Dinner

中原涼

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 カフェは相変わらず、田淵君が一人で切り盛りをしていた。テイクアウトのみの店という事もあって、さなぎがいなくても、それはそれで回るらしい。営業時間も場所柄か、それ程長くはない。
「昼飯抜く位なんで、大したことじゃないですよ」
 彼はそう言って、さなぎが居なくなったことを気にも留めずに笑っていた。俺だけがそれにうまく答えられずにいるようで、情けなくなった。
「水出しアイスコーヒー下さい」
 昼休憩中。珈琲を飲みに来て、ついでに田淵君とおしゃべりをしていると、背後から知った声が聞こえる。振り返ると、無精ひげが薄っすらと顎や鼻の下を覆う、幾分年を取ったような新島が笑っていた。目の下のクマが色濃く見え、
「夜勤明けか?」
 と、尋ねると、
「二徹。この年には堪えるわ」
 参った参ったと笑った。
 医者の人口は常にどこもひっ迫状態にあり、この病院も例外ではない。いつも人手が足りない。なので、患者の手本となるはずの医者は、大体が疲労困憊で働いているのは常でもあった。
「もう帰れるんですか?」
 不安気に眉を下げる田淵君に、新島はカップを受け取りながら、これ飲んだら帰る、と頷いた。
「休みは?」
「明日出社」
「医者の労働基準法ってどうなってるんですか?」
 田淵君が訝し気に声を潜めた。俺たちは顔を見合わせてから、「そういう仕事なんだよ」と苦笑いをした。
「あ、新島さん。坂井さん、水原さんが来なくて、すっごく落ち込んでるみたいなんで、フォローしてあげてくださいね」
「えー、マジで? フラれた?」
「フラれたってなんだよ」
 憤慨して見せるように訴えると、新島は笑った。
「でも、意識的にしてるとさ、水原さなぎって名前偶に聞くよな。CMとかドラマでも楽曲提供したとか」
 多忙なのに、どうやって情報を収集しているのだろうと思いながら、俺は頷いた。そういうことを卒なくこなしてしまうのが新島で、そこが彼の魅力の一つなのだろうなと感じる。ぼんやりと生きている俺とは大違いだ。
「全然連絡ないのか?」
「うん。音楽の仕事しながら、調律師も辞める気配なかったし……多分、忙しくしてるんだよ」
 音楽の仕事が舞い込むようになっても、さなぎはずっとピアノと向き合っているようだった。
 先日行った五十年放置されたグランドピアノの話。亡くなった娘の命日にピアノの調律をする老婆の話。どんなふうに音が狂うかという話。さなぎは音楽を――そしてピアノを、心から愛しているのだ。だから、ピアノの調律を辞めるというのは、俺には考え難い気がした。
「自分から連絡取ってみろよ」
「……迷惑かなって」
 そう言うと、新島は首を傾げた。外国人がやるみたいな大袈裟なジェスチャーで。
「迷惑も何も、それはお前が決めることじゃねーじゃん」
 手の出しようがない正論を、事も無げに言われて、思わず閉口する。そんな俺を見て、田淵君が小さく笑っていた。父親に叱られている子どもを見る母親のように。
「ほら、スマホ出せ。今打てよ」
「いま?」
「今も後でも変わらねーだろ。文字の打ち込みなんか一分で終わる。その一分を惜しむなら違うんだよ」
 何が違うのかと聞きたくなったけれど、その何かを何だかわかるような気がして、俺は仕事とは別の個人的なスマホを左ポケットから取り出すと、電源を入れる。彼との会話が残るメッセージ画面を呼び起こすと、一か月前のレストランのアドレスが見えた。どきりとする。
 俺は少し迷ってから、
『元気?』
 とメッセージを送った。
「よしよし、いい子だ」
 それを見ていた新島が、俺の頭を子どもにするように、わしゃわしゃと乱すように撫でた。俺はヤメロ、とその手を払うと、
「反抗期だぞ」
 と田淵君に振り返るので、ホントヤメロと、俺は真っ直ぐに訴えた。これでは本当に子ども扱いじゃないか。そこまでプライドがないわけじゃないぞ、そう態度に示すと、新島は無精ひげを撫でた。
「……でも、ありがと」
 俺はどこか不服に感じながらも、新島に礼を言うと、彼のアイスコーヒーの代金を、トレイに置いた。
「ごっそーさん」
 悪びれもなく新島は笑い、もう限界だと言わんばかりの大きな欠伸をして、
「じゃあ田淵君、またね~」
 と、手を振って帰っていった。
 来院の人に紛れていく草臥れた白衣を、二人で見送っていると、
「確かに一分を惜しむか、その勇気を持てるかって、重要ですよね」
 そう田淵君が呟いた。
「だって、繋がる手段は今の時代、バカみたいに一杯あるんだから」
 俺は分かる気がして頷いた。
「でも、相手を想って動けなくなる気持ちも、分かります。あんなに疲れてる新島さんに、俺だってメッセージ送れねーもん」
 思わず田淵君を見ると、彼は悪戯する子どものように半分笑って、大人の悲しみを半分持って、微笑んでいた。内緒ですよ、そう呟いて、もういない白衣を見つめるように、また人混みの中へと視線を投げた。
「難しいよね」
「難しいっスね」
 手のなかで汗をかいているアイスコーヒーを握り直しながら、俺は人混みのなかに、いないはずのさなぎを探していた。
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