遠い海に消える。

中原涼

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「お前はここで、勉強して飯作って、偶に遊んでさ。そうやって自由に居てくれたら良いんだ」
 バラエティー番組の中で、名前も知らない芸人が叫ぶと、それに観客や他の芸人が笑い出した。大きい音を選んだはずなのに、それはもの凄く遠くて、俺の鼓膜は心音と兄の声音に支配されていく。
「父親じゃないんだから、気を負い過ぎだよ」
 何とか苦笑いを浮かべて、何てことないように、兄の言葉を笑うと、
「……また、甘い匂いさせてる」
 囁く様に言われた。
 まずい、そう思った瞬間、俺は振り返って兄の身体を押し退けた。簡単に剥がれたぬくもりに、俺は兄を睨みつけると、兄は感情の宿りにくい眼差しで俺を見つめていた。初めてのような戸惑いや驚きも、そこにはない。
 兄は分かってやっている。
 そう思うと、どう声を掛けて良いのか、兄が何を考えているのか分からなくて、自分自身や兄に対して、じわじわと得体の知れない、言い表しようのない恐怖が身体を支配し始めた。
 兄は笑う事も、怒る事も、悲しむこともない眼差しで、俺を見つめている。兄の感情を見せない瞳の向こう側を覗くことは、俺にはできない。いや、してはいけない気がした。
「自分で残りはできるよね」
 俺は短くそう言い残すと、鍋下の火を消して、自分の部屋へと戻ろうとした。けれど、思いもしない程の強い力が、俺の二の腕を掴んだ。あまりの強さに眉間に皺を寄せて振り返る。振り解こうとしても、その力は強まる一方で、このままではいけないと、咄嗟に、
「痛い!」
 そう言葉にして訴えて、兄を見上げた。
「痛いよ!」
「お前にとって、あの日はなんだったんだ?」
 兄の放った言葉に、思考回路が止まる。
 今まで目を反らしてきた記憶に、兄が噛み付いた。絶対に触れてはいけない禁忌にも関わらず、兄ははっきりと俺の眼を見据えながら、そう言い放った。その事実が、まるで当たり前のように放たれた事が信じられない。
「なにって……」
 瞬間的に脳裏にくっきりと思い出されるそれに、俺は言葉に詰まってしまう。幾度となく繰り返し、鮮明に再生をしてきた記憶は、擦り切れる事無く俺の中で正しく細部まで、再生されるのだ。
 熱い身体と夕暮れ。喘ぐ胸と息に、汗ばむ身体。呻き声。
 当たり前のように下腹部の奥で、ぼんやりと火が灯り、燻る。
「光」
 そう呼ばれた瞬間、俺は視線を上げて、兄を見つめた。形の良い二重の双眸が、揺らぐことなく俺を見つめ返している。俺はその奥にある、俺の腹の底で揺らいでいるものと、同じものを見つけた気がした。
 ――ああ、もうだめだ。
 観念するように、俺の中で何かが崩れ去って行く。波打ち際に作った泥の防波堤を、いとも簡単に崩していく波の満ち引きは、残酷に理性を打破すると、削った砂の奥に隠されていた本能を撫でた。
 震える唇を噛み締めて、俺は首を振った。
「兄さんは、俺に何を言わせたいんだよ」
 苦しくて、絞り出すように呟くと、六年間溜め込んでいたものが溢れ出す。
 好きだと言ってしまえば楽だと言うのか。
 本能に従えば楽だと言うのか。
「できるわけないじゃん……」
 頭の中で叫ぶ言葉に、俺は呟いた。
 兄は何も答えず、ただ俺の二の腕を掴んだまま、その眼差しを俺から一ミリも逸らさないまま、俺を責める事も憎む事も、逆に愛おしむ事もないような眼差しで、俺を見つめていた。俺はその表情に感情を探した。
 けれど、そこには俺のわかるものは何もなかった。
 俺だけが感情や規則に揉まれているようで、悔しくて奥歯を噛み締める。
「……大っ嫌い」
 唇が勝手に、言葉を絞り出すように溢した。
「兄さんなんて、大嫌いだ」
 俺を煽って、それでいて自分が何処かの高見から俺を見下ろしている。馬鹿にされている。
 堰を切った感情は、四方八方に散らばりながら、俺の感情なども一切無視して、的もなく乱射された。被弾するのは兄や自身なのに。それでも溢れる涙も、抑え込んで嘘かもしれないとした恋も、歯止めが利かなかった。
「光」
 再び名前を呼ばれ、次の言葉の弾丸を喉奥に装填した瞬間、あっと驚くことも許されないまま、俺は兄の腕に抱き締められ、その懐の中に納まっていた。瞬くような一瞬でぬくもりに包まれ、その一転に言葉をとりこぼしていると、
「ごめんな」
 と、兄が耳元で呟いた。
「全部俺のせいだから」
 そう言われ、見上げると、兄の微笑む顔が見えた。いつにない弱々しそうなその眼差しに庇護欲を掻き立てられてしまう。
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