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4章 期間限定の恩恵

第12話 拒絶

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 和馬かずまの親はお母ちゃんひとりである。父親は気付けばいなかった。お母ちゃんが言うには、和馬がもっともっと小さな時に出て行ってしまったとのことだった。理由は聞いていない。正確には聞けなかった。お母ちゃんが悲しそうな顔をしたからだ。

 今、和馬は小学校に行けなくなっていた。

 1学期はそれなりに楽しく通っていた。だが、夏休みが終わって普段通りに行こうとしたら、行けなくなってしまっていた。心が拒絶してしまったのだ。

 父親のいない我が家の生活が決して楽で無いことぐらいは分かる。お家も、部屋がふたつだけの小さなアパートで、自分の部屋なんて夢の夢だった。だからお母ちゃんは朝から晩まで、ううん、今は深夜まで働いているのだ。

 なので保育園の年長になったとき、お母ちゃんに「私立小学校を受験しろ」と言われた時には驚いた。私立の小学校はお金が掛かるはずだ。公立小学校だったらもっとお母ちゃんは楽ができるはずだ。なのにどうして。

「ええ小学校でしっかり勉強して、ええ中学校と高校に行って大学にも行って。そしたらええとこに就職できる。そしたら楽しいことがいっぱいあるんやで。やりたいこともたくさんできる。私は和馬にそうなって欲しいんよ」

 お母ちゃんはそう言った。だから和馬はお母ちゃんに言われるがままに、私立小学校の試験にのぞんだ。

 和馬と同じく小学校受験をする子たちは、塾に通ったり家庭教師がお家に来たりして、特別なお勉強をしていると聞いた。保育園の同じ組の子が、和馬とは違う学校だが小学校受験をすると言っていて、家庭教師が来るのだと、皆とは違う難しいお勉強をしていると自慢げに言っていた。

 和馬にはそんなものは無い。保育園もきっと普通の保育園だった。皆で遊んで、給食のごはんを食べて、お昼寝をして、お母ちゃんかお父ちゃんがお迎えに来てくれるまで先生に遊んでもらう。

 そんな和馬が小学校受験に勝ち抜けるとは思えなかった。なのに和馬は奇跡を起こしてしまう。合格してしまったのだ。

 嬉しい、そう思う反面、お金がたくさん掛かってしまう、そんな子どもらしかぬことも考えてしまった。

 お母ちゃんがお仕事を増やしたのはその時だった。それまではお昼のスーパーのお仕事だけだったのだが、夜にもお酒を出すお店で働く様になったのだ。

 小学校に入学すると、朝は和馬の方が早く家を出る。帰って、朝お母ちゃんが洗って干した洗濯物を取り込み、宿題をしているとお昼のお仕事を終わらせたお母ちゃんが帰って来て、晩ごはんを作ってくれる。一緒に食べて、洗い物をして、和馬が取り込んだ洗濯物を畳むと、今度はいつもより少し派手な格好をして、夜のお仕事に出て行くのだ。

 和馬はそれからその日の復習と翌日の予習をし、それが終わったらシャワーを浴びて、畳の床に布団を敷いて横になる。

「おやすみなさい」

 そう呟いても返してくれる人はいない。春が終わってもうすぐ夏。制服も衣替えをした。お外は暑いぐらいなのに、この部屋の中は寒かった。それはきっと心理的なものである。だが和馬は薄っぺらいタオルケットを頭から被り、ぬくもりを感じられる様に身体を丸めた。

 明日起きたら、またお母ちゃんがいてくれる。大丈夫。和馬はそれを励みにしてぎゅっと目をつぶる。そんな夜を繰り返していた。

 そして学校は夏休みに入る。宿題がたくさん出たので、和馬は初日から片っ端から取り掛かる。そうすることがきっとお母ちゃんの望みである。それ以上のお勉強をすることも。

 良い中学校、良い高校、良い大学、そして良い就職。それらはまだまだ先のことで、小学校1年生の幼い和馬にはピンと来ない。それでもお勉強することでそれが叶う、そうすれば和馬は幸せになれる、少なくともお母ちゃんはそう信じている。

 お母ちゃんはそのために毎日長い時間働いている。和馬の将来のために。なら和馬はそれに応えなければならない。

 良い成績を上げて、お母ちゃんが望む道のりを歩む。もっと頑張らなければ。お母ちゃんだってあんなにお仕事をしてくれている。なら自分も。きっとできる。そう自分を鼓舞こぶした。

 そして夏休みが終わり、2学期の始業式。授業が無いので軽い鞄をかついで家を出ようとした時。

(あ、嫌や)

 不意に、そう思ってしまったのだ。そう思ったら足が動かなくなった。前に進めなかった。目の前にある玄関の薄っぺらいドアを開けることができなかった。

 学校が楽しく無いわけでは無い。それなりに巧くやっていたはずだ。友だちだってできた。なのにどうして。

「……和馬?」

 見送ってくれていたお母ちゃんのいぶかしげな声が耳に届く。和馬の身体が小さく震え出す。9月なのだから暑いはずだ。エアコンは掛かっているが、節約のこともあって28度がキープされている。なのに寒い。悪寒おかんというのはこういうことなのだろうか。

 お母ちゃんに背を向けて、その顔が見れないまま、和馬はかすれた声を絞り出した。

「……行かれへん」

 お母ちゃんが息を飲む音が聞こえた。お母ちゃんが望んで入った私立の小学校。このまま通い続けなければならない。できる限り良い成績を取って、中学進学に繋げる。

 そう思っていたはずなのに、まるで張った糸が切れてしまったみたいに、ぷつりと何かが消えてしまった。

(ぼく、何やってんやろ)

 お母ちゃんが望むから、これまでできる限りのことはやって来た。だが、これは和馬自身が望んだことなのだろうか。いや、でもお母ちゃんがそれが良いと言っているのだから。でも、どうして。

 そんな、和馬ひとりでは答えの出ないことがぐるぐると頭を回る。

 和馬は靴を乱暴に脱ぎ捨てて、お母ちゃんの視線から逃げる様に、うつむいたまま奥の部屋に駆け込んだ。そして、鞄を放り出してうずくまることしかできなかった。

 そんな和馬を見て、お母ちゃんはどう思っただろうか。失望しただろうか。嫌われてしまっただろうか。そんな恐怖が沸き上がる。

 だがお母ちゃんはそっと和馬を撫でて、言った。

「分かった。今日は休むって先生に連絡するな。ゆっくり休み」

 お母ちゃんは何かを察したのか、優しくそう言ってくれたのだった。
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