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2幕 新婚旅行を満喫します!
76場 賢者の雫
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「え……?」
「遠慮しなくていいよ。たくさんあるから。ああ、手が使えなかったね。安心しな。僕が飲ませてあげるから」
戸惑うニールの前にしゃがみ、顔の横に掲げたカップを揺する。いつもの冷静さはどこへやら。口の端を上げ、普段見せない悪い顔をしている。
まるで猫がネズミをいたぶるような雰囲気に、ニールは飲まれているようだ。声もなく、ただレイの顔を見つめている。
「どうしたの? 心配しなくても死にゃしないよ。――まあ、君みたいな子供にはキツイかもしれないけどね」
「……っ! 飲みます! 僕はもう子供じゃ……」
「ああ、そう。じゃあ、飲みなよ。こぼさないでね」
左手でニールの頭を固定し、唇に当てたカップを傾ける。ニールは目を白黒させつつも、カップの中の液体を飲み下そうとしたが――次の瞬間、勢いよく吹き出した。
「あーあ。もったいない。こぼすなって言ったよね? もう一杯いっとく?」
「レイ、もうやめたげて。こんなに苦しんでるのに」
立ちあがろうとするレイを押し留め、むせるニールの背中を撫でる。
全部吐き出したので大丈夫だろうが、これ以上は見ていられない。夫が子供をいたぶる姿なんて。
「僕は頭にきてるんだよ、メルディ。怪我を負わされたことでも、くだらない教授選に巻き込まれたことでもない。自分勝手な思い込みで、君を裏切ったことにだ」
「レイ……」
「君が庇うぐらいなんだから、この子はいい子なんだろう。でもね、間違ったことをしたときは誰かが叱らなきゃいけない。僕は教師じゃないけど、大人として……何より先輩として責任があるんだよ。ねえ、ニール?」
ニールは滲んだ涙を肩で拭うと、顔を覗き込むレイに向かって声を張り上げた。
「な、何が賢者の雫だ……っ! これは、ウイスキーじゃないですか!」
「え!」
レイの手からカップをもぎ取り、少しだけ残った中身に鼻を寄せる。微かな明かりに照らされて琥珀色に輝くそれは、強いアルコールの匂いがした。香ばしいナッツみたいな香りも。
「そう、これは百二十年前に僕が研究室の仲間と作ったウイスキーだ。賢者の雫ってのは、当時の学生のスラングだよ。今は知ってる人の方が少ないかな」
エルドラドが作ったわけではなかったのか。
つい口を挟みそうになったが、黙って見守る。ニールやエレンたちも、メルディと同じく驚いているようだった。
「じゃあ、大いなる力っていうのは……?」
「君はまだ未成年だからわからないかな。酒を飲むと、テンションが上がるんだよ。それこそ大きな力が宿ったみたいにね。若い頃は随分やらかしたものさ」
レイの答えに、ニールの顔が絶望に染まる。
「そんな……。じゃあ、あなたはこのウイスキーを隠すために、わざわざ謎を作ったって言うんですか? 何のために?」
「別に何のためでもない。ただのお遊びだ。卒業前の記念として、僕たちは元々あった六不思議に七つめの不思議を足して謎を仕込んだ。もし後輩が見つけたらお裾分けにと思ってね。五十年後に再会するときに、どれだけ減ってるか賭けてたんだけど……。どうやら、手付かずだったみたいだね」
レイが小さく笑う。しかし眉には深い皺が刻まれ、知らぬ間に組まれた両手は微かに震えていた。
それを見た瞬間、メルディの胸に衝撃が走った。まるで走馬灯のように、アルバムで見た研究室の絵が瞼の裏に甦る。
ウイスキーを作ったのは百二十年前。エルドラドだけが持っていた八番めの不思議へと続く手がかり。それは、きっと――。
「レイ……」
もういい、と言いたかった。その先は言わなくていい、と叫びたかった。けれど、メルディが口を開くよりも前に、ニールが口に出してしまった。
残酷な現実を直視する言葉を。
「五十年なんてとっくに過ぎてるじゃないですか! もっと早く回収してくれていたら、僕だって……」
「みんな死んだからだよ」
全員の顔が一瞬で凍りついた。
誰もが身じろぎ一つできずにレイを見つめている。息をするのすら憚られるような空気だ。
そんな重苦しい沈黙に支配された部屋の中で、レイの声だけが淡々と響いていく。
「百二十年前、僕たちは揃って大河を越え、戦場の中で散っていった。皮肉だよね。みんな僕より強かったのに、生き残ったのは僕だけさ」
あの大河を越えて戦場に行ったものは、ほとんど戻ってこなかった――バー穴蔵でミルディアが言っていたことだ。
研究室の仲間のうち、四人は長命種だった。もし生きていたとしたら、今もきっと交流があっただろう。メルディたちの結婚式にも来てくれたはずだ。
もっと早く気づけばよかった。そうしたら、レイにこんな苦痛を負わせずに済んだのに。
メルディの煩悶をよそに、レイの告白は続く。
「みんながいない魔法学校に戻る意味はない。だから、僕はグリムバルドに残ったんだ。賢者の雫のことは、ずっと頭の隅にあったよ。一人でも取りに行こうと思ったこともある。だけど……」
そこで言葉を切り、レイは両手で顔を覆った。今にもこぼれ落ちそうな想いを――思い出を押さえ込もうとするように。
メルディは見た。見てしまった。インクが染み込んだ指の隙間で、何かが微かに光るのを。
「この賢者の雫には、ずっとここで夢を見ていてほしかった。いつか、みんなと一緒に開けるという夢を。二度と戻らない青春の夢を。君が手に入れようとしたのは、その残滓なんだよ、ニール」
うう、とニールから嗚咽が漏れた。メルディの両目からも、エレンの両目からも絶え間なく涙がこぼれていく。
レイの悲しみ。苦しみ。痛み。それらが全て濁流となって押し寄せてきて、メルディはただ泣きじゃくることしかできなかった。
「ご、ごめんなさい、レイ。私、そんなこと知らずにずっと」
「……泣かないでよ、メルディ。僕は嬉しかったんだ。僕たちが残した謎で、君たちが楽しんでくれることが。――まるで、昔に戻ったみたいで」
魔法学校を離れるとき、レイたちは賢者の雫に辿り着く手がかりをエルドラドに託した。もし、お眼鏡に叶う生徒がいたら渡してやってくれと言い添えて。
レイは最初から知っていたのだ。メルディが賢者の雫を探していたことに。
「さすが校長先生だね。謎を託すには、君が一番適任だ。君は何があっても絶対に諦めないし、何より……僕の奥さんだから」
レイがゆっくりとメルディに手を伸ばす。そして、涙で濡れた頬を両手で優しく包むと、潤んだ翡翠色の瞳でまっすぐにメルディを見つめた。
「ずっと黙っていてごめん。僕たちの青春の欠片を見つけてくれてありがとう。君と結婚して本当に良かった」
その口元は緩やかに弧を描いている。いつも愛を囁くときに浮かべる甘い顔。
こんなの反則だ。こんなことされたら、黙って胸に飛び込むしかないじゃないか。
レイの体に障らないようにそっと抱きしめ、胸に頬を寄せる。人前でいちゃつく姉たちに、グレイグが「うわ……」とでも言いたげな目を向けてくるが無視だ。
「もう一つ謝りたいことがあるんだけど……。それは、また後でね。今はまだ、やらなきゃいけないことが残ってるから」
メルディの頭を撫で、レイがニールに向き直る。その顔はさっきとは打って変わった険しいものだった。
「ねえ、ニール。長い長い前振りは終わったよ。そろそろ腹を割って話そうか。反省してるなら教えてほしいね。君は何を隠してる?」
「遠慮しなくていいよ。たくさんあるから。ああ、手が使えなかったね。安心しな。僕が飲ませてあげるから」
戸惑うニールの前にしゃがみ、顔の横に掲げたカップを揺する。いつもの冷静さはどこへやら。口の端を上げ、普段見せない悪い顔をしている。
まるで猫がネズミをいたぶるような雰囲気に、ニールは飲まれているようだ。声もなく、ただレイの顔を見つめている。
「どうしたの? 心配しなくても死にゃしないよ。――まあ、君みたいな子供にはキツイかもしれないけどね」
「……っ! 飲みます! 僕はもう子供じゃ……」
「ああ、そう。じゃあ、飲みなよ。こぼさないでね」
左手でニールの頭を固定し、唇に当てたカップを傾ける。ニールは目を白黒させつつも、カップの中の液体を飲み下そうとしたが――次の瞬間、勢いよく吹き出した。
「あーあ。もったいない。こぼすなって言ったよね? もう一杯いっとく?」
「レイ、もうやめたげて。こんなに苦しんでるのに」
立ちあがろうとするレイを押し留め、むせるニールの背中を撫でる。
全部吐き出したので大丈夫だろうが、これ以上は見ていられない。夫が子供をいたぶる姿なんて。
「僕は頭にきてるんだよ、メルディ。怪我を負わされたことでも、くだらない教授選に巻き込まれたことでもない。自分勝手な思い込みで、君を裏切ったことにだ」
「レイ……」
「君が庇うぐらいなんだから、この子はいい子なんだろう。でもね、間違ったことをしたときは誰かが叱らなきゃいけない。僕は教師じゃないけど、大人として……何より先輩として責任があるんだよ。ねえ、ニール?」
ニールは滲んだ涙を肩で拭うと、顔を覗き込むレイに向かって声を張り上げた。
「な、何が賢者の雫だ……っ! これは、ウイスキーじゃないですか!」
「え!」
レイの手からカップをもぎ取り、少しだけ残った中身に鼻を寄せる。微かな明かりに照らされて琥珀色に輝くそれは、強いアルコールの匂いがした。香ばしいナッツみたいな香りも。
「そう、これは百二十年前に僕が研究室の仲間と作ったウイスキーだ。賢者の雫ってのは、当時の学生のスラングだよ。今は知ってる人の方が少ないかな」
エルドラドが作ったわけではなかったのか。
つい口を挟みそうになったが、黙って見守る。ニールやエレンたちも、メルディと同じく驚いているようだった。
「じゃあ、大いなる力っていうのは……?」
「君はまだ未成年だからわからないかな。酒を飲むと、テンションが上がるんだよ。それこそ大きな力が宿ったみたいにね。若い頃は随分やらかしたものさ」
レイの答えに、ニールの顔が絶望に染まる。
「そんな……。じゃあ、あなたはこのウイスキーを隠すために、わざわざ謎を作ったって言うんですか? 何のために?」
「別に何のためでもない。ただのお遊びだ。卒業前の記念として、僕たちは元々あった六不思議に七つめの不思議を足して謎を仕込んだ。もし後輩が見つけたらお裾分けにと思ってね。五十年後に再会するときに、どれだけ減ってるか賭けてたんだけど……。どうやら、手付かずだったみたいだね」
レイが小さく笑う。しかし眉には深い皺が刻まれ、知らぬ間に組まれた両手は微かに震えていた。
それを見た瞬間、メルディの胸に衝撃が走った。まるで走馬灯のように、アルバムで見た研究室の絵が瞼の裏に甦る。
ウイスキーを作ったのは百二十年前。エルドラドだけが持っていた八番めの不思議へと続く手がかり。それは、きっと――。
「レイ……」
もういい、と言いたかった。その先は言わなくていい、と叫びたかった。けれど、メルディが口を開くよりも前に、ニールが口に出してしまった。
残酷な現実を直視する言葉を。
「五十年なんてとっくに過ぎてるじゃないですか! もっと早く回収してくれていたら、僕だって……」
「みんな死んだからだよ」
全員の顔が一瞬で凍りついた。
誰もが身じろぎ一つできずにレイを見つめている。息をするのすら憚られるような空気だ。
そんな重苦しい沈黙に支配された部屋の中で、レイの声だけが淡々と響いていく。
「百二十年前、僕たちは揃って大河を越え、戦場の中で散っていった。皮肉だよね。みんな僕より強かったのに、生き残ったのは僕だけさ」
あの大河を越えて戦場に行ったものは、ほとんど戻ってこなかった――バー穴蔵でミルディアが言っていたことだ。
研究室の仲間のうち、四人は長命種だった。もし生きていたとしたら、今もきっと交流があっただろう。メルディたちの結婚式にも来てくれたはずだ。
もっと早く気づけばよかった。そうしたら、レイにこんな苦痛を負わせずに済んだのに。
メルディの煩悶をよそに、レイの告白は続く。
「みんながいない魔法学校に戻る意味はない。だから、僕はグリムバルドに残ったんだ。賢者の雫のことは、ずっと頭の隅にあったよ。一人でも取りに行こうと思ったこともある。だけど……」
そこで言葉を切り、レイは両手で顔を覆った。今にもこぼれ落ちそうな想いを――思い出を押さえ込もうとするように。
メルディは見た。見てしまった。インクが染み込んだ指の隙間で、何かが微かに光るのを。
「この賢者の雫には、ずっとここで夢を見ていてほしかった。いつか、みんなと一緒に開けるという夢を。二度と戻らない青春の夢を。君が手に入れようとしたのは、その残滓なんだよ、ニール」
うう、とニールから嗚咽が漏れた。メルディの両目からも、エレンの両目からも絶え間なく涙がこぼれていく。
レイの悲しみ。苦しみ。痛み。それらが全て濁流となって押し寄せてきて、メルディはただ泣きじゃくることしかできなかった。
「ご、ごめんなさい、レイ。私、そんなこと知らずにずっと」
「……泣かないでよ、メルディ。僕は嬉しかったんだ。僕たちが残した謎で、君たちが楽しんでくれることが。――まるで、昔に戻ったみたいで」
魔法学校を離れるとき、レイたちは賢者の雫に辿り着く手がかりをエルドラドに託した。もし、お眼鏡に叶う生徒がいたら渡してやってくれと言い添えて。
レイは最初から知っていたのだ。メルディが賢者の雫を探していたことに。
「さすが校長先生だね。謎を託すには、君が一番適任だ。君は何があっても絶対に諦めないし、何より……僕の奥さんだから」
レイがゆっくりとメルディに手を伸ばす。そして、涙で濡れた頬を両手で優しく包むと、潤んだ翡翠色の瞳でまっすぐにメルディを見つめた。
「ずっと黙っていてごめん。僕たちの青春の欠片を見つけてくれてありがとう。君と結婚して本当に良かった」
その口元は緩やかに弧を描いている。いつも愛を囁くときに浮かべる甘い顔。
こんなの反則だ。こんなことされたら、黙って胸に飛び込むしかないじゃないか。
レイの体に障らないようにそっと抱きしめ、胸に頬を寄せる。人前でいちゃつく姉たちに、グレイグが「うわ……」とでも言いたげな目を向けてくるが無視だ。
「もう一つ謝りたいことがあるんだけど……。それは、また後でね。今はまだ、やらなきゃいけないことが残ってるから」
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