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婚約破棄物語から始まる真実の愛
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「エマリア、すまない。私は真実の愛を見つけた。君との婚約は破棄させてもらう」
――その言葉は、庭園に吹き抜ける春の風よりも冷たく、鋭く、私の胸を切り裂いた。
鮮やかな花々に囲まれた中庭。噴水のきらめく水音。向かい合うのは、私と婚約者のカイル、そしてユミア。カイルとユミア――まるで一枚の絵画のように美しい。その美しさが、今の私には胸を突き刺す刃のように思えた。
「……どうして」
そう呟いた声は、自分でも驚くほど震えてかすれていた。喉の奥が熱く、胸が締め付けられるように痛む。込み上げる嗚咽を必死に堪えていると、視界が涙でぼやけていった。頬を伝う涙は、吹き抜ける風に冷やされ、ひどく切なく感じられた。
「君はユミアに会う度、嫌がらせをしていただろう? ユミアの物を隠したり、水をかけたり……そんな人だとは思わなかった。心底失望したよ」
突き放すかのような放たれた言葉に、私はただ呆然とするしかなかった。優しいはずの彼が、こんな冷たい瞳で私を見るなんて――。
震える指先を握りしめ、その場で倒れそうになるのを必死に堪えながら、私はただ逃げ出すしかなかった。
(こんなはずじゃなかったのに……!)
「待ってくれ、エマ!」
背後からカイルの必死そうな声がきこえてくる。しかし、今の私には振り返る余裕などなかった。胸の奥には痛みが溢れ、頭の中は混乱でいっぱいだった。
気がつけば、足は自然に街の一角にある小さなカフェへと向かっていた。今日はちょうど親友クラリッサと会う約束をしていたことを思い出す。
人々の笑い声や店の呼び声が遠く感じられ、世界が水の中のように歪む。息を整えようとしても、胸が痛くて深く吸えない。クラリッサに会えば、胸の痛みが少しは和らぐだろうか――そう思わずにはいられなかった。
店に入ると、香ばしい焼き菓子の匂いが広がっている。いつもならこの香りに胸がはずむのに、今の私にはただ重くのしかかるように感じられた。
店員がすぐに奥の部屋へ案内してくれた。扉を開けると、窓際の席で待っていたクラリッサは、私の顔を見て息をのんだ。
「エマリア……その顔、まさか……」
彼女の声は驚きと悲しみに揺れていた。私の頬を濡らす涙を見て、何かを察したようだ。
「カイル様が……他の女性と親密にしているの、あなたも知ってしまったのね?」
「……カイルが?」
思わず呟いた声は、震えていた。胸の奥がぎゅっと痛み、呼吸が乱れる。クラリッサは唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「信じたくはなかったわ。でもあれは確かにカイル様だったの。人目を避けるようにして、甘い言葉を囁いて……。お相手は私たちより少し年上で、大人の女性って感じだったわ」
カイルとの婚約は家同士の取り決めであって、そこに恋愛感情は存在しない。
容姿端麗で、私の少し変わった趣味にも付き合ってくれる優しい彼。私よりも、もっとふさわしい、素敵な人がいるのであれば応援したい。そう頭ではおもっているのに。
私は声を出せず、ただ震えて席に座り込む。頭の中で、ありえない光景が何度も再生される――笑うカイル、柔らかい微笑みを浮かべる女性、そして私の心を刺す痛み。
(どうして、こんなにも心が痛むんだろう……)
幼い頃の私は、いつも孤独だった。
誰も見えないものが見え、聞こえない声が聞こえる。周囲の子どもたちはそのせいで私を避け、両親でさえ理解しようとしてくれなかった。
その孤独を埋めるのは、書庫で出会った物語の世界だった。
木製の扉を押し開けると、埃の匂いとともに静かな空間が広がる。高く積まれた本の山、古びた巻物、色とりどりの表紙。ページをめくるたび、鮮やかな世界が私の目の前に広がった。
遠い国の王女、勇敢な騎士。誰もが誰かに愛され、見守られる物語は、孤独な私にとって現実よりも温かい光だった。
物語の登場人物たちは、互いに助け合い、愛し合い、友情や誠実さを胸に抱いている。私はその姿に涙を流し、時には声をあげて笑った。胸の奥に小さな光が灯るようで、それだけで生きる希望を感じた。
誰かの愛を追いかける物語の中で、現実の孤独を忘れ、胸の奥を満たす。それだけで、十分だった。
年齢を重ね、ユミアと契約を結ぶことができたことで、両親の誤解も解け、孤独は少しずつ和らいでいった。同じく読書好きのクラリッサとも出会い、互いに感想を語り合う時間は、私にとってかけがえのない宝物となった。
そしてある時、カイルとの婚約が決まった。完璧な容姿、優しい声、整った立ち居振る舞い。まるで物語から抜け出してきた王子のようで、私の胸はざわついた。
貴族社会では親同士が取り決めた縁がすべて、恋愛は二の次とされる。形式的な婚約として受け入れるつもりだった。けれど、彼は私の恋愛小説好きを笑うこともなく、毎週の顔合わせでは、お互いの好きなことについて語り合った。
互いの間に壁がなくなった頃、私は勇気を出して、あるお願いをした。
それは、私が気に入った場面を台本としてユミアと共に演じてもらうこと。二人が織りなす劇は、自分で読書する以上に胸が高鳴るのを感じ、私は何度も彼にせがんだ。優しい彼はそのたびに、それを受け入れてくれたのだ。
◆数日前――。
「カイル、今日はこの台本をお願いできるかしら」
「君のお願いを断れるわけないだろう、エマ」
差し出した台本を受け取る彼の微笑みは、まるで物語の中の騎士そのものだった。勇敢で誠実で、少しだけ照れくさそうなその笑顔に、私はこっそりと胸をときめかせる。
「ふふふ、ありがとう。ユミアも、お願いね」
呼びかけると、光の粒が舞い上がり、精霊ユミアが人の姿へと変わる。透き通る肌、流れる銀髪は、いつ見ても心が洗われるような美しさだった。
二人は、私が愛する恋愛小説の名場面を演じ始めた。
「愛しい人よ。君の微笑みは、この世の宝石よりも輝いている。どうか、僕のそばにいてくれ」
「わたくしには、あなた様しか見えません。この命、すべてを捧げます」
声と視線、所作のひとつひとつが物語を超え、現実の空気の中で生きているかのようだった。私は胸を震わせ、思わず息を忘れるほど夢中になった。
「ああ、なんて尊いのかしら……!」
演技が終わった後、私の心臓は爆発しそうに高鳴った。恥ずかしそうに笑うカイルの横顔は、理想のヒーローそのものだった。
「エマ、どうだった? 君の期待通りに演じられたかな」
カイルが優しく問いかけると、私は大きく頷いた。
「完璧よ、カイル! もう、最高だったわ……! ねえ、もう一つ演じて欲しい場面があるんだけど……」
「え、もう一つ?」
カイルは困ったように眉を下げた。
「勘弁してくれよ、エマ。僕は役者じゃないんだ、もう羞恥心が限界だよ」
「そこをなんとか! 次の場面もすごくいいのよ! ね、お願い!」
私が両手を合わせて熱心に懇願すると、カイルは苦笑いを浮かべる。
「はは、君には敵わないな。分かったよ、あと一つだけだ。次は僕のお願いを聞いてもらうからね」
「やった! 何でも聞くわ」
私は喜びを抑えきれず、小さく飛び跳ねた。
現実では味わえない、この心ときめく瞬間こそ、私にとって何よりの楽しみだった。カイルの優しい眼差し、ユミアの完璧な演技、すべてが私を夢中にさせた。
そんなささやかな幸せを噛み締めながら、平穏な日々が続いていく、そう思っていたのに――
「エマ! やっと見つけた!」
個室の扉が勢いよく開かれ、息を切らしたカイルが飛び込んできた。額には汗が滲み、普段はどこか余裕を纏う彼の表情が必死そのものに見えて、思わず胸が詰まる。
「急にいなくなるからびっくりしたよ。大丈夫か?」
「誰のせいだと思っているのかしら!あなたが……他の女性と……」
私が言葉を紡ぐよりも早く、クラリッサが鋭い声で怒りを爆発させた。彼女の眉はきつく寄せられ、友人として私を守ろうとしてくれるのが伝わってきて、とても心強かった。
「え、何の話だい!? 僕は浮気なんかしてない!」
カイルの声には動揺が滲み、広い肩がわずかに震えていた。
「嘘おっしゃらないで! 私、この目で見たんですのよ!」
クラリッサの糾弾は鋭く、部屋の空気を張り詰めさせる。
カイルは困惑した表情でクラリッサを見つめていたが、その視線はふと宙をさまよい、何かに気づいたようにハッと目を見開いた。
その瞬間、彼の表情にわずかな苦渋が浮かび、ちらりと私を見た。そして――。
「……もしかして、ユミアと練習しているところを見たんじゃないかな」
「ユミア?それってエマリアの精霊のこと?」
クラリッサが呆気にとられたように瞬きをする。すると、カイルは真剣な眼差しをユミアへと向けた。
「そうだ。ユミアは、実は人の姿に変わることができるんだ。ユミア、お願いできるかい?」
「はい、カイル様」
静かな声とともに、ユミアの体が淡い光に包まれる。柔らかな光が収束した瞬間、そこに現れたのは気品ある大人の女性の姿だった。
「……あの時の女性だわ!」
クラリッサが目を見開き、驚きに声を上げる。
「珍しい力だから、むやみに吹聴しないようにしているんだ。君もこのことは内緒にしておいてくれるかな」
「ええ、もちろんよ。わたくし、早とちりして……ごめんなさい」
クラリッサは頬を紅潮させ、深々と頭を下げる。部屋に静寂が落ち、私の胸にはまだざわめきが渦巻いていた。
そんな私に、カイルが一歩近づく。彼の影が落ちると同時に、低く真剣な声が響いた。
「……エマ、さっきはどうして逃げたんだい?まだ劇の途中だったじゃないか」
「それは……混乱しちゃって。演技だとわかってても、カイルに婚約破棄をされたのが、すごくショックだったの。自分でも驚くくらいに」
俯く私の声は震えていた。ただの演技だったはずなのに、胸を突き刺したのは本物の痛みだった。
その告白に、カイルは息を呑む。しばし沈黙したあと、彼はゆっくりと深呼吸し、決意を宿した眼差しを私に向けた。
「本当は、もっとちゃんとした場で伝えるつもりだったんだ。……でも、もう言わずにはいられない」
彼の瞳は揺るぎなく、真っ直ぐに私を射抜いてくる。
「エマリア、僕がどれだけ真剣に君を想っていても、君は僕とユミアの演技に夢中で、僕の愛に少しも気づいてくれない。それがもどかしかった」
その声音は、台本でも芝居でもなく、ただひとりの男の本心だった。取り繕いも虚飾もない、不器用なほどまっすぐな告白。
「エマリア。僕は君を愛している。これは、本物の気持ちだ。少しずつでいい……僕を、男として見てほしい」
「……カイル」
その言葉は、私の奥深くに染み込んでいき、熱で胸を満たしていく。頬を伝う涙を止められない。
けれど、その涙はさっきまでの痛みの涙じゃなかった。心の奥に、温かい光が灯り、胸が満たされていくようだった。
カイルはさらに一歩、近づいてくる。
「これからは、君以外に愛を囁かない。……君のお気に入りの場面を演じる時も、僕の相手は君がいい」
「そっ、それは……! 少し解釈違いかもしれないわ!」
涙声のまま叫ぶと、カイルは不意に柔らかく笑みを浮かべ、私の頭に大きな手を置いた。その掌の温もりが、安心と幸福を同時に与えてくれる。
「はは、君には敵わないな」
その甘い空気に、私は目を閉じて胸の高鳴りを感じていた。
「ねぇ、ぜひわたくしもお二人のラブシーンをたんまりと見せていただきたいのだけど」
その声に、私ははっと顔を上げた。クラリッサが、にやりと笑いながらこちらを見ている。
どうして今のいままで彼女がいることを忘れてしまっていたのか。
「だめよ、私専用の特別劇場なの!」
顔を真っ赤にして必死で抗議すると、クラリッサはからかうように肩をすくめた。
私は恋なんて縁がないと思っていた。愛されるなんて夢物語だと思っていた。けれど今――胸の奥に溢れるのは、かつて物語でしか知り得なかった、ときめきとは比べものにならない感情。
確かで、深くて、痛いほど甘い。
(……ああ。これが“真実の愛”なんだ)
そう思った瞬間、世界はひときわ輝いた。
――その言葉は、庭園に吹き抜ける春の風よりも冷たく、鋭く、私の胸を切り裂いた。
鮮やかな花々に囲まれた中庭。噴水のきらめく水音。向かい合うのは、私と婚約者のカイル、そしてユミア。カイルとユミア――まるで一枚の絵画のように美しい。その美しさが、今の私には胸を突き刺す刃のように思えた。
「……どうして」
そう呟いた声は、自分でも驚くほど震えてかすれていた。喉の奥が熱く、胸が締め付けられるように痛む。込み上げる嗚咽を必死に堪えていると、視界が涙でぼやけていった。頬を伝う涙は、吹き抜ける風に冷やされ、ひどく切なく感じられた。
「君はユミアに会う度、嫌がらせをしていただろう? ユミアの物を隠したり、水をかけたり……そんな人だとは思わなかった。心底失望したよ」
突き放すかのような放たれた言葉に、私はただ呆然とするしかなかった。優しいはずの彼が、こんな冷たい瞳で私を見るなんて――。
震える指先を握りしめ、その場で倒れそうになるのを必死に堪えながら、私はただ逃げ出すしかなかった。
(こんなはずじゃなかったのに……!)
「待ってくれ、エマ!」
背後からカイルの必死そうな声がきこえてくる。しかし、今の私には振り返る余裕などなかった。胸の奥には痛みが溢れ、頭の中は混乱でいっぱいだった。
気がつけば、足は自然に街の一角にある小さなカフェへと向かっていた。今日はちょうど親友クラリッサと会う約束をしていたことを思い出す。
人々の笑い声や店の呼び声が遠く感じられ、世界が水の中のように歪む。息を整えようとしても、胸が痛くて深く吸えない。クラリッサに会えば、胸の痛みが少しは和らぐだろうか――そう思わずにはいられなかった。
店に入ると、香ばしい焼き菓子の匂いが広がっている。いつもならこの香りに胸がはずむのに、今の私にはただ重くのしかかるように感じられた。
店員がすぐに奥の部屋へ案内してくれた。扉を開けると、窓際の席で待っていたクラリッサは、私の顔を見て息をのんだ。
「エマリア……その顔、まさか……」
彼女の声は驚きと悲しみに揺れていた。私の頬を濡らす涙を見て、何かを察したようだ。
「カイル様が……他の女性と親密にしているの、あなたも知ってしまったのね?」
「……カイルが?」
思わず呟いた声は、震えていた。胸の奥がぎゅっと痛み、呼吸が乱れる。クラリッサは唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「信じたくはなかったわ。でもあれは確かにカイル様だったの。人目を避けるようにして、甘い言葉を囁いて……。お相手は私たちより少し年上で、大人の女性って感じだったわ」
カイルとの婚約は家同士の取り決めであって、そこに恋愛感情は存在しない。
容姿端麗で、私の少し変わった趣味にも付き合ってくれる優しい彼。私よりも、もっとふさわしい、素敵な人がいるのであれば応援したい。そう頭ではおもっているのに。
私は声を出せず、ただ震えて席に座り込む。頭の中で、ありえない光景が何度も再生される――笑うカイル、柔らかい微笑みを浮かべる女性、そして私の心を刺す痛み。
(どうして、こんなにも心が痛むんだろう……)
幼い頃の私は、いつも孤独だった。
誰も見えないものが見え、聞こえない声が聞こえる。周囲の子どもたちはそのせいで私を避け、両親でさえ理解しようとしてくれなかった。
その孤独を埋めるのは、書庫で出会った物語の世界だった。
木製の扉を押し開けると、埃の匂いとともに静かな空間が広がる。高く積まれた本の山、古びた巻物、色とりどりの表紙。ページをめくるたび、鮮やかな世界が私の目の前に広がった。
遠い国の王女、勇敢な騎士。誰もが誰かに愛され、見守られる物語は、孤独な私にとって現実よりも温かい光だった。
物語の登場人物たちは、互いに助け合い、愛し合い、友情や誠実さを胸に抱いている。私はその姿に涙を流し、時には声をあげて笑った。胸の奥に小さな光が灯るようで、それだけで生きる希望を感じた。
誰かの愛を追いかける物語の中で、現実の孤独を忘れ、胸の奥を満たす。それだけで、十分だった。
年齢を重ね、ユミアと契約を結ぶことができたことで、両親の誤解も解け、孤独は少しずつ和らいでいった。同じく読書好きのクラリッサとも出会い、互いに感想を語り合う時間は、私にとってかけがえのない宝物となった。
そしてある時、カイルとの婚約が決まった。完璧な容姿、優しい声、整った立ち居振る舞い。まるで物語から抜け出してきた王子のようで、私の胸はざわついた。
貴族社会では親同士が取り決めた縁がすべて、恋愛は二の次とされる。形式的な婚約として受け入れるつもりだった。けれど、彼は私の恋愛小説好きを笑うこともなく、毎週の顔合わせでは、お互いの好きなことについて語り合った。
互いの間に壁がなくなった頃、私は勇気を出して、あるお願いをした。
それは、私が気に入った場面を台本としてユミアと共に演じてもらうこと。二人が織りなす劇は、自分で読書する以上に胸が高鳴るのを感じ、私は何度も彼にせがんだ。優しい彼はそのたびに、それを受け入れてくれたのだ。
◆数日前――。
「カイル、今日はこの台本をお願いできるかしら」
「君のお願いを断れるわけないだろう、エマ」
差し出した台本を受け取る彼の微笑みは、まるで物語の中の騎士そのものだった。勇敢で誠実で、少しだけ照れくさそうなその笑顔に、私はこっそりと胸をときめかせる。
「ふふふ、ありがとう。ユミアも、お願いね」
呼びかけると、光の粒が舞い上がり、精霊ユミアが人の姿へと変わる。透き通る肌、流れる銀髪は、いつ見ても心が洗われるような美しさだった。
二人は、私が愛する恋愛小説の名場面を演じ始めた。
「愛しい人よ。君の微笑みは、この世の宝石よりも輝いている。どうか、僕のそばにいてくれ」
「わたくしには、あなた様しか見えません。この命、すべてを捧げます」
声と視線、所作のひとつひとつが物語を超え、現実の空気の中で生きているかのようだった。私は胸を震わせ、思わず息を忘れるほど夢中になった。
「ああ、なんて尊いのかしら……!」
演技が終わった後、私の心臓は爆発しそうに高鳴った。恥ずかしそうに笑うカイルの横顔は、理想のヒーローそのものだった。
「エマ、どうだった? 君の期待通りに演じられたかな」
カイルが優しく問いかけると、私は大きく頷いた。
「完璧よ、カイル! もう、最高だったわ……! ねえ、もう一つ演じて欲しい場面があるんだけど……」
「え、もう一つ?」
カイルは困ったように眉を下げた。
「勘弁してくれよ、エマ。僕は役者じゃないんだ、もう羞恥心が限界だよ」
「そこをなんとか! 次の場面もすごくいいのよ! ね、お願い!」
私が両手を合わせて熱心に懇願すると、カイルは苦笑いを浮かべる。
「はは、君には敵わないな。分かったよ、あと一つだけだ。次は僕のお願いを聞いてもらうからね」
「やった! 何でも聞くわ」
私は喜びを抑えきれず、小さく飛び跳ねた。
現実では味わえない、この心ときめく瞬間こそ、私にとって何よりの楽しみだった。カイルの優しい眼差し、ユミアの完璧な演技、すべてが私を夢中にさせた。
そんなささやかな幸せを噛み締めながら、平穏な日々が続いていく、そう思っていたのに――
「エマ! やっと見つけた!」
個室の扉が勢いよく開かれ、息を切らしたカイルが飛び込んできた。額には汗が滲み、普段はどこか余裕を纏う彼の表情が必死そのものに見えて、思わず胸が詰まる。
「急にいなくなるからびっくりしたよ。大丈夫か?」
「誰のせいだと思っているのかしら!あなたが……他の女性と……」
私が言葉を紡ぐよりも早く、クラリッサが鋭い声で怒りを爆発させた。彼女の眉はきつく寄せられ、友人として私を守ろうとしてくれるのが伝わってきて、とても心強かった。
「え、何の話だい!? 僕は浮気なんかしてない!」
カイルの声には動揺が滲み、広い肩がわずかに震えていた。
「嘘おっしゃらないで! 私、この目で見たんですのよ!」
クラリッサの糾弾は鋭く、部屋の空気を張り詰めさせる。
カイルは困惑した表情でクラリッサを見つめていたが、その視線はふと宙をさまよい、何かに気づいたようにハッと目を見開いた。
その瞬間、彼の表情にわずかな苦渋が浮かび、ちらりと私を見た。そして――。
「……もしかして、ユミアと練習しているところを見たんじゃないかな」
「ユミア?それってエマリアの精霊のこと?」
クラリッサが呆気にとられたように瞬きをする。すると、カイルは真剣な眼差しをユミアへと向けた。
「そうだ。ユミアは、実は人の姿に変わることができるんだ。ユミア、お願いできるかい?」
「はい、カイル様」
静かな声とともに、ユミアの体が淡い光に包まれる。柔らかな光が収束した瞬間、そこに現れたのは気品ある大人の女性の姿だった。
「……あの時の女性だわ!」
クラリッサが目を見開き、驚きに声を上げる。
「珍しい力だから、むやみに吹聴しないようにしているんだ。君もこのことは内緒にしておいてくれるかな」
「ええ、もちろんよ。わたくし、早とちりして……ごめんなさい」
クラリッサは頬を紅潮させ、深々と頭を下げる。部屋に静寂が落ち、私の胸にはまだざわめきが渦巻いていた。
そんな私に、カイルが一歩近づく。彼の影が落ちると同時に、低く真剣な声が響いた。
「……エマ、さっきはどうして逃げたんだい?まだ劇の途中だったじゃないか」
「それは……混乱しちゃって。演技だとわかってても、カイルに婚約破棄をされたのが、すごくショックだったの。自分でも驚くくらいに」
俯く私の声は震えていた。ただの演技だったはずなのに、胸を突き刺したのは本物の痛みだった。
その告白に、カイルは息を呑む。しばし沈黙したあと、彼はゆっくりと深呼吸し、決意を宿した眼差しを私に向けた。
「本当は、もっとちゃんとした場で伝えるつもりだったんだ。……でも、もう言わずにはいられない」
彼の瞳は揺るぎなく、真っ直ぐに私を射抜いてくる。
「エマリア、僕がどれだけ真剣に君を想っていても、君は僕とユミアの演技に夢中で、僕の愛に少しも気づいてくれない。それがもどかしかった」
その声音は、台本でも芝居でもなく、ただひとりの男の本心だった。取り繕いも虚飾もない、不器用なほどまっすぐな告白。
「エマリア。僕は君を愛している。これは、本物の気持ちだ。少しずつでいい……僕を、男として見てほしい」
「……カイル」
その言葉は、私の奥深くに染み込んでいき、熱で胸を満たしていく。頬を伝う涙を止められない。
けれど、その涙はさっきまでの痛みの涙じゃなかった。心の奥に、温かい光が灯り、胸が満たされていくようだった。
カイルはさらに一歩、近づいてくる。
「これからは、君以外に愛を囁かない。……君のお気に入りの場面を演じる時も、僕の相手は君がいい」
「そっ、それは……! 少し解釈違いかもしれないわ!」
涙声のまま叫ぶと、カイルは不意に柔らかく笑みを浮かべ、私の頭に大きな手を置いた。その掌の温もりが、安心と幸福を同時に与えてくれる。
「はは、君には敵わないな」
その甘い空気に、私は目を閉じて胸の高鳴りを感じていた。
「ねぇ、ぜひわたくしもお二人のラブシーンをたんまりと見せていただきたいのだけど」
その声に、私ははっと顔を上げた。クラリッサが、にやりと笑いながらこちらを見ている。
どうして今のいままで彼女がいることを忘れてしまっていたのか。
「だめよ、私専用の特別劇場なの!」
顔を真っ赤にして必死で抗議すると、クラリッサはからかうように肩をすくめた。
私は恋なんて縁がないと思っていた。愛されるなんて夢物語だと思っていた。けれど今――胸の奥に溢れるのは、かつて物語でしか知り得なかった、ときめきとは比べものにならない感情。
確かで、深くて、痛いほど甘い。
(……ああ。これが“真実の愛”なんだ)
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