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3章 癒しの母の味

第2話 優しい愛情の味

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 真守まもるが気付いたのは数十分後、病室のベッドの上だった。かすむ視野をクリアにしようと目をしばたかせ、ふと人の気配を感じて首を横に向ける。

「……父さん」

「ああ真守。目が覚めたか。良かった」

 父は心底安心したと言う表情で頬を綻ばせた。

「お前にまでなんかあったら、父さんも母さんも生きていられないよ」

「そんな大げさだなぁ……、ううん、いや、拓真たくまは? あの、本当に……、死んじゃったの?」

 死んだ。絶対に口にしたくない言葉だ。だがそれ以外の事実が出て来ない。

 そうだ、さっき見た拓真は確かにそこにはいなかった。身体は確かに拓真だった。だが中身はそこにはいない、そんな気配だった。

 父は辛そうに顔を歪めた。

「……ああ。本当だ。医者が確認したから間違い無い」

「そっか」

 真守はぽつりと言うと、涙が出たわけでも無いのに、両腕を交差させて目をおおった。

 不思議だ。まるで自分の魂さえも身体から抜け出ている様な空虚くうきょな感覚。拓真の生命と一緒に落ちてしまった様な、ごっそりとどこかに持って行かれてしまった様な感覚。

「母さんは拓真のとこ?」

「ああ。お前も拓真もひとりにはしておけないからな」

「じゃあ母さんと拓真のところに行こう。俺はもう大丈夫だから。心配掛けてごめん」

 真守は言うと上半身を起こす。するとまためまいを起こしてしまい身体が揺れた。父が慌てて真守を支えてくれる。

「ああ、無理をしなくて良いから。ゆっくり休みなさい」

「……じゃあ父さんだけでも母さんのところに行ってあげて。多分今母さんが一番きついだろうから」

「何を言ってるんだ。お前だって辛いだろう」

「そりゃあきついけど、今は拓真の近くにいるのが一番しんどいと思う。だから」

 すると父は迷うがそろりと腰を上げた。

「またすぐに戻って来るから」

「うん。行ってらっしゃい」

 父は迷いながらも病室を出て行った。白と薄い水色で構成された病室にひとり残された真守は両手で顔を覆う。

「……なんでこんなことになっちゃったんだろう」

 拓真が死んでしまったこと、母があんなに泣いていたこと、父が唇を震わせていたこと、そして自分が泣けないこと。

 全てがぐるぐるとないまぜになり、真守は混乱してしまっていた。



 それから数日は拓真のお通夜や葬儀、そして後処理と目まぐるしく過ぎ、本当の地獄はそれらが終わってからやって来た。

 父はもともと口数が多い方では無かったが、ますます寡黙かもくになってしまい、忌引きびきが明けて出社はするものの、仕事に身が入らなくなってしまった様だ。

 それでも父が働かなければ、専業主婦の母も学生の真守も生活ができない。

 恐らく会社の人も相当気をつかってくれたのだろう。後々父は「あの時は本当に助かったよ」と語ってくれた。

 お喋りが好きだった母も、すっかりと口を開かなくなってしまった。

 家事もおろそかになり、洗濯だけはどうにか服が回せる様にしてくれたが、家を綺麗にする気力も無くなり、あちらこちらにほこりが目立ち始める始末だった。

 そして食事もレトルトや出来合いの惣菜がぐんと増えた。作る気が起こらないのだ。

 母の矜持きょうじもあったのか米だけは炊いてくれたし、惣菜などはレンジで温めてくれたから、パックのまま食卓に並ぶことはなかったが、しばらくは母の手料理が出て来ることは無かった。

 家族の誰もが空腹を感じない日々で、だが何か食べないといけないことは頭では判っていたので、ろくに味もしないそれらをもそもそと口に運んだ。

 真守は真守で、やはり忌引きが明けると大学には行った。

 だが講義を受けていても心ここに在らずと言うか、頻繁ひんぱんにぼんやりとしてしまい、うっかりすると板書の文字がぼやけたり、2重になったりして見えた。

 かろうじて出席はしていたので、友人にノートを借り、試験さえ受けて及第点きゅうだいてんを取れれば進級もできる状況ではあった。

 誰もが生きているのに死んでいる様な。

 そうして3人はうつろな日々を漫然まんぜんと送っていたのだが。

 それを打破したのは母だった。

 そんな生活が続いたおよそ半年後。夏はとうに過ぎ、凍える様な寒い冬も越し、そろそろ春が芽吹こうとしていた。

 真守が講義とアルバイトを終えて家に帰ったら、母がキッチンに立っていた。

「……ただいま」

「おかえり」

 ぽつりと言う真守のせりふに応えた母の返事に真守は違和感を覚えた。それまでとは違って明るい様に思えたのだ。

 それに父が帰るまでにはまだ時間があった。惣菜などを用意するにはまだ早い。

「母さん?」

 不思議に思って母の背後からふらりと覗き込むと、母は包丁を使って人参をいちょう切りにしていた。

 コンロには昆布が入った片手鍋が置かれている。そして炊飯器で炊いたお米の香りがふわりと鼻を撫でた。

「母さん、料理、それ」

 真守が驚いて言うと、母は手を止めて振り向き「ふふ」と小さく笑う。

「しばらくろくにご飯作って無かったものねぇ。ごめんね。お父さんが帰って来たらちゃんと話をするわね。それまで待っててくれる?」

「分かった。すぐに降りて来るよ」

「ええ」

 母はまた包丁を持つと、調理の続きを始めた。

 真守は階段を上がって自室に向かう。抱えていたリュックを下ろして部屋着に着替えた。

 さっき、久しぶりに母の笑顔を見た気がした。何か心境の変化でもあったのだろうか。

 真守は部屋を出ると下に降り、リビングのソファに掛ける。

 リビングには大型テレビもあるが見る気にもなれず、夕飯までだらだらとスマートフォンをいじる。

 SNSを流し見したり、さして興味があるわけでも無いニュースサイトを適当に見たり。

 最近はすっかり趣味と言えるゲームもする気になれなかった。

 ログインボーナスが発生するソーシャルゲームは、義務の様にログインだけはしているが、プレイをする気にはなれず、いくつかのイベントを逃している。

 だが気にしていなかった。楽しむ気分になれないのだ。

 やはり拓真の死は真守に深い影を落としている。当たり前だ。特別仲が良かったわけでは無かったが大切な家族だ。喪って悲しく無いわけが無い。

 だがどうしてだろう。埋めようの無い虚無感きょむかんは感じるのに、真守は未だに泣けずにいた。

 男だからというわけでは無いが、真守は確かにあまり泣かないたちではある。

 だがに及んで涙のひとつも流せないのは、自分はもしかしたら欠陥けっかん人間では無いのかと思うほどだ。

「俺、おかしいのかな」

 そんな真守の呟きは、キッチンにいる母には届かない。

 仕事を終えた父が帰って来たのはそんな時だった。

 顔に疲れをにじませた父は力なく「ただいま」と言い、母の「おかえり」と言う少し上向きの声は届かなかったのか、そのまま1階にある両親の寝室に入って行った。

 荷物を置いて部屋着に着替えて出て来た父は、いつもの様にダイニングテーブルに掛けて夕刊を開く。父はいつもそこで夕飯を待つのだ。

 以前は新聞も真剣に読んでいたものだが、今はぼんやりとした目を向けるだけで、内容が頭に入っているのかも怪しい。父もまた気力を失ったままなのだ。

「お父さん、真守、お待たせ。ご飯よ」

 母から声が掛かり、真守はスマートフォンをテーブルに置いてソファを立つ。

 ダイニングテーブルを見ると、置かれているのは麦茶のポットとグラスと木のスプーンにお茶碗。そして真ん中には鍋敷きが。

 そこに母が中サイズの土鍋を置いた。中を見てみるとどうやら雑炊の様だった。

 半熟に火通しされた卵にほとんどが隠れているが、人参や白菜などがちらりと見える。

「最近出来合いのものばかりで、胃が疲れてるでしょうからねぇ」

 母はそう言いながら、お玉でお茶碗に雑炊を盛る。父の大きめなお茶碗、母の小さめのお茶碗、真守のものは父と同じぐらいのサイズだ。

「さ、いただきましょう」

 母が穏やかに言い、父も真守も「いただきます」とぼそぼそと手を合わせた。

 左手でお茶碗を持ち、スプーンですくった雑炊を口に運ぶ。昆布とかつおから丁寧にお出汁を取ったそれは、久しぶりの母の味だった。

 ふくよかなお出汁の味がふぅわりと真守の心を包み込む。恐らく味付けは塩だけ。そのシンプルさがお出汁の旨味を引き立たせる。

 入っている具材は鶏肉と人参と白菜、椎茸としめじ。短冊切りのお揚げも入れられていた。

 それらからも優しい旨味が滲み出ていて、それを吸い込んでふっくらとしたお米がなんとも味わい深い。半熟のふわふわ卵も柔らかな甘みを生み出していた。

 そんな優しさが詰まった雑炊に、真守は久しぶりに空腹感を覚えた。そしてご飯の美味しさも思い出した。

 真守は夢中で手を動かす。はふはふと雑炊を味わい、大振りのお茶碗はあっという間に空になった。

 お代わりをよそおうと顔を上げると、父もかつかつとスプーンを動かしている。ああ、自分と同じ思いなのだと胸が熱くなる。

 食べることの大切さを忘れ、毎日を無為むいに過ごしていた。

 拓真と一緒に賑やかな食卓を囲んでいた日々。それが当たり前だと思っていた。それがき消えて無になって、真守はきっと自分の心を守ることで精一杯になっていたのだ。

 お腹はまだいっぱいでは無い。だが心が暖かさで満たされた時、真守の目からぽろりと涙が流れた。

「真守、どうした」

「真守?」

 父と母が驚いて声を上げる。真守はお茶碗とスプーンを置いて、はらはらと落ちる涙を受け入れた。ようやく心に泣ける余裕が生まれたのだ。

 きっと受け入れ方は人それぞれなのだ。拓真の遺体を前に号泣した母は間違いなく悲しみと苦しみの真っ只中だった。それ以外の余裕を持てなかった。

 真守は今になってようやく、泣くことができる様になったのだ。それはきっと雑炊に込められただろう母の思いに触れたからだ。

 母はいつだって心の込もったご飯を作ってくれた。そうだ、拓真の逝去せいきょ以降、真守は愛情を感じることができなくなっていたのだ。

 父も母も余裕を失って、真守を見ることが難しくなっていたのだ。真守もかたくなになってしまっていたのだろう。

 だがこの雑炊は全てをひっくり返した。

「真守」

「真守」

 父と母は真守に優しく寄り添うと、あやす様に真守の背を撫でてくれた。それに真守は安心して、ただただ落ちる涙を受け止めた。
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