Dinner

中原涼

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 夜の六時ぴったりに、さなぎは「よ」と、軽快な挨拶と共に現れた。お土産だと渡された赤ワインの入る、細長い紙袋を受け取る。
「気にしないでいいのに」
「せっかくだしさ」
 そう笑顔でいなされた。
 リビングへと案内すると、しのぶらしい部屋だな、とさなぎは言った。何をもって俺らしいと言ったのかが分からなくて、どんなとこ? と聞くと、何となく物が少なくて、清潔で色が静かなところ、とさなぎは淀みなく言った。
 薄いグレーのカーテンも、ブルーグレーのラグも、茶色い皮張りのソファも、濃い木目のダイニングテーブルも、しのぶみたいと。
 特に、これが。そう言ってさなぎが持ち上げたのは、二人分用意したカフェオレボウルだった。釉薬の深みを感じる淡青磁のそれは、たっぷりと紅茶や珈琲の入るので、気に入っている。
「ちょっと奮発して買ったやつなんだ」
 そう応えると、さなぎは笑って珈琲を注いだばかりのそれに口を付ける。白い湯気に、さなぎの鼻先が淡く濡れた。
「今日、ビーフシチュー作ったんだ」
「いいな。俺の好物だ」
「それはよかった」
 カウンター式のキッチンに戻ると、ガラスの蓋を開き、ふわりと湧き上がる白い湯気の奥で、くつくつと深みのある艶やかなブラウン色に蕩けたそれを見つめる。野菜や肉は三十分以上煮込まれているので、もう良いだろう。
「パンでも良いか?」
「うん。何か手伝おうか?」
 そう言いながら隣に来たさなぎを見上げる。自分よりも五センチは背が高いだろう彼は、背筋が良く、とてもすらりとしていて、見ていて心地が良い。自分が万年猫背でいるせいもあるだろうか。――どうしても小さい子相手になると、身を屈めたり、背中を丸める機会が多くなる。
 おたまを沈めて、ゆっくりとかき混ぜると、色鮮やか人参が顔を出して、またとぷりと深い飴色の中に沈んでく。
「今日は一般家庭のピアノ見に行ったんだけどさ」
 思い出したように、さなぎが呟く。
「すごい古いピアノでさ、聞くに堪えないくらい音がちぐはぐだったんだ」
 もうすごいよ、あんなピアノ初めてだ。そう言ってさなぎは小さく笑った。俺も何がおかしいのか分からないまま、つられて笑ってしまう。
「そこの依頼してきた爺さん。ピアノも人間と同じで、長い年月を生きるとガタが来るもんですねって笑ってた」
 ちらりと隣を見上げれば、さなぎはビーフシチューに似た、深い焦げ茶色の眼差しの奥で、ひっそりと微笑んでいた。幼い頃の彼とはかけ離れた、複雑な笑顔に見えたし、素直な感情にも見える。
「そんで、調律が終わった後、こんな風に人間も治れば良いんですけどねって」
 さなぎの手によって、滑らかな音階を取り戻した黒い曲線を描く、グランドピアノを思い浮かべた。さなぎはふと俺に視線を向けると、口元だけを笑わせた。俺は不安そうな顔でもしていたのだろうか、人をほっとさせるような笑みだった。
「もう良いんじゃないか?」
 言われて「ああ」と火を止めると、俺は用意していた真っ白な深い器に、バランスよくシチューを注いだ。それから今朝近所のパン屋で買って来たバケットを斜めにスライスして、付け合わせに冷やしておいたサラダをテーブルに運ぶ。
「こんな風な料理が自宅で食えるって、すごいな」
「品数少ない気がするけど」
「俺なんか普段丼一杯で済ませること多いから、十分だよ」
 ワイングラスを用意して、栓はさなぎに任せると、彼は慣れた手つきで静かにコルクを引き抜いた。雫型のワイングラスにとくとくと赤い液体を注ぎ、お互いの手元へ滑らせるように置く。何度もそうした仕草をした事があるような、指先だった。俺達は静かにグラスの飲み口を合わせて、舐める位の量を口に含む。甘やかな渋みと、葡萄の芳醇さと、どこか若いような青い香りが鼻を抜けていくのを感じた。
「美味しい」
「よかった。……じゃあ、いただきます」
 手を合わせるさなぎの顔は、何処となく幼い輝きを内に秘めていた。俺は同じように小さな声で「いただきます」と手を合わせるとスプーンを取った。一口掬って口に運ぶと、野菜の甘みの奥に香ばしい肉のうまみが広がる。悪くない。思わずそうほっとしながら視線を上げると、
「うま。しのぶ、料理上手いな!」
 彼はまるで初めてカブトムシでも見つけた子供みたいに顔を上げた。
「一応趣味って言えるくらいには作り込んでるからね」
 少し自慢するみたいに言ってやると、俺達はひっそりと笑った。ひとくち、ふたくちとスプーンで掬ってそれを口へと運ぶ。野菜は柔らかく、スプーンでもするりと割り零れ、肉はほろほろと解けながら、口の中で溶けた。
 軽くトーストしたバケットに、塩を散らしたオリーブオイルを垂らして、がり、かりと歯を立てる。
「これも美味いな」
「近くに良いパン屋ができたんだ。まだ二十代の女の子が三人で切り盛りしてるんだけど、どれも外れがないんだよ」
 俺は今朝紙袋にバケットを包んでくれた、髪の内側をオレンジ色に染めた、感じの良い女の子の笑顔を思い出す。甘いバターの香りが漂う中、その髪色が、爽やかにそよそよと、ドアから流れる風に揺れていた。
「いいな。俺の家の近くはコンビニしかないから」
「逆にコンビニは駅前まで行かないと、うちはないんだよ」
 そんな小さな話をしながら、俺達はビーフシチューを食べて、バケットを噛み締め、サラダを食べた。さなぎはビーフシチューをお代わりして、トマトが苦手だと言う彼の代わりに、サラダボウルの中にあるトマトを全部胃に収める。糖度の高いトマトは良く冷えて甘酸っぱく、フルーツみたいな感覚だった。
「このジュレみたいな部分が苦手」
 さなぎはそう言って眉を顰め、俺はそれを子供みたいだと笑う。
「小さい頃は飯残すと怒られたから、食ってたけど、大人の特権で偏食する自由を手に入れてからは食ってないな」
 さなぎはそう言って笑った。
「お母さん厳しかった?」
「ああ、厳しかった。今思えば過剰なくらい」
 懐かしむ目元の影には、哀愁がひっそりと佇んでいた。俺は指先でバケットを千切って食べる。
「ピアノの仕事が舞い込むたびに、どんどん過剰になっていった。その頃、うちの中が上手く回ってなかったから、母親は夢中になれたり、誇れるものが欲しかったのかもしれない」
 さなぎの父親は、その頃連日出張と言う名の、不倫相手の家に寝泊まりしていたそうで、家を顧みなかったと言う。さなぎはその事を淡々と、まるで最近流行りのドラマを解説するかのように語った。
「小さい頃でもさ、何となく分かるんだよな。この人にとって、自分が大事かそうじゃないかって」
 そう言いながら、さなぎはワイングラスのフットプレートに指を添えて、中の液体を柔らかく揺らした。部屋の明かりが、赤ワインの波間でゆらゆらと揺れているのが見える。
「俺達は大事じゃないっていうものに、父親の中で切り替わっていた。何してももうだめなくらい」
「傷ついた?」
 言ってしまってからあまりにも不躾で、酷い質問だったと後悔する。しかし、放してしまった言葉は、一文字だって取り戻す事はできない。申し訳なくて、思わず下げた視線を上げると、さなぎは俺を見て、力を抜くように微笑んでいた。
「それが驚く程、傷付かなかったんだ。今もよく考えるよ、どうして正しく傷つかなかったのかなって」
 正しく傷つく。その言葉の見えない形を、俺は頭の中でなぞった。
「良いも悪いもひっくるめて、興味がなかったんだ。ピアノ以外」
 そう言う彼の言葉にも双眸にも、嘘は感じられなかった。真っ直ぐで、二十年近くなる昔の面影を残すような双眸をしている。さなぎは、本当にピアノが好きだったんだなと、腑に落ちるように感じた。好きだと言う言葉では足りない。愛しているのだろうな、と俺は心底思った。
「ピアノがあったから?」
「たぶん。勉強より、友達と遊ぶより、ピアノと音の追いかけっこしている方が、何をするより自然に感じられたから、他の事に対しての違和感が、人より鈍かったのかもしれない」
 彼はそう言って、ワインを飲んだ。
「まあ、それもあの事故までなんだけどね」
 さなぎはそう諦めるように呟いて、眉を下げて笑った。肩を竦めるその仕草は、諦めを覚えたばかりの、中学生のようなぎこちないものに見えた。俺はそんなさなぎの中にまだ燻っているわだかまりのような、はっきりしない悲しみのようなものをもどかしく感じた。時間だけが癒してくれる、そうは言っても、傷が消えるわけではない。
 寒い夜は疼くだろうし、傷となったそこに触れれば、蚯蚓腫れのような、皮膚の引きつった痕みたいなものがあるに違いない。傷は癒える訳じゃない、慣れるのだ。そんな事もあったと、その傷を持っている事に、慣れてしまうことだ。
 俺は少しだけ、心細いような心地で、さなぎを見つめた。彼と目が合うと「ばかだな、そんな顔しないでいいのに」と、さなぎは笑った。
「今もさ、音楽は好きなんだ。ピアノだって全く弾けなくなったわけじゃない。今では自分で曲作ったりしてるんだ」
「すごい、曲が作れるのか」
「まあ、昔からやってるから、趣味の範囲でね」
 謙遜するように笑みを浮かべると、
「じゃあ次はしのぶの話を聞こうかな」
 と話をそらした。俺としてはその曲がすごく気になるけれど、その話は今度に取っておいても良い。急いで聞き出すこともないだろう。
 さなぎが話したい時にいつか、聞いてみたい。
「しのぶは今までどうしてた?」
「俺は特にないよ」
「あるよ。だって、今まで生きて来たんだから」
 さなぎはそう言うと、唇の端を持ち上げた。それからゆっくりとワインを飲み干す。
「……ああでも、そろそろ良い時間だね。じゃあ、次回はしのぶの話ということで」
 そうさなぎは言い纏めると、そっと皿を手に立ち上がった。食器を順々に台所へ運ぶと、俺の断りを押し切って皿洗いを始める。
「初めて来た家で食器洗いって、なんか変な感じ」
「さなぎがやるって言い始めたんだろ」
「そうだけどさ」
 変じゃない? へん、すごく変だよ。
 そう言って俺達は笑った。
 食器洗剤の清潔な匂いと、白い泡が目に柔らかく心地良い。
 銀色のシンクを流れる透明の水が、排水口に流れていくのを眺めながら、
「次は何を作ろうかな」
 と、俺は呟いた。
「凝ったものじゃなくていいよ」
「例えば?」
「三分でできあがるような」
「カップラーメンじゃん」
「そうだ、カップラーメンもいいじゃないか」
 そう言って笑うさなぎに、つられて笑ってしまう。ここに来る意味がないじゃないか、と言うと、
「そんなの口実だよ。俺は話したいんだから」
 さらりとこともなげに、さなぎはなめらかに告げた。思わずその言葉の真意を覗き込まないまま、投げられた言葉を受け取ると、心臓がことりと傾くような音を立てる。「そんなの口実だよ」まるで映画の中で、意中の相手を口説く時みたいな言葉だと、直感的に思ってしまった。
「……あ、うん。そうだよね、昔の事」
 言い訳みたいにそう呟くと、最後の青い陶磁のカフェボウルの水を切りながら、
「今も昔も」
 と、さなぎが付け足す。
「今と昔の話、できたらいいなって思ってる」
 濡れた手をタオルで拭いながら、顔を上げたさなぎが、じっと芯の太い、けれど触れたらふにゃん、と柔らかそうな眼差しで、温かく俺を見つめる。幼い記憶と相違ない眼差しに、胸の内側がほろほろと崩れるように解けていくのを感じた。
「うん。今と昔の話をしよう」
 俺が頷くと、さなぎも笑ってゆったりと頷いてくれた。
 銀色のシンクに、遅れた雫がぴちょん、と跳ねる音がした。


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