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第11話 再会
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鬱蒼と茂る森は人の方向感覚を狂わせる。
崖下には日の光もあまり届かない。目の前には大破した馬車が無惨に横たわり、そのそばでは事切れた馬たちが長い舌を哀れに垂らしていた。
「エンリコ様、どこに行っちゃったのかしら……。ニケも……」
手のひらに浮かべた明かりをかざし、馬車の中を覗き込む。中には誰もいない。逃げたのか、もしくはニケに連れ去られたのかはわからないが、少なくともまだ生きている希望はあるわけだ。
明かりを手のひらから空中に移してその場にしゃがむ。今度は地面の中を探るのではなく、地表の振動を感知するのだ。同時に風の力で周囲の囁きも聞く。
ここまで広範囲に一気に力を使うのは初めてだ。しかし、ベアトリーチェにならできるはずだ。これは理屈じゃない。魂の奥深くから、しきりに何かが囁いていた。
——もしかしたら、精霊様の声なのかもね。
力の使い過ぎで頭がズキズキと痛み出した頃、ようやく望んでいたものが網に引っかかった。ここから少し西の方で、何かが走っているような感覚がする。四つ足ではないから、おそらく人間のはずだ。
——エンリコ様かニケかわからないけど、とにかく行ってみなくちゃ。
エリュシオンに乗ってくればよかったと思ったが、今さら悔やんでも仕方がない。必死に両手足を動かして駆けた先に、微かな光に反射する金色の髪が見えた。
「エンリコ様!」
その声はひどく掠れていたが、エンリコにははっきりと聞こえたようだ。ピタリと足を止め、あたりを見渡した後、まるで狼のような素早い動きでこちらを振り向く。険しく細められた青い瞳には安堵と困惑の色が浮かんでいた。
「ベアトリーチェ嬢! どうしてここに! 屋敷に残ったんじゃなかったのか!」
「あなたの乗った馬車が崖下に落ちたと聞いて、それで……」
「なんで来たんだ! 誰も止めなかったのか? 何のために俺が……!」
そこで口を噤み、エンリコが大きくよろめいた。明かりで照らしてよく見ると、シャツやズボンがところどころ血で汚れているのに気づく。
——足を怪我しているのね。歩き方がぎこちないわ。
それに、左腕も折れているようだ。時折、歯を食いしばるようにして左肩を押さえ、呻き声を上げている。
「話は後で聞きます! 今はとにかく、休む場所を探さなくちゃ」
怪我を治すにも身を隠す場所が必要だ。いつニケがやってくるのかわからない状態で、無防備に力を使うのは怖い。
身長差があるのでエンリコを支えるのは苦労したが、こういう時の精霊の力だ。風で目の前の草や茂みを薙ぎ倒しつつ、ゆっくりと歩を進める。
——それにしても、力の底が見えないわ。疲れてはいるけど、まだまだ使えそう。
いつもならとうに力尽きているはずだが、まだ意識はしっかり保てている。度重なる興奮で麻痺しているのかもしれない。
やがて二人は大きな岩の窪みに辿り着いた。洞窟ほどの広さと奥行きはないが、少し休む分には十分だ。
中は野生動物の棲家になっていたようで、無遠慮に侵入したベアトリーチェに驚いた野うさぎが、ぴょんぴょんと逃げていく。
「エンリコ様、横になってください。すぐに治しますからね」
エンリコの腰から剣を外し、地面に置く。枕の代わりになるものは見当たらなかったが、贅沢は言っていられない。骨折の治療は多くの力を使う。いくら絶好調とはいえ、さすがにノーダメージというわけにはいかないだろう。
これからのことを考えると、ここで消耗してしまうのは得策ではない。それでも、苦しんでいるエンリコを放っておくことはできなかった。
覚悟を決めてエンリコの左腕に手を翳した時、伸びてきた大きな右手にガシッと力強く掴まれ、小さな悲鳴が漏れる。
「きゃっ! エ、エンリコ様?」
「待ってくれ。腕はいい。足を優先してくれ。あなたの足手纏いになるのはごめんだ」
「でも……」
「いいんだ。腕は折れていても死なない。痛みはいくらでも我慢できる。もしもの時のために、少しでも力を温存してほしい」
まっすぐに見据えられて言葉が出ない。こくりと頷き、エンリコの言う通り足の治療に専念する。しかし一度了承したものの、やはり放ってはおけない。折れた腕にそっと触れ、多少なりとも痛みを軽減させる。
「ベアトリーチェ嬢!」
「大丈夫です。このくらいなら、たいして疲れません。腕を固定しますね」
ローブのポケットからハンカチを取り出し、窪みの中に転がっていた枝で左腕を固定する。しかし、どうみても下手だ。不器用な自分が憎い。
それでも幾分かは楽になったようで、今まで苦痛に満ちていた表情も和らいだ。次は服を乾かさなければならないが、二人分となると力を使いすぎる。
——ちょっと恥ずかしいけど、そんなこと言っている場合じゃないものね。
ローブとワンピースを一息で脱いで丸め、風の力で乾かした後で火をつける。ヴィットリオが羨ましがったように、精霊の力で付けた火はなかなか消えない。あとは適度に木をくべれば、服が乾くまでは保つだろう。
「エンリコ様、少し休んだら崖上に向かって明かりを打ち上げます。ニケに見つかる危険はあるけど、歩いて戻るのは無茶だわ。助けを呼ばないと」
「すまない。面倒をかけて……」
返事をするので話は聞いているのだろうが、何故かエンリコは目を合わせてくれない。
早くも体が温まってきたのだろうか。青ざめていた頬に赤みが差しているのに気づき、少し安心する。
「そうだ。ミゲル様たちはみんな無事ですよ。怪我もそれほどひどくはなさそうでした。しっかり立って歩いていましたし……。黒ずくめたちの残党も捕まえました」
特にリカルドは暴れ回っていたが、それは話さないでおいた。
「そうか、よかった……」
エンリコがほっと息をついたと同時に、窪み中に響くぐらいのくしゃみが漏れた。焚き火があるといえど、薄い肌着だけだと寒い。
少しでも暖を取ろうと腕を擦っていると、体を起こしたエンリコがベアトリーチェにピッタリと寄り添ってきた。挙句に肩を抱かれ、心臓が大きく跳ねる。
「エ、エンリコ様? その、ちょっと近いというか……」
「こうしていた方が温かい。……嫌だろうか」
黙って首を横に振る。静まり返った窪みの中に、パチパチと木が爆ぜる音だけが響いた。
その静寂を破るようにエンリコが口を開く。
「……あなたも、気づいたのか」
ニケのことだろう。黙って頷く。
「マッテオ様が読んでいた巻物を見たの。ドリスは西の方でしか咲いてない。ニケの出身地も西の方だわ。だから……」
その続きは言いたくなかった。小さくため息をつき、焚き火に照らされたエンリコの顔を見上げる。その青い瞳には、悲しそうな顔をしたベアトリーチェが映っていた。
「エンリコ様はいつから気づいていたの?」
「気づいたのは、襲撃された日の夜だ」
書庫での話をミゲルとマッテオから聞いていたので、ピンときたそうだ。
「西の出身者に教えられた、西にしか咲かない花を見ていた時に襲われたんだ。偶然なわけがない」
それに、と言葉を続け、エンリコは言いにくそうに眉を寄せた。
「農場を去る時のことを覚えているか? あなたが農場長たちと話している間、俺は馬車から窓の外を見ていた」
そういえばそうだった。着替えを終えたエンリコの逞しい肩まわりや二の腕に気を取られていたので、深く考えていなかった。
「農場の奥で、ニケはメリッサという女から何かを受け取っていた。その時は、主人に内緒で逢い引きをしているのかと思っていたが……」
「それが開花前のドリスだったのね……」
エンリコの言葉を引き継ぎ、震える両手をぎゅっと握りしめる。あの時、ニケは腹回りに腰布を巻いて前屈みに歩いていた。ベアトリーチェがローブに手帳を隠したように、ニケも服の中に隠していたのだろう。
精霊の力があれば土を固めることもできる。ドリスは小さな花だ。巾着にでも入れれば、より目立たない。
「ミゲル様たちが片付けを手伝ってくれたのは、ニケを見張るため?」
「そうだ。俺が狙いなら、一日中屋敷にいれば、また何かを仕掛けてくるんじゃないかと思った。でも、まさか、あんなことに……」
エンリコの言葉が詰まる。ベアトリーチェを気遣っているのだろう。地面に倒れた猫たちの姿を思い出して、力なく頭を振る。
「他国の問題とはいえ、さすがにもう看過できない。だから俺はカテリーナ様とエルラド様に話したんだ。ニケが怪しいと」
「えっ?」
「あなたの不思議な力のことはミゲルから聞いていたから、きっとそれが原因だろうと思っていた。ベスタ領は裕福だし、富と力を持つ領地が狙われるのはよくあることだ。他国の人間を迎えることは、火種を抱えることと等しい。火をつけるには絶好の機会だろう」
淡々と話すエンリコの言葉には不思議と説得力があった。フランチェスカも公爵領として色々あったのかもしれない。
「なら、どうしてニケの馬車に乗ったの? 怪しいとわかっていたんでしょう? それに、お母様たちは何故、何も手を打たなかったの?」
その時点で全てを明らかにしておけば、こうして崖下に落ちずに済んだのに。
そう言い募るベアトリーチェに、エンリコは唇を噛みしめると、こちらに真正面から向き合った。
「それは……」
「その先は言わないでもらえますか」
聞き慣れた声に、弾かれるように窪みの入り口に視線を向ける。次の瞬間、ベアトリーチェは言葉にならない呻き声を上げた。
——ああ、全部勘違いならよかったのに!
後ろで一つに括った赤毛と鳶色の瞳が、篝火に照らされて不気味に揺らめいている。どれだけ否定したくとも、背後に森を背負って佇むのは、間違いなく今朝見た御者の姿だった。
「なんで来ちゃったんです、お嬢様。約束したじゃないですか。もう無茶はしないって」
ニケはロレンツォやエンリコたちと同じことを言い、悲しそうに眉を下げた。
「今さら何を隠す? ベアトリーチェ嬢だって知る権利はある。いつまでも無垢な子供のままでいられるわけじゃないんだぞ」
「知らない方が幸せなことだってあるんですよ。あんただってわかってるくせに」
吐き捨てるように言い、ニケがゆっくりと中に入ってくる。その腰には短剣が下がっている。エンリコを守るように前に出ようとしたが、腕を掴まれ、強い力で押し留められた。
「ベアトリーチェ嬢は賢明な女性だ。いずれ気づくぞ。その時にどれだけ傷つくのかわからないのか」
「うるさいな! 一週間ちょっと過ごしたぐらいで知った口を聞くなよ! そもそも、あんたが来なければ、寝た子を起こさなかったんだ!」
ニケの怒声が窪みの中に反響して消えていく。はあはあと荒い息をついてエンリコを睨みつけるニケは、リカルドに負けないくらい険しい顔をしていた。
「それより何だよ、その体たらくは。そんなのでお嬢様を守れると思ってんのか?」
ニケがさらに近付いてくる。これ以上、黙って見ていられない。エンリコの腕を振り解き、強引に二人の間に割り込んだ。
「待って! 待ってちょうだい! ニケ、お願い。わけを聞かせて! どうしてこんなことをしたの? そんなにベスタ家が……私が嫌いになったの?」
「わっ! ちょ、お嬢様!」
「ベアトリーチェ嬢! 離れるんだ!」
エンリコの言葉は聞こえないフリをした。剣を抜けないよう必死にズボンに縋りつき、ニケの顔を見上げる。ニケはベアトリーチェを振り解こうともがいたが、一歩も引かないことを悟ると、やがて諦め、疲れたようにため息をついた。
「……わかりました。話しますから離れてください。あなたって人はもう……。あのね、男の腰にそうやってしがみつくもんじゃないですよ」
「だって……」
「はいはい。俺が紳士的な男で良かったですね。……ほら、短剣。預かっててください」
そう言ってニケは器用に片手でベルトを解くと、ベアトリーチェに短剣を手渡し、エンリコの対面に胡座をかいた。どうやら、今のところは凶行に出るつもりはないらしい。受け取った短剣を肌着の中に入れ、入り口を背にしてベトリーチェも座る。
「あと、これ……俺のじゃ嫌だと思いますけど、羽織っててください。寒いでしょう」
差し出されたのはニケがいつも身につけている腰布だった。農場でドリスを隠すのに一躍かったやつだ。
「あら、そんなにヤワじゃないわよ!」
弱みを見せないよう胸を張ると、ニケは顔を顰めて「いいから」と無理やり押し付けてきた。
「……エンリコ様。あんた、よく平気だな」
「俺の自制心は鉄より硬い」
何を言っているのかよくわからないが、このままだと具合が悪そうなので大人しく羽織る。ニケの腰布は少し古びていたが、どこか懐かしい感じがした。
「……さて、何から話せばいいんでしょうね。俺がユスフの人間だってことは、もうわかってるんでしょうし」
「全部話して。あなたが本当はどんな人間で、どんな風に生きてきて、どうしてこんなことをすることになったのか。それを聞くまでは納得しないから!」
まっすぐ目を見つめると、ニケは驚いたように目を見開いて自嘲的に笑った。
「……やっぱり、お嬢様には敵わないや」
そして、ニケは組んだ両手に視線を落とし、ぽつぽつと過去を語り始めた。
崖下には日の光もあまり届かない。目の前には大破した馬車が無惨に横たわり、そのそばでは事切れた馬たちが長い舌を哀れに垂らしていた。
「エンリコ様、どこに行っちゃったのかしら……。ニケも……」
手のひらに浮かべた明かりをかざし、馬車の中を覗き込む。中には誰もいない。逃げたのか、もしくはニケに連れ去られたのかはわからないが、少なくともまだ生きている希望はあるわけだ。
明かりを手のひらから空中に移してその場にしゃがむ。今度は地面の中を探るのではなく、地表の振動を感知するのだ。同時に風の力で周囲の囁きも聞く。
ここまで広範囲に一気に力を使うのは初めてだ。しかし、ベアトリーチェにならできるはずだ。これは理屈じゃない。魂の奥深くから、しきりに何かが囁いていた。
——もしかしたら、精霊様の声なのかもね。
力の使い過ぎで頭がズキズキと痛み出した頃、ようやく望んでいたものが網に引っかかった。ここから少し西の方で、何かが走っているような感覚がする。四つ足ではないから、おそらく人間のはずだ。
——エンリコ様かニケかわからないけど、とにかく行ってみなくちゃ。
エリュシオンに乗ってくればよかったと思ったが、今さら悔やんでも仕方がない。必死に両手足を動かして駆けた先に、微かな光に反射する金色の髪が見えた。
「エンリコ様!」
その声はひどく掠れていたが、エンリコにははっきりと聞こえたようだ。ピタリと足を止め、あたりを見渡した後、まるで狼のような素早い動きでこちらを振り向く。険しく細められた青い瞳には安堵と困惑の色が浮かんでいた。
「ベアトリーチェ嬢! どうしてここに! 屋敷に残ったんじゃなかったのか!」
「あなたの乗った馬車が崖下に落ちたと聞いて、それで……」
「なんで来たんだ! 誰も止めなかったのか? 何のために俺が……!」
そこで口を噤み、エンリコが大きくよろめいた。明かりで照らしてよく見ると、シャツやズボンがところどころ血で汚れているのに気づく。
——足を怪我しているのね。歩き方がぎこちないわ。
それに、左腕も折れているようだ。時折、歯を食いしばるようにして左肩を押さえ、呻き声を上げている。
「話は後で聞きます! 今はとにかく、休む場所を探さなくちゃ」
怪我を治すにも身を隠す場所が必要だ。いつニケがやってくるのかわからない状態で、無防備に力を使うのは怖い。
身長差があるのでエンリコを支えるのは苦労したが、こういう時の精霊の力だ。風で目の前の草や茂みを薙ぎ倒しつつ、ゆっくりと歩を進める。
——それにしても、力の底が見えないわ。疲れてはいるけど、まだまだ使えそう。
いつもならとうに力尽きているはずだが、まだ意識はしっかり保てている。度重なる興奮で麻痺しているのかもしれない。
やがて二人は大きな岩の窪みに辿り着いた。洞窟ほどの広さと奥行きはないが、少し休む分には十分だ。
中は野生動物の棲家になっていたようで、無遠慮に侵入したベアトリーチェに驚いた野うさぎが、ぴょんぴょんと逃げていく。
「エンリコ様、横になってください。すぐに治しますからね」
エンリコの腰から剣を外し、地面に置く。枕の代わりになるものは見当たらなかったが、贅沢は言っていられない。骨折の治療は多くの力を使う。いくら絶好調とはいえ、さすがにノーダメージというわけにはいかないだろう。
これからのことを考えると、ここで消耗してしまうのは得策ではない。それでも、苦しんでいるエンリコを放っておくことはできなかった。
覚悟を決めてエンリコの左腕に手を翳した時、伸びてきた大きな右手にガシッと力強く掴まれ、小さな悲鳴が漏れる。
「きゃっ! エ、エンリコ様?」
「待ってくれ。腕はいい。足を優先してくれ。あなたの足手纏いになるのはごめんだ」
「でも……」
「いいんだ。腕は折れていても死なない。痛みはいくらでも我慢できる。もしもの時のために、少しでも力を温存してほしい」
まっすぐに見据えられて言葉が出ない。こくりと頷き、エンリコの言う通り足の治療に専念する。しかし一度了承したものの、やはり放ってはおけない。折れた腕にそっと触れ、多少なりとも痛みを軽減させる。
「ベアトリーチェ嬢!」
「大丈夫です。このくらいなら、たいして疲れません。腕を固定しますね」
ローブのポケットからハンカチを取り出し、窪みの中に転がっていた枝で左腕を固定する。しかし、どうみても下手だ。不器用な自分が憎い。
それでも幾分かは楽になったようで、今まで苦痛に満ちていた表情も和らいだ。次は服を乾かさなければならないが、二人分となると力を使いすぎる。
——ちょっと恥ずかしいけど、そんなこと言っている場合じゃないものね。
ローブとワンピースを一息で脱いで丸め、風の力で乾かした後で火をつける。ヴィットリオが羨ましがったように、精霊の力で付けた火はなかなか消えない。あとは適度に木をくべれば、服が乾くまでは保つだろう。
「エンリコ様、少し休んだら崖上に向かって明かりを打ち上げます。ニケに見つかる危険はあるけど、歩いて戻るのは無茶だわ。助けを呼ばないと」
「すまない。面倒をかけて……」
返事をするので話は聞いているのだろうが、何故かエンリコは目を合わせてくれない。
早くも体が温まってきたのだろうか。青ざめていた頬に赤みが差しているのに気づき、少し安心する。
「そうだ。ミゲル様たちはみんな無事ですよ。怪我もそれほどひどくはなさそうでした。しっかり立って歩いていましたし……。黒ずくめたちの残党も捕まえました」
特にリカルドは暴れ回っていたが、それは話さないでおいた。
「そうか、よかった……」
エンリコがほっと息をついたと同時に、窪み中に響くぐらいのくしゃみが漏れた。焚き火があるといえど、薄い肌着だけだと寒い。
少しでも暖を取ろうと腕を擦っていると、体を起こしたエンリコがベアトリーチェにピッタリと寄り添ってきた。挙句に肩を抱かれ、心臓が大きく跳ねる。
「エ、エンリコ様? その、ちょっと近いというか……」
「こうしていた方が温かい。……嫌だろうか」
黙って首を横に振る。静まり返った窪みの中に、パチパチと木が爆ぜる音だけが響いた。
その静寂を破るようにエンリコが口を開く。
「……あなたも、気づいたのか」
ニケのことだろう。黙って頷く。
「マッテオ様が読んでいた巻物を見たの。ドリスは西の方でしか咲いてない。ニケの出身地も西の方だわ。だから……」
その続きは言いたくなかった。小さくため息をつき、焚き火に照らされたエンリコの顔を見上げる。その青い瞳には、悲しそうな顔をしたベアトリーチェが映っていた。
「エンリコ様はいつから気づいていたの?」
「気づいたのは、襲撃された日の夜だ」
書庫での話をミゲルとマッテオから聞いていたので、ピンときたそうだ。
「西の出身者に教えられた、西にしか咲かない花を見ていた時に襲われたんだ。偶然なわけがない」
それに、と言葉を続け、エンリコは言いにくそうに眉を寄せた。
「農場を去る時のことを覚えているか? あなたが農場長たちと話している間、俺は馬車から窓の外を見ていた」
そういえばそうだった。着替えを終えたエンリコの逞しい肩まわりや二の腕に気を取られていたので、深く考えていなかった。
「農場の奥で、ニケはメリッサという女から何かを受け取っていた。その時は、主人に内緒で逢い引きをしているのかと思っていたが……」
「それが開花前のドリスだったのね……」
エンリコの言葉を引き継ぎ、震える両手をぎゅっと握りしめる。あの時、ニケは腹回りに腰布を巻いて前屈みに歩いていた。ベアトリーチェがローブに手帳を隠したように、ニケも服の中に隠していたのだろう。
精霊の力があれば土を固めることもできる。ドリスは小さな花だ。巾着にでも入れれば、より目立たない。
「ミゲル様たちが片付けを手伝ってくれたのは、ニケを見張るため?」
「そうだ。俺が狙いなら、一日中屋敷にいれば、また何かを仕掛けてくるんじゃないかと思った。でも、まさか、あんなことに……」
エンリコの言葉が詰まる。ベアトリーチェを気遣っているのだろう。地面に倒れた猫たちの姿を思い出して、力なく頭を振る。
「他国の問題とはいえ、さすがにもう看過できない。だから俺はカテリーナ様とエルラド様に話したんだ。ニケが怪しいと」
「えっ?」
「あなたの不思議な力のことはミゲルから聞いていたから、きっとそれが原因だろうと思っていた。ベスタ領は裕福だし、富と力を持つ領地が狙われるのはよくあることだ。他国の人間を迎えることは、火種を抱えることと等しい。火をつけるには絶好の機会だろう」
淡々と話すエンリコの言葉には不思議と説得力があった。フランチェスカも公爵領として色々あったのかもしれない。
「なら、どうしてニケの馬車に乗ったの? 怪しいとわかっていたんでしょう? それに、お母様たちは何故、何も手を打たなかったの?」
その時点で全てを明らかにしておけば、こうして崖下に落ちずに済んだのに。
そう言い募るベアトリーチェに、エンリコは唇を噛みしめると、こちらに真正面から向き合った。
「それは……」
「その先は言わないでもらえますか」
聞き慣れた声に、弾かれるように窪みの入り口に視線を向ける。次の瞬間、ベアトリーチェは言葉にならない呻き声を上げた。
——ああ、全部勘違いならよかったのに!
後ろで一つに括った赤毛と鳶色の瞳が、篝火に照らされて不気味に揺らめいている。どれだけ否定したくとも、背後に森を背負って佇むのは、間違いなく今朝見た御者の姿だった。
「なんで来ちゃったんです、お嬢様。約束したじゃないですか。もう無茶はしないって」
ニケはロレンツォやエンリコたちと同じことを言い、悲しそうに眉を下げた。
「今さら何を隠す? ベアトリーチェ嬢だって知る権利はある。いつまでも無垢な子供のままでいられるわけじゃないんだぞ」
「知らない方が幸せなことだってあるんですよ。あんただってわかってるくせに」
吐き捨てるように言い、ニケがゆっくりと中に入ってくる。その腰には短剣が下がっている。エンリコを守るように前に出ようとしたが、腕を掴まれ、強い力で押し留められた。
「ベアトリーチェ嬢は賢明な女性だ。いずれ気づくぞ。その時にどれだけ傷つくのかわからないのか」
「うるさいな! 一週間ちょっと過ごしたぐらいで知った口を聞くなよ! そもそも、あんたが来なければ、寝た子を起こさなかったんだ!」
ニケの怒声が窪みの中に反響して消えていく。はあはあと荒い息をついてエンリコを睨みつけるニケは、リカルドに負けないくらい険しい顔をしていた。
「それより何だよ、その体たらくは。そんなのでお嬢様を守れると思ってんのか?」
ニケがさらに近付いてくる。これ以上、黙って見ていられない。エンリコの腕を振り解き、強引に二人の間に割り込んだ。
「待って! 待ってちょうだい! ニケ、お願い。わけを聞かせて! どうしてこんなことをしたの? そんなにベスタ家が……私が嫌いになったの?」
「わっ! ちょ、お嬢様!」
「ベアトリーチェ嬢! 離れるんだ!」
エンリコの言葉は聞こえないフリをした。剣を抜けないよう必死にズボンに縋りつき、ニケの顔を見上げる。ニケはベアトリーチェを振り解こうともがいたが、一歩も引かないことを悟ると、やがて諦め、疲れたようにため息をついた。
「……わかりました。話しますから離れてください。あなたって人はもう……。あのね、男の腰にそうやってしがみつくもんじゃないですよ」
「だって……」
「はいはい。俺が紳士的な男で良かったですね。……ほら、短剣。預かっててください」
そう言ってニケは器用に片手でベルトを解くと、ベアトリーチェに短剣を手渡し、エンリコの対面に胡座をかいた。どうやら、今のところは凶行に出るつもりはないらしい。受け取った短剣を肌着の中に入れ、入り口を背にしてベトリーチェも座る。
「あと、これ……俺のじゃ嫌だと思いますけど、羽織っててください。寒いでしょう」
差し出されたのはニケがいつも身につけている腰布だった。農場でドリスを隠すのに一躍かったやつだ。
「あら、そんなにヤワじゃないわよ!」
弱みを見せないよう胸を張ると、ニケは顔を顰めて「いいから」と無理やり押し付けてきた。
「……エンリコ様。あんた、よく平気だな」
「俺の自制心は鉄より硬い」
何を言っているのかよくわからないが、このままだと具合が悪そうなので大人しく羽織る。ニケの腰布は少し古びていたが、どこか懐かしい感じがした。
「……さて、何から話せばいいんでしょうね。俺がユスフの人間だってことは、もうわかってるんでしょうし」
「全部話して。あなたが本当はどんな人間で、どんな風に生きてきて、どうしてこんなことをすることになったのか。それを聞くまでは納得しないから!」
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ターゲットにされたのは、地味で貧乏な子爵令嬢・サブリナ。
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🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
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🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
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私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~
marumi
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