囚鳥の誘い

家霊

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救済

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 私が学生だった頃とは違い、朝の目覚めから何時間が経過しようとも現在はまどろみの中で存分に戯れることができる。学生時代のような規則正しい生活習慣は、心身に降りかかる塵労の重さにより少しずつ壊れていき狂ってしまったのだと思う。



 だがもしかすると規則正しい生活習慣は身に付いてなど無かったのかもしれない。当時は喧しいとしか思わなかった、しかし間違いなく慈愛に満ちていた母の怒鳴り声が幻想を創り出していただけではないか。いずれにせよ今後の人生において何度まどろみから覚めようとも、幻想の日々と母の怒鳴り声を体験することは二度とないに違いない。



 まどろみから追放された私はベッドの上で体を起こし枕元にあるはずの目覚まし時計を探したが、その近辺には見当たらなかった。アラームを掛けていたはずの目覚まし時計は、内蔵していた単三電池二本を吐き出して部屋の床に無残な姿で転がっていた。



 自室を出てダイニングへ行くと、子供の頃から好物である菓子パン三つが袋から取り出された状態で皿の上に置かれていた。サランラップもかけてくれた母は、いつものように早朝から仕事へと出掛けているのだろう。かれこれ一カ月以上も外出していない、いや外出することができない私にとっては尊敬と自責の念を抱かせる存在だ。



 冷蔵庫から取り出した牛乳と一緒にパンを平らげた後、いつものように簡単なストレッチをしてから筋トレを開始した。最初は腹筋運動である。冷たい床に仰向けとなって一回二回と数を積み上げていく行為には、筋肉を増大させたいという思惑も当然あるけれど、ささやかながら達成感を味わうことができるという最大のメリットがあるのだ。



 腹筋運動の後、腕立て伏せとスクワットをこなした私は再び自室へと向かう。筋トレの次に読書を行うのが日課となっており、読み進めている本を書棚から取り出す。特にジャンルを決めることはなく学生時代に購入した本を読んでいるが、これも筋トレと同じように読書で得られる知識に平伏しているのではなく、一冊を読破した時に得られる充足に焦がれての行動だ。



 読書の次に行う日課は、一昨年の誕生日プレゼントとして親が購入してくれたセキセイインコへの餌やりだ。「セキセイインコを飼いたい」と親に頼んだことはないはずなので、特に説明なくプレゼントされたことに当時は疑問と不満に支配されていたことを覚えている。



 しかしそのような負の感情は、定期的に行う餌やりや不定期に行う鳥籠の掃除により徐々に浄化されていった。「このセキセイインコは私が世話をしなければ生きていけないのだ」という使命感が形成され、現在は誇りを持ちながら餌やりや掃除をこなしている。



 私の日課は夕方に再び餌を与えれば終わりだ。それまではゲームをしたり、漫画を読んだりと、傍からみれば怠け者と罵倒されるに違いないことをしている。



 しかし、そのような罵倒を真に受けて苦しむ必要はないと私は思う。弱肉強食の世界を生きる人にとっては、自分より弱い人間を見つけ攻撃することがアイデンティティを確立するために必要なはずだ。強者の人生に彩りを加えているのだと、弱者の生活を誇りに思うくらいが最適に違いない。



 いうまでもなく私が行っている筋トレや読書や鳥の飼育は自己満足だ。一般的には、社会生活を営み難解で多様な経験をすることの方が価値は高いのだろう。しかしそれに固執する必要はないはずだ。競争に勝てない人間は自らが行う小さな努力で満ちていればいいのだ。鳥籠の中にいて、殆どの時間をぐったりと過ごしているセキセイインコを見ていると強くそう思う。あらゆる鳥が大空へ憧れているわけではなく、怠惰に生きている鳥だっているのだ。



 自室を出た私は、大好きな番組を視聴するためにテレビが置いてある父の部屋兼リビングへと向かう。ドアを開けて室内に入ると、いつもは綺麗に片付けられているのに今日は何故だか散らかっているなあと感じた。この印象が形成されるのは、部屋の中央に置かれたテーブルの上に封筒やチラシが散らばっているからに違いない。おそらく父が創り出した眼前の状況は普段なら母が無に帰しているのだろう。何らかの理由で破壊されずに保たれた光景は有限の切なさと生々しい現実を感じさせた。



 テーブルの上に散在する紙類を眺めていた私は、周囲からポツリと浮いている封筒と、そこに記されている長らく認識していなかった自分の名前を発見したので手に取ってみたところ、何故か封が切られていた。視覚的にも心理的にも孤立していた封筒の中には、「三週間後に開催される中学校の同窓会に参加しませんか」という内容の紙が数枚入っていた。



 現在も連絡を取るような存在は一人もいないが、かつての同級生と久しぶりに会いたいという気持ちはあり出来れば同窓会に参加したい。しかし最近は一カ月ほど外に出れていないことに加えて、元来が内向的な性格で人と上手に会話することができない私には非常に高いハードルがある。そのため参加することは諦めて、名残惜しいながらも封筒をゴミ箱へ捨てようと歩き出した時、ジャージのポケットに入れていたスマホのメール受信音が静寂の室内に鳴り響いた。



 取り出してみると母からのメールで、



『おはよう。テーブルにパンが置いてあるから食べてね。それから、お父さんの部屋にあなた宛ての封筒が届いていたから中身を確認して下さい』



 という内容だった。このメールを読んだ私は、先程見た光景が作為に満ちていたのではないかという疑問を持った。封筒は既に開けられていた。そのため母は中身が何か知っているはずなのに、それを私に伝えないというのは不自然だからだ。



 そしてもしかすると、この企みには父も関わっているのではないか。父の部屋がリビングも兼ねているとはいえ、朝食の場であるダイニングに置く方が起きてからすぐに分かるので自然だと思う。にもかかわらず父の部屋に置いてあったということは、何らかの企みが存在するという根拠に薄いながらも成り得るはずだ。父と母が近頃家に籠りっ放しである私に活を入れようとして、このようなことを敢行したのではないだろうか。



 まどろみのように緩慢な想像は、たくさんの会話が親子三人に存在し時には笑顔で彩られていた幸福な日々を私に想起させた。そしてそれは、敗者を絶賛募集中の社会に再び飛び込む勇気を与えてくれたのだ。



 散乱した紙類の中に救済の封筒を紛れさせた私は、呆れのような感情を抱きながらも久々に芽生えた希望を胸に部屋を出た。
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