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しおりを挟む兄とようやく顔を合わせたのは、同居してから十日目の朝だった。
いつものように自分と兄の分の朝食を用意して、一人でカウンターで食事を済ませた時、リビングのドアが開いて、振り返ると寝起きだろう兄が不機嫌そうに立っていた。
「もう食べた?」
「うん、今食べ終わったところだよ」
そう言うと、兄は深々と溜息を吐いて、上下黒いスエットのままスリッパも履かずに、ペタペタとフローリングを歩いてくると、
「一緒に食おうと思ったのに。お前何時に起きてるんだ?」
と、キッチン前のカウンターに腰を下ろした。
俺は食器を流し台に運ぶと、珈琲の支度を始める。
「今日は午前授業があるから、八時くらいかな」
「明日は?」
「明日は午後だから特に決めてないよ」
まだ眠いのだろう、兄は形の良い双眸を歪めながら、大きな欠伸をして、首筋を掻くと、
「起こして」
と呟いた。
「でも、疲れてるんじゃないの?」
「起こして」
兄は俺の手元を眺めながら、もう一度丁寧に「起こして」と口にした。何を言われようと譲らない、と言うような強い意志が宿った態度だった。けれど横柄なそれには、何故か圧力がなく、逆に拗ねた子供のような愛らしさがあり、思わず笑ってしまうと、
「笑うな」
と指摘された。どうやら本当に拗ねていたようだ。俺は少しだけ心臓が甘く真綿でゆっくりと締め付けられるような感覚を覚えてしまいそうになる。
「はいはい。トースト焼いてあげるね。何枚?」
「二枚」
「バターで良い?」
「二枚ともバター」
「了解」
俺は手早くハンドドリップの珈琲を落として、兄の前に置くと、冷蔵庫にしまっていたサラダを取り出し、ラップを掛けてあったベーコンと目玉焼きを兄の前に置いた。トースターに二枚パンを並べると、焼き加減を設定する。すると、リビングの外からピーっと機械音が聞こえて、洗濯完了を知らせていた。
俺は洗濯物をリビングの端に干すと、既に焼き上がっていたトーストを取り出した。
その一連の動作を兄は視線だけで追ってきていた。
「なんか、奥さんみてえ。結婚とかしたら、こうなんのかな」
俺はぴたりとバターを塗る手を止めて、兄を見た。椅子に片足を乗せて、膝に顎を乗せたまま、兄は俺をじっと見つめていた。手に持っているフォークが、ベーコンを突いている。俺は一瞬言葉に詰まってから、
「そう呼べる人を早く見つけて、母さんに見せてあげて」
と笑って、投げられたボールを乱暴に投げ返した。間を置いてから、次第に心臓が胸の下で静かに主張をしてくる。俺は急いでトーストの準備を終えると、皿に乗せて兄の前に置いた。
そうだ、俺が相手じゃなければ、兄は誰かと結婚するんだ。
そんな当たり前の現実が、急に降って湧いて、心を重く水底に沈めて行く。
「今日も頑張ってね」
そう言って部屋を出ようとすると、不意に手首を掴まれ、引き止められた。
心臓が大きくどくりと跳ね返る。
ゆっくりと振り返ると、先ほどまで眠そうに蕩けていた眼差しが、幾分覚醒し、強く俺を射抜いた。兄弟間を抜きにして、心臓を撃ち抜いてくるような眼差しは弾丸のように、俺の心臓を砕いてくる。
アルファはオメガに誘われるという。けれどその逆もあると思う。オメガだって、アルファの魅力に抗えなくなる瞬間がある。恋や愛とか生易しいものではない、支配という言葉がしっくりする程の、有無を言わせない感覚。
「どうしたの……?」
どうにかして絞り出した声に、兄の眼差しがはっとしたように緩んだ。我に返る兄の瞳が見せる、一瞬の無垢さに緊張の糸が緩んだ。
「悪い、なんでもない」
兄の手がゆっくりと俺の手首を解いた。大きな手が掴んだそこは、熱く、こんなにも大きかったっけと、俺の過ちを少しだけ煽った。煙のように仄かに立ち上るそれに、俺は下唇を噛み締め、身体の芯がじんわりと火照り始めるのを感じた。まるで、とろ火のようにじわじわと、焼き尽くしていく。体も、心も。
あの夏のように。
「光、お前……ちょっと良い匂いするけど、平気か?」
不意に言われて、今度こそ心臓が飛び出すんじゃないかと思う程驚くと、燻っていた炎が、一気に発火した。全身の毛穴が開いて汗が噴き出すような感覚に捕らわれ、視界が否応なく潤む。
「え? ち、ちが……今その期間じゃないよ。ごめんなさいっ」
余りの唐突さに、俺は逃げる様にリビングを後にした。大きな音を立てて閉めた扉の奥から、俺を呼ぶ兄の声が聞こえたけれど、そんな事は今はどうでも良い。体の火照りをどうにかしなくては。
薬、薬、薬。
俺は部屋に駆け込むと、常備している処方箋を口にした。もう水がなくても飲めるほど飲み慣れた錠剤。微かに喉を通る時、器官に張り付いて剥がれ、ころころと転がり落ちていく感覚は、未だに慣れないけれど。
俺はベッドに座って、微かに荒くなっている呼吸を整える様に、一から八までを繰り返し一定の間隔を持って数えながら、深呼吸を繰り返した。
ヒートの周期が決まっている。だから大体の日にちは予想できるのだが、こんなのは初めてだ。突然こんな風に体が熱くなるなんて。
俺は己の身体に起こった変化に戸惑いながら、ゆっくりと立ち上がると、部屋の鍵を施錠した。かちり、と閉まる音が、身体も心も、全てを遮断する音に聞こえる。
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