」

 私は真剣に言う。すると、真子さんも真剣な表情を浮かべる。私はついに切り出した。

「真子さんは、本を探していたとよね?」
「……ええ。どうして解ったの?」

 真子さん顔に、驚きが浮かぶ。
 私は布団けら抜け出して、机の引き出しを開ける。そして一冊の本を取り出した。

「あげる。この前、江津湖で見つけたと。でも泥で汚れてて。もう少し綺麗にしたかったんだけど、私、あまり器用じゃないけん」

 と、月の花を手渡した。
 真子さんは、血相を変えて本に飛びついた。彼女はすぐにページを開き、汚れ具合を確認する。本にはやはり、薄茶色の染みが滲んでいた。私は本を綺麗にしたくて、ハンカチや脱脂綿で拭いてみたのだが、染み付いた泥は手強かった。完全に綺麗にすることは出来なかったのだ。

「これは汚れじゃない。もう、大切な思い出よ」

 そう言って、真子さんは、月の花をひしと抱きしめる。
 沈黙がある。
 真子さんの息遣いに震えが混じる。やがて肩が震え出し、涙が溢れ出す。真子さんは美しい顔を歪ませて、嗚咽した。

「私は、貴女に何をあげたらいいの?」
「ううん。なんにもいらないよ。もう、真子さんからは沢山貰ったもん」

 私の目にも涙が滲む。
 本心だった。真子さんは、私にたくさんの物をくれた。真子さんはもっと、その事に自信を持っていいんだよ。

 ★

 別れの朝が来た。

「じゃあね、真子さん」
「うん。定義さだよし君も、色々ありがとう。どうか元気でね」

 定義は、玄関で真子さんとありきたりな挨拶をして、別れの握手を交わす。その手が離れた直後、定義はすぐに背を向けた。
 肩が、微かに震えている。

「さよなら」

 涙混じりの声が、真子さんを送る。
 私はそっと、玄関の扉を閉じた。

 私は真子さんを軽自動車に乗せて、家を出た。
 道中、私たちはずっと黙っていた。上手く言葉が出てこない。昨夜は、あんなにお喋りしたのに。妙に空気が重い。熊本空港まで何を話そう。
 私は、臆病な自分に苛立ちを感じていた。真子さんも、少し張り詰めたような、なんともいえぬ表情をしている。

「停めて」

 さいとう橋の上を通りかかった時、真子さんが口を開いた。
 私たちは、江津湖に寄り道をした。訪れたのは、さいとう橋の下の広場である。私と真子さんが出会った場所だった。こんな時なのに、空はどんよりと曇っており、やけに風が湿っている。
 水辺まで行くと、真子さんは、徐に、私が土産に持たせた竹刀を取り出した。

「最後に、地稽古に付き合ってくれる?」

 真子さんの瞳に不敵な輝きが宿る。

「いいよ。どれぐらい上達したか見せてみなっせ」

 私も竹刀を取り出して、静かに真子さんと向かい合った。
 土と、草の香りが心地良い。私は思い切り空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。すると、ポツリと、頬に大粒の雫が落ちてくる。急に雨が降り始めた。もう、とっくに梅雨が始まっているのだ。

「どうする。やめる?」
「ううん。これでいいの」

 真子さんは、雨空を見上げて少し楽しそうである。
 私たちは、互いに礼を交わし、静かに蹲踞そんきょして、立ち上がる。
 雨は次第に激しさを増し、湖は鉛色へと変わってゆく。幾分か風も強い。そんな中でも真子さんの眼差しは、真っ直ぐに私を捉えている。
 ねえ、真子さん、私は貴女の絶望の前に無力だったのかな。それとも──。
 問いかけは、言葉にできなかった。

「人間、一番楽しいのはね、道を行くことなのよ」

 と、私は、竹刀を青眼に構える。

「舌噛むよ」

 真子さんも、上段の構えを作る。
 静かな緊張が、そこにはあった。私たちは、じわじわと互いに距離を詰め、機先を探り合う。
 滑らかに、真子さんの髪が揺れた。
 刹那、真子さんが、えい! と打ち込んできた。私は呼応して踏み込んだ。真子さんの踏み込みも深い。ガツリと竹刀がぶつかり合い、つば迫り合いとなる。
 やっ! と、私は気合いの声を張る。私たちは鍔迫り合いから牽制し合い、再び間合いを取った。
 雨が目に入り、視界が滲む。胸にキリキリした感覚が込み上げて、何やら目元が熱い気がする。そんな私の竹刀の先で、真子さんは、額に張り付いた髪をかき上げる。
 真剣な睨み合いの中で、私は今という時を悟る。もう、私たちに言葉はいらない。呼吸の一つ一つに、間合いや構え、目の置き処に、多くのメッセージがある。ぶつかり合う剣気と打ち込みの圧にだって、彼女の本気と切実な祈りのような物が潜んでいる。
 嗚呼、これで本当に……。
 友愛、矜持、寂しさ、不安、勇気、あらゆる感情が強く込み上げる。私は、ないまぜになった感情を、思い切り解き放つ。
 やあああああ!
 全身全霊で、気合の声を張り上げる。サヨナラに似ていた。
 真子さんの瞳にも、光る物が滲む。やがて華奢な肩が上がり、彼女は大きく息を吸い込んだ。
 呼応して、真子さんも声を張り上げる。

「負けるかあああああ!」

 心地の良い声が、六月の曇天を貫いていった。











                おしまい。







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