遠い海に消える。

中原涼

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 あの日があっても、兄は俺と今まで関わり合いのなかった何かを埋めようとするかのように、俺と一緒にいる時間を作ってくれた。
 朝は起こせと言うし、夕飯で何が食べたいなどリクエストする事もあった。必ずその夜食べられるという訳ではないけれど、朝には用意した食事は空になっていた。
 何でもしてやるからな。
 そう最初に俺に言ってくれた約束を、兄は守ってくれていた。十分な居住と食事、考えられた家族としての愛情――愛情。
 俺は一人で終えた夕食後、勉強机に向かう気になれないまま、丁度やっていたドラマを眺める。毎週何かを見る癖がないので、話の流れは曖昧だが、時間を埋めるにはちょうど良く煩い。
 ソファに深く腰掛けながら、俺は膝の上で温める様に両手で持っていたジュース缶を、ローテーブルへと移した。
「貴方の事、本当に好きか分からないの」
 テレビの中の女優が深刻な面持ちで、男に言い放つ。それを受けた男は、深い溜息を吐いてから、
「焦らないでいいから、考えて欲しい」
 と、大人の振りに隠されたすがるような言葉を慎重に舌に乗せて、彼女に告げた。真顔で頷く女がアップで映ると、エンディングテーマが流れ出し、いつの間にか止めていた息をゆっくりと吐き出す。
 ――本当に好きか分からない。
 その言葉が、妙に胸の内側にこびり付く。爪の先でひっかいて剥がそうとすると、くっついた皮膚が引きつれて少しだけ痛い気がした。
「ただいま」
 油断していると、不意に兄の声が聞こえてどきりと心臓が跳ね返った。思わず姿勢を正したところで、リビングの扉が開かれる。
 鼓動は止むことなく、薄い胸を叩き続けていた。
「おかえりなさい」
 振り返ると、迷うことなく近寄ってきた兄は腕に抱えていた鞄をソファの端に放り投げて、俺の隣に深く腰を掛けた。勢いよく身体を沈めた重みで身体が微かに跳ねて、兄の揺れた髪の隙間や服と肌の隙間から、彼の使っている香水のスモーキーな香りが、ふんわりと鼻孔を擽ってくる。
 俺は匂いに弱いようで、漂う様に薫る兄の気配に、簡単に心臓が突き動かされてしまう。
「兄さんいい香りだね」
 俺の言葉にそうか? と首を傾げながら、腕の辺りを鼻先に近づけて、
「きつい?」
 と聞かれたので首を振ると、兄は少しだけ笑った。
「今日の夕飯なに?」
「カレイの煮つけ。食べたいって朝言ってたじゃん」
 俺はチャンネルをバラエティー番組に変えて席を立つ。どっと観客が笑う声が部屋に溢れると、兄は俺の手からリモコンを取り、音量を三つ下げた。
「……なんか、いつもよりお疲れ?」
 目を閉じてソファの背もたれに頭を預けている兄を見下ろす。長く多いまつ毛と、なだらかな瞼の白い丘が、少しだけ震えた。
「サイトにバグが出て、それでてんやわんや。まあ、一時的な障害だったから良いけど、クレームが多くてな」
 兄の露出が目立つと、通販サイトの会員数は比例するかのように向上していた。その分、人員不足や、サーバーの問題、見過ごしていた細かい部分までの、今まで見えなかった粗が目立ってきたようだ。
「まあ、何事も一から完璧なんて無理だから、少しずつ直す」
 と、二週間前までの兄は悠長に構えていたようだが、実際はそんな生易しいものではないらしい。それを主張するかのように、目元にはうっすらと隈が浮かび上がっていた。
 きっと十分な睡眠がとれていないのだろう。
「あまり無理しちゃだめだよ、って言っても、色々あるだろうけど……過労で倒れるとか、ダメだからね。俺にそんなに構わないでも、大丈夫だから」
「俺がしたくてしてるから、光は気にしないで良い」
 テレビの笑い声の隙間を縫うように、兄の低い声がそう俺の言葉を一蹴した。兄の事を考えて言っているのに、その言葉はないだろうと思いつつも、こう返されるのは一度目ではないので、俺は溜息一つに抑えて、キッチンへと向かった。
 兄が俺の存在を喜んでくれるのは嬉しいけれど、負担になっているのかという心配が抜けない。
 兄には背負うものが多すぎるのだ。
 会社や世間体やアルファという識別。それに加えてオメガの弟なんてものが伸し掛かってしまったら、兄の自由がなくなってしまう。
 くつくつと煮立つ汁をお玉で掬って、煮魚に掛けながら、俺は二度目の息を吐いた。
「お前は余計な事は考えないで良いんだよ」
 背後から声がして慌てて振り返ると、いつの間にか移動してきていた兄が迫る様な距離で立っていた。体を向けようとすると、突然背中から抱き締められて、思考も身体も固まってしまう。すっぽりと胸の内に収められ、一拍遅れて身体とは別物のように、心臓だけがどくどくと脈打ち、働き出した。耳元に兄の唇が近いのか、熱い息が掛かると、耳の裏がぞくりと甘く痺れた。
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