煮物屋さんの暖かくて優しい食卓

山いい奈

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8章 尊重しあえるからこそ

第4話 ブラウンとダークグレイ

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 聡美さとみが突き出した用紙は、裏が透けそうな薄い紙で、佳鳴かなるの位置からははっきりとは見えなかったが、茶色のラインがちらりと見えた。

「お前、どうしてこれがここにあるんだ!」

 畑中hたなかさんが怒鳴り、他のお客さまは何事かとびくりと肩を震わせ、視線が集まる。店内が一瞬静寂に包まれた。

「お騒がせしてしまってすいません」

 聡美が言って、方々に頭を下げる。畑中さんは怒りで顔を真っ赤にさせていた。

 お客さまはまたそれまでの会話に戻る。ほとんどが常連さんなので、そこは空気を汲んでくださるお客さまばかりである。

「だって出してないもの」

「出しとけって言っただろうが! 俺は仕事休めないんだから」

「婚姻届は土日祝でも深夜でも受け付けてくれるんだよ。言ったでしょう? それに私だってそんな簡単にお仕事休めないよ」

 聡美が訴えると、畑中さんはふんと怒りのままに舌打ちする。

「一緒に出しに行こうって言う私の言葉に応えてくれてたら、まだ私ももう少し考えたかも知れない。でもそれすらも奥さんに丸投げするなんてね。もう無理だなって思ったよ。だから出さなかった。あの瞬間、私のあなたへの情は消え失せた」

 聡美は畑中さんの目を見て、きっぱりと言い放った。

 聡美は確かに男性に尽くす女性なのかも知れない。だが理不尽の言いなりにはならないのだ。従順と言いなりはイコールでは無い。

「それに加えてだまし討ちの同居。馬鹿みたいに威張りちらすお義父さんとあなたと、ずっと死んだ目をしたお義母さんにこれ以上付き合う気は無いよ」

 聡美は淡々と言い、手にしていた用紙、婚姻届をびりっと真っ二つに破った。そしてせいせいした、そんな表情でふぅっと息を吐いた。

 そう、聡美は婚姻届を役所に出していなかったのだ。挙式を挙げ、披露宴もした。だが籍が入っていなければ法的に夫婦では無い。聡美はまだ独身なのだった。

 畑中さんは止まらない。顔を染めたまま、ふるふると震える。

「何が不満なんだ」

「全てが不満だよ。私はね、確かに旦那さんに尽くしたいって思った。でもそれを当たり前に思われることに違和感を感じて、それから考えた。あなたは私がプロポーズを受けてから変わったよね。正確には地が出たのかな。見事な男尊女卑だったね」

「男だから女を養って、守ってやらないとと思うんだろうが。そんなの男尊女卑でもなんでも無いだろう。お前はさっきから何を言ってるんだ」

「確かに専業主婦になったら養ってもらうことになるんだと思う。でもその分、女性は家事と育児、場合によっては旦那さんのお世話すらするんだよ。対等だよ」

「家事や育児なんて、誰にでもできることだろうが。男は責任を背負って働いてるんだぞ」

 畑中さんがそう言い捨てた時、客席から「あー、もうだめ」と呆れた様な女性の声が響いた。

 聡美たちより少し奥に掛ける常連さん、門又かどまたさんだった。

「本当に、私結婚しなくて良かったんだってしみじみ思うわー。こんなのに当たってたら人生台無し」

「まぁまぁ。こんな男性ばかりじゃ無いですから」

 そう言って横で門又さんを宥めるのは田淵たぶちさん。田淵さんがひとりで来られるには早い目の時間だが、今夜は奥さんの沙苗さなえさんが友人と食事に行ったのだそうだ。

「そりゃあ田淵さんは沙苗さんと労わりあって協力しあってるからね。そんな旦那さんなら幸せなんだろうけど。田淵さんなら、沙苗さんが妊娠出産しても育休とか取ってくれそう」

「それは取りますよ。仕事は他の人に任せられますけど、育児は違いますからね。365日24時間、待った無しで生命を背負うんですよ。仕事と同じぐらい、もしかしたらそれよりよっぽど重いですよ」

「だよねぇ」

 そう言って門又さんと田淵さんが笑うと、畑中さんが「ちょっと」と声を荒げる。

「なんですか、あなた方は。これは私と聡美の問題です。口を挟まないでください」

 すると門又さんはしれっとした顔で応える。

「口を挟んでなんかいませんよ。私はただ思ったことを言っただけです。仕事なんて誰かが代われることと、子育てを同列になんてできませんて。そりゃあ私だって会社員ですから、仕事の大切さは分かってますよ。でも家事だって子育てだって大事な仕事ですよ。それをしてくれって言うのなら、軽んじたらいけませんよ。必ずひずみが出ますよ」

「それなんです!」

 聡美が立ち上がる。椅子ががたっと音を立てた。

「佳鳴が言ってくれた言葉を頭に置いて、それから式まで考えて、でもまとまらなくて。でもね、婚姻届をひとりで出しに行けって言われた時にもうだめだなって思ったけど、それでも実際あなたの実家で一緒に暮らし始めたら、あ、やっぱりだめだって更に思っちゃった。尊重どころか、人間扱いされてるかすら疑問だったよ。お義父さんとだけ会話らしい会話して、私にはあれしろこれしろって言うか、「早く仕事辞めろ」って言うだけ。そんなの夫婦の意味すら無いよ。だから婚姻届出せなかった。私は尊重しあえて大事にしあえる人に尽くしたいから」

 畑中さんも立ち上がる。畑中さんの性格なら、女性である聡美に物理的にでも見下ろされるのは嫌だと思うだろう。

「俺はそんなにおかしいか? 嫁との接し方ってそんなもんだろう?」

「あなたは、お義父さんがお義母さんにそうしていたのを見て育ったから、そう信じ切ってるんだよ。実際は違う。少なくとも私の両親は違った。お母さんはあなたのお母さんと同じ専業主婦だったけど、家事とか子育てとか、お父さんは感謝してた。いつもありがとうって言ってた。私ともたくさん遊んでくれた。お父さんとお母さんはその日にあったこととか話したりして、笑い合ったりしてた。あなたの家とは全然違うんだよ」

 聡美の言葉に、畑中さんは少なからずショックを受けた様に立ちすくむ。

「けど俺は親父に言われたんだ。男は威厳を持て、男は女より偉い、責任がある、いつでも優位に立つもんだ、仕事以外は嫁にやらせれば良いって」

「威厳はともかくとして、男女どちらが偉いってことは無いよ。優位に立つって言うのも一緒だよ。責任だってそう。お義父さんにそう教えられて、実際にそうしてるところを見て、完全に刷り込まれたんだよ。私は子どもも欲しい。仕事は時間に区切りがあるけど、育児には無いんだよ。小さな子は目が離せないんだよ。小さなうっかりが生命に関わることもあるんだよ。そこに家事まであるんだよ。そんなの尊重し会えなきゃ、労わり合えなきゃ出来る訳無いよ」

「あ、ちょっと良いですか?」

 そこで、田淵さんが控えめに手を上げる。

「実は、僕の父親がそんな感じでしたよ。そこまで極端じゃ無かったですけど、家事と育児は母に任せっきりだったなぁ。まぁ時代もあったかも知れないですけど。母はいつも家で動いていて。母が病気になったりしても、何もしないでだらだらしている父親見てるとね、僕はそうならないぞって思っちゃったんですよねぇ。そんな時は僕が手伝いしてましたけど」

「そうなんだ。でもそれじゃあ、お母さまの子育てが上手だったのかもね。お父さんが反面教師になったんだ」

 門又さんが言うと、田淵さんは「そうだと思います」と頷いた。

「男女が持ってる元々の差、体力とか力の強さとか、そういうのはありますけど、立場とか能力とか、そういうのは男女関係の無いものだっていうのは言われてました。実際学校では男より勉強出来る女子はたくさんいたし、就職したらしたで、僕より優秀な女性はたくさんいますしね。部署は違いますけど、女性の管理職もいますよ。格好良いんですよこれが」

「今は女性社長さんも多いもんね」

「そうなんですよね。年収何億円とか、もう僕なんか足元にも及びませんよ」

 田淵さんは言って、からからと笑った。

 すると畑中さんは本当に衝撃を受けた様で、ふらりと椅子に腰を下ろした。

「そんな、俺の職場は女性を管理職になんてしないって」

「それは隆史たかしさんの会社が古い体質だからだよ。女性は事務でしか雇わないって言ってたもんね」

「古い、のか?」

 畑中さんは呆然と呟いた。

「古いんだよ。でも古いのが悪いんじゃ無い。それを当たり前だと思って、誰かを、この場合は女性を軽んじたり蔑視べっしするのがだめなんだよ。隆史さん、あなた、お義母さんが幸せそうにしてるのを見たことがある? 少なくとも私にはそう見えなかった。お義母さんが笑ってるの見たこと無いよ」

「母さんは父さんに養ってもらってるんだから」

「それだけじゃ、幸せには出来ないんだよ。夫婦は成り立たないんだよ」

 聡美がそう言い放つと、畑中さんは愕然とした表情でうなだれた。
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