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気づくと俺は病院の廊下で、空いている椅子にも座れず、ただ立ち尽くしていた。
電話を受けた後、父は俺を迎えに来るや否や、タクシーに乗り込み病院へと急いだ。タクシーの運転手へ「急いでください」と何度も急かし、バックミラー越しに嫌な顔をされても、それすら気にならない様子で、父は俺の手を、汗の滲む手で強くに握り締めて「早く」と何度も訴えていた。
病院に着くとカメラを持った大人達を掻き分けるようにタクシーを飛び降りて、玄関口で待ち構えていた看護師に案内されるまま、父と俺は院内へと連れていかれた。眩いフラッシュの残像を瞳に幾つも焼き付けたまま、俺は父の手を固く握り締めて、大人の早歩きに着いていく事だけで精一杯になっていた気がする。報道陣の熱狂に、胸の内側で燻る良くない騒めきだけが重なって、妙に落ち着かない。これからどうなってしまうのかという不安と、父の表情から溢れる不安が、俺に根拠のない恐怖を身体の芯まで染みこませていた。
何一つ理解できないまま連れて行かれた場所で、硝子越しに数えきれない管に繋がれた母は、ゆっくりと呼吸をしながら眠っていた。母さん? と呼んでも、返事はない。分厚い硝子に邪魔されて聞こえないのだ。仕方ない。父は俺の手を離すとここに居てと言い残し、医者であろう男と看護師に連れられて何処かに行ってしまった。
ぽつりと不安とともに残されて――その微かな心細さを補うように、俺は眠っている母を見つめていた。硝子に額を擦り当てて見つめていると、少しずつ今の状況を理解し始める。
夕方見たニュース速報。
俺の住む地域の駅前で起きた、トラックの暴走車が、子供を含む男女を跳ね飛ばした。その内三人が即死で、十数名が重軽傷を負ったという。
母はその中の一人だった。
上空から映し出される事故現場と、プロペラ音、その音に負けない声量で事故現場の現状を伝えるアナウンサーの実況。何気なく見ていた場面が、鮮明に蘇ってくる。
――あの中に、母もいたのだ。
「母さん……」
俺はすぐに電話を出なかった事、そして邪険に思った事を後悔した。
不意に湧き上がる罪悪感と後悔。そしてそれらとともに溢れ返る程の不安が胸に押し寄せて、目の奥が熱くなってくる。俺は下唇を噛締めて、滲みゆく視界に目を細めた。
なんですぐに電話を取らなかったんだろう。
まるで、母の声を無視してしまったような、非道な人間になってしまったような罪悪感で、胸が潰されそうだ。
「大丈夫?」
不意に声がして顔を上げると、いつの間にか暗い廊下の片隅に、同い年位の男の子が立っていた。まるで幽霊のように気配がなくて、気付かなかった。俺は滲んだ涙を服の袖で拭い、
「平気」
と強がって、その人影に目を凝らす。
暗がりからゆっくりと現れ、俺の隣に並ぶ彼は、勿論幽霊でも何でもなく、同い年ほどの男の子だった。彼は硝子越しの母へ、そっとその視線を向けると、
「今日の夕方の事故?」
と母を見つめながら呟いた。
「うん、……君も?」
隣に並んだ彼の頬には、白いガーゼが当てられ、額も赤く擦り切れていた。暗がりで気付かなかったけれど、はっきりと蛍光灯に照らされた彼の薄そうな皮膚には、痛ましい痕跡が残っていた。
「うん、俺も。でもそんなに酷い傷じゃないから」
そう呟きながら、彼は「新館の五階の病室に居るんだけど、暇になって」と尤もらしい理由を述べるように呟いた。
「寝てなくて良いの?」
「いいんじゃない? だって、気持ち悪くも痛くもないし」
そう言うと、彼は一瞬だけ俺を見てから、またすぐに母へと視線を向ける。
「大丈夫だよ、きっと助かるよ」
「……ありがとう」
名前も知らない傷を負った彼が零す言葉を、信用しようとは思えなかった。けれど、その静かな瞳には、俺の背中を支えてくれるような温かさみたいなものが確かにあった。
「……名前なんて言うの?」
そう尋ねると、彼は少しだけ目を輝かせた。院内の薄暗い廊下に散らばる光を搔き集めて、吸い込んだような、優しい明るさだった。
「水原さなぎ。平仮名でさなぎって書くんだ」
「俺は坂井しのぶ。俺も平仮名でしのぶって書くんだ。同じだね」
そう言うと、彼ははにかむようにして笑った。その笑顔に、電話を受け取った瞬間から続いていた緊張が、少しほぐれる。そんな優しさが、彼の笑顔にはあった。
俺達は父が戻るまでの間、眠る母を見つめながら、取り留めの会話をした。
赤や白や青の管が、母と機械をやんわりとたわみながら繋ぎ、弱った命を引き止めている。ぴ、ぴ、と聞こえる機械音が、母の鼓動。そんな小さな不安から目を逸らして、俺はさなぎの紡ぎ出す、俺の知らない日常に耳を傾けた。
「俺、ピアノ結構うまいんだ。今度しのぶの事、発表会に呼ぶよ」
ピアノというものは、女の子がならうものだとばかり思っていた俺は、少しだけ驚いたけれど、それを変だとは思わなかった。むしろ、音楽に詳しいわけではないけれど、彼がピアノの前で指を滑らかに動かす光景は、見てみたいという好奇心と高揚感が沸き上がった。
「じゃあ、母さんと聞きに行くよ!」
「うん、来て。待ってる」
そう約束したところで、不意に「しのぶ」と呼ばれた。視線を声の方へと投げれば、父が小走りで戻ってくるところだった。そして、やはりさなぎも、彼を探しに来た看護婦に見つかって怒られた。俺達は、またあとで、と約束をして、手を振る。
「俺の病室、新棟の508号室だから」
そう言って手を振るさなぎに、手を振り返す。
またあとで。
そう約束したのに、俺は508号室に行く事は出来なかったし、さなぎのピアノを聞く事もできなかった。
そして、その深夜に母は死んだ。
電話を受けた後、父は俺を迎えに来るや否や、タクシーに乗り込み病院へと急いだ。タクシーの運転手へ「急いでください」と何度も急かし、バックミラー越しに嫌な顔をされても、それすら気にならない様子で、父は俺の手を、汗の滲む手で強くに握り締めて「早く」と何度も訴えていた。
病院に着くとカメラを持った大人達を掻き分けるようにタクシーを飛び降りて、玄関口で待ち構えていた看護師に案内されるまま、父と俺は院内へと連れていかれた。眩いフラッシュの残像を瞳に幾つも焼き付けたまま、俺は父の手を固く握り締めて、大人の早歩きに着いていく事だけで精一杯になっていた気がする。報道陣の熱狂に、胸の内側で燻る良くない騒めきだけが重なって、妙に落ち着かない。これからどうなってしまうのかという不安と、父の表情から溢れる不安が、俺に根拠のない恐怖を身体の芯まで染みこませていた。
何一つ理解できないまま連れて行かれた場所で、硝子越しに数えきれない管に繋がれた母は、ゆっくりと呼吸をしながら眠っていた。母さん? と呼んでも、返事はない。分厚い硝子に邪魔されて聞こえないのだ。仕方ない。父は俺の手を離すとここに居てと言い残し、医者であろう男と看護師に連れられて何処かに行ってしまった。
ぽつりと不安とともに残されて――その微かな心細さを補うように、俺は眠っている母を見つめていた。硝子に額を擦り当てて見つめていると、少しずつ今の状況を理解し始める。
夕方見たニュース速報。
俺の住む地域の駅前で起きた、トラックの暴走車が、子供を含む男女を跳ね飛ばした。その内三人が即死で、十数名が重軽傷を負ったという。
母はその中の一人だった。
上空から映し出される事故現場と、プロペラ音、その音に負けない声量で事故現場の現状を伝えるアナウンサーの実況。何気なく見ていた場面が、鮮明に蘇ってくる。
――あの中に、母もいたのだ。
「母さん……」
俺はすぐに電話を出なかった事、そして邪険に思った事を後悔した。
不意に湧き上がる罪悪感と後悔。そしてそれらとともに溢れ返る程の不安が胸に押し寄せて、目の奥が熱くなってくる。俺は下唇を噛締めて、滲みゆく視界に目を細めた。
なんですぐに電話を取らなかったんだろう。
まるで、母の声を無視してしまったような、非道な人間になってしまったような罪悪感で、胸が潰されそうだ。
「大丈夫?」
不意に声がして顔を上げると、いつの間にか暗い廊下の片隅に、同い年位の男の子が立っていた。まるで幽霊のように気配がなくて、気付かなかった。俺は滲んだ涙を服の袖で拭い、
「平気」
と強がって、その人影に目を凝らす。
暗がりからゆっくりと現れ、俺の隣に並ぶ彼は、勿論幽霊でも何でもなく、同い年ほどの男の子だった。彼は硝子越しの母へ、そっとその視線を向けると、
「今日の夕方の事故?」
と母を見つめながら呟いた。
「うん、……君も?」
隣に並んだ彼の頬には、白いガーゼが当てられ、額も赤く擦り切れていた。暗がりで気付かなかったけれど、はっきりと蛍光灯に照らされた彼の薄そうな皮膚には、痛ましい痕跡が残っていた。
「うん、俺も。でもそんなに酷い傷じゃないから」
そう呟きながら、彼は「新館の五階の病室に居るんだけど、暇になって」と尤もらしい理由を述べるように呟いた。
「寝てなくて良いの?」
「いいんじゃない? だって、気持ち悪くも痛くもないし」
そう言うと、彼は一瞬だけ俺を見てから、またすぐに母へと視線を向ける。
「大丈夫だよ、きっと助かるよ」
「……ありがとう」
名前も知らない傷を負った彼が零す言葉を、信用しようとは思えなかった。けれど、その静かな瞳には、俺の背中を支えてくれるような温かさみたいなものが確かにあった。
「……名前なんて言うの?」
そう尋ねると、彼は少しだけ目を輝かせた。院内の薄暗い廊下に散らばる光を搔き集めて、吸い込んだような、優しい明るさだった。
「水原さなぎ。平仮名でさなぎって書くんだ」
「俺は坂井しのぶ。俺も平仮名でしのぶって書くんだ。同じだね」
そう言うと、彼ははにかむようにして笑った。その笑顔に、電話を受け取った瞬間から続いていた緊張が、少しほぐれる。そんな優しさが、彼の笑顔にはあった。
俺達は父が戻るまでの間、眠る母を見つめながら、取り留めの会話をした。
赤や白や青の管が、母と機械をやんわりとたわみながら繋ぎ、弱った命を引き止めている。ぴ、ぴ、と聞こえる機械音が、母の鼓動。そんな小さな不安から目を逸らして、俺はさなぎの紡ぎ出す、俺の知らない日常に耳を傾けた。
「俺、ピアノ結構うまいんだ。今度しのぶの事、発表会に呼ぶよ」
ピアノというものは、女の子がならうものだとばかり思っていた俺は、少しだけ驚いたけれど、それを変だとは思わなかった。むしろ、音楽に詳しいわけではないけれど、彼がピアノの前で指を滑らかに動かす光景は、見てみたいという好奇心と高揚感が沸き上がった。
「じゃあ、母さんと聞きに行くよ!」
「うん、来て。待ってる」
そう約束したところで、不意に「しのぶ」と呼ばれた。視線を声の方へと投げれば、父が小走りで戻ってくるところだった。そして、やはりさなぎも、彼を探しに来た看護婦に見つかって怒られた。俺達は、またあとで、と約束をして、手を振る。
「俺の病室、新棟の508号室だから」
そう言って手を振るさなぎに、手を振り返す。
またあとで。
そう約束したのに、俺は508号室に行く事は出来なかったし、さなぎのピアノを聞く事もできなかった。
そして、その深夜に母は死んだ。
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