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1章 お祖父ちゃんが遺した縁
第2話 お祖父ちゃんの欠片
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休みが開けた月曜日、リリコはさっそく所長さんに相談してみた。
所長さんはまず担当を決めて、少しずつでも進めて行こうと乗り気で言ってくれた。
リリコが事務員として勤める野江建築事務所は、リリコ宅最寄りの長居駅からJR阪和線で数駅の街天王寺にある。
ビジネス街では無いが、大阪府内にいくつかある繁華街のひとつだ。日本一高いビルあべのハルカスが特徴的な街である。
リリコの家からは大阪メトロ長居駅の方が近く、天王寺までもメトロの方が早いのだが、JRの方が運賃がお得なのだ。
交通費は事務所が出してくれるとは言え、だからこそリリコはお安い方を選んで申請していた。
所長さんは「そんなん気にせんでええのに」と笑っていたが、事務員であるリリコとしては、経費削減も大事な仕事だと思っていた。
「しかしハイツ経営やなんて、なかなかアグレッシブなお婆ちゃんやなぁ」
働き盛りの所長さんは面白そうに言う。所長さんは大きな建築会社に勤めながら一級建築士の資格を取り、独立したやり手だ。
この事務所には、他には大学を卒業して間も無い二級建築士の男性平野さんと、所長さんが前の勤め先からスカウトして来た年配女性の木造建築士、田辺ハナさんがいる。そして事務のリリコと総勢四人体制。アットホームな社風である。
「祖母は賑やかなのが好きなんです。本人はそう騒がしい質でも無いんですけどね」
リリコがにこにこして言うと、所長さんは「そうかそうか」と朗らかに頷く。所長さんから見たらリリコは娘の様に思えるらしく、とても可愛がってくれていた。
リリコとみっつほどしか歳の変わらない平野さんのことも、まるで息子の様に可愛がりながら鍛えている。平野さんは一級建築士を目指しているのだ。
「リリコちゃん、私ももうそこそこ歳やから分かるけど、足腰とか弱って来たらちょっとの段差が怖くなったりするからねぇ。お婆さまのために建て替えはるんはええと思うわ。うちも子どもが独立したら住みやすいマンションに引っ越そうか、なんて主人と話してるんよ。まだ少し先の話やけどね」
ハナさんには大学生の息子さんがおられるのだ。
「私にはまだまだ想像できひんのですけど、やっぱりそうなんですね。今の家が無くなるのは寂しいですけど、祖母にはいつまでも元気でいて欲しいですから」
「はーい、はいはーい、リリコちゃん、はーい!」
それまでおとなしくパソコンに向かっていた平野さんが、元気に手を上げる。
「俺、俺が設計とかやるわ。リリコちゃんのためにええ仕事したんでぇ~」
すると所長さんは「うーん」と眉をしかめる。
「平野は二級やからなぁ。ハイツの規模によっちゃ無理やで」
所長さんにそう言われ、平野さんは「あーそうやったー!」と頭を抱える。
「リリコちゃんにええとこ見せたかったのにー!」
そう悲痛な叫びを上げる平野さん。ハナさんに「落ち着きなさいな」と窘められている。
「まぁ設計は私がやるわ。ハイツやったら木造言うわけにもいかんやろうしな。平野には建築会社との折衝やらなんやら、手伝うてもらうこと山ほどあるからな。こき使うからな~」
「リリコちゃんのためなら!」
「はは。えらい気合い入っとんなぁ」
平野さんはリリコにこうして軽い調子で好意を示してくれるのだが、それはこうして場を明るくするためなのだとリリコは思っている。
入社当初、リリコはまだ未成年で、人生経験の浅いリリコをからかっているのかと思ったのだが、平野さんから悪意やそういった嫌な感じは受けなかったし、所長さんとハナさんも「また馬鹿言うとる」と呆れて笑っているので、きっとリリコが入るまでも平野さんはこの調子だったのだと思う。
「そんで完成したハイツの一室に俺が入って、リリコちゃんを守ったるわ。もちろんお婆ちゃんもな」
平野さんはまたそんな冗談を言いながらガッツポーズを取る。リリコは「あはは」と笑いながら。
「祖母とも言うていたんですけど、女性限定にしようかって。その方が安全やろうって」
所長さんとハナさんは「それがええね」と頷く。だが平野さんはまた「マジかー!」と雄叫びを上げた。そしてまたハナさんに「お静かにね」と言われている。
「リリコちゃん、お婆ちゃんもどういう風に建てたいとかそういうのんがあるやろうから、今度リリコちゃんの家にお邪魔するか、近くのカフェででも話聞かせてもらいたいわ。お婆ちゃんいつやったらいけるやろか。こっちと都合が合えばええんやけど」
「多分いつでも大丈夫ですよ。祖母は基本家におりますから。それに良かったらこっちに来ますよ。祖母もデパートとか行けて気分転換になるでしょうし」
「そうか? こっちはどっちでも大丈夫やから、またお婆ちゃんにお伺いしといて」
「はい。ありがとうございます」
「そん時には俺も同行するで。お婆ちゃんに挨拶せなな」
「なんで平野が挨拶せなあかんねんな」
平野さんと所長さんの掛け合いに、リリコはくすりと笑った。
十七時になり、リリコはきりが良いところで仕事を切り上げる。
「お先に失礼します」
帰り支度をしてぺこりと頭を下げ、「お疲れさん」という声に送られて事務所を出る。仕事の立て込み具合によっては残業があったりもするのだが、事務員であるリリコは基本的にあまり残業は発生しない。
家庭のあるハナさんも仕事量を調整して残業を少なめにしていた。ちなみに家事は公務員の旦那さんと協力しあっているとのこと。先に帰る旦那さんが晩ご飯を作ってくれるのだそうだ。素敵なご家庭だとリリコは羨ましく思っている。
家までは30分もあれば到着する。「ただいまー」とドアを開けると、ふわりとお出汁の香りが漂って来た。お祖母ちゃんが晩ご飯の支度をしてくれているのだ。今日はなんだろうか。匂いからして和食だろうか。
「おかえり。ねぇねぇリリちゃん」
お祖母ちゃんが紙片を片手に、お台所からとととっと小走りで出て来る。
「これ見てみてぇ。お祖父ちゃんの遺品を整理しとったらね、出て来たんよ」
「ん? なに?」
玄関先でお祖母ちゃんから受け取った紙片を見ると、それはショップカードだった。
『大阪もん いちょう食堂』
飲食店と思われるお店のものだ。右下には住所と電話番号が書かれている。角は小さく折れて少ししわもあり、本来なら白いだろう紙の色も薄っすらと黄ばんでいて、結構前のものの様だ。
「お祖父ちゃんの手帳に挟んであったんよ。手帳は大事なもんやと思って今まで見てへんかったんやけど、家建て替えるんやったらいろいろ整理もせなあかん思ってねぇ。それでぼちぼち片付け始めよ思ってねぇ。思い切って手帳開いてみたら、カバーのポケットに入っとったんよ。ほらリリちゃん、お祖父ちゃんたまに飲みに行っとったやろう。行き先は秘密や言うで教えてくれへんで」
「せやったなぁ、行っとったなぁ」
夕方などに突然言い出して、お祖母ちゃんを困らす様なことだけはしなかったお祖父ちゃんだが、お店のことだけはなぜか教えてくれなかったのだ。
「それな、もしかしたらここのことちゃうか思ってねぇ」
「そうかも知れんなぁ。お祖父ちゃんの名刺ケースにも何枚かショップカード入っとったけど、こんな風にわざわざ別にしてるんやもんなぁ。特別なんかも知れへんなぁ」
「せやからねぇリリちゃん、今度このお店に行ってみいひん?」
「私そんなお酒飲み慣れてへんで」
「お祖母ちゃんもそんな量は飲まれへんで。大丈夫や、居酒屋さんでもな、そんなたくさんお酒飲まんでもええねん。最近はねぇ、小さいお子さん連れて居酒屋さん行く親御さんもいるらしいねん」
「そうなん? 所長さんらが連れてってくれるところで、小さい子なんて見たこと無いわ。お酒も、所長さんらが結構飲まはるし、回りも飲んで騒いでいる人多いから」
「商店街とか歩いてても、お子さん連れ歓迎て掲げてる居酒屋さんも見るんよ」
「そうなんや。気付かへんかった。それやったら行ってみよか」
「うんうん。いつにしようかねぇ。平日の方が混まへんかねぇ」
「そやね。じゃあさっそく明日行ってみる?」
「ええのん? 次の日もリリちゃんお仕事やけど大丈夫やろか」
「私そんなにお酒飲まへんもん。大丈夫やろ」
「せやったら嬉しいわぁ。楽しみやわぁ」
お祖母ちゃんはうきうきと楽しそうな声を上げる。
「あ、そうやお祖母ちゃん、所長さん、うちの建て替えやってくれるって。また打ち合わせの時間作ろうな」
するとお祖母ちゃんはぱぁっと顔を綻ばせた。
「そっちも楽しみやわぁ。嬉しいねぇ」
わくわくするお祖母ちゃんに、リリコは微笑ましくなって口角を上げた。
所長さんはまず担当を決めて、少しずつでも進めて行こうと乗り気で言ってくれた。
リリコが事務員として勤める野江建築事務所は、リリコ宅最寄りの長居駅からJR阪和線で数駅の街天王寺にある。
ビジネス街では無いが、大阪府内にいくつかある繁華街のひとつだ。日本一高いビルあべのハルカスが特徴的な街である。
リリコの家からは大阪メトロ長居駅の方が近く、天王寺までもメトロの方が早いのだが、JRの方が運賃がお得なのだ。
交通費は事務所が出してくれるとは言え、だからこそリリコはお安い方を選んで申請していた。
所長さんは「そんなん気にせんでええのに」と笑っていたが、事務員であるリリコとしては、経費削減も大事な仕事だと思っていた。
「しかしハイツ経営やなんて、なかなかアグレッシブなお婆ちゃんやなぁ」
働き盛りの所長さんは面白そうに言う。所長さんは大きな建築会社に勤めながら一級建築士の資格を取り、独立したやり手だ。
この事務所には、他には大学を卒業して間も無い二級建築士の男性平野さんと、所長さんが前の勤め先からスカウトして来た年配女性の木造建築士、田辺ハナさんがいる。そして事務のリリコと総勢四人体制。アットホームな社風である。
「祖母は賑やかなのが好きなんです。本人はそう騒がしい質でも無いんですけどね」
リリコがにこにこして言うと、所長さんは「そうかそうか」と朗らかに頷く。所長さんから見たらリリコは娘の様に思えるらしく、とても可愛がってくれていた。
リリコとみっつほどしか歳の変わらない平野さんのことも、まるで息子の様に可愛がりながら鍛えている。平野さんは一級建築士を目指しているのだ。
「リリコちゃん、私ももうそこそこ歳やから分かるけど、足腰とか弱って来たらちょっとの段差が怖くなったりするからねぇ。お婆さまのために建て替えはるんはええと思うわ。うちも子どもが独立したら住みやすいマンションに引っ越そうか、なんて主人と話してるんよ。まだ少し先の話やけどね」
ハナさんには大学生の息子さんがおられるのだ。
「私にはまだまだ想像できひんのですけど、やっぱりそうなんですね。今の家が無くなるのは寂しいですけど、祖母にはいつまでも元気でいて欲しいですから」
「はーい、はいはーい、リリコちゃん、はーい!」
それまでおとなしくパソコンに向かっていた平野さんが、元気に手を上げる。
「俺、俺が設計とかやるわ。リリコちゃんのためにええ仕事したんでぇ~」
すると所長さんは「うーん」と眉をしかめる。
「平野は二級やからなぁ。ハイツの規模によっちゃ無理やで」
所長さんにそう言われ、平野さんは「あーそうやったー!」と頭を抱える。
「リリコちゃんにええとこ見せたかったのにー!」
そう悲痛な叫びを上げる平野さん。ハナさんに「落ち着きなさいな」と窘められている。
「まぁ設計は私がやるわ。ハイツやったら木造言うわけにもいかんやろうしな。平野には建築会社との折衝やらなんやら、手伝うてもらうこと山ほどあるからな。こき使うからな~」
「リリコちゃんのためなら!」
「はは。えらい気合い入っとんなぁ」
平野さんはリリコにこうして軽い調子で好意を示してくれるのだが、それはこうして場を明るくするためなのだとリリコは思っている。
入社当初、リリコはまだ未成年で、人生経験の浅いリリコをからかっているのかと思ったのだが、平野さんから悪意やそういった嫌な感じは受けなかったし、所長さんとハナさんも「また馬鹿言うとる」と呆れて笑っているので、きっとリリコが入るまでも平野さんはこの調子だったのだと思う。
「そんで完成したハイツの一室に俺が入って、リリコちゃんを守ったるわ。もちろんお婆ちゃんもな」
平野さんはまたそんな冗談を言いながらガッツポーズを取る。リリコは「あはは」と笑いながら。
「祖母とも言うていたんですけど、女性限定にしようかって。その方が安全やろうって」
所長さんとハナさんは「それがええね」と頷く。だが平野さんはまた「マジかー!」と雄叫びを上げた。そしてまたハナさんに「お静かにね」と言われている。
「リリコちゃん、お婆ちゃんもどういう風に建てたいとかそういうのんがあるやろうから、今度リリコちゃんの家にお邪魔するか、近くのカフェででも話聞かせてもらいたいわ。お婆ちゃんいつやったらいけるやろか。こっちと都合が合えばええんやけど」
「多分いつでも大丈夫ですよ。祖母は基本家におりますから。それに良かったらこっちに来ますよ。祖母もデパートとか行けて気分転換になるでしょうし」
「そうか? こっちはどっちでも大丈夫やから、またお婆ちゃんにお伺いしといて」
「はい。ありがとうございます」
「そん時には俺も同行するで。お婆ちゃんに挨拶せなな」
「なんで平野が挨拶せなあかんねんな」
平野さんと所長さんの掛け合いに、リリコはくすりと笑った。
十七時になり、リリコはきりが良いところで仕事を切り上げる。
「お先に失礼します」
帰り支度をしてぺこりと頭を下げ、「お疲れさん」という声に送られて事務所を出る。仕事の立て込み具合によっては残業があったりもするのだが、事務員であるリリコは基本的にあまり残業は発生しない。
家庭のあるハナさんも仕事量を調整して残業を少なめにしていた。ちなみに家事は公務員の旦那さんと協力しあっているとのこと。先に帰る旦那さんが晩ご飯を作ってくれるのだそうだ。素敵なご家庭だとリリコは羨ましく思っている。
家までは30分もあれば到着する。「ただいまー」とドアを開けると、ふわりとお出汁の香りが漂って来た。お祖母ちゃんが晩ご飯の支度をしてくれているのだ。今日はなんだろうか。匂いからして和食だろうか。
「おかえり。ねぇねぇリリちゃん」
お祖母ちゃんが紙片を片手に、お台所からとととっと小走りで出て来る。
「これ見てみてぇ。お祖父ちゃんの遺品を整理しとったらね、出て来たんよ」
「ん? なに?」
玄関先でお祖母ちゃんから受け取った紙片を見ると、それはショップカードだった。
『大阪もん いちょう食堂』
飲食店と思われるお店のものだ。右下には住所と電話番号が書かれている。角は小さく折れて少ししわもあり、本来なら白いだろう紙の色も薄っすらと黄ばんでいて、結構前のものの様だ。
「お祖父ちゃんの手帳に挟んであったんよ。手帳は大事なもんやと思って今まで見てへんかったんやけど、家建て替えるんやったらいろいろ整理もせなあかん思ってねぇ。それでぼちぼち片付け始めよ思ってねぇ。思い切って手帳開いてみたら、カバーのポケットに入っとったんよ。ほらリリちゃん、お祖父ちゃんたまに飲みに行っとったやろう。行き先は秘密や言うで教えてくれへんで」
「せやったなぁ、行っとったなぁ」
夕方などに突然言い出して、お祖母ちゃんを困らす様なことだけはしなかったお祖父ちゃんだが、お店のことだけはなぜか教えてくれなかったのだ。
「それな、もしかしたらここのことちゃうか思ってねぇ」
「そうかも知れんなぁ。お祖父ちゃんの名刺ケースにも何枚かショップカード入っとったけど、こんな風にわざわざ別にしてるんやもんなぁ。特別なんかも知れへんなぁ」
「せやからねぇリリちゃん、今度このお店に行ってみいひん?」
「私そんなお酒飲み慣れてへんで」
「お祖母ちゃんもそんな量は飲まれへんで。大丈夫や、居酒屋さんでもな、そんなたくさんお酒飲まんでもええねん。最近はねぇ、小さいお子さん連れて居酒屋さん行く親御さんもいるらしいねん」
「そうなん? 所長さんらが連れてってくれるところで、小さい子なんて見たこと無いわ。お酒も、所長さんらが結構飲まはるし、回りも飲んで騒いでいる人多いから」
「商店街とか歩いてても、お子さん連れ歓迎て掲げてる居酒屋さんも見るんよ」
「そうなんや。気付かへんかった。それやったら行ってみよか」
「うんうん。いつにしようかねぇ。平日の方が混まへんかねぇ」
「そやね。じゃあさっそく明日行ってみる?」
「ええのん? 次の日もリリちゃんお仕事やけど大丈夫やろか」
「私そんなにお酒飲まへんもん。大丈夫やろ」
「せやったら嬉しいわぁ。楽しみやわぁ」
お祖母ちゃんはうきうきと楽しそうな声を上げる。
「あ、そうやお祖母ちゃん、所長さん、うちの建て替えやってくれるって。また打ち合わせの時間作ろうな」
するとお祖母ちゃんはぱぁっと顔を綻ばせた。
「そっちも楽しみやわぁ。嬉しいねぇ」
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