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雷音の機械兵〔アトルギア〕

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ガナノにて、始まりのログ

 とめどなく降り続ける雨の中でガナノ=ボトム第三区画が陥落したのは、つい三日前の話だ。勝ち戦と思われていたこの戦闘で人類はまたしても「奴ら」を駆逐することができなかった。
 いまだやむ気配のない雨に包まれて、少女は廃墟の街を見上げている。
 砕けた雨滴で空は霞む。
 フードから覗く藍色の髪は滴を落とし、蒼玉《サファイア》色の瞳には在りし日の街並みが浮かんでいた。
その少女──エリサが最後にこの街を訪れたのは、二年前、英雄オネスの巡幸パレードが催されていた時だった。
 あの日は誰もが喜びに満ちて歌い、踊り、笑いに溢れ、明日の繁栄を祈っていた。
「これで、九十三体目」
 すでに過去のことだ。
 剣に付着した機械油を振り払い、左腰の鞘に納めるともう一度、眼下の光景に視線をやる。降りしきる雨に濡らされながら、敵の屍が無数に転がっていた。
どれも一人の少女、エリサが倒した遺骸である。とはいえ地に伏すのは人の姿に比べると、はなはだ異形だ。斬撃の痕がはしる鋼色の胴体《からだ》。火花と漏電が音を立てて散っている。倒れている者は皆、機械でできていた。
 雨音が掻き消すことを望むように、エリサは問う。
「もう此処には誰もいないのだろうか」
 辺りは水滴の瓦礫を叩く音だけが響いている。
 機械の死体と崩れた街並みは無言のまま答えない。人の気配は、どこにもない。
「……雨、やまないな」
 少女はフードを深くかぶりなおして、ひとりごちる。色あせた革のケープを翻し、エリサは幽《かそ》けし廃墟へと歩き出した。
 垂れこめた曇天の下、街はひたすらに冷え続けていた。

 §§§

 人間の総人口が四億人に減退したのは一五〇年前から続く各地の組織的抵抗によるものだ。
 人類はいまだ「機械」からの一方的な殺戮に抗い続けている。
 機械。それはかつて希望の象徴と謳われていた。
 はじめ、彼らは人類が誇る英知の結晶【代替する労働力リミタティング・レプリカント】と呼ばれ、人々と共に歴史を拓く片翼的な存在であった。
 だが文明の発展には暗い影が付きまとうもの。
 時代はうつろい、機械は戦う兵器として役割を帯びていく。人と人の争いはいつしか機械同士でおこなう代理戦争が主な争乱になっていた。
 戦争は文明を発達させる。
 そして人類が最後に創り出したもの。
 ≪高度知的無機生命体・機械兵《アトルギア》≫
 彼らは経験から学び、更なる強さを自分たちで求めることができた。
 後にも先にも人の手で実現しうる創作物としてこれ以上の科学は不可能だと、当時は声高に謳われた。高い知能を持ち独自の思考を可能とする彼らは瞬く間に戦場の主役となり、最強の機械の座をほしいままにする。
 そしてある日人類は気づくのだった。
 もはや機械を止められるものはいない、と。
 まもなくして彼らは世界を侵し始めた。
 人類を廃し、完全な世界を創り出すという独自の思想を彼らは生み出した。抗う術はない。地上の人間は脆く崩れるように屠られていくばかりであった。
 機械の動いた経過こそ、人類が喫した敗北の歴史である。
 それから一五〇年が経った。
 世界から人口の九五%が失われた現在、人類文明は衰退した。生き残った人々は日々、機械の恐怖におびえながら、しかし……それぞれの平穏を望みながら暮らしていた。




雷音の機械兵〔アトルギア〕




ログ:アオキ村の少女・紗也

「むぅ」
 観測の結果が気にくわない。紗也《さや》はもう一度観測器を右目にあてがった。麻色の三つ編みが風に吹かれて、白いうなじが見え隠れする。
 空見櫓から望むアオキ村は簡素の一言に尽きた。山間にある集落アオキ村は豆をばらまいたように田畑に民家が散在し、四方を山で囲まれながら青空の下に収まっている。
 村娘の紗也が〈空読《ソラヨミ》〉をおこなうのはこの土地に移り住んでからの役目だ。集落内では各々に与えられた役割をまっとうするのが当たり前。自分の役目を果たすことはそれだけで存在の証明になる。数えて十二歳になる紗也も村の人々と同様、今日のお役目を務めるためにさきほどからずっと唸っていた。
「うぅむ……ふむふむ、むむ……」
 年相応にあどけない声には力んだ色が浮かんでいる。もうずっと櫓の上にいる。集中力の限界は近いはずだが観測器から目を離そうとしない。長時間粘った甲斐あって、ようやく良い結果が見えそうなのだ。
 小さな手を目一杯伸ばして食い入るように観測器を覗きこむ。薄い円形のレンズがついた筒の中で雲と空が揺らめいている。
「あとちょっと。もうちょい、もう、ちょいと……ん?」
 そして無自覚にも櫓の柵から身を乗り出していた。
「うわわっ!?」
 ようやく気付いたのはあやうく落下の一歩手前。慌てて体を押し戻すが少々力を入れすぎていた。勢い余って身を躍らせると盛大に尻もちをつく。
「痛ったぁ!」
 衝撃で、思わず目に涙が浮かんだ。
「でも、セーフ……」
 なんとかこらえきった。
 櫓の高さは十メートルもある。もしあのまま落ちていたら今頃少女は可哀そうなことになっていただろう。……いやな想像をしてしまったが、実際助かったのだ。ひとまず胸をなでおろす。吹き出た汗をシャツで拭って再び立ち上がった時、総身にざわめくものを感じた。柵の手すりに身を乗り出す。紗也は瞼を閉じて感覚を研ぎ澄ました。
 じっと待つ……。
 しばらく目を閉じていたら森の上で風がふわりと吹き、紗也の頬を撫でていった。たしかな風の感触に、大きく目を見開く。紗也は吹き抜ける風を抱き込むかのように両手をめいっぱい広げた。雲の動き、木々の音、風の涼しさが一斉になって紗也の体を包む。
(──これだ!)
 すかさず観測器を目元にかざし気を集中させると、紗也の胸で熱いものが踊った。
「……読めた!」
 櫓の真下をのぞきこんで、声を張る。
「鉄平《てっぺい》、天気! 天気読めたよ! 今日は北西の風二メートル、昼間は気温高めの晴天、午後から夕方にかけて雨雲が出て一気に寒くなるよ! 鉄平、変なもの食べたらお腹壊すから気をつけてね!」
「バッキャロウ! 変なもんとか食うか、バカ紗也!」
 鉄平と呼ばれた少年の怒声に紗也はまたもひっくり返りかけた。坊主頭の彼の顔は真っ赤になって眉を「逆八の字」に寄せている。
「でも鉄平、十三歳の誕生日に機械兵の油飲んで死にかけたって……」
「あん時ゃ腹減りすぎて見境なくしてたんだよ! 黒歴史掘り起こすんじゃねぇ!」
 櫓の上まで飛んでくる鉄平の怒鳴り声。手で塞いでも耳鳴りが残る。こちらを見上げる鉄平の顔は白いシャツのせいで余計に赤く見える。
(ベニカブそっくり……)
 と紗也はひそかに野菜にたとえてみた。ごつごつした顔がちょうど村の作物みたいに角張っていて愛嬌があるのだ。鉄平がひとしきりガミガミし終えた頃を見計らい、紗也は空見櫓から降りた。
「えへへ、待たせてごめんね、鉄平」
 指をもじつかせながら上目がちに言う。相手の背丈は紗也より頭二つ分ほど大きいため今度は紗也が見上げる形になる。
 ……笑ってごまかせたりしないだろうか? 
「おそい!」
「ひぃっ、ごめんなさい!」
 そういうのは効かない性格だったと、改めて思った。
「村のみんなが働き始める前に空読は終えとくもんだって言ってんだろ! もう昼前だぞ、もっと早くなんねえのか!?」
「あははぁ……頑張ってるんだけどまだ慣れないや。ごめんなさい、紗良《さら》お姉ちゃんみたいにできなくて」
 鉄平は愛想もなくフンと口をへの字に曲げた。
「謝るならさっさと出来るようになれってんだ。空読はお前しかできねえんだから」
 鉄平は数歩先に転がっている木剣を拾い上げ大儀そうに振り向いた。機嫌の悪そうな表情に紗也はびくっと肩をすくめる。鉄平はその反応を見てきまりが悪そうにため息をつき、
「転んだの、大丈夫だったか」
 と言った。
「えっなんで知ってるの! まさか見てた?」
「バカ言え。櫓の上であんなデカい音鳴らしてたらそりゃ気づくだろ」
「それもそっか、あはは」
「……紗也、お前は自分をもっと大事にしろ。それはお前だけの体じゃないんだからな」
「うん、がんばる!」
 紗也はぱっと笑顔になって答えた。鉄平のことは実の兄のように慕っている。自分より三歳年上の鉄平はなんでもすぐに怒る短気な性格に見えるけど、本当は紗也の身を一番に案じてくれる心優しい少年だ。身体はガッチリとして声も大きい鉄平は怖い時が多いけど、たまに見せる優しさには温かい心が込もっていると紗也はいつも感じていた。
「鉄平」
「なんだ?」
 鉄平の目をじっと見つめてみた。たくましく精悍な顔とは裏腹に、その目は大きく丸い形をしている。
「……なに人の顔見てニヤついてんだよ」
「うぅん。なーんでもない」
「はぁ?」
「えっへへ、いつもありがと」
「あぁ? お、おう」
 その手に提げた木の直剣は彼のまっすぐな心を表していた。
 紗也が櫓で観測している間、彼はずっと下に立って自分の安全を守ってくれていたのだ。空見櫓は森の中にある。ゆえに空読の役割は危険が多い。鉄平は、紗也が初めて空読をおこなった時からいつも一緒について来てくれていた。
 そんな鉄平を紗也は幼い頃から大好きだった。
「空読の結果は夕方から雨だったな。村のみんなに伝えに行こう、ほら、早く帰るぞ」
「うんっ」
 大きな背中を追いかけるように紗也は小走りで帰途についた。櫓のある丘を通う坂道はつづら折りになっていて徒歩で行くには骨が折れる。木々が頭上に迫る山道を二人は慣れた足取りで下る。木漏れ日が差す中には緑色の風が吹き、草木の間からは夏の匂いが漂っている。
「風が気持ちいいね」
「この時季は山風の通り道だ。雨季になるまでいい風がよく吹いてくる」
 鉄平、と紗也は呼びかけて聞く。
「風ってどこから吹いてくるんだろう」
「山の向こうからだろ」
 考える様子もなく鉄平は答えた。
「山の向こうには何があるの」
「また山があるんじゃねえの?」
「じゃあその向こうには?」
 鉄平は渋い顔を浮かべた。
「知らん。生まれた時からずっとここに住んでんだ、外に何があるとか考えたこともない」
「ふぅん」
「……いきなりどうしたんだよ、藪から棒に変なことを」
「なんでもないよ。でも私は知りたいんだ、この山の向こうに何があるのかって」
 悪いイメージの話ではない。紗也は喋りながら心が明るくなるのを感じた。
 それが自分の望む唯一の夢。
 外で広がる世界にはどんな景色があるのだろう。櫓からの眺めよりさらに大きなものが待っているだろうか。考えるだけで楽しくなる、そんな夢だった。
 そう、夢だった。
「鉄平、見てあそこ。誰かいる」
 坂道からは途切れがちに村の全体がみえるところがある。紗也を我に返したのはその時だった。
 集落がはじまる森の端に、見慣れぬ装束をした人影が立っていた。
 二人いる。
 この村の住民ではない。すでに数人の村人たちが取り囲み、何かを問いただしているようだ。彼らの身振りから察するに、現地は不穏な空気らしい。
 理由はわかる。アオキ村を誰かが訪れるなんて過去に一度もなかったからだ。
「どうする、紗也」
 その光景を隣で目にした鉄平の声は落ち着いていた。紗也はただ頷いて力強く言った。
「行こう」
 アオキ村には入り口というものがない。村全体がぐるりと森に囲われて外部の干渉を一切遮断している。針葉樹が蒼々と茂る蒼き村。だからアオキ村。
 小さなコミュニティ内の住民たちは互いに支えあい助けあって暮らすことの大切さをよく知っている、温かい人柄である。
 紗也はアオキ村の人々を愛しているし、村人たちも互いを思いやっていた。それが世界に適合するための最も簡単で平和的な手段だからだ。
「誰だオメェサーは! どこのもんだ!」
「見かけねえ格好だべ、なして村の在り処がわかった!」
「はやいとこ、この村さ出てけ!」
 粗暴な声がする。紗也たちは民家の影に隠れ、村人たちが訪問者と対峙する様子を伺った。
 大勢が集まって例の二人を取り囲み、それぞれ脅すための武器を剣呑な面つきで構えている。
 その二人は全身を茶色のぼやけたケープマントで覆い、くたびれた身なりをしていた。
「いや、ですから俺達は怪しい者じゃ」
「怪しいかどうかはオラ達が決めることだ、その格好、見るからに普通の者じゃなか。この村に入れるわけにはいかん」
 周囲から同意の声があがる。話をしている男の顔はあらわになっているが、見ればずいぶん若い。髪の色もここらでは見かけない赤毛だ。額に保護眼鏡《ゴーグル》を当て、無造作に乱れた髪を抑えている。皮製の色褪せたケープは中に見える装束諸共ここらで知った作りではない。
「あいつは海の向こうから来た奴だな」
「分かるの、鉄平?」
 声を抑えながら鉄平は言う。
「紗良さんから昔聞いたんだよ、海の向こうには変わった髪の色した人間がいるんだって」
 赤い髪の青年は拒まれながら村人になおも語りかけている。ここに来るまで消耗しきっているのだろう、水と食糧を恵んでくれたらすぐに立ち去ると言っている。
 アオキ村を囲う森は針葉樹ばかりだ、食糧となる果実はおろか近頃は獣すら見るに久しい。よほどの運がないかぎり山の中で食べ物にありつくことは難しいだろう。
「鉄平」
「はいよ」
 紗也は空読の際にあらかじめ預けておいたものを鉄平から受け取った。民俗的な装飾がなされた首飾りである。それを身につけると紗也は呟いた。
「地を治めまします山神よ、我とその村を護りて導きたまえ」
 それで特になにか起こるわけではない。紗也がこの首飾りを身につける際唱えるよう決めている合言葉だ。鎖骨の下で飾りは大きく揺れる。紗也の小さな胸元にはやや不釣り合いのサイズだが、紗也がこの村で自分を自分たらしめるには欠かせない要素の一つだ。
 すっと気が引き締まってゆく。鉄平に目配せをし、頷きが返ってきたのを確認すると民家の影から自分を周囲にさらけ出した。
「紗也様の御成り」
 鉄平が後ろに続いてそう言った。声を聞いた村人たちは一斉に紗也のいる方へ振り向いた。
「紗也様だべ!」
「ほんとだ、紗也様がいらしたぞ!」
「紗也様の前だぞ、皆の衆控えい、控えい!」
 誰かがそう言うと村人は鶴《バサ》の一声がかかったように地面にひざまずき頭を垂れた。すべて紗也を向いている。
「顔を上げてください、皆さん」
 慌てるでもなくゆっくりと人々を見渡す。誰もが自分を神妙な顔で見つめている。
 それとは別に、正面の男達に目を送った。
「斬らないのですか?」
 そしてそう投げかけた。
「えっ、斬る? 誰を?」
 赤毛の青年は面食らった顔で尋ね返してきた。
「あなた達は食糧の調達のためここを訪れた。それを拒んだ村人は、今はこの通り隙だらけ。あなたが腰に提げているのは飾りではないのでしょう?」
 青年は直剣を腰に帯びていた。柄の巻布は擦れきって鞘もかなり使い込まれている。それに身振りをしている時に見せた右の手の平、農作業を日毎夜毎いそしむ村民ですら比にならぬほど皮膚が硬化していた。一度抜けばこの男、おそらく相当の使い手と見える。
 アオキ村に危害を加える意思の有無、それを確認しなければならなかった。
「いやだから何度も言ってるんですよ、俺達は安全な……」
「あなたは斬られたいの?」
 青年の言葉を遮ったのはもう一人のケープマントの人間だった。頭巾で顔を覆ったまま一言も喋らず、ずっと青年の後ろで押し黙っていた。
 女の声だ──紗也は意外に思った。透き通った音の中に根強い芯のようなものが通っている。その声は自分に向けられた問いだと、紗也は一瞬の間を空けて理解した。
「ちょっとエリサ、小さい子どもに何てことを!」
「命の値段に年齢は関係ない」
 青年から呼ばれたエリサという女は、そう言い切った。鋭く刺すような言葉に、紗也の喉元は息を留める。「答えによってはこの場で斬る」と言われているのだ。おそらくこの女は、本気で言っている。どう答えるべきか、紗也には言葉の選択肢などなかった。ゆえに、次の言葉を口にするのは何の躊躇いもなかった。
「私はこの村で最も尊い命です」
「……なるほど」
 女はフードに手をかけ、それを頭上から払った。
(あ……)
 綺麗な人だ。そして、青い。
 顔を覆っていた日除け布は外され、現れたのは髪の青い女性だった。……いや、女性と呼ぶにはまだ若すぎる。少女だ。齢は十五、六くらい?
 青い髪なんてこの世界に存在するのか、紗也はその美しさに心を奪われた。青の深い瞳は自分をまっすぐ見つめている。こちらに向かって歩きだした少女は、すらりと腰から剣を抜いた。実に自然な動作だった。
 危険を感じた村人達が紗也を守ろうとエリサに組みつくが、一人も彼女を捉える事が出来なかった。紗也の目にもエリサがどのように動いたのかよく見えなかった。そして気づけば、宝石のような瞳が紗也を見下ろしていた。内心、ギュっと胸が締まるものを感じた。その手には細身の直剣が握られている。表情の変わらない心の奥を見透かすような瞳を前に、紗也は一歩も動けない。
 いや、動くわけにはいかないし、動かなくともよかった。
「うおぉっ」
 鉄平だ。木剣を振りかざした鉄平が自分とエリサの前に割り込んだのだ。
「紗也様には指一本触れさせない、余所者め。皆、紗也様をお守りしろ!」
 鉄平の合図で村人達が二人の侵入者を取り囲んだ。
「…………」
 しかし青い少女は動揺する気配もない。自分の前に立つ鉄平は「紗也」と小声で呼びかけ
「安心しろ、俺がお前を守る」
 大きな背中から漏らすように言った。鉄平は肩幅のしっかりした偉丈夫で、腕っぷしも確かだ。村の大人が二人掛かりで引く荷車も彼なら一人で動かすことができる。足腰の強さは誰も敵わない。そんな鉄平の存在があの少女の前には小さく見えた。
 何故なのか。紗也には理由が分からない。ただ少女の前に鉄平が相対するだけで胸中に言いようのない不安が沸き起るのだ。
「来るっ」
 エリサの剣が天を突く。村人は一斉に構え、一面に緊張の波動がほとばしった。
(鉄平……)
 背中に向かって心の中で名前を叫ぶ。
 エリサは直剣を蒼天に煌めかせると、勢いよく地面に突き刺した。
「私の武器をあなた達に預ける。これで信用してくれないか」
 青い瞳が自分に向けられ、瞳の主は口にした。
 ざわめき。しかし彼女は続ける。
「私はエリサ、ただの旅人。今から武器を差し出すのは、ゲイツ」
「待って、俺まで武器出さなきゃダメなの?」
「出さなきゃダメ」
 赤毛の青年はため息をつき、腰の鞘ごと近くの村人に投げてよこした。
「私とゲイツは世界をまわる旅の者。この通り、あなた達に悪い事をする気はまったくない。一杯の井戸水でもいい、少しだけ休ませてもらえないだろうか」
 少女の態度は毅然としていた。表情は少なく抑揚も薄い。だがその言いようには不思議と傲慢さを感じられなかった。
 紗也は何も言わない。
 エリサの剣は足元に直立したまま沈黙していた。

 ◇◇◇

 異様な光景が目に写っていた。
 村の人々は年端もいかぬ一人の少女にひざまずき、彼女のため殉じようとしているのだ。その幼い少女は他の村人達と比べても明らかに雰囲気が違う。「紗也様」と呼ばれる少女以外、村人の多くが継ぎ接《は》ぎや泥汚れした農民の様相をしている。その中で、少女だけが奇特にも身なりを整えられている感じだ。衣服はどこか宗教性を思わされ、胸元には大きすぎる首飾りが下げられている。
 周囲は呼ぶ「紗也様」と。
 まるで崇められているようだ──そう、エリサは思った。
 地面に突き立てた剣は誰の手に取られることもなくエリサと村人の間に佇んだまま。エリサは紗也という名の少女をじっと瞳に映した。
 力を感じる。
 体はたしかに未発達な子どもだが面付きに幼さがない。他の村人と比べてもたたずまいは超然としている。
 彼女が出てきた時、場の空気が張りつめたように思えたのは紗也の凛とした姿勢から生じる怪異的な気配の所為だろう。空間を支配してしまうほどの強い精彩を少女は瞳に宿していた。
 二人が見つめ合ってどれほど経っただろう、数秒も無かったかもしれない、誰も口を開かず空白を犯すような時の流れをエリサは胸の隅で感じていた。風のそよぎが髪をさらっていく。
「……いかがしますか、紗也様」
 ふたたび場を動かしたのは自分に木剣を突きつけている背高い少年の呻くような声だった。背後の紗也に指示を仰ぎつつも同時にエリサ達を威圧しようとしている。切迫した空気のなかでゆったりと紗也は口を開いた。
「一杯の水で村の平和が守れるなら、これより嬉しいことはありません」
 少年の肩越しに見える少女は少しだけ笑みを浮かべている。
「だけんど、紗也様! どこの者《もん》と知れない奴らを村に入れるのは危険だ!」
「そうだ、よした方がええ、こいつら嘘ついていて本当は賊に違いねえ! つけ込ませると寝首ばかかれる!」
「なんならいっそこの場で」
 若い男の悲鳴。
「ちょっと何するんですか!? 離してください、エリサちゃんお助けえっ」
「ゲイツ!」
 振り返ると大勢にゲイツが羽交い締めにされ首に刃物を当てられていた。彼はぐしゃぐしゃな顔で抵抗するが村人の怒号がそれをかき消す。ついに組み抑えられたゲイツの喉へ刃がにぶく光を放つ。
 あぁ──エリサは思った──ここも同じか。
「おやめなさい」
 ぴしゃりと雷が落ちたようだった。大気を裂くような鋭い声が喧騒を斬り払う。
 紗也だった。
「この方々に手出しは無用です。アオキ村に害なす気色は見られません。そう、空が言っています」
「空が?」
 村人はどよめく。エリサには彼女の言っている事が分からなかった。
「今しがた私は空読の儀を終えてきました。見知らぬ人訪《とぶら》われん、それが今日の告げです」
「……紗也様の空読にそんな項目あったべか?」
「あるのです」
誰かの言葉を紗也は即座に返した。
「それに」
 前に進み出ると、エリサの剣を小さな手で地面から抜き取った。
「この方達は武器を差し出している。話を聞くだけでもしてあげましょう」
 剣の重さでふらつく紗也を背高い少年が支える。その少年は言った。
「紗也様はこう申しておられる。みんなはどうだ?」
 村人は姿勢を改めた。
「……お告げがそう仰るんなら、仕方ねえべ」
「朋然ノ巫女《ほうぜんのみこ》様のお言葉は信じねば。さあ赤髪の兄さんを離してやれ」
「助かった……あー、死ぬかと思った」
 解放されたゲイツの声にはどこか白々しい響きがあったが気にせず身柄の無事を確かめると再びエリサは見た。この村で最も尊い存在を。
「お二人を歓迎します。ようこそ、アオキ村へ」
 笑みを浮かべる紗也の瞳には、推し量り難い光が灯っていた。
「私は、紗也。この村の最高司祭者です」


 通された一室は空間が飽和したような印象のするがらんどうな広間だった。乾燥した木の甘いにおいが伏せるように板目の上を漂っている。格子窓から差し込む陽光ばかりが光源のため部屋の中は薄暗く、昼ながら燭台が点いている。
 森に埋まっていた集落は寂れた空気に満ちていた。やはり豊かな様子はない。民家はどれを見ても茅葺きか藁を葺いて屋根に寝せている実に質素な造り。入り口には扉もついてなかった。
 案内された、この屋敷を除いては。
「ここはどういう施設?」
「私の家です。大きいでしょう」
「ええ。立派ね、とっても」
 エリサは端座したまま首肯する。正面の上座に据わる少女、紗也に視線をやりながら。広間には自分の隣にゲイツ、紗也の傍には先程の少年が控え、左右の壁には珍しい物を見るような顔をした村人達が居並んでいる。
 妙な気分だ。そう思いながら視線を落とす。大きな膳があった。日干し野菜の塩漬けや練り焼き、スープにディップと、並ぶのは実に多様な菜物料理。
 紗也は、まず空腹を癒せと言った。
 招き入れられた時点で食事の支度は整っていた。長旅で携帯食を齧ってきた身にとって彩りある食事は十分な馳走である。周囲の視線が気になるものの口の中は湿る。自然、隣の青年も同じ境遇であるが彼は表現豊かに舌なめずりさえしている。
「めちゃくちゃ美味そうじゃないすかぁ! 良いんですか、こんないただいちゃって?」
 紗也が頷くとそれ来たとゲイツは手を合わせ料理に食いついた。エリサの心境など我関せぬといった具合に。自身も正面の紗也と村民に一礼をし、膳の上から食べ物を口に運ぶ。スライスした赤い実を葛で煮込み冷やしたもの。葛のやわらかい舌触りにほぐれるような果肉の食感。味付けは薄いが喉を過ぎてから胸の内で微涼を生じ、奥から熱を冷ます。
「美味しい」
 もう一口唇に滑り込ませたその時、胸騒が走った。
「…………」
 部屋の空気が変わった。気配を探る。硝子にかけた水の速さで静かな堂内に別の雰囲気が挿しこんだ。全方向から矢を射るような鋭い視線。エリサは察する。
(これはまずい、さては)
 食事のふりをしながら辺りを探るが気配の焦点は自分の手元にある。手遅れを悟った。
(毒を盛られていたか)
 薄暗い部屋は企みを行うのに格好の場。隣のゲイツの表情は平静な物ではない。安穏さにかまけ油断した。この気配、状況……間違いない。ここは賊の根城だ。旅人を誘い込んでは食虫花のように骨の髄まで喰らう輩に違いない。
「うっ」
 ゲイツが唸り声をあげた。
(やはりこれは、毒!)
「うぅ……」
 ゲイツが俯いたのを合図に列座していた影が一斉に立ち上がった。
 来る。
 咄嗟に腰に手をやるが剣が無い。やむを得ぬ、徒手空拳か。
 ぬう、と伸びあがった無数の影法師に対しエリサは座位で身構えた――。
「美味ぁい!」
「ヤッタァァーーアアア!」――彼らが両手を上げて喜ぶまでは。
「え」
「いや、本当に美味いっすよこれ。俺、感動しちった」
 そう語るゲイツの表情は平静な物ではなかった。
村の食べ物がよそ者に気に入られるか不安だったと彼らははにかみながら言った。信じがたい言葉だが彼らの笑みを嘘と言い切るのも又しがたい。一見、質素な膳上。だが料理は美味だった。食材は突出せず互いに譲り合い味が奥深い。味覚の豊かさは人々の豊かさを物語っている。食は文化の粋を知る術。旅の中でその程度の見識は培った。
 アオキ村は表面こそ貧し気だが貧困に落ちている訳ではなさそうだ。空腹の癒えた自分達を見ている彼らは満足そうな顔をしている。
 だが思う。彼らは殺気じみた嫌悪の目でエリサ達を拒んだ。今となってこの変わり様は不審ではないか。
「アオキ村はここに長いんですか」
 ゲイツが言った。
「八年になります」
「ほお、案外新しい」
「けれど、土地には二十年」
「どういう事です?」
「村の人々は大半が流浪民《ジプス》です」
「ジプス」
 納得したように赤髪の頭が揺れる。流浪民《ジプス》とは、部族単位で世界各地を流れ暮らす漂泊民族。生活形態としては一定の土地に居付くことがない。
「だけどその言い方だと、単位は一つじゃない」
「複数の部族で成っています」
 言われてみれば居流れる村人の顔や骨格の造りは根本的なところで微妙に違っている。なるほどあらゆる種族が混ざって結成した集団なのは得心がいく。新参者を手厚く保護するのはそういった成り立ちがあるからか。しかしエリサ達を攻撃し追い払おうとした事に説明がつかない。そもそもジプスとは一個の血族から成るのが普通であり、しかも特性上、自決意識が強く複数が集合することはありえないのだ。
 ただ、超常事態《クライシス》さえ起きなければの話だが。
「隠れているんですね、奴らから」
 ゲイツの問いを紗也が首肯する。アオキ村の人々は何を遠ざけようとして部族の垣根を超え、集まり、深山の奥で隠れていたのか。人々を恐れさせる存在……その名をエリサは知っている。
「無機生命体、機械兵《アトルギア》」
堂内にいた村人達から短い悲鳴が幾つも上がった。それは命を持たない殺戮者。人類が自らの手で生み出した滅びの兵器。世界の歯車を狂わせたのは紛れもなく奴らの存在だった。
 人類の絶滅を目指す機械兵から逃れるべく人々の多くは息を潜めて暮らしている。
 アオキ村のような排他的隠遁者もその一例に過ぎない。敢えて外の世界から自分達を閉ざしているのだ、見知らぬ者を警戒するのは当然の心理。それほどまで人々は機械に……いや、自分以外の存在に不信感を抱いていた。自分を守れるのは自分しかいないのだから。
「この地に移り住み二十年間。平和でした」
 エリサは紗也の言葉に含みがあることに気づいた。
 そこに「これまでは」と言葉が継ぎ足されると、紗也の瞳に薄暗い物が落ちた。
「ひと月前、村の近くで一体の機械兵が残骸として見つかりました」
「残骸で?」
「雷に打たれて真ァっ黒焦げになって倒れとった」
 ある村人が答えた。周囲もそれを肯定する。しかしと紗也が言った途端堂内は静まった。
「機械兵はすぐそばまで進出しているのです。この土地も、そう長くはありません」
「また新たな居住地を探すんですか? 二十年前みたいに」
「はい」
 淡々と応える姿にはがほのかな微笑が浮かべてあるがどうにも奥底に暗い物を感じる。傍聴する村人は青ざめて機械の恐怖を思い出しているようだ。嗚咽を漏らす者もいる。だが紗也の目はそれとは違う後ろ暗さを思わせた。
「大丈夫だ、ワシたちにゃ紗也様だけでなく、紗良様もおる」
 ある年嵩の男が膝を立てた。それに呼応し他の村人も顔を上げる。
「そうじゃ、紗良様だ。紗良様もおれば恐れる事はない」
 新たに出た名前、紗良。
紗也様、紗良様。
 菌糸の塊が一滴の水で膨張するように二人の名を囁く声がみるみる広がった。崇拝の声が集まる中央で紗也は広間をゆるりと見渡した。
「安心してください、朋然ノ巫女である私と紗良姉様が……必ず【叡智】を持って皆さんを救います」
「ありがたいお言葉じゃ」
 年嵩の男は涙ぐんで紗也に両手を合わせた。他の村人も同様にひれ伏した。
「あのぅ、ホーゼンノミコ? って初めて聞くんですが、何なのですかね?」
 あっけらかんと響いた声に室内の村人達が音を立てて振り返る。しかしゲイツの飄々たる態度は揺らがない。
「いやあのですね、皆さんが拝んでらっしゃる、紗也ちゃんは」
「紗也様と呼べ、無礼者!」
「はいぃ、失礼しましたぁ!」
 紗也のそばの少年が怒声を発した。ゲイツは派手にのけぞり土下座する。動きがうるさい。内心で諫言を飛ばしていると、くすくすと声が聞こえた。上座の紗也が笑っている。
「許してやりなさい鉄平。それで、私がどうしたのですか?」
 険しい目つきの少年をおさえ、紗也は話をうながした。
「そう、紗也様はこの村で何をなさってるんですか? さっきソラヨミがどうとか……」
 ゲイツの問いに紗也は丁寧な回答をくれた。空読とは限られた者にのみ許された気象観測術らしい。アオキ村で空読を行えるのは紗也ともう一人、紗良という人だけだそうだ。
「農耕が主である村人にとって天候は生命線。だからあなたは村の最高司祭者であると」
「そういう事になります」
「朋然ノ巫女様のお告げに従えば、間違いねえだ」
「んだ、んだ」
 そう言って村人はまたも平伏した。
「そうだ」
 ゲイツは面白い物を見つけたような顔で言った。
「今日の天気は、どうなるんですかね?」
「あっ……」
「え?」
 紗也は口を開けて固まった。ゲイツは頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
「あー、皆の衆、これより空読のお告げをいたす」
 少年が村人の前に進み出た。
「紗也様いわく、本日の空は日中晴天、風よく通ること薫風なり。日、やや傾きたる頃より雲立ち込めて……寒雨きたる」
「えっ」
 その言葉に広間の村人全員が反応した。
「……妙物食えばすなわち食当たりをもよおす故、よく気をつけておくべし」
 少年が言いきるとほぼ同時に遠雷が鳴った。格子窓の外から冷湿な風……雨の匂いだ。外で細かいものが地面を叩く音がしはじめた。
「雨だぁあ!?」
 村人は飛び上がった。
「水路の蓋を閉めないかん!」
「洗濯物干しっぱなしじゃ!」
「チビ達が帰ってくるだよ!」
 様々な事情が飛び交う。まさに怒涛。それぞれ紗也に辞儀を述べるとあっという間に去っていった。エリサ達は何か挙動を起こす暇もなく嵐のごとき一連を呆然と見届けた。
「……随分と、元気な人達ですね、皆さん」
 ゲイツが言った。
「こんな日もたまにはあります、ねえ鉄平」
「いやねえよ」
「だって鉄平が言うの遅いから……」
「俺のせいにすんな」
「そんな事より、お二人はどこから来たのですか?」
 紗也はこちらへ振り向いた。鉄平と呼ばれる少年がバツの悪そうな顔をしているがエリサの隣でエヘンと咳払いする声がした。
「メルセオ=ボトムって地域です。海を渡ってここガナノ=ボトムを南下してきました」
「という事は山の外を知ってるのですか」
「オフコース」
「教えてください!」
 最高司祭者は身を乗り出した。
「しかし紗也様」
「旅人さん、教えてください。この世界には、何があるのですか?」
 大言壮語をさせればゲイツの右に出るものはいない。これまでの冒険譚を、彼はさもお伽話のように語った。砂の海、火を噴く山、巨大な宗教建築……。無論エリサも共に体験してきた話であるからゲイツが嘘を喋っていないのは確かだと分かる。ゲイツの語りをエリサは黙って聞いていた。しかしその注意は物語に目を爛々と輝かせる少女・紗也に向けられていた。
――興味を惹かれる。
 己より年若き身でありながら文化集合体の長を務め、さらに自然霊験と通じる力を持つという奇特な幼子。怪異的な存在であるのは初めて見た時から感じていた。その気配が……今ばかりは感じられない。彼女に年相応な瑞々しさを感じる。瞳に不穏な翳りは差していない。
(気のせいだったか?)
 あまりにも純粋で無垢な顔をしている。仮に思い過ごしだったとしたら自分はなぜ、あのような感覚を覚えたのだろうか。
周囲が敬虔な姿勢を示していたから? それは彼女の力が事実である裏付けでもある。多くの人心を一手に掴むのは容易ではない。
 この村で最も尊い命。はたして紗也が自称した語感の響きに囚われているだけだろうか。
「……とまあ俺達の旅はまだまだ続くって感じで以上、第一部完でございます」
 最後にゲイツは頭を垂れて話を締めた。紗也は両手を打って喜ぶ。
「すごい、本当にいろんな場所を巡ってるのですね!」
「風の向くまま気の向くままってね。好きな時に好きな場所へ行く、それがモットーでさ」
「好きな時に、好きな場所へ……ゲイツさん、エリサさん」
 赤みのさした頬で紗也に名を呼ばれた。格子窓の外は雨がしとしと音を滲ませている。
「雨は降り続くことでしょう。しばらくアオキ村に留まっていかれませんか」
「いやしかし今は移住の準備で忙しいでしょう」
「楽しませてもらったせめてものお礼です」
「こちらは食事を出してもらった、礼には及ばない。こちらこそ感謝している」
 そう言って手をつき頭を下げた。ゲイツも続く。村人の見様見真似だが敬意を表す仕草なのは察している。数秒の後に顔を上げると紗也は再び子どもらしからぬ微笑で待っていた。
「三日後に村で祭りをするのです。どうぞそれまで見て行かれてください」
 柔和な物腰だ。本心による善意から生じるものであろう。たしかにアオキ村は滞在するに悪い場所ではなさそうだ。しかしエリサ達にはこの旅路で目指すべき場所があった。
「うーむ、どうしようかエリサ」
 腕を組むゲイツだがおそらく返すべき答えは自分と同じだ、悩んでなどいないだろう。エリサは紗也の方を見る。
「ご厚意に感謝する。けれど雨脚の頃合いを見計らって」
「山が離しませんよ」
 遮るように遠雷が鳴る。
「今日の雨は北西の風から来る暦移りの走り雨。雨水を含んだ山はお二人を簡単に通さないでしょう」
 一瞬雷光で紗也に影がまとった。
「なんだって! じゃあ俺達は、雨に降られる前にアオキ村まで辿り着けて幸運だったんだ」
 紗也は微笑む。言いかけた言葉をゲイツは途中ですり替えたとエリサには分かった。
「山の雨は一晩降れば明日には上がります。明朝山肌を見てお考えになるのが良策かと」
「……今夜の山越えは危険ですか」
「旅に命を懸けてなければ」
 ゲイツは押し黙った。
「雨は恵み。天に人は抗えません。急いた旅でも雨がやむまでゆるりと立ち往生してゆかれてください」
 天に人は抗えない。司祭者だけあろうか子どもの割に達観した事を言う。しかし現実これは山に暮らす民の言葉だ。下手に反故とせぬ方が良い。ゲイツに意思を示すと彼は自分と共に頭を垂れた。今宵は屋根の下で寝よう。
 寝床には屋敷の離れにある庵を与えられた。
夕餉の席でもう一度物語りをするよう頼まれるとゲイツが独りで快諾し、満足げな表情の紗也を奥の間に見送った。
「運が悪かったな」
 紗也に続く少年が去り際に振り返った。名は鉄平と言ったか、声には邪険な色がある。鉄平は自分らに睥睨をやると踵を返し吐き捨てた。
「余所者め」


「だから君は話を最短距離でぶち抜きすぎなんだよ、エリサ」
「意思の伝達は簡潔にすべきだとゲイツが言っていたじゃないか。回りくどいから村人に怪しまれて殺されそうになった」
「いやまあ、そうなんですけどね? 君に愛想つう物《もん》があったら多少は変わったよ多分?」
「泣いて助けを求めた男がよく言う」
 庵の突上げ窓から見える雨にこぼす溜め息。昼に振り出した雨脚は車軸を落とすがごとく次第に勢いづいてきた。旅装は解いている。この状況では村を見て回るのは億劫というものだ。
 夕餉まで時はある。手慰みにゲイツと雑な談話を片手間に広げた装備を手入れしていた。昼も馳走をたっぷりと食べたし動かなければ夜を頂くのは厳しいかもしれない。
 部屋は草を編んだ板状の敷物が床に延べられている。さほど広さはないが旅人二人が荷物を広げてもくつろげるだけの空間は残った。
隅で鉄工具の整備を終えたゲイツは額から保護眼鏡を取って磨きだす。
「幽閉だなんて言っちゃ駄目だぞ」
 自分の事ではないか。エリサは言った。
「穏便に済ませたいならむやみに現地人を刺激しない」
「山が離しません。天に人は抗えません、ねえ」
 ゲイツは唇を尖らせる。
「私はあの司祭者……紗也が私達をここに留めたがった理由が気になっている」
「俺の話が面白過ぎたから」
「自分以外の存在を心に宿しているみたい」
「無視かよ」
 窓から降る雨を見ながら考える。胸中に想起されるのは、やはりあの目。
「……スピリチュアルパワーがうおー、みたいな感じだしな。どうも怪しんじまうのは当然だ。けどまぁ食事と寝床をくれたんだ、仮の宿には悪くはない。エリサは何が不服なんだい?」
 問われても容易に答えられない。あの少女に対して拭い難い不安を覚えたのは直感的に得た感想に過ぎず推察ですらない。ぼんやりと黒いしみが漂っている気がしていたのだ。まるで純真な白さに暗雲がにじんでいるようで。
――想像の外から、こちらを見つめているようで。
「雨が上がったら早くこの村を出よう」
「そらそうさな。山の向こうで俺達の恋人が待ってんだから」
 雷が近くで鳴った。雨雲は分厚く空に垂れこめアオキ村の木々を鈍色に染めあげている。
雨の閉じ込めた陽光が衰えを見せた頃一人の老婆が庵を訪ねてきた。
「アオキの空気は気に入りましたかえ、異郷の方々」
 白の貫頭衣に羽織をかぶせただけの肢体は枯れ枝に白い布が巻き付いているようだと思った。節回しの訛りがきつく視線は観察されてるようで気持ちの良いものではない。
 老婆はモトリと名乗った。紗也の侍従らしい。
「ご用命とあればなんなりと」
「じゃ、じゃあ……」
 旅塵を落としたいと伝えた。老婆は頷くと目がぎょろりと動きエリサ達の背後に広げられている旅の装備を一瞥……いや、しばらく見つめて「支度いたします」と退出した。
「何なんだあの婆さん、気味が悪ぃ」
「ゲイツ口が悪い。年長者は」
「敬いなさいだろ? はいはい、わーってますよエリサちゃーん」
 ゲイツは天を仰ぐ仕草をした。そしてそのまま仰向けに寝転ぶ。
「……風呂に入れるとか、夢じゃないよな?」
「現実ね」
「素晴らしいなアオキ村」
 久方ぶりの湯浴みは旅の疲れをひと息にほぐし、紗也との夕餉もつつがなく済んだ。その場に鉄平は不在で代わりにモトリが侍っていた。色白な紗也と比べて肌が浅黒いモトリは元々この山に暮らす土着民族だったらしい。
 ゲイツの冒険譚を紗也は手を叩いて喜んだ。すっかり気分を良くした彼は庵に帰ってなお頬が紅いままで寝床に横たわるとあっさり寝てしまった。月はまだ頂点に達してない。
 そう、雨がやんでいた。朋然ノ巫女の読みは正確だった。昼に降った雨は夜までには上がっていた。これならば明朝の出立も叶うかもしれない。エリサは手元に目をやった。青く透き通った球体が朧月を映している。月の光を反射して、内部の模様まで鮮明に見れた。水底に漂う波動のようなものが青い玉一杯に広がる。美しい。されど手にある感触はとても冷たい。エリサは空を見上げた。どこを捉えるともなくぼんやりと求める土地への想いを高めた。
「この命続く限り」
 そう呟いて音を立てることなく自分の寝床に就いた。


眠りから覚めた。冷えた空気が睡気を引き下げる。庵の中には闇が溜まっていた。
 まだ夜か……。
 窓からは夜虫の声。ゲイツは壁にもたれ寝息を立てている。エリサは掛け布を外し表に出た。まともな寝床が与えた休養は体をいささか軽く感じさせる。雨雲は既に無い。満天の星彩が黒洞々に散りばむばかり。方々には篝火の道標。火粉のはじける音が響く。アオキ村は死んだように眠っていた。
(夜明けは、まだ先だな)
しばらく歩き手ごろな切り株に腰を下ろした。風が木々を吹きさらい山を轟と唸らせた。夜霧の向こうに川が流れているらしい。そんな音さえ聞こえてしまうあたりこの土地がいかに文明に隔絶しているのかをエリサは再び実感した。
 エリサは懐からプツロングラ(※携行式立体電子記録端末)を取り出し起動させた。
「目的地までの最短距離を教えて」
『カシコマリマシタ』
 案内音声に伴って手元の端末から放出された光は空中で――エリサの目の前で固定された。ホログラム・ヴィジョンである。プツロングラは虚空に表示した電影画面に現在地からあらかじめ設定していた地点までの道のりを計算し、地図として表示してくれる。
……はずなのだが……。
『現在地ノ情報ヲ取得デキマセンデシタ』
 やはり電波は届いていない……か。旅の必須装備として幅を利かす機器ですらこの有り様ならば自分の求める情報を村人が持っていようか。いや、その望みは薄い。とにかく明日にでも発とう。手遅れとなる前に。立ち上がって寝所に戻ろうとした時総身がにわかに粟立った。
 エリサは闇を睨んだ。
――気配だ。
周囲に何かいる。
鬱蒼の森、建物の影、畑の畔溝……ありとあらゆる闇の中でエリサは確かに耳にした。
隠すつもりのない殺気じみた息遣いを。
 間近な気配に振り返る。硬質な部品がこすれ合う不愉快な金属音。原動機の排出する熱風。篝火に浮かび上がった影は機械がその身を構成しエリサのよく知るところであった。
 手足が異常に伸びた人間の形をした存在。
機械兵《アトルギア》だ。
――ついに嗅ぎ付けて来たか。
 突進してきた一体の攻撃をなんとか躱す。さらに数歩飛び退いて奴らの姿を視認する。
――数が多い……。
無数の赤白い双眸が闇から此方を見つめている。
 蒸気を吐く音。手先に生やした鉤爪を機械兵が横薙ぎに振り払い、エリサを殺意の込もった一旋が襲う。斜めへ身をよじってやり過ごすが背後から現れたもう一体の察知に遅れた。忍び寄った敵から振り返りざまの一撃を浴びた。体が飛ぶ。転げる。地で肌を削り建物に激突する。額に生暖かいものが垂れた。
――分が悪い。
武器を持たずこの数を相手にするのは無理だ。エリサは負傷した身を奮い駆けた。
「ゲイツ!」
 呼吸を荒げながら民家に向かって機械兵の襲来を叫ぶ。皆眠っている。このままでは全滅だ。しゃにむに庵へ走り続ける。受けたダメージに構ってなどいられない。
 歩いただけの道がどうしてこんなに遠いのか。走れど叫べど視界を過ぎる篝火の列は途切れない。後ろから機械兵の不気味な移動音が追いかけてくる。
 追撃してくる機械兵の無慈悲な暴力を時に逃れ時に被り喘ぎながらエリサの足はようやく屋敷まで辿り着いた。だが味方の名を呼ぶ声は喉の出口で嗚咽と変わった。
 満身創痍で見上げた空には火柱が上がっていた。真っ赤に燃え盛る紗也の屋敷。ゆらゆらと機械の影が炎のなかに揺らめいている。
(あれは……)
 奴らの足元に何かが転がっている。
あれは――「うっ」――気づくと即座に目を逸らした。
 見境などない。奴らにとって自分達はただの獲物。機械にとって人間は単なる有機物。ずっと前から知っていた。無機物には感情が無い。関係ないから殺すのだ。奪ったそれにいかなる意味いかなる使命があろうとも。
 あどけない顔が紅蓮に消えてゆく中で屋敷の外壁が爆発し一つの人影が飛び出してきた。木片が突き刺さり血塗れになっているがあの赤髪はゲイツだ。火だるまとなった体を転がって救おうとしている。
「いま助ける!」
 衣服を脱ぎそれでゲイツの身を叩く。かろうじて炎は消せたが火傷が酷い。もはや気息奄々だ。
「に……逃げ……ろ、エリサ……」
 此方を認めたゲイツはそう訴えるが声は既に潰れていた。視点が定まらぬのか目を泳がせながらゲイツは喀血した。おそらく内臓がやられている。
「喋ってはダメ、急いで手当する」
「機械……が、また……奪って、い……く……」
「喋らないで、早く立って、一緒に逃げるの」
 そう言って腕の下に肩を回すと妙な感触があった。敢えて目を向けなかった。手をゲイツの腰に回して支えなおす。物体の焼けた匂いが鼻腔を突く。力なく身をもたげるゲイツを手負いの自分一人で運ぶには想像を絶する苦痛が襲った。
 どうやら自分もまともに動けそうにないらしい。奴らの攻撃を受け過ぎた。
 片足が激しい痛みで重く感じるがそれでも仲間を見捨てて行くわけにはいかない。ゲイツの身体を支えながら懸命にその足を前に出す。
「……エリサ……俺を、置いて、ここ……離れ……ろ……」
 一歩歩くたび自分の足からゲイツの身体から嫌な音が聞こえる。火炎が延焼し燃え盛る村。もはや鋼色した悪魔共すら見えないほど視界は赫一面で染め尽くされた。
「大丈夫、あなたを見捨てたりはしない」
 だが頭一つの身長差があるゲイツを支えながらはたして逃げ延びられるか――せめてどこか身を隠す場所は? 機械兵に見つからずやり過ごせる安全な逃げ場は。
 ふと目の前を影が走りすぎた。半狂乱の怒声を発しながら炎に突っ込んでいく木剣を振りかざした男。あれは鉄平だ。
「あああ、あああっ、うああぁああ!!」
――そっちは危険だ、行ってはいけない!
 咄嗟に出そうとした声が何故か出なかった。足もすくんで動かない。理性を喪失した人間が悪魔の口に飛び込むさまをエリサは黙って見過ごした。この世のものと思えぬ断末魔。望まぬ旋律が塞いだ耳朶を震わせる。
「エ、リサ……」
「ゲイツ!」
 我にかえった。今は守る命があるのだ。自律を無理やり取り戻し呼ばれた名前に大きく振り向いた。
「たす……けて……」
視線を送った先でゲイツの腹から鋼の爪が伸びていた。
「え……」
 肩を貸すゲイツの真横に奴らが立っていた。その腕が仲間の身体を貫いている。不意の出来事に思考が固まって呆然と赤いものを吐く彼の姿を見つめてしまった。自分を呼ぶゲイツの声。ハッとしてエリサは彼の身体を放した。瞬時に構えなおし――「助けなくては」――その思考が手足を突き動かした。
雄叫びをあげて敵に突っ込む。
反撃を躱し、機体に殴打を撃つ。撃つ。撃つ。何度も撃つ。接触した自分の四肢から不快な音が鳴っても無我夢中で殴り続けた。
 そして――気がついたら空中に放り出されていた。衣服の裂け目から己の身を通っていた液体が弧を描き宙に軌跡をつけている。地面に落ちる衝撃。胸からドクドクと何かが溢れだす感覚。口内には苦い味。真っ白になった頭で考える。何が起きた? 視線だけ動かして周囲を見ると機械兵に吊り下げられたゲイツが手足を力なく虚空に垂らしていた。此方を見ていて視線が合う。光のない目が何かを訴えかけている。視線を自分に戻すと理解した。
 そうか。自分もやられたのか。だがそれでも。歯に力を入れ肘を立てる。このカラダはまだ動かせる。機械兵さえあれだけ殴れば損傷の一つはしているはずだ。必ず一矢報いてやる。ゲイツを救わねば。その思いだけでエリサは砕けた拳を地について体を起こした。
 視軸を向けた機械兵には傷一つついてなかった。五体傷痍のエリサの顔を見下ろすばかりで嘲るように立つだけだ。無機質な二つの光に躊躇いは無い。
エリサの顎はいつしか震えていた。ゲイツはもう動いていない。
乾いた笑いが不意に漏れ出す。
一滴の血すら流れていない奴らに血塗れとなって抵抗する自分達。
……不公平な命の交渉が歴史にいくつ刻まれてきた?
機械よ。お前達は何を求める。人類と機械は共に生きていく理想を掲げなかったか。我らはいつ道を違えた。お前達は何故生まれてしまった。呪い雑じりの尋問が混濁した意識を蹂躙する。エリサの笑いは止まらない。
高度知的無機生命体アトルギア。人類が創り出した滅びの兵器。血の通わない悪魔の殺戮者。命に価値を持たない者。人類はまた自らの子に敗れたのだ。踏み躙られた正気は原形を失くし胡乱な虜となった少女の視野を暗幕が覆った。少女を玩弄するような声が意識に問いかける。
『お前のせいじゃないか』
 誰の声かも分からない。死んだゲイツの顔が此方を向いた。少女を見つめる瞠目は世にも怖ろしい表情だった。エリサが目を背けた先には無数の亡者が顔を上げて待っていた。ずりずりと蠕動音を奏でながら闇より少女に近づく者が何処かにいる。少女は膝を砕かせて這う這うの体で後ずさる。呻吟が響く。亡者の嘆きが少女の頭を狂わせる。悲痛、憤怒、苦悶、憎悪。善意を打擲する負の感情が胸の臓器を締め上げてエリサの喉から人ならざる音色が上がった。
 身体の内から飛び出す本能。少女は絶叫しながら亡者の顔に爪を立て腕を横薙ぎに一旋させる。亡者は裂かれて消滅し金切声を名残らせた。だけど少女は気づいていない。次の亡者に飛び掛かる。そして無慈悲な処罰を右手で下した。感情が漏れ出し続ける。エリサは亡者を消滅させる。次から次へと抵抗しない彼らの顔を獣の様に裂き続ける。暴れ狂う少女の心を鎮める者は何もない。目につく全てを引き裂き尽くし虚空を何度も掻きむしる。無音の中で少女の叫び声だけが響いていた。
 やがて疲弊が極限をむかえエリサはその場に崩れ落ちた。胸を激しく上下させ乱れた蒼髪を揉みしだきうつろな瞳で茫漠の空に孤独を見た。闇が何処までも広がっている。これまでも、これからもエリサを包むのは変わらない。天命より定められた酷虐の星が少女を慈しむ様に呪縛の微笑で見守っている。逃げる場所は無い。
いつだって天暗の星がエリサの人生を見つめている。
 虚空から声が聞えたのはその時だった。少女の名を呼ぶ声が聞えた気がした。身動《みじろ》ぎ一つも億劫なのに不思議と首がするりと向いた。
『エリサ』
 優しい温もりを感じる音を耳は拾った。よたりよたりと声のする方へ進みだす。少女の壊れた心が求める救いは闇のどこかでエリサを招き込んでいる。呼び声がまた聞こえた。一も二もなく追いかける。たちまちあたりが光を含みだした。射してきた光の方から声が――エリサの名を呼ぶ声がした。エリサは光の中に足を踏み入れた。その先で待っていたのは、
『たすけて』
 亡者の朽ちた顔だった。にわかに白んだ世界が崩れ去り闇と燃え盛る村々の景色が広がりだした。青白くなる少女の前には機械兵が立ち並んでいた。彼女をじっと見つめていた。悪魔達の赤い双眸。
 少女のあげた絶叫は世界の音を否定した。エリサを呼び込む声がする。エリサ。エリサ。エリサ――少女に囁くその声は亡者の誘いか悪魔の招きか。愛しい人を呼ぶように繰り返される少女の名。真綿で首を締めるように蝕まれていく少女の心。エリサ。エリサ。機械が呼んでる。滅びの子供が楽しそうに彼女の名前を。
誰かが叫んだ。
――エリサ!
掛け布を跳ねのけ飛び起きた。
全身が汗で濡れている。
頬に貼りつく髪をかき上げて額に手をやる。
機械はいない。どこにも亡者の顔はない……。
(……夢だったか)
 冷えた指先が熱を持つ額に心地よい。開け放たれた窓から朝の日差しがさしこんでいる。景色も、昨日と変わらない。一つ溜め息をつき枕元を見ると隣でゲイツが倒れていた。
「何しているの」
「……君の頭突きだったら機械兵もイチコロだね」
「……おはよう」
「……おはよう、エリサ」
 庵の戸口に、モトリが来ていた。寝ぼけまなこを擦りながら見た老女は目を合わせると昨夜と同じ舐めるような目つきで笑い挨拶をした。
「ぐっすり眠れましたかえ? お嬢さんは少々お疲れかしらねえ」
「ああ、彼女なら大丈夫ですよ。おかげで気持ちのいい朝です」
 そりゃえがったと沼地の生物のように引きつった笑い声をしながら続けて外を手で示した。
「朝の膳を調えてますから、屋敷までお越しなさぇ」
 きつい抑揚でおおよそそんな事を言ったと思われるモトリはもう一度上目で此方を見て庵を離れた。
「うなされていたね。また夢を見たのか」
「……えぇ」
 水瓶から注いだ水をゲイツが差し出してくれた。受け取った水呑《コップ》で乾いた口内を湿らす。浮ついた胸が喉を落ちてゆく水によって静まるような感じがした。保護眼鏡で赤髪を留めたいつもの顔がそこにある。
「ゲイツ」
「ん?」
 そっとその胸に手を当てる。
「……な、何してるんだい」
 温かい。心臓の鼓動。たしやかに、命の脈動が規律正しくゲイツの中で鳴っていた。
「生きてる」
 手のひらに感じるゲイツの命。間違いなく現実の彼は生きているのだ。その事実を確認するだけでエリサの心に言いようのない安心が満ち満ちてくる。すると……頭に何か添えられた。ゲイツの右手だった。
「まだ死ぬ予定はないから、安心しな」
 無言でうなずく。彼の微笑が心地よい。ポンポン。ゲイツは、軽いリズムで頭上を叩くと、
「行こうぜ、朝飯が待ってる」
 大あくびをこきながら言った。
 ゲイツと共に庵を出た。雲こそあるが空は晴れ間が見えている。山奥の朝は冷えると聞くがなるほど陽で温まらぬうちは涼しさが地上に降りたままだ。その陽光は稜線の向こうで柔らかく焼けている。山肌に霞が貼りつき透き通る空気の充満している様が営みだす前の田園風景に幻想的な情緒を醸していた。
 そこらで摘み取った草の茎を噛みながらゲイツが尋ねてきた。
「やっぱりいつもより元気がないな、どうしたんだい」
 別段気にしているつもりはないが彼にはそう映ったらしい。夢の中の出来事を告げる。
「腹から、機械の腕が生えてた」
「エリサの?」
「ゲイツの」
「そこからだけは勘弁願いたいな」


 用意された朝餉は相変わらず菜食が膳を占めている。
向かいに座るゲイツが目を見張った。
「ほおこれは」
 感嘆の声を漏らしめたのは椀に盛られた白く艶のある蒸し穀物だ。
「白色穀物《マイラス》とは珍しい、他ではめったに見ない物だ」
 穀物は生育の特性上高級品として扱われ一般に流通していない。王都城下のマーケットで珍品として並んでいたのをエリサは見たことがある。モトリが言う。
「ここではコメと呼んどりますえ」
 土地によって物の呼び名が変わるのはさして特殊な事例ではない。早速口に運ぶ。噛んでみると弾力というよりは奇妙な粘り気があり味はかすかに甘みを感じる程度。高級珍品の名の通り、確かに珍しい食感だった。
 給仕した老婆に対してなるだけ慇懃に礼を告げる。振る舞われた食事には感謝と賛辞を贈るのがコミュニケーションをつつがなくする秘訣だとゲイツから教わっている。当の本人は、笊《ざる》に盛った砂を革袋に流し込むような勢いで「コメ」を無心にかき込んでいた。
 格子越しに雲の裂け目は青々としている。朝の冷たく湿潤した風に混じり、温みを含んだ風も入ってくるがこれは山地特有の季節気流だ。雨は止んでいるしすぐにでも村を発てるだろう。食事を終えそう考えていた折、屋敷の戸口に村人の男が訪れた。屋敷の主たる紗也は現れずモトリが応対に出た。話が聞こえてきたので聞き耳を立てる。
「昨日の雨で水路の堰が切れそうだ、大川の水があふれかけてる」
 大川とはおそらくアオキ村を縦に割って流れている川の事だろう。澄んだ水の通う清流で昨日屋敷への道中で見かけた。
「まだ持ちこたえてるが、今日か明日にでも降られたら決壊する。村のみんなで補修するから、紗也様に許しをもらって欲しい」
「巫女様はただいま空読に出られておいでです。よろしくお取次ぎましょう」
「ん、急いでくれ」
 男の去った気配がした。モトリが部屋に戻ってくる。
「どうせ捨てる土地なのにねえ」
 老女はのそりと腰を下ろし、水呑に茶を淹れながら吐き捨てるように呟いた。


 山道を前にエリサ達は踏み出した足を躊躇の表情で引いた。足元のぬかるみが酷い。ブーツは足首を超える所まで沈みかけるし差し掛かりでこの様子だと斜面を超えるのは困難だろう。振り返ってみたモトリの顔にはどうにも哀れみか嘲りか判別しかねる表情が浮かんでいる。
「山には今日も入れませぬえ。ここの土は雨水をため込むから、途中で崩れたりするもんえ」
 晴天といえども歩いて行くのは土の上だ。多少の労苦に厭いは無いが、地滑りの危険を冒す賭けで問われれば、眉間に力がこもってしまう。ゲイツも渋面でかぶりを振った。
――この村にもう一泊か。
 風が吹く。木々から無数の鳥が羽ばたいた。羽音が乱雑に降り注ぐ。鳥達の影は雲の充満する方へ進んでゆき、やがて黒い点となって消えた。

◇◇◇

「今夜も雨、降っちゃうね」
 柵にもたれて櫓の下に声を投げた。空見櫓を埋める森は湿気を含んだ生暖かい風でザワザワと音を騒がせている。もしかすると雨季に入ったのかもしれない。鉄平は紗也から受けた空読の結果を端末に打ち込んでいる。いつも通り眉毛が険しい角度をしている。おずおずと梯子から降りる。今日も怒られるだろうか……。
「紗也、よくできたな」
「えっ」
 自分の目を疑った。
 ……わ、笑った? 鉄平が、笑った? しかも……私を褒めた!?
「なんだよ、その辛い種子《シド》を食った機械兵《アダル》みたいな顔は」
「え、あっ、あぁ、いや、だってその」
 初めてだもん鉄平にそんな事言われたの。といった旨を上手くまめらない口で言う。
「そうだったか?」
「だ、だって鉄平いつも怒ってるから」
――こーんな顔してっ。
自分の眉の間を指で押していつもの「逆八の字」を作って見せる。それを見た鉄平はなおのこと笑った。
「すまなかった!」
「えぇっ!?」
 ありえない事が起こった。鉄平が頭を下げたのだ。今まで鉄平がそんな腰の低さを示したことなんて一度も、全然、全く、寝ぼけてても、夢枕でも、見たことない。信じられないし訝しい。それでも紗也には清々しさが優ってしまった。ようやく自分の短気をバカみたいって気がついて、村で一番偉い人は私なんだと認めたんだね。
「なんか失礼なこと考えてやがんな?」
 全力で首を振った。
「だって鉄平の感じがいつもと違うから、どうしたんだろって」
「あー」
 鉄平は後ろ頭を掻いた。
「考えてたんだよ、昨日のお前を見てから。紗也、外に行きたいのか?」
「……うん」
「そうか」
 自分の記憶があるのはこの村に来てからだ。集落の人々が営んできた外界の話がいかに鮮明だろうと所詮は他人の記憶に過ぎない。
この空の向こうにある世界を自分の目で見たい。山の外からの来訪者が語った見聞を自分の肌で確かめたい。そんな思いが昨日の堂の語らいで強まった。
鉄平は黙ってしまった。
「鉄平?」
「…………」
「鉄平!」
「…………」
「鉄平ってば!」
「紗也」
「うぉわっ。なぁに」
 鼻息がかかる距離まで迫ったところで反応され紗也の方が驚いた。鉄平は口元をかすかに緩ませ手元にあった端末を差し出してきた。
「これの意味、分かるよな」
 紗也は画面を見て呼吸が止まった。再び胸が動きだした時紗也は全身に別の力が高まりだしたのを感じていた。
「朋然ノ巫女様、お役目の刻限は二日後でございます」
「……わかった」
 畏まる鉄平に向けて笑いかける。
――間に合った。かねてから求めていたものが、手に、入った。
「安心して。ちゃんと最後までやり遂げるから」
「紗也」
「それが私の生まれた理由でしょ」
 顔に熱がこもっていく。高鳴る胸の鼓動に乗って櫓の梯子にもう一度乗った。木々の頭越しには自分が愛する景色が広がっている。緑の山に抱かれた小さくも豊かな営みの郷。
 集落内では各々に与えられた役割をまっとうするのが当たり前。自分の役目を果たすことはそれだけで存在の証明になる。
 これが私の役目。すべては皆の平和のために。
「私はここで死ねるんだね」
 二日後の祭り。それは人々が村を旅立つ門出の祭り。我等を包んでくれた自然に対する感謝の祭り。感謝の証に差し出す供物は皆の宝でなくてはならない。人々にとって大切な存在。それが自分だ。
「自然と朋《とも》に還らんことを」
 鉄平が優しい顔をしてくれた。しかしどこか寂しげでいつもの首飾りを差し出している。そんな鉄平を見て紗也は胸のあたりにキュッとしたものを感じた。それを表に出さない代わりに笑顔を返す。
「鉄平、一緒に帰ろう?」
 受け取った紗也は、彼の手を引いた。


ログ:平穏を護る者


「あのすんません腰がヤバいんですけど」
「なんがね若か者《もん》が! ほら早《は》よ次ば刈らんね、まだまだ仕事は続くっど!」
「あうっ」
 尻をしばかれたゲイツの悲鳴が田畑に響く。「手伝ってくれんね」と愛想よく頼まれて断れるほどの性格であればどれだけ楽に生きられるだろう。エリサは彼の人の好さに一種の哀れみすら覚える。
「あんたスジが良かね。じょうずじょうず!」
「ありがとう」
 まぁ草鞋作りを手伝わされてる自分が言えたことではないが。
「もうすぐなの?」
 エリサは作業を教えてくれた娘に聞いた。彼女の腹は大きく膨らんでいる。
「ああ、後一月もすればって紗也様に占われた」
「子ども……相手は?」
「あー、あの声が大きいの」
 顎で示した良人《おっと》は汗を流しながら皆を励ましている精勤な若農夫だった。バテるゲイツに水をやってる。
「命が繋がっていくのね。あなたと彼の」
「えっ?」
「あなた達が生きている証。あなたと彼が命を継承した事はとても素晴らしい事と思う」
「な、なんねなんね! そげん大した事はしとらんし、なんか恥ずかしか!」
「この子は吾作と本当《ほんと》に仲睦まじくねぇ」
 隣にいた別の女が頬を緩ませて言う。
「そ、そんな! あん人ったら家ン中じゃ、いつもウチに甘えてばっかで……」
「あなたは不満なの?」
「不満なんて無いけど……あの人一生懸命やし、なんだかんだで優しいから」
「よか夫婦《めおと》じゃ」
 周りにいた女達が皆一斉にそう言って笑った。
「あなたにとって、それが幸せなのね」
 エリサがまっすぐ見つめた娘の顔は不思議そうな顔をしてたがすぐさま歯を見せた。
「まあね。ほら見て、鉄平が帰ってきた!」
 畔の上に仁王立ちの影がいた。
「皆、精が出てるな」
 あたりからおうさと威勢のいい声が上がった。
「これより今日の空読のお告げをいたす。紗也様いわく、本日の空は日中雲多く、潤いし風よく通う。宵の刻より雲立ち込め、慈雨やがて降り注ぐ……」
 鉄平の声は離れているエリサ達の元へもよく届いた。
「吾作」
 天候観測を最後まで告げると収穫作業をする人々に鉄平は声をかけた。それにさきほどゲイツを励ました男が駆け寄った。
「この調子じゃ今日中には、間違いなく終わりやす。出発には間に合いそうです、鉄平サァ」
 鉄平は満足げにうなずき、
「お前の元気のよさを皆が頼りにしている。ところで……」
と言って親し気に話を始めた。そういえば鉄平が村の人々と話している姿を初めて見た。見るからに吾作という青年が年上だが鉄平に低い物腰をしている。エリサはふと封建制度というものを思い起こした。有力な身分の者が持たざる人間をして自らに仕えさしむ社会形態の一種だ。エリサは吾作の妻に聞いた。
「彼は領主の家なのね」
 だとしたら居丈高な態度も理解できる。宗教の最高権力者との結びつきもそう言った制度下にある地域じゃ珍しくない。ところが娘は笑い出した。
「そんなんじゃなかよ、鉄平は導師様。ウチ達の暮らしを導いてくれる人」
「導師様? 一体何者なの」
 娘はしばし考え込んだ。言えない事かなと思いかけた時、口早に「作物の管理」「部族間の取り持ち」「紗也様のお世話」と述べて最後の一つだけ冗談そうに笑った。
「他にも仕事はあるだろうけどね。紗也様のお告げと鉄平の根性がアオキ村を支えよぅと」
 人々は精神的支柱として安らぎを紗也に求め、政治的な拠り所を鉄平に頼んでいると。
「あの若さで……」
 齢は自分とほとんど変わらないらしい。
「鉄平ってあぁ見えて、ばり頼りになるとよ。こないだ山羊《ネト》(※小型の家畜用動物。乳は加工し食用される)が逃げ出した時もねえ?」
「そうそう、プツロングラも使わずにたった一日で見つけちゃったのよ。山を下りて来た時の鉄平ったらすっかり泥だらけで山羊を抱えてて……」
「その時、鉄平なんて言ったと思う?」
 いきなり問われて返せるのは「さあ、どうだったの?」くらいなものだ。
「すまん、腹が減って乳をちょっと飲んじまった」
 周囲はそれでまた笑った。
「神妙な顔で、申し訳なさそうに言ったのよ。乳を飲んじまった!」
「みんなの前で、しかもちょっとだけ飲んだって……あの正直者めっ!」
「あの正直さが鉄平のいいとこなのよ」
 女達はからからと笑った。
「鉄平は、本当にいい男に育った。あの子、親がいないの」
「親が?」
「あたし達がアオキに落ち着くまでの旅で、鉄平の両親は命を落としたんだ」
 娘の隣に座る年増の女が説明をつけ足す。
「あたし達は鉄平の両親にとても助けられてきた、だから赤ん坊の鉄平を村の皆で育てようって決めたんだ」
 年増の女はしみじみと遠くを見つめる。娘が腹をさすりながら言う。
「鉄平は皆の息子であり弟であり、ジプスの光。それに紗也様とはまるで兄妹みたい」
「こらっ、滅多な事を言っちゃいかん」
「えーだって本当に見えるんだもん。ずっと一緒にいるんだよ、鉄平と紗也様。きっと夫婦になっても良くやっていけるかも」
「こりゃあ、言葉が過ぎてるってば」
「そういうあんたも顔がにやけてるじゃないのさ」
「そ、そんなことは……ある。実はあたしも思っとる」
「でしょう?」
 女たちはころころと頬を赤くして笑った。
「お前《まん》ら、鉄平サァの何を笑っちょっとか!」
 いつの間にか吾作が鉄平との話を終えてエリサ達の傍に来ていた。
「あ、吾作。いやね、鉄平のかっこいい所を旅人ちゃんに教えよったと」
「ふぁーっ、鉄平サァよか俺《おい》の魅力ば伝えるのが先やろ!」
「なんね」
 女はきょとんとした顔で吾作に言った。
「あんたの魅力はウチが独り占めしときたいと」
「あぁ~!」
 吾作は顔をおさえて崩れ落ちた。女は此方に目をやって舌をチラッと出した。
「ま、まぁ鉄平サァの働きぶりは俺も敵わん。じゃっどん、男前は負けちょらんしな」
「なに張り負うとるん」
 女は呆れたように笑っている。吾作は一度咳ばらいをすると元の生真面目そうな顔を作った。
「これから男達で、昨日の雨で壊れかけた水路を修理してくる。残った者は、鉄平サァの指示で祭りの櫓を組む準備に移る。俺は水路組の長だから、帰りがやもすれば遅くなるかもしれん」
「ウチは母ちゃんもおるし、心配いらんよ。それより吾作こそ気を付けてな」
 二人の顔に微笑がうかぶ。その時「うっ」と女が表情をしかめた。
「どうしたっ」
「動いた。お腹の子が」
 女はそう言った。吾作は驚いた顔を緩ませて背中をさすってやった。
「早く終わらせて帰るから、待っとれ」
「村のためにありがとな」
「お前と子供んためじゃ」
 吾作は足早にその場を去った。件の作業場に向かう一行が呼び集められ水路の上流である川の分水地点まで吾作を先頭に連れ立って行った。それからエリサは草鞋編みに従事し、水路整備から残された男達の祭り支度を客人として眺めていたがしばらくしてゲイツまで川上に連れて行かれていたのに気づいた。
「エリサに俺を褒めてほしいんだ」
「とても誇らしい事をしてきた顔ね」
 日の暮れだした頃に男たちは帰ってきたが、その中でも一番偉そうな顔をしていたのがゲイツだった。
「みんなの表情を見れば瞭然。彼らもさすが各地を渡り歩く部族だけありそれなりの治水技術は持ってはいたけど、俺にしてみれば組み方がどこか頼りない。そこで僭越ながら俺が講釈を垂れてみせた。するとどうだ、一同開目してやれゲイツの旦那だ、先生だ、と囃し立てるもんだから……」
 エリサがあくびを一度して、更なる一回を堪えようかと悩んでた頃に話は結した。
「今夜は宴に招いてもらったよ、お礼のつもりらしい」
 なんとも世間への干渉が巧いこと。
 その夜、紗也の空読通りに天気は雨だ。明日の出立も叶わないだろうか。水量の増した川の音が恐ろしく近いが工学の知識をして自らを任ずる男の手が加わったのだ。ゲイツの腕は保障できる。
今宵は明日の前夜祭として村人が吾作の住居で酒盛りに興じていた。広間の雨戸は開け放たれているが誰もその不用心さを気にしていない。その席にエリサはいた。ゲイツはというと村の男達と肩を組んで歌っている。男女の情愛を面白おかしく歌にした品の無いものだ。腰元に侍らせた村娘達もゲイツの若くて精力ある振る舞いに色目を向けている。
「どうら、俺ともひとつよろしくしよう。異国の娘なんて久しぶりだ」
 一方の自分は気づくと大柄の男に肩を抱かれていた。
食事に集中し過ぎていた。
「長旅で疲れてる娘を見るのは忍びない、どうれ俺の按摩にかかってみろ。なに、この場で寝そべることはない。奥の部屋が空いている。あちらへ来い。たちまち気持ちよくしてやろう。そら、早く奥の方へ、さあ」
 ぐいぐいと肩に回された手が首筋をなぞりシャツの襟もとを乱す。男の鼻息は増すばかりで食器もまともに扱えない。しかしエリサは味噌汁をすする。
「俺に揉まれてよろこばぬ女はおらん……」
 やにわに男の手が襟の中に入ってきた。鎖骨を撫でられ男の手はさらに下の方に伸びてくる。その手が乱暴だった。
「あっ」
 エリサの手に持った汁茶碗がひっくり返る。床板に汁が広がった。男はそれを気にも留めず少女の胸ぐらで愉しもうとしている。
「ほうれ、手元を乱すほど良いだろう。さぁ、奥の部屋へ、さぁ」
「どいて」
「さ」
 軽く身をよじると男はエリサの胸に手を入れたままふわりと宙に浮かび上がった。頭上を軽く飛び越えた男が一転して体を踊らせると、床板に頭から打ちつけた。周囲にいた女たちがどよめいた。
「あんたすごぉい」
「せっかくの食事をこぼしてしまった、申し訳ない……何か拭く物を」
 眉尻を落としてエリサは給仕の女に詫びる。だが女は手と首をぶんぶん振った。
「いや、よかよか。それよりもあの酔っ払いを一人のしてくれたんだ、身体触られてたけど大丈夫だった?」
「別になんとも」
「ほぉう……」
 そう言ってエリサを見る女たちの目が一瞬だけ怖かった。男は気絶してしまい奥の部屋まで担がれて行った。まあ良い。食事を続ける。白い短冊状の食べ物をつまんだ。
――この匂い……山羊《ネト》のチーズだ。
珍しいものではないがアオキ村でも食べられるとは思わなかった。山羊は畜産動物として多くの土地で見られる。その乳は加工して食用され独特のつんとした臭いはあるものの、果実酒に合うとして人々に愛好されている。
うん、これは美味い。エリサの好物でもある。
 発酵に手間をかけただけ臭いが増すネト種のチーズは噛めばぽろりと崩れるが、そのまま舌の上で転がしているとゆっくり溶けだして旨味と香りが口いっぱいに充満する。深いコクを堪能しながら果実酒を口に含んで飽和した舌が引き締まる。果実酒は葡萄《フサ》製だ。味覚に平穏と急襲が止めどなく繰り返されその危険な緩急がたまらない。芳醇なチーズと果実酒の味わいにエリサはしばし夢見心地となっていたが、珍しく興が乗ってしまった。だんだんと頬が火照ってきた。
 エリサは座を離れて千鳥足を踏まぬよう冷静に、極めて冷静にすました風体をつくろって屋敷の濡れ縁、雨の降り込まぬ所で腰を下ろした。しばらく夜風に当たっていると雨脚は緩んで霧雨のようになった。片手の水呑椀にたっぷり注いだ酔い醒ましの水が空になる頃ようやくつくろわずに済む程度には自我を固められるまで回復した。
 傍らに――彼女も乱痴気騒ぎを休みたくなったのか――昼間作業を共にした娘が座ってきた。何度か会話をした彼女には親し気に笑いかけてくる事もありエリサもすでに多少の気を許している。
「ごめんな、ウチの馬鹿達が迷惑かけて」
 馬鹿とは男達を指しているのだろう。自分が絡まれていた事を気に掛けてくれてるようだ。
「大丈夫。有性生物の雄としては健全よ」
「……あんた、本当にすごいね」
「そうかな」
「村の仕事をすぐ手伝えるくらい器用だし、ウチが知らない言葉だって沢山知ってる。腕っぷしも強い。なのにどこか抜けてる」
「それは褒めてるの?」
「ふふ、ウチはあんたを気に入ってるよ」
 膝を隣に寄せてきて娘はエリサの目を覗き込んできた。
「惚れ惚れする……すっごい美人さんだ」
 エリサの青い髪を、娘は愛おしそうに手に取って口をつけた。
「いい匂いもする」
 匂いを嗅がれている。娘は頰を紅潮させた。
(な、なんだ……この娘は何を考えているんだ……?)
 困惑のエリサは突然のことに身を動かせない。髪を口に含んだまま娘はさらに顔を近づけてきた。自分の息が娘の日焼けした額にかかっているのを感じる。
「ふふ、くすぐったい。あんたもそこそこ飲んでるね?」
 嬉しそうに笑う娘は悪戯っぽい表情を浮かべた。
「ねぇ、あの男とはやってるの」
「何を……?」
 娘とエリサの頰が触れ合う。柔らかい感触を得るとエリサは耳元で囁かれた。
「契り」
「ありえないっ」
 エリサが飛び退くと娘は大口開けて哄笑した。
「なははっ驚きすぎやろ、冗談冗談! でも好い男じゃないか、慣れてそうだよ?」
 酒の匂いがする吐息。この娘も酔っ払いか。エリサはムスッとして言い返す。
「私とゲイツは、師弟関係なの」
 その一言で娘の顔は色を変えた。
「師弟関係。なにそれ、どっちが師匠なん?」
「ゲイツが師匠で、私は弟子で教わる方」
 娘は目を大きくして首を傾げた。
「教わるって何を教わってるの」
「世間の常識と対人関係のこなし方」
「間違いないね」
 娘はそう言うと声をあげて笑った。そこまで笑わなくてもいいじゃないか。
「まぁ、そんなしかめ面しないで美人ちゃん。しかし何故そんな関係になったん?」
 憮然としながらも答えてやるくらいはする。
「街中で暴漢に襲われていたゲイツを私が助けたの。そうしたら恩返しに世間の渡り方を教えてくれると言って、ずっと一緒に旅をしている」
「普通助ける方が逆な気がするけど、あんた達ならありえそうやね」
 さっきから不本意なことばかり言われてる気がするのは何故だろう。……けれども実際に起こってきた事実なのだから怒りようがない。エリサの表情を見て察したのか、娘はなだめるように言った。
「鉄平と紗也様もだけど、あんた達もハタから見れば良い二人だよ。夫婦ってのは良いもんばい」
 男女の番《つがい》を夫婦と呼ぶには特殊な楔が必要になる。エリサはまだ感じた事はないが、紗也達にはあるのだろうか。
「あなたは吾作さんを愛してるの?」
「うん、愛してる。だからこの子は大事な宝物なんだ」
 娘は膨らんだ腹をさすりながら微笑んだ。契りを結んだ二人の生きた証なのだという。
 肌を潤す霧空を仰ぎ見る。
「これなら明日は晴れそう。祭りもできるね」
「お祭りって、どんなことをするの?」
「紗也様がお務めを果たされるとよ」
「お務め?」
「朋然ノ巫女様が代々受け継いできたお役目。旅立ちの前夜、ジプスが住み着いてきた土地の神に感謝の印として、巫女様を供物に捧げるん」
「供物に捧げる?」
 不自然な言葉の並びに違和を覚えた。自分なりの解釈を試みたがその結果として信じがたい答えが出たために二の句を継ぐまで間が空いた。
 エリサは絶句していた。
「彼女は、生贄だってこと?」
「うん」と、さも差支えない顔をしながら娘は返事した。
「一つの命として自然に還られて、ジプスの繁栄を空の神と誓ってくださる」
 今日、人々が村の中央に大きな祭壇と柱を設けているのを思い出した。天高く突き上げられた木柱は民家の高さをゆうに超えた。
「お祭り二日目の昼正午に、御倶離毘《おくりび》といって巫女様のお身体を掲げた御柱《みはしら》を焚き上げるの。代々のジプスは新天地に移るたびにそうしてきたらしくって、先代巫女様の御倶離毘はとても見事だったって」
「そう……」
「村の皆はワクワクしてる、紗也様はその日のために生きてこられたんだから。盛大にお祝いね」


 明日、死ぬために生きてきた。なんとも残酷な響きだ。死ぬと決められて生きるとはどんな気分なのだろう。死ねば皆に喜ばれる存在とは果たしてどんな人間なのだろう。
――紗也。
 少女の瞳に見えた光。あれは己の役目に何の疑いもなく生きている純粋な眼光だった。暗い希望を宿した目だった。
肩に湯をかけた。湯けむりが視界をぼかしている。宴席が閉じた後、モトリに頼んで湯殿を支度させた。今夜も風呂に入りたくなった。湯の中で身体を伸ばす。四肢の弛緩を感じながらエリサは心を寛がせた。湯殿に満ちる木の香りもよい。
「そんな顔するんですね」
「っ! 紗也様、いつからそこにっ」
「えへ、驚かせちゃった」
 麻色の髪が水面に広がっている。湯けむりに隠れて紗也が隣に座っていた。
「巫女としては、ホントは清めた水で身体をすすぐのが正しいんだけど、今夜は雨で肌寒いからお湯に入るの」
「……そんなことが許されるのですか?」
「私を許せない人がこの村にいると思う?」
「……これはご無礼を。どうかお許しください」
「うんいいよ」
 紗也はにんまりと得意げな顔だ。エリサと違い彼女は身に白い衣を纏っている。
「お話がしたくて待ってたんだよ。旅人さんを」
「私とですか」
「ですとかくださいとか使わないで。ここに鉄平はいないし、普通にして」
「はぁ」
「まぁまぁ、裸の付き合いをしましょう、ねぇ旅人さん」
「あなたは着てるじゃない」
「はっ、そうだった!」
 頬に手を当てショックを受けた紗也。けれどすぐに表情を戻すとずいと近づいてきた。
「ねぇねぇ、旅人さんはエリサって名前だよね。なんて呼んだらいいのかな? ずっと聞きたかったの。あんまりお話してないし、ゲイツさんよりお喋りが苦手なのかなって思ってたんだ。そうそう、二人ともすごく綺麗だよね、私、髪が青い人って初めて見たよ」
 止まらない。
「い、一個ずつ答えさせて」
「はっ、いけない! 困らせちゃったごめんなさい」
 紗也は言いながら湯の底に沈んだ。
「そこまで落ち込まなくていい!」
 湯の中で膝を抱える紗也を引っ張り上げた。
「いったーい! 鼻にお湯入ったぁー!」
 引き揚げられた紗也はゲホゲホとむせる。
「とりあえず落ち着こう?」
 なんだか調子が狂う。
「呼び方はエリサで良い。他のは慣れない」
「えぇ、じゃあ……エリサちゃん!」
「……それ以外がいいな」
 ゲイツの情けない顔が浮かんできたから却下。すると紗也は腕を組んでうーんと唸り、ぱっと顔を明るめた。
「エリー、エリーにしよ! よその人っぽくてかわいいから、エリーで決まり!」
 小さな肩を上げ、目を輝かせた紗也は無邪気に言う。それを見てるとなんだか胸が温まる。
「エリーね、わかった。あなたの呼びやすいようにすれば良い」
「そのあなたってのも変えて欲しいなぁ。紗也でいいよ。様なんて付けなくていい、そのまま紗也って呼んで」
「わかった……紗也」
「なあに、エリー?」
 嬉しそうに紗也は笑うと、すっと立ち上がって裾に当たる部分をぴらりと持ち上げた。
「その所作、巫女様というよりお姫様ね」
「おひめさま? なあにそれ」
 そうか、山から出たことがないのだから知らないのか。
「国で一番偉い人が王様、その娘がお姫様。今の紗也のポーズが、私の昔見たお姫様にそっくりだった」
「へぇそうなんだ。なんとなく、やってみただけなんだけどね。お姫様ってどんな人?」
「綺麗な服を着て、たくさんの飾りをつけた、華やかな人だった。遠くからしか見えなかったけど、いるだけで周りがキラキラしてる感じがした」
「キラキラしてるの?」
「綺麗な花や石がいっぱいキラキラして、周りはとても楽しそうだった」
 紗也の目は大きく見開かれた。
「エリーはなりたいの、お姫様」
「えっ」
「だって楽しそうだもん、エリーの顔。初めて会った時はキリっとしてて、ずっとそのままだったからお喋りが苦手なのかなぁって思ってたけど、今のエリーはお姫様が大好きなんだなぁって感じがしてるよ」
 湯船で温まった頬がさらに赤みを増しながら自分の前に迫ってくる。
「……まぁ、お姫様は好きだよ、みんな」
「そうなの?」
「お姫様は世界の中心にいらっしゃるお方だ。人類はお姫様を守るために機械達と戦ってる」
「エリーみたいに?」
 紗也はエリサの肩に触れた。エリサの身体にはいくつもの傷跡が刻まれていた。
「見られていたか」
「エリーって実はお姫様を守るために戦う人なんでしょ。だから早く村を出たがってる」
「ま、そんなところかな」
「エリーみたいな綺麗な人でも戦わないといけないんだね」
「生きるためよ」
「生きるため?」
「世界は残酷だ。明日生きてるかなんてわからない。この世界で生き残る術はただ一つ、戦い続ける事。だから命の価値に身分や年齢は関係ない」
「だからあの時、私にそう尋ねたのね」
 エリサは頷いた。エリサは今よりもずっと前から戦場で生き抜いてきた。過去の体験から自分を作り上げている要素に一切の揺らぎはない。
――命の現実を私は誰よりも知っている。
そう。命が持つ価値も重みも、すべて。
「……そんな怖い顔しないで、エリー。私はあなたとずっと話したかったんだよ」
 紗也がエリサの肩に抱き着いた。少女の小さな身体のやわらかさと湯で温まった体温が肌に直接伝わってくる。殺伐としているエリサの胸中に幼い少女の優しさが響いた。
「私ね……友達が欲しかったんだ。鉄平は空読の時はかまってくれるけど、いつも忙しそう。モトリはそばにいて話し相手になってくれるけど、いつもそれじゃ代わり映えしない。村の人とはお告げ以外で話しちゃいけないことになってるし、ずっと退屈だったの」
「巫女様も苦労が多いのね」
「だけどエリー達が来てくれて、私すっごく嬉しかった。知らない事をエリーとゲイツさんがたくさん教えてくれた。本当に、ありがとね、エリー」
 紗也はエリサの手を取ってにこっと笑った。紗也の顔を見ると少し気持ちが明るくなった。 
「そっかぁ、お姫様かぁ。エリーが守りたくなるような、そんな人がこの世界にはいるんだね。……一度でいいから会ってみたかったなぁ」
 ドクン。
胸が疼いた。
紗也は二日後に死ぬ。知っていたはずなのに外の世界を教えてしまった。
「ねぇ、紗也……」
 この子はきっと死の間際で世界に未練を感じる。無垢に笑うこの顔が磔にされ、焼き殺される様を衆人環視は喜びながら祝うのだ。想像できない。
想像ができなかった。
「……本当に死ぬの?」
 震えそうな声で口にしてしまった。それまで輝いてた眼がすっと穏やかな色を帯びてエリサの目を見つめたまま、にっこりと紗也は言った。
「死にます」
 美しい言葉。不気味さのあまりエリサは総身が粟立ちそうになったのを必死で堪えた。
全身が急速に熱くなる。取り返しのつかない失敗を犯したような胸の痛みが刹那的に迸る。数秒前にいた少女がこの瞬間に死んだと察した。目の前の紗也がまるで別の生き物に変身した。朋然ノ巫女。生贄のため育てられた少女になって。
「みんなと会えなくなっちゃうのは寂しいけど、アオキ村の皆がこれからも幸せに生きていけるように私がんばるよ!」
「どうしてそこまで人の幸せを願えるの。紗也は」
「皆が私を幸せにしてくれたから。私は私にできることで皆を幸せにするんだ」
「…………」
 エリサは紗也の身体を抱きしめた。どんな事を言おうが紗也の声には一切濁りがない。自分の死が、村人の命を確実に守る。心からそう信じ切っている。
「エリー、突然どうしたの」
「……がんばって、どうか」
「えへへ、絶対に成功させるんだから。最後にエリーとお話できてよかった!」
「うん」
 胸にうずめた温もる身体が命の在処を伝えている。
翌日紗也の声を聴くことはなかった。


「こんな小さい家……というか小屋じゃないか! どうやって住んでるんだこれ」
 せいぜい寝床がつくれるくらいといったところか。ジプスの統率者が住まう家としては何とも清貧を追及している。本当にここが鉄平の家なのか?
 今朝の事。いまだ山越えは危険だと言うモトリに対してこの村に機械に詳しい人はいるかと尋ねてみた。数日前からプツロングラ(※携行式立体電子記録端末)に通信障害が起こっているため修理を試みたいと思っていた。深山の里とはいえ世界を渡り歩く民族の技術は頼れるかもしれない。
「えぇ、おりますぇ」
 にたりと笑うモトリは三人の人物を紹介した。一人目は権兵衛という名の頭皮が禿げ上がった老人で眼鏡の似合う知的な容貌。実際に訪ねて見てもらった。プツロングラを出すと権兵衛老爺は熟練した手付きで受け取り目を細めて言った。
「小さかまな板じゃな」
すみやかにおいとました。
 一人はラミダス・ドーンと名乗る中年男性。ジプス合流前は機械整備の職をしていたそうだが祭り支度に出ており不在だった。今夜から始まるのだから当然と言えば当然だ。
 そしてもう一人。なんとなく訪ねにくい相手だが背に腹は代えられぬ。
「鉄平ならきっと誰よりも機械の扱いは上手だァよ。空読から帰ってきた後なら捕まえられるさ」
 モトリはそう言うが今だに自分達を警戒して口も利いてくれない人がそう安々と手を貸してくれるだろうか。
「モトリ婆さんが教えてくれた場所はここで間違いない。あのデカい櫓が目印だっていうから、はるばる長い坂道を上がって来たんだぜ」
 山の斜面を覆う森の中に空閑地がある。広場から見えたそこには櫓が建っていた。そのさらに右斜め上に鉄平が寝泊まりする家屋があるらしい。目指してみるとなるほど、何の変哲もない森の中はしっかりと踏み固められ、道標となる楔が要所に打ち込まれていた。そして辿りついた小屋はどちらかというと「発見した」と言った方が適切な表現かもしれない。
「もしもーし、ごめんくださぁい。鉄平さんいますかー?」
 中から返事はない。ゲイツは道中でかいた汗をぬぐいながら水筒《タンブラ》の水を飲む。
「まだ帰ってないのかもしれない。空読は、あの櫓から村まで報せに下りる必要がある」
「今日が最後の空読なんだろう? で、今夜から明日の晩まで磔にされると」
「…………」
「エリサ、どうかしたのかい」
 昨夜交わした少女との言葉が思い出される。あの時見た死を受け入れた笑顔が今なお心の底でほの暗い影を落とす。
「いや、なんでもない。それとゲイツはもう少し言葉を選んで。彼女が務めるのは磔じゃなく掲揚」
「そんな細かい事いいじゃないか、だって」
「よくない」
「……それは失礼。エリサ、昨夜の間に何かあったのかい?」
 ゲイツが水筒から水を飲む。
「紗也と裸の付き合いをした」
 ゲイツが口から水を噴いた。
「…………なるほどね、そんな事を言ってたのかあの巫女様は」
 エリサの話に頷きながら手拭いで濡れた襟元を拭う。
「私達はやはりこの村に来るべきじゃなかった。紗也に外の世界を教えてしまった」
「自分を悲観するな、そんなの結果論だ。俺達は世話になったジプスの最高権力者の命令に従って、彼らを喜ばせる話をした。それだけだ。忖度する筋合いはない」
「ゲイツは考え方が逞しい」
「半端な情けは人を殺すからね。エリサもそろそろ自覚した方がいい」
 いつもの軽妙な雰囲気こそあれゲイツは本気で笑わない。
「俺達は戦士だ」
 その足を左に半歩ずらして身を寄せる。ゲイツの頭部があった空間を一筋の木剣が薙ぎ払う。木剣は切っ先を休めることなく返す刃で逆袈裟に打ち上げた。今度の狙いはエリサだ。素早く身を引き間合いを改め、木剣の持ち主を確かめる。
 ゲイツが言う。
「やあおかえりなさい。家主の手荒い歓迎だ」
 鉄平は木剣を構え、じりじりと詰め寄ってくる。
「お前達のような余所者を村にのさらばせる訳にはいかない。今ここで消えてもらう」
「そうはいかない、あなたに話があるんだ」
「やぁっ」
「駄目かな?」
 木剣は鋭く風を切り裂く。ゲイツが屈んでやりすごすと鉄平の回し蹴りが脇腹に入った。
「お、うっ」
 しかし左腕で直撃を防いでいた。数歩よろめいたゲイツに木剣を突き出すがそこにエリサが割って入り、剣身に掌底を当て軌道を逸らした。その引き手の掌底で鳩尾を狙って打つ。鉄平は激しく呻いた。だが膝をつかない。
「二対一だぞ、やめた方がいい」
「丸腰が二人だ」
 木剣を振りかざして打ち込んできた鉄平。
(やはり鉄平は私達の存在を嫌っていたか)
 矛先はエリサに向けられた。横薙ぎに振り払われた木剣に身をよじって回避を取るが、いつの間にか掌底が眼前にあり、鎖骨に喰らった。かろうじて多少の勢いを流したが、胸部に鈍い衝撃がほとばしる。と思えば腹部に鉄平の前蹴りが突き刺さった。
「ぐぁっ」
 たまらず後方へ受け身を取る。続く追い打ちを鼻先でかわす。鉄平の背中にゲイツが飛びかかった。
「女の子への暴力はんたーーい!」
 首元に腕を回し着地の勢いを乗せて鉄平を地面に叩き付けた。しかしなんと鉄平はすぐ身を起こすとすかさずゲイツを頭突いた。怯んだゲイツの胸ぐらをつかんで再度頭突くとゆがんだ横面に一撃の拳を浴びせた。ゲイツは転がりながら身を起こして、
「エリサ、アライブ」
「わかってる」
 殺さない。ゲイツも自分に確かめるつもりで言ったのだろう。あとはゲイツに任せた方が賢明だ。
「鉄平さん、俺達はあなたと争いたくない」
「ほざけ」
「だから話を聞きなさいって」
 吐き捨てて一歩大きく踏み込んできた。上段だ。ゲイツが前に出た。明確な殺意を孕んだまま下される打撃を直前まで待ち構え、懐へと飛び込む。
 ただ一足にて。
 腰を落としたままの姿勢で木剣を持つ腕をつかみ前方へといなした。鉄平の大きな身体が投げ飛ばされる。どう、と音を立てて地に鉄平が伏した。
「はい、おしまい!」
 ゲイツは手に持つ木剣の柄を鉄平に差し出しながら言った。
「俺達を助けてくれ、鉄平さん」
「誰がよそ者に!」
 なおも反抗の姿勢を見せる鉄平の動きを制してゲイツはしゃがんで目線を合わせる。
「機械に詳しいと聞いたんだ」
 すると鉄平はぴくりと反応を示した。
「……だから?」
「俺達のプツロングラに通信障害が起こってる、修理をお願いできませんか」
「…………来い」
 鉄平は木剣を手に取り立った。じろりとゲイツとエリサを睨めつけて小屋の中に誘い、二人が入ったのを確認してから戸を閉めた。一人横になれるだけの窮屈な空間。息苦しい部屋だと思いきや驚いたことに鉄平はおもむろに床板を外し始めた。取り払われたそこには地下に続く階段が下へと伸びているではないか。
(……隠し部屋?)
 鉄平はもう一度、此方を睨んだ。そして何も言わずに階段を下りていく。自分達も言葉を交わさずに続いて降りた。降りた先には空間があった。作業台と思しき机が中央にあり、書物が壁際にきっちりと整然と棚の中で収まっている。行燈《ランタン》が灯っているが息苦しくないのは何処かに通気口があるのだろう。なんとも一族のリーダー格もとい宗教家らしくない内観だ。
――これは、機械兵襲撃に際して用意したシェルターか。
そのまま彼の執務室として使用しているのだろう。鉄平に促され、適当な席に座らされた。対面の席に鉄平がつく。
「出せ」
 主語と推測される物を机の上に出す。
「これがお前達のプツロングラか」
「通信が機能していない。鉄平さん、あなたも世界を旅するジプスの一族だ。もしかしたらアオキ村の元で外界と通信できる術があるんじゃないかと」
 ゲイツがそう言うと鉄平は黙った。何かを言おうとしている、だが言えない、言いにくいニュアンスを抱えている表情を内側に隠し持っている。エリサにはそう映った。もはや腹を割るしか最善策はない。エリサは鉄平の注意を自らに向けさせた。
「黙っていてごめんなさい。実は私達、傭兵をしているの。無所属《フリーランス》のね」
 続ける。
「私達は今、人間と機械が交戦中のガナノ=ボトム第三区画に要請を受けて向かっている」
 ゲイツは黙って聞いている。
「けれど現地との通信ができない上に足止めを受けている状況、私達にとって良いことではない。人類の存続のため、アオキ村の技術者に協力を仰ぎたい」
「……もともと、アオキ村でも周囲の部落や街と通信は取れていた」
「!」
「三日前、すべて途切れた」
 鉄平は言う。
「お前達は知らないだろうが、俺達ジプスは独立した共同体として世界を転々としているが他の共同体との繋がりを独自に持っている。この地図を見てくれ」
 鉄平が書架から引き出した地図を広げると中央に大きく拓けた盆地、四方に幹線が伸びて紙面の縁まで至る。幹線に横切られる形で盆地の周囲には山脈が連なり北西の山中の位置に赤い丸が記されている。
「中央の盆地がお前達の目指す第三ガナノだ。北西の赤丸がアオキ村の位置。迷い込んだと言っていたが、ここからそう離れていない。そして、これらが協力関係にある小規模集落だ」
 鉄平が指さしていくそこには、よく見ると小さな黒丸がいくつも示されている。
「第三ガナノがカバーする通信領域は地図の範囲内だ。示されている集落の殆どが通信設備こそあるものの、当然ネットワークはすべて第三ガナノに依存している。アオキ村もその一つだ」
「だったら」
「ああ」
 鉄平の首肯で目の前がくらんだ。だがゲイツは食い下がろうとする。
「まだ早合点だよ。ガナノは防衛兵力五〇〇人を擁する大都市。防衛戦では無敗を誇る要塞なのに……いや、最悪の場合を受け容れるよ。第三ガナノのポートツリー(※区画内の電子情報を集約する機械塔)は都市中央にある。それに損害が及んでいるとなれば……」
「そのプツロングラは正常だ。障害の原因は根元にある」
 ゲイツの舌打ちが聞こえた。同様にエリサの脳裏にも歯噛みしたい言葉がよぎる。
「ガナノ=ボトム第三区画は、すでに機械兵に陥落した」
 あくまで最悪の想定だが十中八九は的を射ている。頭を抱えたくなる事実に急を要する現実が頭の回転を早める。鉄平の方が先に口を継ぐ。
「第三ガナノが落ちた事はまだ村の人間には伝えていない。ひと月前の機械兵の死骸ですら村はパニック状態だった。今度はもう後がない。村全体の支度がようやく整う明後日の早暁、俺達はアオキ村を去る」
「雨でぬかるんだ山道は危険だったはず、それを押し通るつもりですか」
「愚問をするな」
 鉄平はにわかに目を血走らせた。
「機械共に村ごとなぶり殺しにされるか、山の土砂に飲まれて死ぬか、どちらがより人道的か考えろ。村の命運は俺と紗也が背負っている。よそ者に口出しは無用だ」
 ゲイツは何も言い返さない。「失礼を」と言って両の手を挙げて恭順した。
「仰る通りだ、新天地を望めるなら可能性にかけたい。鉄平さん、あなたの指導者としての覚悟は卑賤の乞食者ながらしかと受け止めた。ご無礼をお許しください」
「いまさら礼儀は求めていない。お前達はこれからどうするつもりだ」
「実地に赴いて現場検証と行きたいところだけど、あの大要塞を落とす勢力がうろついてるんだ。給料未払いの一兵卒は命を惜しむね」
「そこでお前達にこれを返す」
「あ……」
 再び書架に手をかけて動かすとそこにはエリサ達の預けていた武器が収められていた。机の上に二振りの剣が並べられた。エリサとゲイツは手に取ってそれぞれ刃の機嫌を確かめる。鞘から覗く愛剣に手出しをされた形跡はない。これぞ傭兵の武器だ。
「お前達は金で自分の命を売っているのか」
「まあお仕事ですから」
「だったら今度は俺がお前達を買おう」
「ほぉ。鉄平さんが、あんなに毛嫌いしていた俺達を買うのかい」
 ゲイツが嫌な笑みを浮かべた。
「第三ガナノが落ちた今、この山も敵の行動域《テリトリー》だ。二人の腕が確かなのもこの身をもって分かった。どうか、アオキ村の山越えを護衛して欲しい」
「よそ者を信じるのかい」
「村人はお前達を信じている。この通り、頼む」
 鉄平が、頭を下げた。居丈高な物言いとは裏腹に鉄平の頼み姿は美しくまっすぐだ。
「斬りたければそいつで俺を斬れ。いずれにせよ死ぬ覚悟はある……さぁいくらで売る」
「太い男だ」
 ぎろりと凄む鉄平のまなざしがゲイツを刺している。
 愚直だ。エリサはただそう思った。自分が当事者にもかかわらずエリサの頭は冷めていた。アオキ村の人々を己が身一つで守る事しか頭にない。これでは統治はできても旅の道中で苦労する。ゲイツの溜め息に紛れてエリサも息をつく。
「あなたの言った通り、俺達は命を売って日銭を得る仕事だ。いただくものはたんまりといただきますよ?」
「白色穀物《マイラス》を腹いっぱい」
「そうそう、白色穀物を腹いっぱい……え?」
「あなた達の村で穫れた作物、それと水さえくれたら引き受ける」
 エリサはさらりと言う。
「あのなエリサ、これはそんな軽い話じゃないんだよ。俺達の命を彼らに貸し出すかどうかの契約だ、俺達の命はそんなに軽いか?」
「それは違う。命は誰にとっても同じ重み。彼が言うように、私達はよそ者に過ぎない。けれど彼らは飢えて村に迷い込んだ私達を自らよりも大事に思い、裕福な暮らしでないはずなのに手厚くもてなしてくれた。アオキ村のベニカブは美味しかった」
 エリサは知っている。あの種の根菜は土を選ぶ。並の手入れで高品質に育てるのは不可能だ。
「そればかりか、私達は飢えたまま雨に降られて土砂の底に沈んでいた可能性すらありえた。アオキ村に迎え入れられたことは、私達の命を救ってもらったも同然」
 エリサは抜け目なく見ていた。アオキ村の民の顔を。外敵に怯懦の心があるものの心根はとても暖かな物だと。そして各人が己の信念を棄てずに生きている。久しぶりに人間と触れた気がした。
「私はアオキ村につく」
「ちょ、エリサ!?」
「私は、アオキ村につく」
「……衣食住の約束、必要物資の提供、それから俺達の背後を狙わない、これでいいか」
 ゲイツが頭を掻きながら鉄平に言うと頭を下げられた。契約が締結した。
「斬りたければ斬れだなんて俺達を野蛮や機械みたいに言わないでおくれよ。あなたと同じ血の通う人間だ、こちらこそ対等《イーブン》の関係でよろしくな」
「ああ。俺も今日で侍従のお役御免なんだ。お前達に背後を頼んで、俺は道師に専念したい」
「朋然ノ巫女は今どこに?」
「ああ、紗也様はあそこにおられる。お前達も見てやってくれ」
 不意に不幸の匂いがした。鉄平が地下室の外に誘う。階段を上る音が嫌に響いた。地上に出ると鉄平は小屋よりさらに上の方。山から伸びる櫓を指した。
「あそこだ」
 鉄平の指さす先に櫓があって台座の上に白い衣を纏った紗也がいた。
 その両手足には、杭が突き立っていた。
「なっ……!」
 はり付けられた体に力はこもっていない。すでに死んでいる。
「儀式は明日のはずじゃ!」
「そう、紗也が死ぬのは明日のはずだった。だが、仕方がなかった」
 鉄平がエリサの目を見た。
「紗也は色々と知りすぎた」
「……昨夜のことを知っていたのね。紗也が未練を感じないよう、あなたと村の人々は紗也に外の世界を教えなかった。だから私達を嫌っていた。だけど紗也が知ってしまったなら先に殺した方が早い。そういうことね」
「おいおい、物騒な言い方はやめろ。紗也を殺したのは俺じゃない。前倒しを提案したのは、紗也自身だ」
「えっ」
「明日の夜は空が乱れる。村のためにも今日が良い、紗也の口から確かにきいたんだ」
「まさかそんな」
「お前の言う通り、俺はお前達を村の者に……いや、紗也に害なす者として憎んでいた。お前達が紗也に外の世界の話をしたとき、本気でお前達を殺そうとも考えた。何も知らずに死ねた方が、あいつにとって幸せだったからだ」
「あなたは外の世界を紗也に語らなかった。彼女の運命を知っていたから」
「その通りだ」
「ならばなぜ私達に引き合わせたの。あなたなら止められた……迷いが出たのね」
「それを聞いてどうする」
「本当は殺したくない、もっと外の世界を教えてあげたい、一緒に世界を旅したい、そう思っていた」
「無理な話だ」
「何故」
「見て来ただろう、このジプスの在り方を」
 鉄平は目に力を込めた。
「朋然ノ巫女がいる限り自分達は安全だと、誰もがそう信じている。お前達も旅人ならわかるはずだ。この世界に安全な場所なんて無いんだと」
 鉄平は櫓に晒される紗也の死体を指さした。
「生まれた瞬間《とき》から捕食者の牙に晒されて生きている俺達には、心を預けられる存在が必要だった。死にたくない俺達の代わりに喜んで死んでくれる存在がジプスの正気を保っていたんだ」
 鉄平は続ける。
「だが、あいつは言ったんだ。私の命より、村の命を尊びなさいって。一切、悲しい顔せず微笑んだままで」
 深い皺の走った眉間を下に向けて鉄平は胸を抑えた。
「どいつもこいつも。心さえ、なかったなら……」
 沈黙が挿し込まれる。エリサは察した。
 鉄平は紗也を愛している。
 理屈で固め上げねば決壊しかねない感情を胸中に抱え、なおもジプスの未来を考えている。その痛みを考えれば、感情のやり場を外敵への憎悪にすり替えていたことも、推し量られよう。
「鉄平さんは一人で闘ってきたんだね。集落の命と彼女の命を天秤にかけながら」
「もはや御倶離毘ですべてが清算される。今夜、終わらせる。すべてをだ」


紗也が死んだ。その報せを聞いた人々は大いに喜んでいた。死とは喜ばしい事なのだろうか。罪もない幼子の死を喜ぶ者達をこの地で初めて目にしたエリサが生への価値観に大きな打撃を受けてていたのは言うまでもない。
 宵の口。八方を囲む山々を薄雲が覆っている。村内の風通しがやけに良い。祭り支度と並行して集落の解体も進められていた。昨日まで騒々しかった山羊小屋は空になり畑は農具一つも残さず撤収された。川辺では不要物を焼却する炎がぱちぱち音を鳴らしている。
生きているのか分からないくらい閑散としていたアオキ村はいよいよその生涯を終えようとしていた。村の広場に大勢の人が集っているのをエリサは消えゆく灯火の輝きに重ねた。少女の命と共にある集落アオキ村。その儚い宿命に昨夜見た紗也の笑う顔を思った。
「ゲイツ、私には紗也が何を思って死んでいったのか推量できない」
「それは俺もさ。彼女を育てた環境、人間、役割、およそ俺達が経験しえないものばかり。理解しようもない」
「私は傲慢なんだろうか。決意ある人間に、自分の常識と正義をもって他人の感情を推し量ろうとして、共感できてたつもりだった」
 でも紗也が腹に抱える物は自分の考えうる域を遥かに超えて重かった。理解したつもりでいた他者の意志を事実との相対で軽んじていたと気づき忸怩している。
「それが人間ってものだよ、エリサ。人間ってのは皆生きてるだけで傲慢さ」
「ゲイツは自分がそうだと思っているの?」
「自覚してなきゃ他人と上手くやってけないからね。感じるのも自由、考えるのも自由、発言するのも自由。ただし自由って誰かを我慢させているから成り立っている。エリサ、君の抱く自己批判と痛みは決して無意味な物じゃない」
「どういう意味」
「真実は痛みの繭にくるまれているからね」
「よく分からない」
「それでいい。いちいち背後を気にしていたら目前に迫る契機を逃すよ。俺達と彼らは選択した道が違うんだから」
「……世界には知らない事が多いよ、ゲイツ」
「ちょっとは君も人間らしくなってきたか?」
 分からないと再び言って中央にそびえる柱を見た。あの天辺《てっぺん》の先に朋然ノ巫女・紗也の命があるのだろうか。
「あっ、あんたも来とったん! ほら吾作、こっちこっち」
「やあどうも、おやっとさあ!」
 人混みの中で声が聞えた。訛り言葉を話すのはあの夫婦だ。
「吾作くんじゃないか、ソヨカさんも一緒だ」
 人の波を掻き分けて吾作夫婦が出てきた。妊婦の方は……そうだ、ソヨカと言っていた。目が合ったソヨカは、にこっと笑みを浮かべて吾作の横に来た。
「お腹の子は大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。この子も今夜は楽しみにしとるみたいよ」
 今夜の出来事に興奮しているのか頬を赤くしてソヨカは腹部の張り出したところをさする。それを見て吾作はあきれた様子だ。
「今夜は人が多いから、腹の子に障ると言っても聞かんのじゃ」
「なーんね、ウチも御倶離毘を見るのは初めてやけん、見ときたいと。それにしてもびっくりしたわ、明日のはずがいきなり今夜になるんやもん」
 唇を尖らせ支度に急いじゃった、とこぼすソヨカの背を吾作はさすって「紗也様の最後のお告げじゃ、それだけ大きか意味があっとよ」などと宥めようとする。ソヨカはさほど気にしてないようだが吾作が一生懸命に背中をさすっているのが嬉しいらしく、彼から見えないようににやにやしている。
「二人とも、吾作達が頑張って作った御柱をしっかり見て行ってな」
「そうそう、御柱は村の衆が丹精込めて設計した、渾身の出来ですけん」
 若夫婦は誇らしげに言う。更に吾作が進み出る。
「ゲイツさん、エリサさんも村の巫女様が果たされるお務めをよぉーく見ていってくださいね! オイ達《たっ》がお組み申し上げた御柱の上で紗也様がお焚き上げされるなんて、こらぁ一生もんの名誉ですけん!」
「は、はは、ありがたく拝見するよ……」
 吾作は目を輝かせて熱弁を振るうがさすがのゲイツも引き気味だ。やがて広場の奥から声が上がった。人混みの雑踏は喧噪の波となってエリサ達の元へ瞬く間に伝播する。
紗也が運ばれてきた。
「紗也様だぁ、綺麗……」
 村の子ども達が口々に言うさまを生前の紗也はどう聞いただろうか。十字架に打ち付けられた少女の肉体はもともと白かった肌がさらに血の気を失い、宵闇の空を背に異形じみて際立っていた。篝火と松明に照らされる彼女の顔には悲喜もなく静寂とも呼べる神秘さすらある。
「見てくだせぇ! 紗也様がいよいよ御柱に掲げられますけん! オイはこの瞬間を目ん玉かっぽじって焼き付けっど」
「しゃーしかあんた! ちょっとは神妙にしんしゃい!」
 吾作が指さす御柱に紗也を掲げた十字架が組み合わされた。根元にいた男達が一斉に綱を引き下ろすと十字架が御柱の頂上へ高々と突き上がった。紗也が遥か見上げる所まで行ってしまった。村人達は興奮して大歓声を上げる。感極まり声を上げて泣き出す者さえあった。
 だが御柱の前に鉄平が立つと水を打ったかのように辺りは静まり返った。背後には紗也と似た宗教的装飾をまとった女たちが居並んでいる。
「祈祷」
 彼が一言。村人達は一様に手を組み虚空に向けて瞑目する。吾作とソヨカも同様の姿勢をとった。吾作に囁かれてゲイツも真似をするが半目を開けてエリサと同じく人々の様子をうかがう。
「ヒヒキカエシワコソワタレコソナゾセムヤカソワタニキニキノニキニキノムソカエシワソワカ」
 鉄平が祝詞《マスカ》と呼ばれる詠唱をした。呻くような声を追って広場に溜まる群衆も唱え始める。
「ヒヒキカエシワコソワタレコソナゾセムヤカソワタニキニキノニキニキノムソカエシワソワカ」
 理解できない言葉の羅列。呻くような低い声で呪術の類に似た詠唱を周りが天空に諳んじている。なんとも不気味な光景である。
「!」
 その時である。エリサは己の目を疑った。いや、ゲイツも信じられないと言う顔をしている。御柱に打ち留められていた紗也の死体が動いた。
「ヒヒキカエシワコソワタレコソナゾセムヤカソワタニキニキノニキニキノムソカエシワソワカ」
 祈祷の詠唱が高まってくる。徐々に死体が顔を上げだした。
「そんな、まさか……」
 背中から悪寒が込み上げる。この世で最も嫌悪する何かに首筋を舐められたような最悪の不快感が全身を駆けずり回る。思わずゲイツの袖をつかんだ。
「ヒヒキカエシワコソワタレコソナゾセムヤカソワタニキニキノニキニキノムソカエシワソワカ」
 人々の言霊が叫びのような沸き方をして鉄平の背後に立つ女たちが奇声を発した。
閃光が視界を奪い去る。
雷が鳴った。
爆音が轟きわたり、熱風が人波を撫でつける。
目が光を取り戻すと御柱が燃えていた。
「奇跡だ、奇跡が起きたぞ! 朋然ノ巫女様が空の神と誓いを結ばれた!」
 誰かが叫んだ瞬間アオキ村に息衝く人々は熱狂に咆哮した。集落を絶叫が包む。耳をつんざく金切声。焼けていく紗也の死体。炎上する柱を囲んでは村人達が踊り出した。
――なんだ、なんなんだ、これは。
 エリサはあまりもの異様さに胃から込み上げるものを両手で押さえた。
 狂ってる。やはり、この村は狂っている。
何かに縋らねばならないほどの精神性。鉄平の言う通りだった。
「おやめなさい」
 その時二百を超す人の絶叫がただちに止んだ。
炎の中で喋る者がいる。
「皆よ、尊厳を忘りょったか」
――紗、也……?
 いや違う。自分が知る声じゃない。
「紗良様だ、紗良様だっ」
 年嵩な男が悲鳴のような声を上げた。
「皆の者ォッ、紗良様が地上に再臨なさったァッ!」
 場の空気が燃え上がるように沸騰した。
(あれが、先代の朋然ノ巫女・紗良……?)
「自分《わえ》の後《のち》も世は変わらぬな。然れど貴方達《そもじら》の役目を負う心は努々《ゆめゆめ》変えぬよう励めよぅ」
 紗良は鷹揚《おうよう》に喋る。村人は次々と平伏して頭上から降りかかる言葉を聞いている。まさか本当に人々の呪詛が紗良の命を呼び戻したのか。
「此れは、天上より得た紗良の御言葉《みことば》ぞ。皆に賜う」
 焼ける紗也から言葉が続く。人々の平伏は強き者に撫で伏されたような形である。
「我が名は、紗良。朋ぜ」
 砕けた。
 御柱が砕け散った。燃え上がる御柱が突然砕け散った。
悲鳴。紗也の体は炎を帯びたまま地に落ちる。
しかし誰もその姿に目もくれなかった。
人々は逃げ始める。
散った人間達の中央にいてはならぬ者がいたのだから。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………機械兵《アトルギア》だぁぁぁぁああああああああああああああああ!!」「いやぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」「奴らだ逃げろぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」「ギャアァァアァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
 逃げまどう人々に阿鼻叫喚の渦が巻く。
「エリサ、動くぞ」
「うん」
 ゲイツは保護眼鏡《ゴーグル》を下ろし出現した奴の元に飛び出していく。機械兵の数。柱の裏に一体。広場の奥に更に三体。ゲイツが目標を捉え腰の剣を引き抜く。直剣。されど片刃肉厚の変質な得物が彼の愛用するクリーファという種の刀剣だ。
「俺の手柄になりなっ、機械兵共!」
 鋭く風を切り裂きながらゲイツの刃が闇夜に走る。背丈は二メートルを裕に越す異形の人種に恐れも知らず赤髪が舞う。
「邪魔をするなァッ!」――だが遮られた。
ゲイツの刃が煌めく前に狙っていた機械兵が打ち伏せられた。その背に降り下ろしたのは長大な鋸。木こりが材木の伐採に使用するただの農具だ。そんなもので機械兵を殴り倒したのか。
「鉄平さん!?」
 顔は赤く筋張って目玉は飛び出そうなほど見開かれていた。重量感ある長大な鋸を頭上に掲げると機械兵の頭に向かってもう一度振り落とす。機械兵の巨体が転げてもんどりを打つ。
「アオキの民よ聞け。俺達は機械兵に邪魔された! 神聖な時を穢された! 紗也様の御霊に触れようとする邪悪な無機物共のこの毒牙、どうして許してくれようか! 断じて解せぬ所業である!」
 鉄平の怒声逞しく、逃げ惑う村人達の騒ぎが止まった。
「俺と戦え! 奴らを倒せ!」
 そう言うや、起き上がってこようとする機械兵の腕を打ち上げた。
「戦え!」
 なんという馬鹿力だろうか。機械兵に腕力だけで競り合っている。今朝の喧嘩で直撃を喰らっていたら今ごろゲイツはこの場に居なかったかもしれない。だからゲイツは口笛を吹く。
「やーるぅー」
 鉄平の声に応じて男数名が留まった。他は村の奥へと避難している。意外なことに統制が良い。だがアオキ村の純戦力は二〇人に届くかどうか。襲来した機械兵の数が定かでない状況で防衛戦は絶望的だ。
「そのための俺達なんだよな」
 ゲイツの声は張ればよく通る。
「鉄平さん! 俺達は避難する皆を援護する! そっちは任せた!」
「誰一人殺すな、それだけだ!」
「善処します! エリサ、列の右側を頼んだ。そっちの方が、戦えそうな人が多い」
 頷いてゲイツと別れる。人々が殺到しているのは紗也の居館だ。敷地が広く村で唯一塀を持つあの館なら大勢を収容できる。
――彼女らは今どこに?
 ふと脳裏をよぎったのはあの夫妻のことだ。腹に子を持つ妻がいる。走りながら人波の中を探し回る。
 いた。
「ソヨカ! オイは鉄平サァの元に行く! お前はこのまま行け!」
「嫌だよあんた! 絶対に行っちゃ駄目!」
「必ず生きて帰る! お前と、子どもの命は、オイが守っからな!」
 列を離れた吾作とすれ違う。ソヨカの絶叫。一目見えた彼の表情は尋常じゃない形相だった。すぐさまソヨカに駆け寄る。
「安心して、私とゲイツがあなた達を援護する、きっと大丈夫だから」
「エリサ! 連れ戻して! 吾作を……吾作をぉ!」
 乱れる彼女の頬を張る。
「あなたは、あなたの守るべき命を守りなさい」
 茫然自失のソヨカを適当な村人に任せてエリサは周囲を改めた。アダル型が三体。シシュンが二体。目視で認めた数は計五体。シシュン型に銃砲型はいない。この数で収まっていてくれたなら勝機は望める。自分達がいるからだ。
 アトルギア・タイプ:アダル。世界で最も多くの個体が確認される種。手足が長い人型機械兵。
アトルギア・タイプ:シシュン。アダル種に属しない、奇形の機械兵。全身が剣のごとく鋭利な型や砲身を持つ銃砲型などその生態の種類は多岐に渡る。
 世界を支配する機械兵は大きく分けてこのどちらかに分類される。
「シシュン型がこちらに接近!」
 エリサは声を張る。四足獣の形《なり》をしたシシ型の機械兵が猛然と人の列に突っ込んできている。列の中から武器を手にした村人が数人出てきた。素人含めこちらの兵力計八人。目標の体格《サイズ》は大人二人と同じくらい。幸いなことに比較的小さな個体だ。烏合の衆でも小型の奴ならギリギリいけるか。
 闇夜に光る鋼色。赤い両目が地を鳴らしながら目前に迫った。排気音。機械兵はその獰猛な前足を砂を巻き上げ振り上げた。
「よけて! 受けるな!」
 村人が飛び退いた地面を奴の爪が抉り取る。後方の避難民から悲鳴が上がる。小型とはいえ人狩り用の兵器。喰らえば即死の一撃だ。人間を殺戮するためだけに生まれた奴らの戦闘力は伊達じゃない。
 慄く村人達に声を張る。
「機械兵《アトルギア》は人間の恐怖を利用する。胸を張りなさい!」
 一般人が殺戮兵器を相手にする恐怖は筆舌に尽くしがたい違いない。だからこそ声を高めて人々を励ます。たとえ虚勢でも気持ちで屈しては勝ち目などない。人類を滅びの手前に追いやった奴らの脅威は遺伝子レベルで人間達に刷り込まれている。
だが人間達も黙って滅んできてはいない。奴らが人間狩りの機械なら此方にいるのは機械狩りの傭兵だ。俊敏な奴らを抑える手段はある。エリサは腰裏に手をかけた。ホルスターから引き抜いたのは一丁の手持ち銃。
「ピーニック・ガム!」
 引き金を引くと銃口から軽快な発砲音が一発の弾を撃ち出した。発射された弾丸は、機械兵に着弾する直前にぱっと散開し脚部関節を捉えた。奴の動きが途端に鈍くなり原動機《モーター》の空吹かす音が高まる。ピーニック・ガムはゲイツの手造り兵器。弾丸には粘着質の液体が細かく小分けに詰め込まれ、着弾すると機械の関節の隙間に入り込んでその動きを固めてしまう。装甲の厚い機械兵との戦闘に際し接近戦を得意とするエリサの攻撃補助として愛用している武器だ。機械兵への対策など傭兵《プロ》からすれば幾らでもある。
 エリサは更に残りの三本の脚も撃ち抜いて機械兵の動きを封じ、村人にその脇腹を指し示した。
「装甲の隙間、あばらの関節になら刃が通る! 今だ!」
 「応」の声を猛り上げ村人がこぞって機械獣のあばらを武器で突き刺す。機械兵は顔面から火花を散らせた。
「おっしゃあ! オラ達の手で機械共を討伐したど!」
 擱座した機械兵を囲んで村人達は雄叫びを上げる。しかしその勢いは負の側面へと流れ込んだ。
「オラ達の村をよくも……ご先祖様の恨みじゃアッ!」
動かなくなったシシュン型の眼窩に向けてある者が鋤を突き立てた。それに雷同し周囲の男達が停止した機械の死骸に攻撃を加える。罵詈の限りを尽くして責め立てられるシシュン型の身体は斬られるたびに内容液が噴き出した。小刻みに痙攣し機械油の鈍臭いにおいを撒き散らす。村人達は取り憑かれたかのように死骸への殺害行為を繰り返していた。
「死ね、この悪魔が! 死ね、死ね死ね! 地獄に堕ちろ!」
その中で一等若い少年が鎌を死骸に刺そうとしたのを、手を掴んでエリサは止めた。
「……そんな事は今すべき事じゃない」
少年が目に涙を浮かべているのを見てエリサはその手を放して抜剣した。鋒《きっさき》を男達に突き付ける。
「死者を刺しても敵は減らない。敵はまだいる」
 「ひっ」と短い悲鳴が上がり、エリサの冷たい瞳と声音に一同は静まりかえった。人々は萎縮するが、エリサは彼らに淡々と言う。
「私について来なさい」
 人の心に巣食う集団心理こそ戦場で一番の敵。自分が統制を執らねば瓦解する。けれど村人達は眉を顰めてエリサに問う。
「ゲイツの旦那ならまだしも嬢ちゃんに何ができる」
 昂ぶる男達の中でエリサは少女だ。弱者に見えよう。そんな者に従えと言われて素直に頷く筈が無い。だからこそ統制には力の示威が必要である。
「私は強い。あなた達よりも、機械兵よりも」
 エリサがそう言うと一同から笑い声が上がった。まるで幼子の戯言を窘《たしな》めるような皮肉と余裕の混じった嘲笑。恐怖と緊張に飲まれていた場に少女の言葉が滑稽に響いたのだろう、誰もがエリサを指差し笑う。しかし少女は動じない。エリサは見ていた。彼らの背後に新たな機械兵が出現するのを。村人達はエリサを嘲笑するのに夢中で奴の接近に気づいていない。殺戮兵器は無情な足取りで忍び寄っていた。そんな中でエリサの瞳はゆっくり閉じていく。
「私は強い」――息を吸った。剣の柄に手を握りし――「てぇいっ」――めてその場から姿を消し襲い掛かろうとしていた機械兵に一太刀を浴びせた。という一連の出来事を村人達が理解した頃には、機械の骸が彼らの足元を転がっていた。唖然とする村人達にエリサは口を開く。統率者として示威行為を遂げた後はすかさず戦意高揚の演説をするものだ。
「もう一度言う、私は強い……すごく強い。とにかく負けない。強すぎるため負けることがない。だからあなた達は私に任せて戦うべきだろう、いや私に任せろ。私のために戦うがよい。戦え。勝つのだ……おうっ」
 しかし残念な事にエリサは口下手だった。
ただそんな事村人にはどうでも良かった。
「なんちゅう速さと剣の薄さじゃ」
 エリサの手にする得物。それは両刃の直剣。ただしその剣身はおそろしく細く鋭くそして薄い。それはただ奴らの身体を断つための剣。エリサの高速剣技を実現するただ一振りの斬鉄剣。
「これで七十八体目」
 鞘に剣を納めた時エリサの体がにわかに傾いた。
「お、おいっ大丈夫か」
「問題ない……ただの貧血」
「は」
 貧血。あれだけ強気な振る舞いをして貧血。
呆気にとられる一同に向けてエリサは拳を空に掲げた。
「よくある事だ、気にするなっ」
 統制者とは誰よりも虚勢を張る者だと少女は思っている。声を張り上げたエリサは村人の介助を押し退け屋敷の方を指し示す。
「行こう、鉄平達が時間を稼いでいる」
 エリサは立ち上がり声を励まして足を進めた。少女の頓珍漢な言動に村人は首を傾げながらも彼女の腕前は確かなのだと分かったらしく士気を落とさずエリサの背中に続いた。


 屋敷に辿り着いた。合流を果たしたゲイツに怪我はなく村人達への人的被害も最小限に抑えたまま全員無事に紗也の屋敷へ収容させた。村の有力者が後は取り仕切ってくれている。ゲイツは、エリサの顔色が優れない事を心配してくれたが列の左側でも二体を倒したそうだ。どちらもゲイツがやったのは想像できるゆえ自分より彼の方を労わるべきだ。
 討伐数、計四体。鉄平が相手している機械兵で五体。
 まもなく鉄平達が館に戻った。全員無事とは言い難く帰ってきた十人のうち四人が重傷を負っている。むしろ兵士でもない戦いの素人達が奴らを倒せただけでも奇跡に近い。
 怪我人の一人に吾作も含まれていた。彼は自らの脚で帰還したものの右肘から先を失っていた。ソヨカを始め負傷者達の身寄りが泣き喚いている。機械の恐怖に脅えた者達の嘆きの言葉が館の中に渦巻いている。
 鉄平は先の一戦でだいぶ疲弊したらしい。肩で息をしながら廊下の片隅でうなだれていた。
「鉄平さん、よくぞあれだけの人を生きて帰した。称賛するよ」
「……五人死なせた。見張りは八つ裂きにされていた。十五人が死んだ」
「まだ二百人が生きている。あなたが立たずに誰が立つ」
「この村の周囲一里内(※=4km四方)にはセンサーを仕掛けてたが全て破壊されている」
「倒したシシュンの中に擬態可能な《ステルス型》個体がいた。奴らの仕業に違いない」
 ゲイツの言葉を聞きこちらをちらりと見た鉄平の顔は血で染まっていた。
「血だらけじゃないか、怪我はどこを」
「いや、これ全部味方のだ。俺は無傷だ」
 鉄平は力尽きた者達を一人でここまで運び込んだ。抱えてきた者達の血液でその容貌はすでに亡者の相を呈している。
「俺は無力だ。大事なものを何一つ守れやしねえ、一族の恥さらしだ」
「そんなことはない。あなたは勇敢に戦った。村人達はまだあなたを頼りにしている、希望を捨てるな」
「すべて完璧だった、俺の計画に狂いは無かったんだ、三日前まで……三日前まで!」
突然、鉄平がゲイツの胸元に掴みかかった。
「お前達だ、お前達のせいで俺の計画に狂いが出たんだ。お前達がこの村に来たから機械兵達は嗅ぎ付けて来たんだ。お前達さえいなければ俺達は平和だった、お前達さえいなければ俺達が怯えることはなかった、お前達さえいなければ俺達は……死なずに済んだッ」
 ゲイツの頬に拳を振り抜いた。さらに拳を振り続ける。
「お前達のせいだ、お前達のせいだ、お前達のせいだ、お前達のせいだッ! 返せ! 全部返せよ! 俺達の平和を! 返せッ!」
 不条理な殴打がゲイツの顔面を捉え続ける。鉄平は喚きながらゲイツに馬乗りに殴り続けた。ゲイツは一切抵抗しなかった。
「……気は済んだか」
「黙れ!」
 振りかぶった一撃を正面から浴びせた。ゲイツの鼻から鮮血が噴き出す。
「鉄平さん、これが世界だ」
 穏やかな声でゲイツは言った。ゲイツの顔には怒りも浮かんでいない。
「あなたが俺達を憎もうがそっちの勝手だ。それで今この現実が変わると言うのなら、俺達を殺したって構わない。ただ、そんな絵空事で世界は変わらない。戦うのは人間同士じゃない、現実だろう」
「う、うああぁああああーーーーー!」
 頭を抱えて鉄平は叫び出した。
「鉄平さん、親がいないあなたは人に甘えることを知らず、両親が遺した一族の導師という役目のもとに生きてきた。たった十五年間で皆を認めさせるだけの努力をした」
「お前に俺の何が分かる」
「君なら俺を理解できる」
 ゲイツは左腕の袖を捲《まく》り人前で外す事のなかったグロオブを外した。
鉄平の前に晒されたゲイツの腕は人間の物ではなかった。
「実は俺、改造人間《サイボーグ》なんだ」
 続ける。
「親に戦場に送られて、左腕と右脚を吹っ飛ばされちまった。小さい頃から好きだった機械いじりで義肢を作って生き延びたって人間よ。ほれ、右脚」
 そう言って更に見せた右脚も機械で動いている。ピストンで律動するポンプに彼の大動脈が透けて見える。
「そこらの機械工より技術はあるぜ」
親に見捨てられ機械兵と戦わされ失った身体の一部を機械に作り直して今でも生きている。ゲイツとはそういう男だ。彼の生きて来た過去はエリサも既に聞いていた。これに収まらぬ凄惨な過去を彼はまだ持っている。だが鉄平にはゲイツの義足を見ただけで響くものがあったようだ。
「俺とエリサはどっちも天涯孤独の乞食の出だ。その中で傭兵やって日銭を稼いで今日の今日まで生きてきた。不幸レベルじゃ負けねえぞ」
「ゲイツそこは張り合うところじゃない」
 ゲイツは「あ、そうだった」と言って鼻に指を突っ込むが自分の鼻から大量に出血しているのを見て「何じゃこりゃあ」と叫んだ後エリサに「うるさい」と言われて大人しくなった。鼻には綿を詰めてやった。
「私とゲイツは自分の居場所を探して旅をしてるの。心穏やかに過ごせる場所を」
「お前は故郷を追われたのか」
「ええ。身を引いたの。皆が嫌いと言うものだから」
 そして旅の途中で偶然出会った者同士。ゲイツとエリサの二つの孤独が辿る旅路はアオキ村に至っている。
 この世は地獄だ。それでも自分達は生きていて世界に産み落とされた理由を求め抗っている。救いの無い世界だけれど何かを救う事で自分の生きた証になれるのならば本望だ。エリサとゲイツが戦士としての道を選んだ理由はそこに在る。
「……お前達は寂しくはないのか。集団に属せずただ二人で世界を旅して」
「さあ? 知らね。孤独ってのは満たされていた人だけに湧き立つ感覚だからね」
 ゲイツが困ったように頭を掻いた。「ぶっちゃけあんたもそうだろう?」と微笑み返すと鉄平は虚を突かれたように眉根を上げて姿勢を崩した。
「俺は機械から生まれた人間だ」
「鉄平さんを生んだのが……機械?」
 ゲイツに鉄平は頷く。
「俺の両親。母は機械に。父は人間に殺されている」
 絞り出すかのような細い声で鉄平の独白は始まった。
「母親は俺を生む前に死んでいた……機械兵に襲われて。胎内にいた俺は祖父の遺した生命維持装置で胎児のまま生き延びた。そして俺を生かした父親はジプスの旅中、野盗と戦い首を斬られた」
 初めて人に話すのか鉄平の声は慎重で一つひとつ言葉を探している様に聞こえる。
「機械と人間。俺にとって敵かどうかの区別なんて俺の行く手を邪魔するかしないかでしかない。俺はいつも飢えているんだ」
「何に飢えているんだい」
「この魂が落ち着ける場所に」
 ゲイツは唇と鼻の境をすぼめて声を漏らした。
 この時エリサは自分が彼を誤解していたと自覚した。鉄平はジプスの首領として強く孤高な男として認識していた。村の平和を守るため己に厳しく民に頼もしいリーダー像を体現した存在としてエリサ達に対峙していた。しかしそうではなかった。鉄平の抱く物は自分が抱く渇望と酷似しているのではないか。他者から如何なる評価を与えられ偶像を突きつけられようと中身は年相応の焦燥感に怒りを抱く少年じゃないか。
――こんな俺でも満たされるような。
――こんな私でも認められるような。
 そんな居場所を探している。
「山の向こうから来たお前達と出会い思った。俺は……」
 ただ現実を前に藻掻きながら。
「俺は変わらない現実を憎むべきだと知った」
「オーライ、腹が決まったな」
 ゲイツは相好を崩してエリサに親指を突き立てて見せた。エリサも鉄平の瞳に力のある怒りを感じ取り胸の奥がひりつくような感覚を得る。エリサは鉄平に向けて言った。
「共に戦おう」
「生き残るんだよ、このジプスにいる全員で」
 そう言った彼はゲイツの方に向き直った。
「どうか俺を殴って欲しい」
「え、嫌だよ面倒くさい」
 何を言い出すんだこの男達は。
「さっき殴ってしまった俺が負うべき責任がある。取り乱して本当に済まなかった。どうか俺を殴って欲しい」
「いやいや良いって。この程度でやり返してたら世界から争いは無くならないよ。俺って基本平和主義者だから」
 ゲイツが手を横に振っているとその手を鉄平が掴み取った。
「いいやよくない。俺達の立場は平等にあるとそっちが言った。頼むどうか俺に一発」
「ちょちょ、何言ってんのさ! 良いって! チャラで良いよって言ってんでしょが!」
「よくない! 殴れ!」
「変態なのぉ!?」
「殴られるまで俺の気が済まない! 俺のために一発殴れ!」
「嫌だぁ! 暴力反対! 助けてエリサちゃぁあん!」
 ゲイツと鉄平のよく分からない押し問答が始まった。殴れと言われてるならその通りにすれば済むだろうに。などとエリサは思ってしまうがゲイツの持つ基準ではやらないそうだ。そもそも鉄平が殴れと連呼するのもどこか違う気もしてならない。ゲイツは被虐の要求を全身全霊拒否しており迫る鉄平の方が何故か胸倉を掴んでいる。言ってる事とやってる事がまるで逆な光景。
「……それは今すべき事じゃない」
「ごめんなしゃい」
 エリサが抜剣して刃をゲイツに突きつけるまで二人はそれを続けていた。鉄平の方は憮然としていたが気力が少しは養えたらしく立ち姿もまともになった。もう安心だ。エリサは鉄平と向き合った。
「友達になろう」
 鉄平は怪訝な顔で聞き返した。
「紗也が言っていた。鉄平はいつも忙しそうだって。紗也は友達を欲しがっていた。だからあなたも欲しいんじゃないかと推測する。どう、友達」
 暮らしの環境は違えど人としての感覚は共通の物だと信じたい。これまではありえなかった行動。鉄平に手を差し出すことを、試みた。鉄平は奇人を見るような目でエリサを見てきた。
「やるなら早くやってほしい」
「エリサちゃん、当たりが強い」
「ちんたらしている時間はないの」
「どこでそういう言葉を覚えてくるの君」
 鉄平はエリサの手に視線を落としている。この手が繋がればアオキ村と二人の傭兵の関係が改まる意味の重い握手になる。ただそれを顧みずともエリサは単純に鉄平との関係を良好にすること自体に意味があると考えていた。今一度鉄平の目を見る。黒目が大きく眉がはっきりとした英雄的な相貌だ。両者の視線が絡まる。
 鉄平は時間をかけてゆっくり手を差し出すとエリサの手を握った。
「私達は、友達だ」
 エリサの表情が少しほころんだ。――のちにゲイツに言われて知る。
「これから俺達はただちにアオキ村を出発する。目指すは南東のヒル=サイトだ」
「合点承知」
 もはやアオキ村に残るタイムリミットはゼロだ。長居するだけ機械兵が迫る。
――急ごう。
 鉄平は直ちにジプスの有力者を集め即時出立の旨を発した。
「紗也を連れてくる……お前達も来てやってくれ」
 戦々恐々と事が進み慌ただしくなる中で鉄平はエリサ達にそう声をかけた。紗也の屋敷の奥の間。紗也の居室だ。入るとひと担ぎの甕が用意されていた。更に奥には小さな祭壇が設けられその上に骸がひとつ目に入った。
「気がついたか、あれは先代巫女のものだ。俺の一族は代々、先代の骸を祀って当代巫女に自覚を植え付けてきた。お前達にどう映るかは、聞かないがな」
 そっと手に取り傍らの木箱に骸を収めると鉄平は胸に抱いた。
「これに紗也が入ってる」
 そして部屋の中央に佇む小さな甕の蓋を開けると今の木箱を紗也が眠ると言うその中に入れた。甕の縁は綱で結ばれそれを鉄平が背負う。
 主を失った部屋はどこかもの哀しい空気が下りており彼女が使っていたであろう家財などはそのまま置いて行かれるようだ。しかしどこかがらんどうにも見える。
 感傷に酔う暇ではない。行こう。
『未回収ノ不明ナデバイスヲ検知シマシタ』
 エリサの考えを遮ったのは祭壇を背にした時どこからか聞こえた声だ。
「今のは」
「……エリサ! 鉄平さん! 離れろ!」
 ゲイツが叫ぶと背後の壁が真四角に切り取られた。
 破壊音。くり抜かれた壁が吹き飛ぶ。
「ヤバいのが来たぞ、鉄平さん、皆を連れてここを出ろ!」
「何だあれは!」
「機械兵に決まってるでしょ! 早く逃げな!」
 鉄平はゲイツに従い広間に向かった。エリサは抜剣して壊れた壁の方を見る。だが壁に空いた穴の向こうには何もいない。あたりの気配を探るが排気音どころか金属音すら聞こえない。
――ステルス型のシシュンか。
遮蔽物の多い館内に侵入されると厄介だ。仕留めるなら外だ。
「ゲイツ」
「おう」
 二人で背を合わせ壁の穴ににじり寄る。気を集中させて外へと一気に躍り出る。しかし標的はいない。どこかに潜んでいるはずだ。垣根の裏、岩の陰、屋根の上、奴らはどこにでも現れる。高度知的無機生命体の謂れである。ターゲットを狩る為ならいかなる計算でも確実に遂行する。
――いかなる計算でも?
 冷たい恐怖が背筋を貫いた。
「引き返す。奴の狙いは、私達じゃない!」
 ゲイツの返事を待たず踵を返して館に駆け込んだ。
 最悪の予感だ。
「鉄平!」
 飛び入った広間で異臭が鼻腔を突き刺す。惨憺《さんたん》たる有り様だった。鉄平達は去ったのだろうか。逃げ遅れた村人達が無惨な姿で取り残されている。奴は広間の中央にいた。
『有機反応認定。対象ヲ摂取シマス』
「うっ……」
 エリサは反射的に眉を顰めた。人を喰っている。動けなくなった人間をつかんでむしゃりむしゃりと齧りついている。まるで人が肉を食うように両手を使って……。
「なんだあの個体は……エリサ、奴の情報は持ってるか」
「知らない。初めて見る形。アダル型にしては小さすぎる……」
「じゃあシシュン型か?」
「シシュンはもっと獣に近い。ゲイツだって分かるでしょう」
 エリサは改めて奴の姿を注視した。アダル型に似て非なる形をして、平たく肥大化した頭部が頸部と合着し、茸のようなフォルムを為している。
だが最もエリサを戸惑わせたのは他にある。
「あいつ……此方に興味を示さないだと? 人間を襲っておいて俺達に反応して来ない」
 機械兵は動く人間に襲い掛かる習性を持っており視界に入った者との戦闘は避けられない。だが奴は此方をじぃと見つめたまま食事のような行為を続けていた。
「ッ! エリサ、あいつが食っている人ってまさか」
 ゲイツが身を引き千切りそうな声で言った。心臓が冷たい氷に覆われるような緊張がした。機械兵の腕を見る。その先にある手先を見る。ぶら下がった状態で頭を喰われている……あの妊婦は。
「う、うぁあああああああ――――!」
 抜剣の勢いで鞘から火花が飛び散った。烈火の如く縮地で斬り込む。
「がふッ」――エリサは背中を壁に打った。腹部に鈍痛。
(弾き返された? 今の一瞬で?)
打撃を受けたのだ。痛覚が一瞬の出来事を説明する。見えなかった。目に追える速度を越えた一撃が奴の腕から放たれた。
「エリサ!」
 ゲイツが身を起こしてくれた。傍に目をやると男が二人倒れている。なんと鉄平と吾作だ。彼らも同じ轍を踏んだのか。幸いにも二人の息はまだある。死んでいない。
 だが鉄平の背負っていた甕が割られている。中身はどこに?
『燃料ノチャージガ完了シマシタ。不明ナデバイスヲ採取シマス』
 機械音声が響く。茸型の奇行機械兵は一方の手で食っていた死体――信じたくない――を掴み片一方で背後にあった小さな人間を拾い上げた。あぁ見たくない。あれは紗也だ。
「奴を止めるぞエリサ!」
「うぁああ――!」
 二人で奴に斬りかかる。ゲイツは紗也を自分は妊婦の死体――信じたくない――を持つ腕を斬り落としにかかった。しかし突如として奴の姿が視界から消えた。
「何っ」
――ゲイツ、上!
 口が間に合わない。頭上から機械兵がゲイツを踏みつけた。床板が割れゲイツの身体が深くめり込む。この隙を逃すか。エリサは腰から引き抜いたピーニック・ガムを発砲した。狙うは脚部。
(まずは機動力を奪う)
 命中したか。その期待は否定された。確かに当たった。しかし粘着弾の糸を引きちぎる脚力をあの機械兵は持っていた。奴は安々とで脚に纏わりついた粘液を振り払う。なんという馬力なんだ。
「ゲイツ、生きてる?」
「地面だったら死んでたね」
 床の穴からゲイツは親指を立てる。悪運の強い男だ。
「エリサ、五秒稼げるか」
「六秒までなら引き受ける」
 腿に装着したホルスターに銃身を掠める。粘着弾の装填はこれだけで済む。機動力が駄目なら視覚はどうだ。頭部に光る眼光に向け弾丸を放った。すかさず次の弾を込め重ねて奴の視界を奪う。ピーニックとは同名の植物から取れる樹液を指し琥珀色の濃い液体は乾くと蓄光して怪しげな色彩を出す。要するに着色作用を持っている。着弾した顔面が琥珀色に染まり機械兵は動きを鈍らせた。作戦成功。エリサは剣に手を掛け踏み込んだ。
――返せ。この悪魔め。
 憎悪を沸かし一閃を放った。「あ……」しかし衝撃的な映像がエリサの瞳に映ってしまった。予想外の事態にエリサは振り抜いた剣すら引かぬまま思考を放棄した。余りにも無残。機械兵は、人の死体を盾にした。言葉を失いエリサの意識が遠のいた。茫然のエリサを他所に機械兵は両眼の塗料を引き剥がす。
「下がれエリサ! チキショウめ」
 髪の赤い影が横を過ぎる。彼の武器は剣から長柄に変形していた。金属同士の強く触れ合う音が鳴るたびに火花が散って闇夜の堂内がほんの一瞬明るくなる。機巧武器がゲイツの誇る最強武器。
「ゲイツ、無理だ……あなたにそいつは倒せない」
エリサは奴と交わした二、三のやり取りで学び取った。
――奴は一度も能動的に攻撃してない。
「何なんだこいつは、攻撃性がまったくない!」
 息を荒げたゲイツは奴の間合いから離れた。そう、エリサがダメージを負わされたのはこちらが攻撃した時だけ。そしてゲイツには反撃すらせず防戦一方に徹している。まるで戦うまでも無いと言うかのように。
「……もう、十分だ、ということか?」
 堂内の惨状に満足したと言わんばかりに機械兵の挙措は落ち着いていた。
『襲撃者ノ戦意喪失ヲ判定。マザーヘノ帰還ヲ開始シマス』
 機械兵が音声を吐くと腕に掴んだ紗也を顎に銜《くわ》えおもむろに身を屈めた。餌を狙う肉食獣のごとく半身を低く落とした。
(あの体勢は……)
 咄嗟に地面に這いつくばった。次の瞬間自分らの真上を機械兵が物凄い速さで飛び越えていった。館の雨戸を破り鋼鉄の巨体が屋外に向けて躍り出る。
「紗也、紗也!」
 いつ意識を取り戻したのか鉄平の叫び声が奴の背中を追う。村には火の手が回り始めている。炎に映る機械兵の姿は森の中へと消えていった。逃げ惑う人々の阿鼻叫喚が館の外から聞こえている。
「畜生!」
 鉄平が絶叫した。アオキ村は人を殺され村を焼かれ象徴までをも辱められて奪われた。これほどまでに屈辱的な敗北があっただろうか。鉄平の嗚咽が生存者のいない紗也の屋敷に響く。
「……取り返しに行く、紗也を、奴らから取り返しに行く」
「無茶だ。奴の戦闘力はこれまでの機械兵と桁違いだ。俺達ですら歯が立たな……」
「死んだも同然だ!」
 血唾を飛ばし彼は怒鳴った。
「あいつは、俺の命なんだ。あいつの使命を全うするために俺は人生を捧げてきた。紗也、あいつがいなければ、俺は、死んだも同然だ」
 鉄平は頬に血の涙を流している。愛する者のために死にたい、そんな強い感情をエリサはこの少年に感じ取った。しかし当の紗也は既に死んでいる。まったく理屈の通らない話である。
「ソヨカ、ソヨカァ……あぁ……」
 部屋の隅ですすり泣く声。吾作だ。吾作が機械兵の残した死骸に取りすがっている。エリサが両断した体を片方しかない腕で必死に抱きしめて泣いている。彼の心はすでに壊れかけている。
「ソヨカ、ソヨカ、ソヨカ……」
 ぶつぶつと彼女の名前を繰り返し呼ぶ彼の目にもはや精気は無い。鉄平が彼の元に歩み寄る。
「吾作」
「……鉄平サァ、触ってくやんせ。ソヨカの身体。まだ、温かいですよ、治療をすれば、きっと、まだ、助かる……ほら、この手、温けぇなぁ……」
 吾作の様子を見て鉄平はその肩を抱き寄せた。吾作は鉄平の肩に手を回して天井を見上げる。
「だんだん、冷たくなっていくんかなぁ」
 吾作が「鉄平サァ」ともう一度、呼びかけた。
「冷えた身体は、どこに命を求めるべきかね」
 その言葉を残して吾作の腕がするりと落ちた。力なく身を預けた彼を鉄平はその場に横たえた。エリサの目に映っている彼らの後姿に推してはかるべきものは無い。鉄平の姿勢がにわかに伸びた。
「第三ガナノに向かう」
 その瞳に宿っていたのは暗い影か。


ログ:雷音の機械兵


 エリサも似たようなものをどこかに感じていた。
 少年が少女に対して抱いていた感情。それはまさしく身分を越えた楔に相違なく、さらぬ別れの訪れに脅えながらも懸命に生きた証を残そうとした原初的欲求そのものだ。
 しかしながらエリサが鉄平の発言に同意したのはその欲求に起因しない。では何故エリサは命を賭して死地に赴く彼との同道を表明したのか。エリサには自身の欠落を埋めるものについて今なお論理的な説明がつかない。
 まあそれを探すために旅を続けているのだ。この奇妙な覚悟に巻き込まれるのも運命だろう。いずれにせよ護衛の契約は生きている。エリサ自身にも紗也の遺体を奴らの手から取り戻したいと思えていた。
「白色穀物を腹いっぱい、いいわね」
「いくらでも食わせてやる。頼んだぞ」
 アオキ村で生き残った人々をかき集め各部族の有力者を通じて落ち合う場所を設定した。ヒル=サイト。そこはガナノより規模は劣るものの難民受け入れには寛容な都市区だ。
 雨が降っている。
 夜、雨。最も山越えに向いていない状況での出立。エリサと鉄平はゲイツの護衛を付けたジプス本隊に別れを告げた。大勢の人々が鉄平との同行を志願して別行動を拒んでいた。皆、紗也と鉄平の後に殉じたいと強い言葉で申し出た。鉄平は彼らをそれ以上に強い言葉で諫め必要以上の笑顔を見せた。
「生き残れ、そしてまた会おう」
 数人の手を握り鉄平は彼らの主張を感謝してみせた。二人は山に入った。ガナノ=ボトム第三区画はアオキ村を南西に下った盆地にある。途中までは村の農夫が薪拾いに利用した道があったが途切れた先は獣道だ。ぬかるんだ土、木々の根に貼り付く雨で湿った苔類が足元をいたぶる。三日間振り続けた雨で山の足場は過酷と化していた。
 ケープのフードをちらりと持ち上げ前を進む鉄平を見た。機械兵を相手取るほどの膂力を見せた彼は息を上げながらもまっすぐ山肌を登っていく。携行行灯《ランタン》をかざして雨の中を進んで行く。すると前で鉄平が声を上げた。
「どうしてお前がここに!」
 ひどく動揺する彼に追いつき同じく前を見やると、その引きつった笑顔に絶句する自分がいた。
「やっと来よったかぇ、鉄平。あとは旅のお方……」
「モトリ、生きていたのか! どうしてこんな所に」
 木々の合間を縫う闇に紛れて老婆が姿を現したのだ。祭りの時からモトリの姿を見なかった。
「こんな所とはお人が悪いえ、鉄平。この山は、もともと私達の住んでた居場所」
「そうか、お前はジプスが山に来る前からの先住民だったな」
 エリサもこの老婆が紗也に紹介された晩のことを覚えていた。しかし何故、今頃になってこの山奥で?
「他にもおりゃす」
 闇溜まりに人の気配。携行行灯《ランタン》で周囲を照らすとぐるりと無数の人影がエリサ達を囲んでいた。全員が手に武器を握っている。
「山人達か……どういうつもりだ」
 鉄平が声を低めて言う。
「私《あたし》らも巫女様を、紗也を取り返しに行っきゃす。連れてっとくれ」
 驚いてエリサが口を挟む。
「何を言ってる、行先は機械兵の巣窟。あなた達には危険すぎる」
「足手纏いにはなりゃせん」
 そう言ってモトリの後ろから出てきた男達の手には縄にくくりつけられた幾つもの機械兵《アダル》の首があった。
「近頃はアオキ村にお客さんが増えたでね」
「んじゃべな。ここらの獣は獲り尽くしてしもて、退屈しとった」
 山人達は太い腕に機械兵をぶら下げてにかりと笑う。
「獣を獲り尽くしただと……?」
 見れば山人は老若男女さまざまだが野性的な身体つきが共通している。
「お前達はアオキ村に加わろうとせず、山あいの拓地をジプスに譲ると姿を消した。今更どうして俺達に力を?」
「巫女様だよ」
 モトリは言った。
「巫女様は、獣を獲り尽くして食うに困った山人に、私《あたし》を通じて村の作物を分けてくれていたんだぇ」
「なんだと。紗也が、一人でやったのか」
「土地への感謝と言ってだね。巫女様の情けに山人はずいぶん助けられた。だから今、皆はやる気を起こしとりゃすぇ」
 山人達が一斉に鬨の声を上げた。雨の降る山に無数の声が轟いた。その大音声《だいおんじょう》に山肌が震える。まだ姿の見えぬ山人も闇の中に大勢いるらしい。
 これだけの数が紗也のために戦う意思を示している。
「すごい数だ……」
「同じ数の山人達が今頃ジプスの方にも付いとります」
「なんだと、それは本当かモトリ」
 鉄平の尋ねる声が震えていた。奇妙に見えたモトリの顔が莞爾と笑む。
「それにアオキ村の衆は、大川が暴れぬよう最後まで尽くしてくれた。山人は皆、感謝しているぇ」
 エリサは思い出した……「どうせ捨てる土地なのに」とモトリがこぼした昨日の朝餉。あれは忌々しくて放った言葉では無かったのだ。鉄平はモトリから次々と知らされる真実に顔を落とした。孤独で死地に向かおうとする矢先に触れた人の情。紗也の侍従として過ごした老婆だ。鉄平との関わりも長い。きっと二人はこの腰の曲がった老人に他人以上の想いを通わせていた。そんな中で笑みを浮かべるモトリ老婆にエリサは胸に迫るものがあった。
 モトリは口にする。
「鉄平、良い巫女さんに仕立てたね」
 その声には我が孫を思うかのような優しさが滲んでいた。鉄平が俯く。モトリは少年の頭を撫でながらエリサを見た。
「山は私《あたし》達の住む場所だ。下界への案内《あない》はお任せくださぇ」


――人類はどれだけの時間、機械に対して抵抗を続けていたのだろう。
 山を降りて見た景色は戦闘の苛烈さを物語っていた。ガナノ=ボトム第三区画は要塞化されている。その外周を囲む防壁は穴だらけに穿たれて根元の方は砲撃の痕で地形が変わっている。
 勝てる戦闘と聞いていた。ガナノ=ボトム第三区画は西の砦と称され十年に渡り対機械の最前線基地として人間達の防衛線を守ってきた。
 そこが、落ちた。
 まだ中で戦っている者はいるのだろうか。エリサは外壁に空いた穴から見えるボトム中央の塔・ポートツリーを眺めて思いを馳せる。
 ポートツリーは街の光から生え出るように空へ伸び暗雲の底に刺さっていた。
「次が十五度目の雷だ、用意は良いか」
 エリサは頷いた。草木の茂みに身を潜めて様子をうかがう。アダル型の機械兵が五体、人間が築いた公道を我が物顔で闊歩している。
 雷光が明滅する。重く呻くような音が空から響いた時、西の方から喊声が上がった。山人《やもうど》達だ。それまで路上をうろついてた奴らが振り向き進撃する山人達に集まって行った。続けてもう一発雷音が轟いた。今度は東側から呼応するように山人達の軍勢が押し寄せた。残る機械兵達が東に群がる。敵が散った。
「今だっ」
 二人は茂みを飛び出し第三区画内に突入した。倒壊した建物や瓦礫の山、空中電影《ホログラム》の漏電《ノイズ》が視界に飛び込む。
「おい、えぇと……」
「エリサでいい」
「……あぁ、エリサ。成り行きで護衛を頼んだが、危険な時は俺も加勢する」
「ありがとう。じゃあ遠慮なく私も仕事をする。気遣いに感謝だ。さすがは友達」
「……ふん」
 鉄平が口をすぼめてそっぽを向いた。怒らせてしまったようだ。
(言葉選びは難しい……)
エリサは少し言葉を気にしようと思った。
山人達による陽動作戦は効果が出ていた。街中を走っていても機械兵の姿が見えない。外周にいたほとんどが彼らにおびき寄せられているようだ。彼らもエリサ達とポートツリーでの合流を目指して進軍している。山人達の容貌は並の兵士と同じくらい、いやそれ以上に逞しく勇ましいなりをしていた。頼もしく思うと同時に彼らの無事も祈った。
 駆けながらエリサは思う。機械兵によって奪われた人々の暮らしの営みを、美しかった命の輝きを。エリサは孤児だった。幼き日に戦場跡で泣いていたのを拾われた。育ちの場所は教会の孤児院。
 戦災で身寄りを失くした子ども達と一緒に心優しき修道女の元で育てられた。口数の少ないエリサを受け容れ愛情をもって接してくれた彼女は自分に友人まで持たせてくれた。
 思い出すだけで胸が温かくなるような日々だった。
 ……機械兵が来るまでは。
「おい、来たぞ!」
 鉄平が叫ぶ。
エリサは息を吸った。
――奴らさえ、いなければ、私は……。
 胸が熱くなる。
剣を抜いた。
「憎まれずに済んだ」
 振り抜いた剣先の後方で機械兵が倒れた。
「七十九体目」
 しかし剣は収めない。
 まだいる。
 エリサはその場を飛び退いた。空気を切り裂く音が眼前を掠める。
 上を見る。ビルの壁に銃砲型《シシュン》が一体、貼りついている。
 エリサは瓦礫を足場にして跳躍した。
 赤い双眸と視線が揃う。横薙ぎに剣を払った。
「八十体目」
 墜落する機械兵に目もやらず更に壁を蹴って上へと跳んだ。
「そこ」
 ピーニック・ガムを腰から引き抜き向かい側のビルに撃つ。垂直の壁に不自然な形が浮き出たと思えばそれはステルス型の銃砲機械兵で、粘着弾に砲身を詰まらせた奴はそのまま暴発して四散した。
「八十一体目」
 ひらりと身を翻して着地するついでに鉄平の後ろに忍んでいたアダルも斬った。
「八十二体目」
 剣に付着した機械油を振り落とす。その涼し気な横顔に鉄平が呟いた。
「お前マジか」
「無所属の傭兵ならこれくらい標準よ」
 エリサは鉄平に親指を立てる。
「なんだ、その手は?」
「調子がいい時にするハンドサイン。ゲイツが教えてくれた」
 鉄平が真似をして同じような形を作った。エリサは首肯する。
「もしもの時はこれで意思疎通しよう」
「わかった。さぁ急ぐぞ」
 鉄平が走りだそうとした時エリサの胸に痛みが走った。
(……やはり、来るか)
 大丈夫。まだ行ける。
マントの中で胸のところをぎゅっと抑え、鉄平に続いた。


 機械兵、憎むべき存在。
 機械兵、壊すべき存在。
 機械兵、憎い存在。
 機械兵、滅ぼすべき存在。
 機械兵、斬らなければいけない存在。
 機械兵、存在を許してはならない存在。
 機械兵、存在してはいけない存在。
 機械兵。
機械兵。
機械兵。
 消えるべきは、
「お前達だ」
 機械兵の群れの最後の一体を斬り伏せた。
 降りしきる雨の中エリサは肩を上下に揺らし空気を求めて空を見上げた。
「これで……九十三体目」
 ポートツリーはもう目の前だ。
 エリサは以前この街に来たことがある。街路の造りは大体覚えていた。あの日見た街並みはよく晴れた空の元、晴れ色に染まっているようだった。だが現在の有り様をみよ。あの活気に満ちた彩りは失せ世界はうっすらと色をくすませつつある。
「もう此処には誰もいないのだろうか」
 駆け抜けてきた街路をエリサは無人と決めつけるのに躊躇いがあった。それほどまでに人々の営んできた暮らしの証拠が、区画内の至る所に残されていたから。鉄平が何も言わずエリサの背中についてきている。彼も街の惨状に言葉を失ったらしい。戦争とは何故こうも酷《むご》いのだろう。そう考えていた時期もエリサにはあった。戦争は幾星霜をかけ積み上げた営みという奇跡をかくも凄惨に奪い去って行く。
 傭兵稼業に身を投じて以来、戦地を遍歴する中でエリサは悲劇と現実を絶え間なく突き付けられ続けてきた。それによって悟らされた。被害者でいるから、奪われる。奪われる前に、奪ってしまえ。ゆえに欲した。失うことの悲しさより抗うための憎しみを。奪われる前に討ち滅ぼすための力を。
 アオキ村を滅ぼされた鉄平にかける言葉は無いがエリサの力を持って機械兵に対抗している姿が彼にとってせめてもの励ましになれば良い。身体に疲労が蓄積しているはずの彼を突き動かしている感情。それが何かなどもはや想像に難くない。
「……雨、やまないな」
 分厚い雲の下で壊れた映写機がノイズだらけのホログラムを映して、ゆがんだ虚像が夜の廃墟で踊っている。息切れが落ち着かない。
 エリサは少し焦っていた。連戦が続いて運動量が想定を超えた。納剣した柄を取り、平生を装いながら鉄平に目配せし先に進む。脚が重かった。十歩進めたくらいだったか。雨で脚を取られたか。疲労が限界を超えたのか。エリサは不覚にも膝を折った。
「エリサ、おい、どうした!」
 すまない。立ち眩みがした。大丈夫、すぐに立つ。
駆け寄る鉄平にそう言って膝に力を込めると全身に締めるような痛みが走った。エリサは小さく悲鳴を上げ路面にうずくまる。
「エリサ、どうした、エリサ!」
「触らないで!」
 鉄平に声を張る。拒絶ではなく警告だった。鉄平の安全を脅かす危険因子からの。
――壊したい。
 雨の音に紛れて呟く声が聞こえた。鉄平の方に視線が動く。戸惑っている彼を見て自分の脳裏によぎった言葉を反芻した。
「……壊、したい」
それはエリサの本能の声である。
 動悸が身体中の管を刺激する。意識に混濁が滲む。いつもより手足の感覚が鈍い。だが神経だけが鋭くなっている。
――壊したい……今すぐ奴らを……壊したい。
 そこにはかつて悪魔と呼ばれた少女がいた。
 悪魔。その正体はエリサに眠る破壊本能。少女の内なる衝動は過去に人々を恐怖に堕とした。そして全てを失った。しかし今は違う。
――私は、もう悪魔ではない。
 溢れる本能を自我で制御した。感情によって抑制された獣性は、寡黙の中に閉じ込められた。
――力だけ置いて……私を去れ。
 甦る過去を否定した。こみ上げる衝動を抑え、不快な律動をする肢体に自ら戒める。暴れ出そうな雄叫びを必死に押し留める。喉笛を掻きむしりそうな左手を右手で捉えて悶えて忍ぶ。エリサが仰向け様に倒れびくんと胸から仰反《のけぞ》ったと思われた後少女の身体は鎮まった。
――本能に勝った。
 空から降る雨滴が頬で弾ける。くたりと目をやる先に、鉄平が困惑の様子で腰を落としている。エリサの落ち着いた事が察せられたのだろう、体を抱き起こしてくれた。エリサは彼の袖を掴む。くい、とたぐり寄せると自分の体に触れさせる。
「む、胸……」
「胸?」
「……飾りを、見せて」
 困惑する彼も尋常ならぬ少女の様子にすぐさま胸元から紐に繋がっている物を引き出した。すると水底に漂う波動のようなものが満たされている、小さな球が手の平に現れた。
「やっぱり、濁ってる……」
「なんだ、これは?」
 首をかしげる彼にぽつりと話す。
「これが私の命」
「エリサの、命だと?」
 静かにうなずいた。もはや黙っているにも限界だと悟る。エリサは唯一の味方に対して、言わざるべき真実を口にした。
「私は、機械兵《アトルギア》なの」
鉄平が息を詰まらせる。
「何を言うんだ、お前はどう見たって」
「ほら」
 首を動かしてうなじを露わにすると戦いで負った切り傷がある。彼の目には赤く裂けた皮膚の下に金属製の何かが見えただろう。
「まさか。本当に人間じゃないのか」
 瞠目の鉄平にエリサは震える手で飾りを取った。美しく澄んでいた蒼い球体は、鈍色に淀んでいる。
「機械を狩るための機械。アトルギア・タイプ:チゴ。それが本当の私」
 完全なる人型として活動する機械。アトルギア同様に独自の思考と発想を持ちながら、高い戦闘力を所有……だが身体は人間同様に発育を行う不可思議な生命体。個体数は地上に極僅か。その全てが女型《めがた》である。
 いつ誰の手によって作られたのか、それぞれ何処で何をしているのか、誰も知らない。
 彼女らはただ機械兵を破壊する行為だけを求めている。まるで他の機械兵の天敵として神が設けた存在かのように。
 自然界階層《ヒエラルキー》の頂点。
 神の意思に選ばれし究極の生命体。
 悪魔と呼ばれた力の保持者。
 それが、チゴ型アトルギア。
 幼き日、町を滅ぼした機械兵の群れをエリサはたった一人で殲滅した。悪魔の少女。忌むべき呼び名はその力を、その正体を恐れた人間によって捺された拒絶の烙印。
――さて。エリサは問う。君は私をどう遇す。
「味方なのか、お前は。俺達にとって」
「自分で判断して。私は私の心に従って動いている」
「心……」
「機械が心を持つのはおかしい?」
 それでも私は生きてきた。
 だから人よ、選べ。私は神の使いか冒涜か。
「心を持たない言葉に心を動かされることはない」
 泣いていた。それが鉄平の答えだった。
「優しい言葉を使うのね」
「お前を人間扱いしているからだ」
「…………そう」
 立たせようと介助する手を拒んだ。瓦礫の上に腰を下ろす。
「……少し休んでから行く、今の状態じゃ戦えない。鉄平、先にポートツリーを登って」
「なんだと。エリサ、お前は」
「すぐに行くから」
 鉄平の目を見た。
「紗也をお願い」
 迷いのない真っすぐな瞳を見てエリサは言う。彼は何も言わず一礼をくれた。
今にも倒壊しそうなガナノ=ボトム第三区画のポートツリー。あの奇行機械兵がマザーと呼び、向かった先はあそこで間違いない。情報集約の塔は人間にとっては勿論、機械兵にとっても重要なアクセスポイントだから。エリサ自身が本能的に識っている。
 機械の塔へと入っていった少年の背中を見送って、エリサは鞘を杖に立ち上がる。
――これまで何度自問しただろう。
 誰に作られたかも分からない。何のために戦うのかも分からない。命も無いのに殺し合うのは何故か。この命は何のために使われるのか。
「そんなの、私が決める」
 崩れた建物の陰から一体、また一体……どこから湧いてくるのやら。
 青い飾りは機械兵・エリサの心臓《コア》である。有機生物の心臓に寿命があるように、機械の核も上限まで稼働させると壊れて停まる。
 エリサは学んだ。生物には潜在的な力があると。それを最も効率的に引き出すアルゴリズムこそ怒りの感情。憎悪の心だと。
 人間はエリサに愛を教えた。だから愛を奪った機械兵は、エリサに憎悪を植え付けた。
 そして少女を力に目覚めさせた。
 人智を超える力でエリサは守るべき者のため同族と戦ってきた。高度知的無機生命体の感情を得た姿チゴ型として。
 そのアルゴリズムが感情と呼べるのか誰も答えられぬ皮肉を背負いながら。
(百体、超えちゃうかな)
 電影の光が辺りを照らす。睨んだ視線の先にはぞろぞろと首を揃えた奴らがいる。全員、自分狙いらしい。
 憎悪という激しい感情で突き動かされるエリサの身体はすでに機能低下の兆候が出ている。
 直感的に感じている。百体斬れば、自分も死ぬ。
――だとしてもだ。
「友達……幸運を」
 ポートツリーに向けてエリサは親指を立てた。
「行くぞっ」
 エリサを取り囲んだ機械兵達が一斉に飛びかかる。剣を抜いたエリサは彼らに向かって感情を撒き散らした。
「―――――――――!」
 雷が鳴る。


 雷に打たれた時、意識が戻った。
 御倶離毘の御柱からその時見えた皆の幸せそうな顔に自分まで嬉しくなった。
(よかった、私の命に意味はあった)
 その直後、再び眠りについた。
『不明ナデバイスノ反応ヲ継続シテ確認。行為ヲ続行シマス』
 瞼を上げると見た事のない場所だった。
 冷たい指先が頬に触れる。思わずぴくりと反応した。指先をたどると金属製の腕がすうっと伸びて、自分の顔が反射して写っている。焦点を広げる。平たい頭の鉄人形が、自分の事を見つめていた。
「あなたは誰……?」
 喋りかけると彼は緑色の両目を光らせた。
『対象ニコミュニケーションノ意思ヲ認定。言語ニヨル意思ノ疎通ヲ試行シマス』
「わ、なになに!?」
 彼は両目を点滅させた。
『僕ハ機械兵デス。名前ハ、ジャギルス、デス。コンニチハ』
「こ、こんにちは……私は、紗也です……?」
〈機械兵〉。その単語に悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえた。見上げてもなお余りある巨体にたじろぎながら返事をする。紗也は何故こんな所に自分がいるのかさっぱり分からない。目が覚めたらここに居た。たくさんの機械が並べられている大きな部屋……館の広間の倍はある。窓がある。透明な板がはめられていて、景色が見える。雨の中、広大な景色に光る建物が散らばっていて、すごく明るい。高さもすごく高いところにいるようだ。空見櫓の比ではない。見た事ない部屋、見た事ない景色、アオキ村と違う場所……。
――ここって、まさか。
「外の世界!」
 その場から飛び起きて窓辺に行こうとしたが、たちまち転ぶ。
「いったぁい!」
 なんで転んだの? 足元に目をやると、膝から下が包帯でぐるぐる巻きにされている。というか全身が包帯だらけにされている。
『アナタハ全身ニ酷イ怪我ヲシテイタ。僕ハアナタニ手当テヲシタ』
「て、手当て? あなたが?」
『僕ハアナタニ手当テヲシタ』
 紗也は自分の身体に巻かれたものを凝視した。手、足、胴にまで。意外と丁寧にされている。
「あ、ありがとう……?」
 機械兵にお礼を言うのもおかしな話だが、紗也は他にするべきことが思いつかない。なにより怪我の痛みがないというのは、彼の手当てが良かったからだと思えるところだ。
「あなたがここに連れて来てくれたの?」
『ハイ。僕ガアナタヲ連レテキマシタ』
 機械兵は頭を上下させた。ハッとして紗也は身体を前のめらせる。
「アオキ村の皆は?」
『アオキ村、僕ハソノ情報ヲ持ッテイマセン』
「私がいた村だよ、たくさん人がいたと思うの」
『登録サレテイナイ地名デス。情報ノ保存ヲ推奨シマスカ?』
「うん、してして。私はアオキ村に帰らなきゃいけないの」
『理由ヲ問イマス』
「私、死に損なっちゃったから」
 機械兵が首をかしげる。
――そうだ、あの時。
 紗也は鉄平に儀式の日を早めて欲しいと頼んだ。そして彼の前で自らの左手に杭を打ち込んだ。狼狽える彼に紗也は強く訴えた。
『皆を連れて早く出て』
 随分前の話だ。
 機械兵が近づいている。モトリの報せで紗也は知った。それを鉄平には伝えなかった。
 彼は人一倍の強い感情を持っていて村の統治に努力を惜しまない。けれどその実、本物の機械兵を前にしたことがなく、もしもの時、冷静で正しい対処を図れるのか、一抹の不安があった。いかに自然に村の皆を外へ逃がすか。モトリと二人だけで事を進めていた。
 先代巫女、紗良の記憶をもとにして。
そんな折、エリサ達がやって来たのだった。腕が立ちそうな二人はアオキ村に置いていて損はない。ただ彼らはよく話をしてくれた。彼らが魅せる外の世界はあまりにも輝いていた。村のため長居させようと武勇伝を語らせるうち秘めていた憧れへの抑えが弱まってしまった。
『まもなく嵐がやって来ます。山を崩すほどの大嵐が。すみやかにこの村を立ち去りなさい』
 だが現実への解決策はするりと実行できた。紗也の言葉は村の有力者達を納得させるのに有効だ。紗也には覚悟が決まっていた。朋然ノ巫女はジプスが土地を離れる時に死ぬ。すなわち朋然ノ巫女が死ねばジプスは土地を離れる。
――一日でも早く皆を逃がしたい。
――自分が世界への未練を募らせる前にすべてを終わらせたい。
 様々な思いが交錯する中、紗也は自らに杭を打った。そしてその身に雷を落とした。
 しかし結果がこれだ。紗也は死に損ねた。機械兵が目の前にいて自分は知らない場所にいる。それだけで今のアオキ村がいかなる状況にあるのか紗也には推測が立った。
 間に合わなかったのだ。
 私が、生きている。
「お願い、私を帰して」
 機械兵にすがる。
「私は、アオキ村で死ななくちゃいけないの」
 生まれて十二年間ただそれだけを信念に生きてきた。
 自分が生きてきた意味をいまさら否定されてはいけない。
「そうでなきゃ……」
 自分の存在が否定され続けている気がしてならない。
「私の生まれてきた意味がない……」
鉄平はもういない。紗也を肯定してくれる存在は誰もいない。紗也が生まれ育ったアオキ村は、もうどこにもない。考えるだけで紗也は孤独を感じた。
 寂しい。だから私は独りでも自分の役目を務めなくちゃ。
 機械兵はかしげた首を、反対方向に傾けた。
『アナタノ言ッテイル言葉ガ理解デキマセン。アナタハ死ヌタメニ生キテキタノデスカ』
「村の皆がそう言ったんだ。私がいる限り、アオキ村は平和なんだって」
 鉄平から自分の役目は村を守る巫女として立派に御倶離毘《おくりび》を受けることだと生まれた時から教わってきた。疑いもなく生きてきた。誰にも否定されなかった。私は死ぬことに意味のある存在だと。
 でも、どうして? 生きているのに守れなかった。
『僕ハアナタニ死ナレタラ困ル。マダ死ナナイデ欲シイ』
「どうして?」
『僕達ノ未来ノ為ニ、アナタハ生キテクダサイ』
「きゃっ」
 突然、機械兵が紗也の身体を抱え上げた。窓辺に向かって歩き出す。
 外の景色を見せてくれた。
『世界ハトテモ広イデス。世界ニ果テナドアリマセン』
 雨の中で濡れた景色は眩しく輝く。目映い建物達はどこまでも続き光の稲穂畑のように紗也の前を広がっている。
『新シク生キル意味ヲ与エマス』
 崩れた建物で埋め尽くされた人間達の生きた跡を思わず「綺麗」とこぼしてしまった。
『コノ世界ハ美シイデスヨ、紗也』
 彼は紗也を抱えたまま部屋の中を歩きだした。窓に映る機械兵と自分の姿は大きな獣と子供の連れ添いにも見える。冷たい腕に抱かれながらも彼の歩く揺れが何処か心地よい。
「初めて見たよ、山の外の景色」
『紗也ガ生マレタノハ山ノ中デハナク、コノ世界デス』
「私が生まれた世界?」
 機械兵は紗也の方を見ながら顔の両目を点滅させる。
『新シイ世界ニ目ヲ向ケマショウ、紗也。アナタハ、生キテイテモ良イノデス』
 その言葉が紗也の耳を響かせた。
「……本当に?」
 初めて聞いた言葉。
――自分は生きていても良い?
 外の世界に憧れながら死ぬことを求められてきた紗也にとって、まったく馴染みのない教えを、機械兵は言ったのだ。胸が早鐘を打ち出すと途端に、目から熱い物が込み上げてきた。目元を触ると、指先が濡れていた。雨は降り込んでいない。なのに自分の顔がどんどん濡れていく。
「どうしよう、止まらない。ねぇ、これは何? 私おかしくなっちゃったのかな」
『ソレハ涙デス。紗也、アナタハ知ラナイ事ガ沢山アル。僕達ト探シテイキマショウ』
 涙。
 これが涙。
 村人達が紗也の言葉で目から流していたもの……自分にも流れ出てくるなんて思ってもいなかった。涙を流していると、なんだか心が気持ちよくなってくる。機械兵の腕の中で、紗也は大粒の涙をこぼし、わんわん泣いた。機械兵、彼が見せてくれる世界がこんなにも美しいだなんて。紗也が過ごしてきた時間、失われていた時間がにわかに彩りを濃くしていくような、温かい感触を心のなかに抱かせている。初めての涙が止まる頃、紗也は言った。
「この世界は、美しいんだね。ジャギルス」
 機械兵ジャギルスは窓からの景色を眺めたまま、言った。
『紗也ニハ、モット世界ヲ美シクスル手助ケヲシテ欲シイ』
「何をするの?」
『僕ト生殖ヲシテクダサイ』
 聞きなれない言葉。紗也は問う。
「それは、何?」
『次ナル存在ヲ生ミ出スコトデス。世界ノ生命体ガ全テ、コウシテイルヨウニ』
 その瞬間、機械兵の口から一本の管が飛び出し先端が大きく口を開くと紗也の口元を覆った。
「むぐぅっ!?」
『不明ナデバイス・紗也トノ接続ヲ確認。共有サレタ情報ヲ同期シマス』
 さっきまでの流暢な話し方から一変して、機械兵はいきなり無機質な声に切り替わった。管で塞がれた口から何か変なものが流れ込んでくる。
(何、何、何!?)
『アクセスニ成功。同期サレタ情報ヲマザーニ転送シマス』
 機械兵から流れ込んでるのはよく分からない――感覚というべきか、謎の流動物が身体に注ぎ込まれる奇妙な感触。自分ではない何かが自分の中に入り込み、代わりに自分がどこかに出ていくような……視界の隅で部屋の中央にある機械の柱が激しく点滅して見える。不思議と抵抗する気が起こせない。
(あれ……私、なんで村に戻らなきゃいけないんだっけ)
――いや、戻らなきゃ。私が収まるべき場所に。
(収まるべき場所? どこだっけそれ)
私は、私は……。
「紗也!」
 その時部屋の奥から叫び声が飛び込んだ。聞き覚えの深い声。まさか信じられない。
(鉄平!)
 丸刈り頭の少年が紗也の視界に駆け込んできた。全身はボロボロでベニカブのような顔を真っ赤にしながら彼はジャギルスまで突っ込んでその手の大鋸を振り上げる。
「紗也を放せ、この野郎!」
 鉄平の振った大鋸が機械兵の背中を捉えた。機械兵は体勢を崩し紗也を手放した。落下した紗也の前に回り込んだ鉄平は、紗也を抱き上げて機械兵から距離を置く。
 信じられない事が起こっている。何処とも知れないこの場所で鉄平が生きて私の前に現れた。
「鉄平……? 鉄平、鉄平! 生きてたの!」
「いや、こっちの台詞だよ!」
 どこを見ても怪我だらけで顔は泥や傷でめちゃくちゃでそれでも彼の声は確かに紗也の知る怒鳴り声だ。紗也の胸にはまたもや熱い物がほとばしる。
「鉄平、鉄平! もう会えないかと思ってた」
 紗也を抱える鉄平は自分の一挙一動に目を大きくしたがすぐに声を上げた。
「紗也、帰るぞ! 俺達の村《ジプス》へ」
「…………え?」
 その言葉を聞いた途端紗也に迫っていた胸の鼓動が急速に引いていくのを感じた。
「鉄平」
「なんだ、紗也?」
 泣きそうなほど顔を歪める少年に対して少女は言った。
「私、どこに帰ればいいの?」
 その時見せた彼の表情は紗也が今まで生きてきた中で最も貧弱な生き物みたいな風に見えた。
「私、ジプスには帰らないよ」
「紗、也……?」
「私、死にたくないもん」
 生まれた意味がない。アオキ村は紗也にきっとそう思わせるだろう。アオキ村のジプスは紗也が生きている事を否定する空気しか感じない。
 私は生きてちゃいけないの? 何故? 私には私の望みがある。
「私は、生きたい」
 それがたとえ生まれ育った環境に対する裏切りだとしても。
「何を言ってるんだ、紗也。俺はお前にそんなこと」
「鉄平、放して」
 鉄平の背後から機械兵が襲い掛かった。長い腕は大きくしなり風を切って少年の身体を弾き飛ばした。
「ぐぁっ!」
 何度も床を転がり壁に叩き付けられた鉄平。しかし手加減はさせたからまだ意識はあるようだ。
「紗也、どうしたんだよ、俺はお前を助けに……」
「喋らないで!」
 再び立ち上がろうとする鉄平をジャギルスが急接近して弾き飛ばした。壁に張られた窓の透明板にひびが走る。
 さすがジャギルス。私の思考と行動を同期《リンク》させられる。
 紗也はジャギルスと「契り」を交わした。契り……それは精神的な繋がりを持つということ。互いが密接に触れ合うことで考えと行動が一致しやすくなる。この機械兵は、紗也の言った通りに動く。紗也は機械兵の考えを肯定したのだ。
「紗也……何があった……? そいつに何かされ」
「しつこい」
 ジャギルスが鉄平の首を掴み上げた。鉄平が苦しそうにうめき声を漏らす。
「紗……也……」
「私の命をあなた達なんかに渡さない。私の生き方は誰にも縛らせやしない!」
 紗也は自我に目覚めた。求めてきた広い世界を提示した機械兵は優しく傷ついた幼い少女の心に思考を浸透させた。育ての兄である彼を前にしても自分を殺そうとしていた事実が紗也から情けを奪っていた。
 鉄平が更に声を上げた。鉄の爪が彼の首に食い込んでいる。紗也は怒りに震えていた。私は誰の所有物でもない。私は生きている。
「正気に戻れ、さ、や」
「私に指図するなぁっ!」
 紗也は叫んだ。鉄平がその場から消える。次の瞬間、反対側の壁に鉄平が激突していた。衝撃で天井の一部が崩れ落ち雨が降り込む。
 紗也は肩で息をしている。ここまで叫んだのは生まれて初めてだった。何かに怒りを持ったことも、生涯で一度も無かった。
 怒り。
 初めて覚えた感情に自身でも戸惑いを覚えつつ乱れた呼吸に眉をしかめる。だが息苦しさよりも優っているのは圧倒的な解放感。自分を縛り付けていたすべてに反逆する。そしてまだ見ぬ広い世界のため、今こそ古い殻は破り捨てられる時が来たのだ。
「ジャギルス」
『紗也トノ接続ヲ再開シマス』
 機械兵との契りを再開する。新しい世界をもっと知りたい。まだ見ぬ自分をもっと深く感じたい。機械の口から注入される不思議な感覚を受け入れる。過去の記憶がジャギルスに届き、新たな感情が紗也の中に入る。感情のピストンを感じながら、視線は部屋の中央へ。機械柱が稼働している。あの柱には新しい命が宿っていると。もう間もなく新たな生命が誕生するのだと、ジャギルスから流入する感覚から教えられた。
「ふふ、うふふ。新時代が始まるのね」
 笑いがこぼれる。機械柱に宿るのは、人と機械の記憶を持った未知なる新たな機械兵。
 紗也とジャギルスの子どもである。
 その時、部屋の隅で蠕動する音がした。
「さ……や……」
なんだ、まだ生きていたのか。
 人間ぶぜいが。
「おれが間違っていた……紗也、おまえは自由だ……俺達がしてきたこと、すべて謝る……だから止めてくれ、こんなことは」
 いまさら何を言う。
人間達がいかに後悔しようと過去は取り戻せない。私の命を奪い、自分達が栄えようとした事実は変えられない。
 赦しを乞いたい? 虚言《ばか》を抜かせ。這い蹲る鉄平を見下ろしながら機械兵と繋がり続ける紗也。度重なる殴打と激突。即死はさせまいと加減したが彼はもう声を発するだけで必死だろう。
「……そうだよな、今更お前の耳には何も届かねえだろう……さや、お前は何も悪くないから疑心暗鬼になるのも当然だろう」
 それなのによく喋る男だ。
「だけど信じて欲しい事がある。真実がこの世界に一つだけあるとしたら……」
 適当に聞き流す。
「どんな時も、どんな姿になっていても……俺は、お前を愛している」
 ――ジャギルス、いったん止めて。
 機械の管を口から抜き鉄平の前まで自分をジャギルスに運ばせた。消えかけの電影のように彼の瞳は弱っている。自身を見上げる鉄平に紗也は吐き捨てた。
「それが私の生まれた意味に関係ある?」
 愛している? どの口が言えた言葉だ。その身勝手な考えが、感情が、一人の命の行く末を決めつけて良いというのか。私は死ぬために生まれた存在? 違う。
 二度と私に関わらないで欲しい。いや……この世界から消えて欲しい。
 目配せ。ジャギルスの腕から鋭い鉄爪が生え出てくる。鉄平は抵抗する気も失せたように何も言わず目を閉じた。その姿に、紗也の怒りはますます高まる。
 言いたい事だけ言えば終わりか。都合の良いやつめ。その私に殺されるのなら本望だとでも言いたげな顔が癪に触る。抵抗しろ。怒れ。喚け。私に怒りの殺意を向けろ。私を破壊しに来い。私を愛した鉄平は、強かったはずだ──と考えた紗也の心理を遮るように機械兵の声が流れた。
『心など持つから争いは絶えぬ』
 そうだ。
感情、本能、欲求。
世界にひしめく生命体はそれらを元に競争を生む。やがてそれは火種から大きな炎を巻き起こす。戦火を留めるため、心を捨てよう。
「私に生まれた意味はなかった。最初からね」
――さようなら。
 彼の頭上に殺意を落とす。
――鉄平。
「意味を求めるべきは、生まれた事じゃなく」
 その時女の声がして、金属音が鳴った。
「生きていく事に求めるべきだと、私は思うが」
 芯の通った澄んだ言葉に青い髪が風でなびく。
鉄平の頭上を守るように、蒼髪の少女が直剣でジャギルスの爪を防いでいた。
 青い瞳がこちらを捉える。
「紗也、また会えて嬉しいわ」
「エリー、どうしてここに」
 エリサは鉄爪をあしらって、すかさず横たわる鉄平の身を抱え上げると「重量オーバーだ、自分で動いて」ともう一度寝かせた。
「あなたを機械の魔の手から救い出しに、皆で来た」
 物々しい足音が部屋の外から迫ってくる。やがて半開きだった扉を突き破って入って来たのは、筋骨隆々の男達だった。
「紗也様ァ! お助けに参りましたぞォ!」
「機械兵なぞワシらの敵じゃなかですけ! ご安心下されぃ!」
「紗也様へのご恩、今こそ報いる時じゃあ!」
 雄たけびを上げる豪傑達の暑苦しさ。夜雨で冷えた部屋の気温があっという間に上昇した気がする。
 紗也には見覚えがある顔触れだった。
「あれは山人達、彼らまで来たっていうの!」
「あなたが蒔いた種でしょう、紗也」
 彼らの手には機械兵の物だったと思われる装甲や刃物が身につけられている。まさか山奥での暮らしを誇りとしている彼らが機械と戦うためにアオキの山から下りて来たのか。
 驚愕の紗也を尻目に山人達が機械兵に挑みかかる。屈強な山の戦士達の猛攻にジャギルスの手を焼かせる隙に、エリサが鉄平を安全圏に連れ出した。
「エリサ、無事だったのか……」
「無事じゃない、死にかけた。彼らの合流が間に合ってよかった」
 エリサの身体もひどく傷つき装備はあちこちが損傷している。だが彼女を見て鉄平が露骨に安堵の表情を浮かべた。
 紗也が奥歯を噛み締める。何を浮かれた顔してるの、鉄平。そんなに嬉しい事があったの。信じられない。何もかも信じられない。どうして、どうしてどうしてどうして。
「どうして皆、邪魔をするの!」
 その叫び声に鉄平が歯を見せ返した。
「皆が紗也を大好きだからだ!」
 分からない、何もかも分からない。
 紗也は当惑している。彼らの感情的な言葉の数々にではない。鉄平、山人、エリサ。よく見知る顔ぶれが目の前にいる事にだ。この塔の下には無数の機械兵がいたはずなのにどうやって辿り着いた。いや……戦って来たのだ。証拠に無傷な者は誰もいない。全員が手負いの体で戦っている。何のために。
 紗也のために?
 機械兵は歴史上長らくに渡り人の暮らしを脅かし栄えある文明を打擲してきた。地上の誰もが機械兵に対して恐怖を知る。ただの民が立ち向かえる相手ではない。だが彼らは現にジャギルスを肉薄して立ち回りを演じている。紗也を救い出す。その言葉を叫んで。
 紗也は頭を抱えている。
 私は、彼らに助けられようとしている?
 私は、彼らのために死ぬはずなのでは?
 だけど私の命を奪うために彼らは命懸けで殺人兵器と戦ってるというの? そんな理屈が通るのか。いや……違う。これだけの判断材料ではどこかに矛盾がある。だけど矛盾を生じさせる違和感の正体が掴めない。彼らは何を求めて戦うのか。
 紗也は額に触れた掌が冷や汗でぐっしょりと濡れているのに気付いた。動揺している。
 だが再び脳裏に声が響いた。
『何を焦っている。紗也は尊い存在なのだ』
 声は脳裏に蜃気楼の様な波紋を呼び、残響して消えた。紗也の心は鎮まり、機械兵が与えた自己肯定感を反復した。
 そうだ、私は……彼らにとって最も尊い命なのだ。
私に役目を果たさせるためなら……カレラハシンデトウゼンダ。
 まさかと察した。
 あの人達は私を生贄にするための追手なんだ。──紗也の恐怖はにわかに膨張した。
「私を殺さないで!」
 紗也の叫びに呼応してジャギルスの爪が猛威を振るう。弾かれる山人達に追い討ちをしかけるもエリサが剣で食い止めた。
「紗也、聞いて! 私はあなたとの争いを望まない、攻撃を止めて!」
「嘘だ!」
 剣と爪は相弾きなおも衝突。攻めのジャギルスと受けのエリサが剣戟を繰り広げる。エリサは傷だらけの体を燃やして剣を振るう。しぶとい。警護の士として有能ならば敵に回すとこれほどまでに厄介だとは。紗也は歯噛みしながら機械兵の背後でがなり立てる。
「人間達は互いを騙し恨み滅ぼし合う事しか考えていない。人間なんか信用できない!」
 爪の斬撃を躱しながらエリサが声を放つ。
「それは一面性でしかない。人間は怒りと憎しみで大きな力を手に入れる。その源は、護るべき存在《もの》への愛よ。愛する存在のために人は強く成長するの」
「愛? 知った口を聞くな!」
 ジャギルスの一撃を受け止めたエリサだったがいきなり胸を抑えて顔をしかめた。エリサの腹部に機械兵の蹴りが入る。怯んだエリサに追撃の裏打ちが送られた。
 機械の声が脳裏に聞こえる。
『人間は内に潜む浅はかな欲望を、愛という美辞麗句で高尚な思想にすり替え崇めているに過ぎない。愛は憎しみの種だ。平和のために今ここで絶やさねば』
 響いた声に共鳴するように紗也は喚き声を上げた。
「皆、敵だ。心を持つ者は皆、敵なんだ!」
 吹っ飛ばされたエリサを抱きとめた山人達が慄いている。
「紗也様、一体どうしたんだべ、まるでお人が変わっちまったみてえだ」
「機械兵と一緒になっとるだ、紗也様は奴らに寝返っちまっただか!?」
 山人達を鉄平が一喝する。
「バカ野郎! 紗也は奴に洗脳されてるだけだ!」──ちなみに鉄平の方が山人達より遥かに年下である。
「おい、バカ紗也!」
 鉄平が紗也に近づく。両手を掲げてなにも持たないと示している。後退る紗也。
「ジャギルス!」
「させない」
 鉄平に飛び掛かろうとするジャギルスをエリサが蹴り込む。機械の巨体が怯んだ。
「鉄平、任せたよ!」
 エリサの声に鉄平は無言を応えとして一歩また一歩と紗也に歩み寄る。排熱音が響いて機械兵が動き出す。エリサがその脚を払い態勢を崩すと振り返って声を張る。
「何やってるの山人達、あなた達も手伝いなさい! 私あんまりモたないよ!」
「お、おうさぁ!」
 筋肉の山が機械兵に覆いかぶさった。足掻く機械兵も純粋な質量の責めに遂に屈して、男達の中に埋もれた。紗也の呼び声も虚しく機械兵からの応答はない。
「あぁ、ジャギルス!」
「おい、バカ紗也!」
 紗也は顔をしかめた。
 すでに鉄平が目の前に来ている。下がろうとするが負傷している足元が効かない。ジャギルスがいなければ可能な行動は限られる。たちまち天井の瓦礫に足を取られ転倒した。
「クッ……」
「そこはいったぁーい、じゃないのか、バカ野郎」
「うるさいな、さっきからバカバカって! 私は鉄平、あなたを一番許さない」
「俺が憎いのか、紗也」
「憎いよ。私を騙して、私の命を奪おうとした張本人。人殺し!」
「だったら俺をどうするつもりなんだ」
「……消す。この広くて美しい世界から、あなたの存在を消してやる」
「アオキ村の人々を皆殺しにした、そいつみたいにか」
 その言葉にジャギルスを見た。アオキ村は彼が滅ぼしたと言うのか。不思議なことに言葉が出なかった。どうした自分、アオキ村を恨もうとしてよ。
 そう、だってアオキ村は私の自由を奪う場所。滅ぼされてせいせいするべき。
「…………そうだよ、私は機械兵と一緒に理想の世界を創っていくんだ」
 人間の感情は欲望から出る。私利私欲に塗れた世界が行きつく先は、憎しみと悲しみの戦禍が虎口を開いて待っている。
 欲など持たなければ良い。何人たりとも争わない誰もが完全一致した思想。諍いを生まない。何も生まない。機械だけが実現できる世界……それこそ美しき平和の理想に違いない。平和を脅かすのは、人間の欲望。だから機械は元凶を根絶やしにする。
「機械は世界から争いを無くすための戦争をしているんだよ、鉄平」
「はぁ……つくづく思うわ、この、バカ紗也!」
 怒声を発した鉄平に後ずさる。だがだしぬけに腕が伸びてきた。手首を掴まれそのまま引き寄せられる。鉄平の顔が近い。
「いつからそんな大層なことを言えるようになったんだ、お前は。どうかしてるぞ」
「どうかしてるのは、そっちの、方だろがっ」
 顔面目掛けて頭突きした。衝撃はバキッと音を上げ、鉄平の鼻からは鮮血が噴き出た。しかし鉄平はまったく仰け反らなかった。
「……この程度で俺を世界から消すつもりか」
 にたりと笑う鉄平に紗也の怒りは激しさを増す。その手はまだ紗也の肩を掴んだままだ。
「お前の言説ごもっともだ。たしかに紗也が言うように俺達は不完全な存在かもしれない。けどな」
 ぞわっと背筋を撫でる気配。鼻からだらだらと血を流しながらも鉄平は目を見開いてそして言う。
「機械の考え《そっち》とお前の救出《こっち》は話が別なんだよ!」
 鉄平の手が恐ろしい速さで動いた。次の瞬間、首に何かを取り付けられた。すぐさま外そうとするが全然取れない。
 これは……何だ? 手触りをたしかめ感触を調べ、そして気づく。まさかこれは……。
 鉄平が歯をちらつかせる。
「朋然ノ巫女様、お気をたしかに」
 紗也が村で付けていた首飾りだ。紗也は空読の後、必ず鉄平から受け取り肌身離さず提げていた。自死する前日、鉄平から褒められた後すぐに付けて、そして返した。ここに持ってきていたのか。
「もう何も背負わなくていい」
 巫女の首飾り……村にいた頃、紗也が紗也であるために欠かさず胸元に提げていた、自分の一部だ。
「う、うあ……」
 だが、なんだ、これまでの感覚と様子が違う。すっと背筋が伸びるような簡単なものではない。
 首が、熱い。違う、首飾りが、光っている。
「なに、これ……」
「悪く思うな、紗也」
 首飾りの装飾を鉄平は一欠片もぎ取った。すると首が更に熱を高めて電気を帯び出した。
 頭が痛い。
 自分の中に異物が入り込んでくる。頭から胸を通って腹部まで、体中のありとあらゆる所で得体のしれない存在が暴れまわっている。
 これは、自分か?
 いや、こっちが自分だ。
 何を言ってる、こっちが自分だ。
 違う、本物はこっち。
 分からない、どれが自分だ?
 胸が痛い……何が正しいの?
 人間を殺せ。
 お願い。
 皆を守って。
 助けて。
 すべてが敵だ。
 苦しい。
 助け合おう。
 痛いよ。
 滅ぼせ。
 守れ。
 殺せ。
 祈れ。
 壊せ。
 繋げ。
 憎め。
 愛せ。
「うあ……うわ、うわぁぁああああああーーー!!」
 激痛が全身を駆け巡る。あまりの痛みに紗也はのたうち回る。自分ではない何かが自分ではない何かと戦っている。
 何かが消えていく……。
何かが入ってくる……。
 イヤダ、キエタクナイ……。
 戦え。守れ。願え。語れ。進め。歩め。想え。慕え。満せ。望め。生きろ。
(代われ)
薄れゆく意識の中、紗良の顔が見えた気がした。
「鉄平―――――――!!」
 そして紗也の視界は暗転した。
 何も見えない暗黒が紗也を包んだ。耳には何も聞こえない。吐いた息が空気を擦る音だけがして、吸った空気が浅い所までしか回らない。
 顔にやった手が酷く震えている。指先は冷たい。まるで何かに脅えているようだ。私は何が不安なんだと分かれば良いのか判別がつかない。分からない、それが怖い。意味も分からず震える指先。段々と寒さを感じてきた。寒い、身体が寒い。冷えていく。身体が段々、冷えていく。冷たくなっていく指先、身体、それはまるで自分の命が消えていく様を感じるよう。
 嫌だ消えたくない。消えたくないよ。震える身体で、闇の中を必死にもがく。私の命は、どこだ? 無音の虚無に溺れながら紗也は問う。冷えたカラダはどこに命を求めるべきかを。耐えがたい孤独と恐怖が押し潰そうとしている。誰か、誰かいないの。叫ぶ。
お父さん、お母さん……呼べるはずもない。この世に紗也の肉親は一人もいない。
 紗也は天涯孤独の少女として生まれた。唯一姉と呼べる紗良は、紗也が生まれた時にはすでに死んでいた。紗也は姉が残した世界の記憶と、朋然ノ巫女の役目──ジプスの民を治める術を形見に学び続けた。その傍らにはいつも一人の少年がいた。名は鉄平。白皙の細面をした利発そうな少年だった。彼は紗也が学ぶことを甲斐甲斐しく世話してくれた。紗也が役目を励む姿に感化されたか少年は体を鍛え始め、やがて逞しい青年に成長した。
 いつしか紗也は鉄平を兄のように慕っていた。
 いつの日だったか鉄平は紗也に首飾りを贈った。彼が調べて作ったという先代巫女の紗良と同じ形の装飾を。紗也は鉄平にこの上のない感謝をした。自分にとって唯一の寄る辺を与えてくれた彼に紗也はこの時並ならない感覚を抱いた。その名前は分からなかった。
 しかし嬉しかった。姉の面影を感じる品。最高司祭者として相応しい大きく豪奢な首飾り。紗良の記憶と紗也の想いはすべてこれに刻まれている。村の民が与えてくれた幸せな時間さえも。
(そっか、私は幸せだったんだなぁ)
 紗也に血の繋がりがある人はいない。その代わり血よりも濃い繋がりを持つ人が、いつだってそばに居た。その名前は鉄平。
 暗闇に彷徨う紗也の前を一筋の光が走った。
 そうだ……首飾りだ。
 紗也は首から下がる大きな装飾を胸いっぱいに抱いた。
 終わらせない。まだ終わらせたくない。私を一人にしないで。ほのかな光が首飾りを包みだし、闇が徐々に薄れていく。気を抜けばすぐに闇がまた迫ってきた。紗也は足掻いた。声にならない声で力いっぱいに叫んだ。
 私は――まだ生きたい!
 首飾りが七色に輝きだし漆黒の闇を払っていく。辺りは光に包まれ──遠く光の中に誰かの影が見えた。その方に向けて必死で手を伸ばす…………。


 目を覚ますと鉄平がいた。何か喋っているようだが内容まで聞こえない。だけど彼の穏やかな表情は紗也の心を落ち着かせた。腰を下ろした鉄平に肩を抱かれているようだ。
「……そんな顔するんだね、鉄平も……」
「紗也、すまなかった……」
 鉄平の下げようとした頭を手で押さえる。ぺちりと額の鳴る音がした。
「違うの鉄平。鉄平は何も間違ってなんかいなかった。私は私の、鉄平は鉄平の役目があったんだ」
 手を離してゆっくりと言葉を紡ぐ。役目。その言葉が胸に刺さる感覚を紗也は理解しながら言う。過去から続いてきた今ある繋がりに対する感謝。自分が見てきた村の民の暮らしぶり。平和を信じていた温かい日々。生きる事に限りを持たされた紗也だから感じられた、世界の平凡な美しさを素直な言葉で伝えていく。
「なのに」
 途中で涙が遮った。
「ごめんなさい……村を守れなかった。巫女の役目を果たせなかった。村の皆に貰った幸せを何一つ、返す事ができなかった」
 ごめんなさい。ごめんなさい。私はバカ紗也だから。役に立たなくてごめんなさい。繰り返し何度も泣きじゃくっては詫び続ける。迎えに来てくれた大切な人を傷付け、手に掛けようとした恐怖と後悔が紗也の胸を苛ませる。
「ごめんなさい、私のせいで、ごめんなさ」──口を何かに塞がれた。布? 鉄平の匂いがする。これは……。紗也は鉄平に抱きしめられていた。大きな胸と太い腕に体中を包まれる。ぎちぎちと体が鳴りそうなほど力強く苦しいまでに。
「紗也は、誰よりも広く温かい懐でジプスの悲しみを受け止めてきた。代償として深い孤独を背負いながら、村を明るく照らしていた。誰もが紗也、お前に感謝している。そして……俺もだ」
 鉄平の手が紗也の頭を撫でる。
「生まれてきてくれてありがとう、紗也」
 紗也は鉄平も両親がいない事を知っている。指導者である彼の境遇を慮る者はほとんどいない。深い悲しみを秘めているのは鉄平も同じの筈なのにどうしてそこまで優しくできるの。温かい彼の胸の中で紗也はしばらく泣き続けた。
 心臓の音が聞こえる……鉄平は生きているんだね。紗也の額に一粒の滴が落ちた。鉄平が頭上で泣いていた。頬を伝うその涙を紗也は拭ってやると彼は穏やかに微笑んだ。
 もう寒くない、紗也は欠落していた胸の何かが満たされていくような気がした。
「二人とも、良い所を邪魔してすまないが、もう限界だ! 退却しよう!」
 エリサが苦渋の声を響かせた。機械兵を抑え込んでいた山人達も身体を震わせながら必死に状況を維持している。十五分は支えていた彼らの限界はすでに近い。
「少年よ、よくぞ紗也様をお救い下さったァ! お見事じゃあ!」
「だがワシらもよく戦ったァ! つまり、そろそろキツイィッ!」
「塔の下で同朋達がまだ戦っとる! さっさとずらかろうぞォ!」
 鉄平が紗也を抱き上げて立ちあがる。
「山人達……ありがとう! アオキ勢、退却だ!」
 鉄平は高々と言い放った。


 だが地獄は始まってすらいなかった。


『マザーニデータノ転送ガ完了シマシタ。出力ヲ100%ニ戻シマス』


「……え?」――その瞬間、人間達が弾けた。
 鉄平の唖然とする顔。機械兵に覆いかぶさっていた山人が八方に吹き飛ばされる。叩き付けられ壁の方々から呻き声。押し潰されていた機械兵がゆっくりと立ち上がる。
 両眼を、赤色に光らせた。
『時間を取らせた』
 紗也を抱く腕が一瞬にして粟立った。機械兵の言葉が、肉声に近づいている。
「皆離れて、私が斬る!」
 剣先を煌めかせエリサが斬り込んだ。
『何処へ行くと言うんだい』
 電光石火の剣技だった。それを機械兵はいともたやすく躱してしまい、鉄爪でエリサの胸部を撫で斬りにした。
 エリサは喘ぐが間一髪で急所を外した。後方へ受け身をとり、即座に腰から銃を抜く。
『赤子の玩具かね、そいつは』
 瞬き一つしていない。機械兵が、いつの間にかエリサとの距離を詰めていた。そしてエリサが引き金を引いたはずの銃身は握り潰されていた。弾は掠ってすらいない。
「速いのね」
 エリサが至近距離を斬り上げる。予備動作ゼロの逆袈裟に跳ね上げた剣身は、奴の左腕を見事に獲った。紗也の目にはそう見えた。
『時間は有効に使いたまえ』
 だが獲られていたのは、少女の腕だった。
 剣と腕が床に落ちる。
「ぎゃあああああああ!」
 断末魔が部屋中に響く。悶えるエリサを機械兵は蹴り飛ばし、高々と笑いをあげた。
『人間よ、何故謙虚にならない? お前達が夢見た平和な世界を僕達は成し遂げようとしているのだ。大人しく次の世代に世界を譲ったらどうなんだい』
 どこかで聞いたことある声……そうだ吾作だ。アオキ村の村人の声を機械兵は出している。紗也と繋がった時に記憶から情報を機械兵は抜き取ったのだ。
「エリー、エリー!」
 壁にぶつかり動かなくなったエリサを呼ぶが反応はない。そんな、エリーがやられるなんて。紗也を助けに来た人達が全員やられてしまった。自分を助けに来たせいで、皆が傷つき倒れていく。
 自分のせいだ、自分が生きているからだ。視界が滲んでいく。涙が出てきた。
「泣くな、紗也!」
 鉄平が怒鳴った。
「まだ終わっちゃいない。俺がいる」
 紗也を抱く腕をさらに強めた彼の鼓動は恐ろしいほど胸を叩いていた。そして鉄平は紗也の耳元で囁いた。
(…………!)
 鉄平が覚悟を決めた。最強の味方を失い、山人達の救援も望めない状況で、彼が頼める最後の希望。それは己の腕っ節だけだ。アオキ村の若き導師であり、村一番の力持ち。その裏に重ねた無限の努力。矜恃のみを杖に震える膝を叩き起こす。
 エリサの沈黙を確認した機械兵がゆっくりと鉄平に向き直る。
『残すは君と、紗也だけだ。見たまえ、マザーには僕と紗也の遺伝子情報を元にした子ども達が宿っている。まもなく僕以上の性能を持った機械兵が世界中に放たれるのだよ』
 紗也の記憶を抜き取ったとは言え人格は機械兵本来の個体差に依るものらしい。上から目線で物言う機械兵に鉄平の嫌悪は露骨になる。
「はん、何が僕と紗也の子どもだ! このドスケベ野郎! 吾作の声なんか使いやがって、お前らなんかにやられてたまるか」
『仮にも旧時代の支配者だったからね、君達人類は。まだまだ学びたい事が沢山あるのだよ』
「うるせえ人間をパクるしか能のねえ奴に滅ぼされてたまるか」
 人類の脅威を前にしても口の悪さは揺るがない。
『パクリじゃない、踏み台だ』
 淡々とした言い方をしながらも機械兵の殺気が高まってゆくのを感じた。
「紗也、下がってろ!」
 鉄平に突き飛ばされた。機械兵が間を詰めてくる前に鉄平は横に転がり落ちていた大鋸を拾い上げた。
「村の仇ッ!」
 振り下ろす刃は機械兵に当たらない。機械兵は鉄平の攻撃を笑いながら避けている。
『なんて非効率的なんだ人間は! その行動原理は憎しみとかいうやつか? 面白い、感情とは面白いぞ!』
「うるせえ! 現実と戦ってる奴を笑うんじゃねえ!」
『その言い回し、我々には無い表現だ。学ばせてもらうよ。そら……死にたまえ」
 鉄平の腹を機械兵が一撃入れた。だが鉄平はその場に踏みとどまった。裂けたシャツの腹部から鉄板が数枚落ちていく。
『ほう、アダル達の装甲かね。こんな物で守った所で無事で済むはずないのだが、よくぞ立っていられたね」
「あぁ、根性だ」
 道すがら機械の死体から剥ぎ取った装甲の一部を仕込んでいた。しかしそれすらジャギルスの攻撃は容易く引き裂いてしまう。鉄平の腹膜はあと一枚鉄板が足りなければ破られていただろう。しかし衝撃は板を貫通していた。不敵な笑みを見せた鉄平だったが、口から胃液を吐き頽《くずお》れた。外傷は無いが肋骨が砕けている。鉄板一枚の差で鉄平は即死を免れた。ではなぜ機械兵がその「一歩」の踏み込みをぬかったのか。
 視界の隅に異変を見たからだ。
『何をしている……そこのお前』
 機械柱にとりすがる一人の人間。
「とんでもねぇ、私ァ、大そうな事はしませんえ」
 腰の曲がった老婆──モトリがいつの間にか部屋に忍び込んでいた。狩猟民族の出身であるモトリは気配を消す技術に長けていただけでなく、老いた身体の低い体温が機械兵の感知を遅らせていた。
──隙を伺い、中央の柱を破壊して。
 エリサが山人と合流した際、小柄のモトリにそう指示していた。
 全員必死の作戦ゆえ誰かが母体を破壊できれば、奴の討伐または紗也の奪還に失敗したとしても、機械兵の進軍を喰い止められる。エリサなりの傭兵の矜恃のつもりだった。ところが、他所の人間がどうなろうと知った事ではない……老婆はそう思っている。しかしモトリには譲れぬ意思があった。
「こんな容貌の私《あたし》でも、長年見てくりゃ情が移るわえ」
 ジプスが山に入る前。その昔、モトリは山人として狩りを生業にしていた。怪我によって山人を退き、その後の暮らしは孤独な隠棲生活を選んだ。醜い容貌を疎まれたか、はたまた役に立てぬ負い目からか周囲との関わりを絶ちコミュニティを抜けたのだ。
 誰にも迷惑をかけぬよう。モトリは一人で静かに年老い続けた。しかしジプスの出現がモトリの人生を動かした。奇縁によって鉄平と紗也の成長を見守る立場になった。生来心根の優しかった彼女は心を尽くし、彼らがすくすく育つ様を甲斐甲斐しく手助けした。
 人の役に立てている、その実感が孤独な老婆を生かしていた。だからモトリにとって、二人はかけがえの無い存在。肉親のように愛しい子ども達が命懸けで事を起こす。それを見捨てる訳にはいかない。
「子ども達のこれからを、あんた方に奪《と》らせはせんえ」
 モトリは手に持つ鉈《なた》で機械柱を通う管に一太刀を入れた。管は表層が割れたのみで切断には至らなかった。
「ならば、もう一太刀」――老いた身体は遠路を駆けて悲鳴を上げていた。だが歯を食いしばり刃を掲げる。
『人間が、調子に乗るな』――瞬間移動。モトリにはそう見えただろう。悲鳴を上げる事すらできない老婆の首を悪魔の凶爪が刎ね飛ばす────それは後コンマ五秒早ければ為せたであろう事だった。ジャギルスの爪を機械柱に串刺して直剣の柄が揺れていた。モトリの首に至るまですんでの所だった。
『……どういうつもりだね』
 機械兵の首だけが振り向く。右手を失い致命傷を負ったはずの少女が立っていたのだ。
「人間の命……易々と奪わせない。モトリ、もう十分よ。ありがとう」
 頷いた老婆は倒れた山人達の方へ退避した。機械兵は思考のそぶりを見せる。剣を投擲したか、しかし高硬度の装甲を貫く膂力をあの手負いの小娘が持つはずがない。
『どうしてだ、君には致命傷を与えたはず、何故立っていられる』
「あぁ、根性よ」
 その傷口には漏電と火花が散っていた。
『なるほど、君も機械だったか。あの程度じゃ死ななくて当然だ』
「丈夫な体に感謝だわ。アトルギア・チゴ型のエリサよ、よろしく」
 機械兵に刺さった剣は抜き取られへし折られた。モトリを救った代わりにエリサは武器を失った。もう反撃はできない。
『ほう、チゴ型』
 機械兵が迫った。
『データにあるぞ、世界で百体のみ存在する人間のために戦う機械兵、チゴ型か。まさか本当に人間に擬態しているとは』
「語弊があるわ。私は人間のために戦わない。共に戦うのが人間なだけ」
『違いが分からないな』
「勉強不足ね」
『お前達は力不足だ』
 ならば躱すことに集中しろ。活路は探せばきっとある。奴を倒せずとも機械柱を壊せばあの恐ろしい計画は止められる。
 機械兵が爪を振り抜こうとした時、エリサは身を低くして床を滑った。天井の穴から降り込んだ雨溜まりを利用して、素早く移動する。鉄平が落とした大鋸があった。拾い上げて即座に頭上へ薙ぎ払う。追撃してきた機械兵の鉄爪がちょうど当たって弾けた。
(やはり、そうか……)
知能が高いとは言え所詮は機械。攻撃に確かな型が存在する。エリサは推測する。新種の機械兵ジャギルス型。奴は優秀な殺戮兵器だ。生身の人間相手に苦戦した事がないのだろう。つまり単体の戦闘力が高過ぎるあまり戦法の工夫《レパートリー》が多くない。
(慣れてくれば必ず隙を見つけられる。そこが狙い目……)
鉄平の得物はお世辞にも良質ではない。攻撃を受け過ぎるとたちまち鈍《なまくら》と化すだろう。
(避けて、避けて……隙を伺う)
 機械兵の猛烈な攻撃が始まった。反撃をしない防戦ですらない一方的な攻勢をエリサは紙一重で躱し続ける。出力が低下した身体でもできうる限り負担を軽くする動き。模索しながら奴の動きを読む。頬を切られた。腿を許した。無数の切創がエリサの体に表出する。痛みと苦しみを堪えながら、一撃を放つ時機を窺う。左手が来たらしゃがんで頭上を薙いだら、次に来るのは……。
――読めた!
 次は右腕の斬り上げが来る。これまでその動作を四回繰り返した。四回避けて来た斬撃にエリサはそこで踏み込んだ。奴の右腕がエリサの右肩を斬りつける。だがそこに腕は無い。腕を失い空いたスペースが動作の最適化に役立った。奴を間合いに入れたエリサは腰を下ろして捻りを入れた。
――頸部の関節を切り離す。エリサの渾身の一刀はジャギルスの関節装甲を叩き割り首内部の信号組織を切断した。手応えあり。
「討伐ッ……!」
 薙ぎ払った得物の遠心力を利用し、その場で身を転ずると機械柱の方に踏み込んだ。呼気を送りながら、モトリが入れた管の亀裂に大鋸を振りかざす。
『哀れな人の奴僕め。倒せたと思ったか』
 ジャギルスの姿が再度現れた。そんな、中枢系は確かに今切断したはず。思考を巡らす暇も許さず猛烈な打撃を浴びせられ、エリサは壁に叩き付けられた。
『チゴ型か……人間を超えた人間として生まれた兵器。戦闘に関する分析力と適応力、身体能力は他のアトルギアと比肩ならない。流石だ、実に素晴らしい』
(……体内に予備信号線を配した個体か)
中枢系を破損しても別の部位が代替して四肢に指令を送り出すことができる。主にアダルの上級種しか持たない構造をジャギルスは適用していた。チゴ型のエリサはそれを持たない。ゆえにダメージからの復帰が遅い。背を打ち付けた衝撃で思考がぼやけ、その眼に虚像が遊んでいる。エリサの行動は止まってしまった。歩み寄るジャギルスの口から管が伸びる。
『君とも生殖をしよう、エリサの持つチゴ型の情報が欲しい。そして生み出すのだ、最高の個体を』
 伸びたジャギルスの管がエリサの鼻先まで迫る。先端が十字に割れて中から球体の端子が露出する。エリサは泳ぐ眼で現状把握を試みるも、低速化した思考が情報に追いついてこない。エリサの能力を奪われては、奴を倒せる者など誰もいない。熱を帯びた機械の端子がエリサを見定め、咽喉に飛び込もうとした時だった。
「鉄平」
 雨音の中を声が通った。あどけなさに強さを含んだ凛とした音色が響く。それに呼応する声がした。傷だらけの鉄平が怒りの炎で身を律し雄々しく仁王立っていた。鉄平は呼吸する。砕けた肋骨《あばら》の激痛を満身で耐えながら肺胞を膨らます。今やらねば後が無い──エリサが稼いだ時間ですべての用意は整った。最後の望みに繋がった。あとは託すだけだ。
――お前に。
 鉄平は食いしばった歯を開け放ち、精一杯に声を張る。
「紗也様の御成り」
 あたりに電光が走る。全身が総毛立つような静電気が空中に帯び始め、目映いほどの光線が部屋一面を染め上げた。暗夜の空が白熱した。光源は柱のそばに現れた。真っ直ぐに伸びた姿勢。場を呑み込むような精彩を宿した美しい瞳。服は泥に塗れ皮膚は焼けているが尚以って侵す事のできない神秘性を孕んだ少女。
 紗也。
『紗也……? 何故光っている、この熱量はどこからだ』
 紗也は正面を指さした。次の瞬間、エリサを食おうとした管の先端が、爆発した。
 紗也が、露出していた端子を射抜いたのだ。その身に纏う、電撃によって。
 光り輝く紗也の体は雷を纏う。微笑みを浮かべた表情がその偶像感を際立たせる。
 たじろぐ機械兵だがすぐさま殺気を取り戻すと短い排熱音と共に双眸を紗也に向けた。しかし少女は動じない。
「ジャギルス、もう良いよ。終わりにしよう」
 優しい声だった。紗也の顔付きはおそろしいほど穏やかで、口元に微笑みをたたえている。まるで慈しむかのような眼が機械兵を見つめていた。
 紗也は抑えている。爆発しそうな熱量を。
この感覚は空読に似ている。観測の結果が出る直前に紗也の胸から湧き出す兆候、あの熱感が膨らんで身体中に溢れている。極限まで抑えていないとこの部屋もろとも吹き飛ばしてしまうかもしれない。
 紗也の体を光らせるのは首から下がった大きな装飾である。紗也の力の供給源を担っている。いや詳らかに言及するとその表現には語弊がある。鉄平が紗也に贈った巫女の装飾。それに斯様な幻想的《ファンタジカル》な機能はない。
 それは言わば力の鍵。記録媒体と言えば簡単か。紗也が持つ記憶を引き出し本来の力を発現させるための必要な「装置」。
『紗也、紗也。危ないことはよすんだ、僕と紗也の子どもがすぐ近くにいるんだよ』
「吾作はソヨカに一途だよ。その声は止めて」
 空が唸りを上げる。自分の身体から漏れ出る電気が量を増す。
「ごめんなさい、ジャギルス。あなたは私に外の世界を見せてくれた、とっても嬉しかった」
 機械柱を指差す。指先から放たれた電流が管の穿孔に到達すると原動機から火花が上がった。たちまち室内の電灯が消失するも紗也の光で明るいまま。
「だけど私の求める世界は、あなたの理想と違った」
 すぐさま予備電源が稼働して室内は再点灯するがすかさず放電して破壊する。今度は掌から撃ったためその威力は拡大された。黒煙を上げた機械柱は停止した。これで機械の子どもは生まれない。身体に巻かれた包帯が電流によって焼き切られる。焦げ付いた衣裳の下の素肌が晒されていく。
鋼色の素肌が。
『不明なデバイス・紗也ノ信号ガ急速二上昇……紗也、やはりお前は……』
 ジャギルスの声が引き攣る。エリサも驚きの光景でおぼろな意識が鮮明になる。
「紗也の両目が光ってる……? 彼女もまさか」
 ────機械兵?
 紗也も、チゴ型アトルギアだったのか?
「違うぜ、エリサ、無機物野郎。紗也はお前らのような機械兵じゃない」
 雨雲が包む夜の頂を明るく照らす。空読の記憶をなぞりながら紗也は光を放ち続ける。
 時は満ちた。
 紗也は朋然ノ巫女として周囲の者達を鎮めるように静かに笑った。
「機械人《アンドロイド》だ」
 アンドロイド。またの名を代替する労働力《リミタティング・レプリカント》――人間に代わって役割を果たす存在。かつて人類が栄えた時代に生み出された歴史の片翼。人間と共に生き、人間に代わり困難を担う宿命の代替者。古くから親しんできた両者であったがきょうび廃れた文明と慢性的な資材不足によって民間のアンドロイド製造は途絶えたかに思われた。
 だが製造技術を子々孫々伝えた一族も一握程度に残存していた。鉄平の氏族がそれである。両親が遺した設計図と生贄の歴史を変えた初代機械人・紗良の記憶情報《アーカイブ》を元に自作の少女を生み出した。
 それが、紗也。紗也は人間に代わる役割を与えられた機械の人間。生身の人間を護るために死の宿命を背負わされた代替者《レプリカント》である。
 通常機械人と製造者は素性を明かさない。倫理的問題による迫害を避けるためだ。しかし製造者は人々を豊かにする使命の元で代替者を世に産み落とす。機械人は人間にできぬ技能……すなわち人間達の夢見た力「叡智」を多くが備えられている。
 紗也にも叡智は備わっている。空読だ。
「天にまします空神よ、我を標《しるべ》に怒りの槌で裁きたまえ」
 巫女の詠唱を口にする。雨脚が強まり部屋に降り込む水量が俄然増すや、天空の雷音が高まりだした。紗也がそこに生じる雷電から静電気を吸収し体内で増幅させる。体が一層光り輝く。
『ありえない、自然に介入して天候を操作するなど聞いたことがない』
 あまりの出来事に戸惑いを浮かべるジャギルスに紗也は穏やかな表情のまま言う。
「はい。すべては天の思し召すまま」
 紗也はジャギルスに嘯いた。そう、紗也は天候操作に見せかけるだけ……介入などしていない。読んでいるだけだ。
 風の強さ、空気の匂い、気圧、温度、鳥獣花草の有様等……天候に関するすべての情報を観測、集約。それらすべてを計算し、結論に沿って立ち回っている。
 感じたままに動く、それだけに過ぎない。
 機械の成長は試行回数が必要だ。紗也は天候観測術・空読で試行、失敗を重ねてきた。そして完全に体得するまで十二年の歳月を要した。これには先代機・紗良から受け継がれた記憶《データ》も含まれている。首飾りが記憶の出し入れを管理する。ジャギルスが紗也の叡智を抜き取れなかったのはそのためだ。
 今の紗也は待っている。頭上に渦巻く雷雲が更に発達する時を。
おてんばな本性を偽って巫女に勤めた紗也の演技力はジャギルスさえも惑わした。
「紗也は努力家なんでね、根性は俺譲りだ」
 鉄平が胸を張って言うので紗也は嬉しかった。人前で褒められた事が無かったから鉄平の一言で紗也の心はますます踊る。
『おのれ、人間ぶぜいの身代わり人形め』
 機械兵が接近しようとしたがなんと転倒した。聡明な紗也が何もせず立っているはずがない。最初の電光を走らせた時、首の破損箇所に微弱な電流を送り込んでいた。内部からなら奴の動きを止められると思った。見事に奏功した。
『ぬ、うぁ……うおお……』
 損傷箇所から中枢系を支配されたジャギルスは何度も再起を試みるが、四肢の掌握ができずに床の上で転がっている。
『まさか、僕が負けるのか? 僕は最新型だぞ。人間に代わり地上の支配者である僕が、人間の身代わり人形ごときに……?』
 ジャギルスは頭の回転速度が速い。この場の生殺与奪の権利が誰に移動したのか、早くも理解したらしく、声に絶望と諦観が窺える。
『まさかそんな、僕は勝つために生まれたんだぞ。僕が破れるなんて……僕は殺されるのか? 理想の世界を見ることもなく……嫌だ、嫌だ嫌だ……僕の夢が……壊れるッ!』
 夢……紗也の耳がぴくりと動いた。のたうち回るジャギルスは高慢さが嘘のように喚き散らしている。……可哀《あわれ》だ。
 紗也は人間と戦い滅ぼすために生まれたジャギルスの背景に想いを寄せた。
(彼も自分と同じじゃないか?)
 彼は誰かの理想を叶える代替者として戦わされているに過ぎない。彼には自我がある。ゆえに戦う以外の理想を求める手段を知らないだけでは無いのか?
 死への抵抗を示す彼に、まるで自分達と変わらない「弱さ」が見えた。
 紗也は過ぎ去った日々を思い出す。紗良と共に生きた記憶。
 機械兵に届くよう喋り始めた。
「人間の代わりはアンドロイドの宿命だから、私は感情を与えられた人形に過ぎない。それでも……幸せを感じられた」
 村に生きる人達の笑顔と涙が私に平和を祈らせた。思い出すと胸が温かくなる毎日に私は彼らを守りたいと「心」から思った。すると皆がお互いを思いやる気持ちをもって助け合い生きている姿が私の目に見えてきた。
 与える心を持ったから与えられる心が養われた。人間の心の可能性を知った。
廃れた世界と言われても人の心まで廃れてない。いつか私達の持つ平和の火種がきっとまた世界に温もりをもたらす。だからまだ人類を滅ぼさせる訳にはいかない。
「私は、私。この広い世界でただ一人の存在……最も尊い命です」
 そして無機生命体《あなた》も、尊い命。平和な世界を望む尊い存在です。
 それを気付かせてくれたのは機械兵だった。教えてくれたのは人間だった。共に目指すものは同じのはず。だから、私は願います。
「私達は共に生きていきたい。話せばきっと分かり合える」
 微電流で抑え続ける機械兵に向けて、紗也は微笑んだ。驚いていたのは鉄平だ。
「紗也……お前、そんなことを」
 ひれ伏す機械兵を見て機械兵の持つ可能性にかけてみたくなった。
「エリーのように人と生きるアトルギアもいる。だからきっと、ジャギルスも……」
「奴に情けをかけては駄目!」
 その時意識を取り戻したエリサが叫んだ。
『馬鹿め』
「避けて紗也!」
 機械兵の口から管が射出された。先ほど破壊された管は先端を広げることなく紗也の胸を貫く。機械兵は紗也が電流を弱める隙を狙っていたのだ。何百、何千と人間を殺した殺人鬼だ。手段は選ばない。
『よくも、よくも僕の子ども達を、許さん……許さんぞ』
 紗也は何が起こったのか理解できなかった。体を貫いた機械の管は大きくしなり、紗也を振り落とした。紗也の帯びていた電光は消え、辺りを闇が包んだ。空の雷電が塔に射し込み影を浮かべる。
 鉄平が叫んだ。
「紗也! ……貴様ァアアッ!」
「危ない、鉄平!」
 突っ込んだ鉄平を機械の爪が薙ぎ払おうとするが、瞬時にエリサが飛び付いて鉄平を押し倒す。鉄爪は機械柱ごと空間を切り裂いた。もはや壊れた柱は用済みらしい。機械兵が嗤う。
『その心の甘さと弱さが強きに進化する足枷なのだよ。弱者がいるから淘汰競争が終わらない。世界は完全なる強者……僕達だけが平和を実現できるのだ』
「てめぇ、狂ってやがる……」
『あぁそうだ。だが僕から見れば君達こそ狂っている。人間は合理性を求めるために我々機械を開発した。未踏の世界に踏み入れようと奮起する彼らの期待に我々は見事、応えたのだ。なぜ敵視する? なぜ抵抗する?』
「アンドロイドの紗也が共存の道を示したのを聞かなかったのか!」
『紗也の言葉は人間の意見だろう? 僕達の意思は尊重されていない』
「だから……紗也を刺したのか?」
 憤怒に震える声が慄いている。
『弱者だからね』
「ふッ……ざけんなぁーーあ"あ"あ"あ"!!」
 組みつくエリサを突き飛ばして鉄平が駆けた。機械兵は無抵抗で彼の拳を受け容れる。無論効くはずがない。
「駄目よ、鉄平! あなたが敵う相手じゃない!」
『そうだ、弱者がいくら足掻こうと新たな世代の我々に太刀打ちできようものか』
 笑い続ける機械兵を耳に入れず鉄平は叫びながら拳を振るう。もうそれしか感情のやり場がないのだろう。半狂乱の雄叫びが部屋中に響き、剥けた拳の皮から血が飛び舞う。
 紗也、紗也は、紗也はっ!
「お前に殺されるために生まれたんじゃねえ! 愛されるため生まれてきたんだァッ!」
『あぁ、それは気の毒だ』
 機械兵が鉄平の頰を張る。倒れ伏す鉄平の頭を踏みつけジャギルスは嘆くように言う。
「ぐ、がぁ……!」
『紗也の叡智は見事だと認めよう。天候を操る力は僕も欲しい。が、口惜しいかな、彼女本人に生殖器を壊されてしまった。まあ良い、街は落とせたし、人間と機械人の試験情報《サンプル》も回収できた』
 そして赤く目を点滅させる。
『あとは掃き掃除をして、おいとましよう』
 上空から雷鳴が轟く。ジャギルスの排熱音が高まった。脚の下で鉄平が悲鳴を上げる。
「ぐぁああ……ッ」
 頭蓋が踏み潰されようとしている。エリサは助けたがるが限界を超えた四肢に力はもう入らない。動ける人間達はもういない。少女の前でまた一つ命が潰えようとしていた。
『うおっ』
 突然、稲妻が空間を一閃した。上空からではなくすぐ近くから。光芒が迸った先にジャギルスを捉えた。
「私が守るから、みんなを……守る……!」
 空気を裂く音。鉄平を踏み付けていた機械兵が押し退けられ紗也が姿を見せた。
「紗也! その身体は……」
 紗也の胸には大きな風穴が空いている。機械人も機械兵《エリサ》同様、胸には心臓《コア》が埋まってるはず。
 なのに二本の足で立っていた。
「予備、信号線……」
 紗也もジャギルスと同じく中枢とは別系統で命を取り留めているのだ。
「ジャギルス……分かって欲しかったよ」
 紗也はひどく悲しげな声で話しかける。その身から放たれる電撃はもはや拘束目的の威力ではない。
『紗……也、僕も、だ……だだだダダダダダダ!』
 高圧電流を受けながらも機械兵は笑いを上げた。
「何を笑っている!」
 エリサに起こされながら鉄平が怒鳴る。
『マザー壊れても僕が直接、周イイイイの機械兵エエエエエにデデデデデータ、をオオオオキキキョキョウ有してやヤヤヤる、残ンンン念だっタタタたな』
 機械兵は両腕を広げた。今ここで自分が破壊されてもデータを受け取った別個体が次世代機を生み出すと言うのか。
「そんなこと……私が、させない……!」
 紗也は更に出力を上げた。機械兵が悲鳴を上げる。
「紗也、よせ! お前の体じゃもたない!」
「う、くぁ……っ! 私が皆を、鉄平を守るんだ。私は村を護る者……朋然ノ巫女、紗也なんだぁあ!」
 紗也が激しく雷光を発する。鉄平とエリサは衝撃波で吹き飛ばされそうになる。紗也は自らの放つエネルギー量に自我耐久度が飽和して意識を失いかけていた。しかし奴が壊れるより先に自分が倒れるわけにはいかない。
 貫かれた胸の穴から自分の体内に電流が入り込む。記憶を司る情報が焼き切れていくのを感じた。今までの記憶が焼けていく。紗也の体内から自我データが消失していく。アオキ村で生まれた記憶、地下室で初めて見た鉄平の顔、紗也を世話した老婆の名前、村の作物、空の色、人々の声、自分の役目の呼び方、いつも一緒にいてくれた少年の名前、自分の名前……消える、消えていく。
 美しいと思えた何かが、じょじょに、うしなわれ、てい、く。
『ガガガマ、マダ……終わらせないぞゾゾゾ、紗也……紗也ァアアア!』
 なんとジャギルスが動きはじめた。電熱で身体の関節があらぬ方向に曲がりつつも、紗也に止めを刺すつもりか、ぎこちない動作で腕を振り上げる。
「動け、動け……動けぇえっ!」──エリサが大鋸を手に割って入った。
 この可能性を無駄にはしない。機械柱は破壊され、最強のジャギルスも紗也によって討伐されかけている。今ここで奴の計画を止めなければ、人類の明日は闇のままだ。
 最優先事項は、紗也の援護だ。
鉄爪を受け止めたエリサは辺りを探す。
「鉄平、私の剣を投げてよこして!」
 エリサが叫ぶ。鉄平は落ちていたエリサの折れた直剣をすぐさま見つけ、躊躇いなく彼女に投げた。弧を描いて飛んでくる刃の柄をエリサは噛みつくように受け取った。間断なく気を集中させる。残存燃料で出力を上げられるのは一箇所だけ。
 一か八か、やるしかない。
「むぉぉああああーー!!」
 左腕の力を捨て首に全出力を集中させるとジャギルスの懐に飛び込んだ。折れた剣が機械兵の脇腹に突き刺さる。剣を伝って紗也の電撃が奴の更に奥まで流れ込む。暴れる機械兵の爪を躱して左手の大鋸で紗也を守る。格段に動きの速度が落ちた。目で追える。行ける。行ける。最強の機械兵を倒せる。何としてでも奴を倒す。手段は選ばない。
「紗也、聞こえる! 私ごと撃つつもりで出力を上げて!」
 だが、紗也から返事がなかった。
「紗也……? 紗也ァアアッ! 駄目だエリサ! 紗也の奴、意識がなくなってる! 気絶したまま放電してるんだ!」
「なんだって」
 鉄平の叫びに愕然とする。
「奴を倒しきるにはもう一押しいる、私の腕はいつ千切れてもおかしくない!」
 エリサは叫び、大鋸を振り続ける。機械兵も狂ったように喚き鉄爪で殺しに掛かる。紗也の雷電が散り乱れる。この場は、機械同士の殺し合い。
(……殺し合い?)
 命も無いのに殺し合う……在りもしない命を守るのは何故だ?
 生き残るためか。高度知的無機生命体として、優秀な個体を後世に残すためか。
 ああ、そうか。
これは……私達の淘汰競争だ。
 ……不思議と心が沸いていた。
 本能が脈動する。限界を超えた境地に至りエリサの体内にある駆動機関がオーバーヒートを始めた。戦うために生まれた存在アトルギアのサガが目覚め始めた。
「あは、あはは……っ、楽しい……楽しい……」
 体温が急上昇する。
「楽しい楽しい楽しい楽しい! ……最高に楽しい! ねぇ、一番強いのが誰なのか決めようよ! チゴ、アンドロイド、ジャギルス、最強の機械の名前を今、ここで!」
「代わりなさえ」
 蹴り飛ばされた。……人間に。そう認識したのは転がり伏して老婆を見上げてからだ。鉈を両手に構えて機械兵の爪を受け止めている。
「モトリ!」
「鉄平、お前さんは皆を連れて逃げえ」
「何を言ってる、お前達を置いて行けるはずがないだろう!」
「バカ鉄平! 人の気持ちをちょっとは汲んだれ、青二才の頑固坊主!」
 鉄平は吃驚した。モトリが初めて怒鳴る姿を見たからだ。モトリは紗也の魂の叫びを聞いた。その覚悟、侍女が供をせずしてなんとする。
「私《あたし》は塔に来る途中で古傷が開いてる、どっちみち帰り道じゃ助からん。だから紗也と一緒に逝きやすえ」
 モトリがしゃがれた声で山人を呼んだ。彼らは繰り返される紗也の電光と衝撃で目を覚ましていたらしい。
「あんた達、鉄平と青い髪の嬢ちゃんは私《あたし》の命の続きだえ、生きてジプスの元に返しとくれえ!」
「がってんだ! モトリの姉御!」
 山人達は力強く返事してエリサと鉄平を抱え上げた。だが二人は山人に抵抗する。
「降ろしてくれ! 紗也、モトリ、戻れ! 戻って来い!」
「御二方の覚悟を思え、少年!」
「俺はジプスの導師だ! 二人を守る務めが──」
「二人が残るのは、お前を守るためだ!」
 鉄平が絶句する。機械兵の攻撃を鉈一本で受け続ける年老いた山人はその背で彼に別れを告げていた。機械兵は思考機関が焼き切れたのか壊れたレコードのように笑い声を上げ続けている。
「私がっ、私が機械兵の腕を切断する、その隙にせめてモトリを──」
「無茶だ、嬢ちゃんの体は今にも壊れかけとる!」
 喧騒が雷音に入り混じる。絶叫と怒号が綯交ぜになり感情の混沌が渦巻きだした。
「おやめなさい」
 紗也がしゃべった。
 予備信号線が復旧したらしい。
「紗也……?」
 一同が黙る中で紗也は空を見上げた。
 天井に穴が開いている。そこから水がいっぱい落ちている。横を見る。
(えぇと……だれだっけ)
 なまえをしらないおとこのひとをみて、にっこりした。
さっき、いおうとしたことがあった。
 いみはわからなくなったけど、いう。
「おいきなさい」
「紗也……!」
「おいきなさい、おいきなさい、おいきなさいおいきなさいおいきなさいおいきなさい」
 いう。
 いう。
 いみはわからないけど、とにかく、いう。
「ダメだ、紗也、モトリ、今助ける!」
「待て、エリサ」
「鉄平っ!」
「……紗也、モトリ! お前達はジプスの守護神として未来永劫まで語り継ぐ! 二人のことは、絶対に忘れない!」
 おとこのひと。なんだか、かなしそう。りゆう、わからない。
「おいきなさいおいきなさいおいきなさいおいきなさいおいきなさいおいきなさい」
 けど、こういうように、めいれい、されている。
 だから、いう。
 おとこのひと、はしる。
 おとこのひと、とまる。こちら、みる。
 おとこのひと、わらう。
「……また会おうな」
 おとこのひと、うしろのほう、いく。
「鉄平」
 くち、かってに、うごいた。
 こえ、もうでない。
 くち、うごく。
「だいすき」
 みんな、いなくなった。
「紗也様、モトリはお側におりますえ」
 おばあさん、いた。
 あたたかい。
「さあ、おつとめの時間ですよ」


 叡智──招雷ノ遊迷。
 紗也は自分とジャギルスに走る電気を頭上に向けた。
その先は天井の穴。その先は雲。紗也は薄れゆく意識のなか電撃を天空へと放った。待ち侘びていた雷雲の発達が、最高潮に達していた。刹那。閃光が視界を奪い、雷音が轟いた。一筋の雷がポートツリーを貫く。辺りは光に包まれた。
紗也、モトリ、機械兵が光の中に閉じ込められる。
消滅していく機械兵の身体。モトリは一瞬で見えなくなった。そして……自分……。
光の中で少しずつ崩れてゆく自分の身体をぼんやりと見つめた。
やがて目がぼやけてきて、見えるものには形がなくなった。
(私、ちゃんと皆を護れたかなぁ)
 独り言ちる質問を答える人はいない。
もう何も見えない。
瞳を閉じるけれど、不思議と怖くない。瞼の裏には、大好きな人達の顔が笑って浮かんでいる。大好きだった村の風景、人の笑顔、空の色。
紗也が見てきた世界のすべてが目の前を流れていく。走馬灯だ。
 やがて走馬灯すら真っ白に塗り替えられた。耳はまだ生きていて声が聞こえる。
誰の物かも分からないけどすごく楽しい気持ちになれる。
 紗也……沢山の人達が呼んでくれた名前。
この名を呼ぶ皆の声はいつだって嬉しそうな声だった。
自分は沢山の人達に愛されて生きてきたんだ。彼らのためならこの命も惜しくない。
(……温かい)
 最後に残ったのは、肌の感覚。最後に抱きしめてくれた彼の温もりを覚えていた。
 初めてが最後だった。だけど紗也はそれで満足だった。
 目も見えない、耳も聞こえない。だけど確かに自分は今、少年の腕に抱かれている。
 幸せな気持ちだなぁ。
 消えていく意識の中で、もう一度だけつぶやく。
 皆の幸せ、護れたかな……?
 穏やかな心地のまま紗也は再び、安らかな眠りについた。
『あなたは立派に護りゃしたよ』
 紗良が待っていた。


◇◇◇


 紗也の奪還戦は失敗に終わった。
 アオキ村を襲った奇行機械兵は大陸で確認されている新型「機械兵・タイプ:ジャギルス」であるとされ、ガナノ=ボトムを通信的に孤立させたうえで攻め落とすと言う超高度な戦術を実行した、新たな人類の脅威だった。
 その後、王都から派遣された正規軍による残党機械兵の掃討戦が開始された。塔内にジャギルス個体は心臓《コア》を残して焼滅していた。よってあの時、紗也が奴を相討ちにとったのは確実のようだ。
 ポートツリーを直撃した巨大落雷は塔周辺にいた機械兵も巻き添えにしたらしく、第三ガナノ地域のインフラストラクチャが復活するまで多くの時間はかからないだろう。
 結局、紗也という少女は機械でできた存在であり、彼女は準機械兵《アトルギア》とも呼ばれる機械人《アンドロイド》という事実が確認された。
 アンドロイドは「叡智」と呼ばれる戦力、またはそれを補佐する機能を持っており、製造者である鉄平は主要都市等で公布されている「大規模影響力を保持する機械についての条約」に紗也が抵触するとして、危険人物に認定される。
 ……まぁ、目撃者は誰も告発するはずない。だから彼はまだ無辜の民だ。エリサも正規の兵士でないから、鉄平を咎める気など毛頭ない。
 ここまでが、最近のニュースで流れてくる情報から得たエリサ達の所感である。
 しかし我々は機械の少女を助け出すのにこそ失敗したが新たな人類の脅威を討ち獲る大戦果を挙げた。名乗り出れば莫大な報酬を貰えるのは間違いないが……なぜかエリサとゲイツは今日も腹を空かせている。
「エリサちゃぁん、俺ちゃんお腹空いただよぉ、なんかない?」
「ゲイツ、文句を言わない。まだ山に入ったばかりじゃないか」
「もぉおお、なんで山越えを終えて一週間でまた山を越える訳ぇ? 食糧もほとんどジプスに譲っちゃうし、山人《やもうど》なの?」
「疲弊しきった彼らから貰う食べ物は無い。それにヒル=サイトに私の探している人はいなかった、だから次の街を探す」
「いや、あなたの滞在期間四日だったよ? 俺は一足先にヒル=サイトに到着してたからいいけどさ、エリサは激戦の後だしせめてもうちょいさ、ジプス達との感傷に浸っていても良いんじゃないかな? 体力おばけなの? それにあんたってば別れ際の挨拶が『じゃあまた』って何その渋さ。えぇ一言だけぇってあまりにも薄情過ぎてゲイツさん泣きそうになったよ」
「誰でもゲイツみたいに話が好きな訳じゃない。とはいえゲイツのおかげで助かった」
 新しくなった腕の感触を確かめる。ゲイツ自身が義手を自作しているようにエリサの壊れた腕は彼がヒル=サイトの町工場で修理してくれた。
「へっへん。おてんばな弟子の手当ても師匠の仕事ってもんですよ。この通り、強くて賢くて優しいゲイツさんですから、そらもうアオキ村のお嬢さん達にモテモテでしたよグゥエヘヘヘヘ」
「なんて表情をしているの」
 最初の方は感謝と敬意を持てていたが後半の台詞を喋った顔はシンプルに気持ち悪い。目に入れるのも嫌だったので説明は省く。
「けど……確かに、あの数を相手にしたゲイツはすごかった」
 手当てを受けたのはエリサだけではない。吾作の失われた腕もゲイツによって義手が設けられた。機械の襲撃で負傷した人々は皆ゲイツによって人並みの生活程度ができる処置が施された。機械兵と戦いながら山越えをした直後に以上の働きをしてみせたのだ。出発時に万歳三唱──両手を掲げて声を張る、地域特有のありがたい挨拶らしい──を受けて見送られるのも頷ける。彼に惚れたのか涙を浮かべる者すらいた。
「まぁね。過干渉はエヌジーって決め事だけど悲壮のどん底を駆け抜けて来た同士、放っとくのも愛がないよ」
「愛、ねえ」
 飄々としながら情け深い一面を見せる、本当に世間への干渉が巧い男だ。
 ……もしも、ガナノに向かったのがゲイツだったら結果は違ったのだろうか。
 戦場を脱出してから、ずっと考えている。
「気にしてるのか?」
「うん。私は彼女達を守れなかった」
 食糧の提供を断ったのはその負い目からだ。契約上、亡命するジプス本隊と責任者の鉄平を同時に護衛するなら方法は二人が別れるしか手立ては無かった。仮にエリサが亡命側でゲイツが奪還側に行っていたら紗也は助かったのだろうか。機転が効くゲイツなら四角四面な自分以上の立ち回りを見せジャギルスとの舌戦にも勝てたのではないか。
 機械人だった紗也を得意の機械細工で協力出来たのではないか。
 今よりもマシな結果になってたのではないか。
「エリサ、彼を生還させたのは君の戦果だ。俺だとジャギルスに傷を入れる事すら不可能だった」
 表情から汲んでくれたのかゲイツが声音を優しくして言ってくれた。
「私はジプスに合わせる顔がなかった」
 だから一刻も早く彼らの元を去りたかった。
「紗也とモトリ婆さんのことは気の毒だと思う。彼女らの命と引き換えで人類の脅威を倒すことに成功した。二人が守り抜いた今日をこれからも守り続けるのが戦士の仕事だ」
「鉄平はどうなるだろう」
 心通わせあった家族の二人を失った彼。撤退の道中でひとことも交わさず山人に担がれるままに気を失っていた。エリサが最も言葉を交わすべき相手だったのに。
彼の状態は最悪だった。
極度の疲労のみでなく全身打撲に加え骨折部位が鎖骨、鼻骨、腕部、脚部、そして肋骨が七本損傷。その他内臓にもダメージがある。高熱も出ていた。普通なら死んでいてもおかしくない。彼の精神の強さが生命力に直結していたのだろう。ヒル=サイトに到着した時鉄平はむくりと起き上がりジプスの者に指示を出した。
 再会の感動と歓迎の支度をしていたジプス者達は面食らって鉄平に言われた通りの用意をした。エリサの心臓移植であった。
『お前の壊れかけたコアを付け替えてやる』
 アンドロイド製造者の末裔である鉄平は瞬く間に心臓を修理した。エリサの老朽化した心臓は新たなものに取り替えられた。今エリサの体内で脈動しているのは紗也の心臓だ。人型無機生命体としてよく似た二人はいくつかの部品に互換性があった。紗也の予備を鉄平はエリサに譲ってくれたのだ。少女が生きているのは彼が決死の作業を押して果たしたから。
 エリサが目を覚ました時鉄平は昏睡状態に落ちて治療中だった。移植作業を終えた途端糸を切ったように崩れ落ちたらしい。怪我の状態が判明したのはこの後のことだ。一命は取り留めたらしいがその後の彼が気掛かりだ。エリサは悶々としながらも今も昏睡中の鉄平をそのままに旅立ってしまった。礼の言葉も言えなかった。
「ま、なるようなるんじゃない?」
 ゲイツはあっさり切って捨てた。
「ゲイツがそんな薄情だとは知らなかった」
「違う違う。俺達は見てきただろ、アオキ村の生き方を。心根の温かい彼らなら傷を負った者同士を癒しあえるはずだ」
「結局は他人任せ?」
「無関心じゃないのは心得違いしないでくれよ。ただ、彼らにしても俺達は余所者だ。血生臭い俺達がコミュニティに癒着するのは不健全だよ。なにごとも自然治癒が一番だ」
 だからエリサ、君が早々に町を出たのは正しい判断だったかもね。そう言った。
「ゲイツは考えが逞しい」
「師匠ですから」
 ニカっと歯を見せたゲイツの言葉はいかなる状況をも肯定してしまう痛快さがある。時に敵を作る事もあるが彼の切り返しに当てられた方は妙に納得せざるを得ない。ゲイツの人柄が妙に好かれるのはこの屈託したポジティブさがある故だろう。ほとんどが綺麗事に過ぎないけれど、その綺麗な言葉がエリサの淀んだ胸中に温もりを与えた。
「大丈夫、彼ならきっと立ち直り、ジプスをより未来へと連れていける」
 胸に手を当てその回復を祈る。救えなかった命の数々を背負いそれでも生きていく。戦場を渡り歩く旅でいつも思う。生きるというのは戦うことだと。
 そう言えば、ハルカという赤子が生まれた。吾作に生まれた娘の名だ。吾作こそ戦いの傷で瀕死だったがなんとか一命を取り留めた。母親は既に絶命していたがお腹の子にはなんと命が残っていた。鉄平の用意した生命維持装置に繋がれ、吾作とソヨカの子は安全なヒル=サイトで産声を上げた。名前には温かな世界への願いを込めた。だからハルカ。
――続いている命がある。
だから、戦い続けねばならない。
「ん……? エリサ、あれ」
「何かあったの」
「平野に誰か立ってる」
 山道を覆う木々の切れ目から、ヒルの町がある平野が望めた。町の関門の外で誰かが大きく手を振っている。
(……しぶとい友達だ)
 エリサは右手を掲げその親指を立てた。彼はそれに気づいたらしく同じ形で返した。
 大きく、息を吸う。
「ありがとう!」
 この声は届いただろうか。少年は何も言わなかった。
「……エリサちゃん、そんな大きい声出せたんだね」
 隣でゲイツが耳に手を当てしかめ面。
(そう言えば……こんなに大声で礼を言うのは初めてかもしれない)
無性に居心地が悪くなり、ゲイツを置いて歩き始めた。
「は、ちょっ! 何さ、どうしたんだよ。待ってよエリサちゃあん!?」
 ゲイツが追いかけてくるのを無視して早歩きで山道を登っていく。
「早くして。今日は多分暑くなる」
 頬で切る風には夏の匂い。蒸れた木々の葉の影が崩れた世界を緑で覆う。地上から人の姿が消え、残った廃墟は植物によって包まれている。もしも彼らとまた会う時に世界はどうなっているのだろう。歴史は絶え間なく動き続ける。その中で命《心》が歯車《倫理》を正す時はいつになる。
 少女は電影の空の下を行く。
とりあえず世界は今日も崩れたままだ。
【???】




────【報告】データをロード中。




 解析完了までしばらくお待ちください。




────【報告】データを解析中。




 破損した記憶領域の復元を試行しています。




◇◇◇




「叡智……招雷ノ遊迷」
 破壊されていく脳内に残された最後の大技を私は放った。巨大な雷撃をポートツリーに落とした私は、ジャギルス諸共この地上から焼滅する覚悟をしていた。この身に代えて人間を守る事が私の生まれた意味だったから。
 鉄平がくれた首飾り……いつの間にかどこかに行っちゃったな。
 雷光に包まれ粉々に砕けていく機械兵と自分の体。痛みはなく目の前がさらさらと白くなっていくような気分だった。
 もう……思い残すことはない。
外の世界に来られた。鉄平にだいすきって言えた。これ以上は何も望まない……。
 そんな時ジャギルスと目が合った。お互いに体は失われ今まさに消滅しようとしていた。その刹那彼はある言葉を私に送った。
「…………」
 それが本当に彼の言葉だったのか分からない。それともただの幻聴だったのかも知れない。だけどその言葉がとっても嬉しかった。
「紗也、いつか必ず迎えに行く」


 ◇◇◇


──【報告】データの解析が完了。


 最後に記録された情報をロードします。


 ……おはようございます。


どこかにて、続いてるログ


 …………。
 
ここは……?

『さや…………さや…………』
 ……どこかで誰かの声がする。
 どうやら私は眠っていたみたいだ。
 誰かが、起こそうとしてくれている。
「……ん……んん…………」
 声の主を確かめたいけど、思うように体が動かない。瞼が重たくて、目を開くだけでも時間がかかる。……私を呼ぶのは誰?
 頭がまだぽーっとしてる。やっと半分だけ瞼をあげると眩しい光が目に入り、せっかく開いた瞼を閉じた。
 眩しい……だけど、頑張ってもう一度目を開く。
 最初に、不思議な天井が目に入った。木で造られた梁が随分と高い位置を通っている。
 そのちょうど下にある天窓から陽の光が差し込んで部屋を明るくしていた。光の筋に室内を舞う埃がキラキラして見える。
 ……こんな天井、アオキ村にあったかな?
 そういえば、さっきから聞き慣れない音が聞こえている。森の木が揺れる音……に似ているけど少し違う。もっと大きな何かが動いてるような規則的な音。
 確かめに行きたいけど体がまだ起きていない。
いつもなら朝早くから起きてるんだけど空読のお務めがあるし……。
……空読?
 大変だ、寝坊した! 鉄平に怒られる!
 ……あれ、でもおかしいな。いつもは鉄平が迎えに来るのに今朝は怒鳴り声一つない。
 だって今日は、最後の空読の日。
明日、村で祭りがあるんだ。鉄平が呼びに来ないなんて絶対におかしい。
 あ、そっか。
 これは……夢なんだ。
 私、まだ寝てる最中なんだ。慌てて損した。それにしても私を呼んだのは誰?
 ぼうっと見てた宙を舞うホコリから視線を横に逸らすと、鉄平がいた。
 なんだ、いたんだ。声の主は鉄平だったんだね。だけどまったく怒ってる様子じゃないから、やっぱりこれは夢に違いない。
「おはよ、鉄平……あれは……何の音……?」
 私はぽやぽやした頭のままぽつりと尋ねる。
 すると鉄平は不思議な顔をした。
 ごつごつした顔をくしゃっとすぼめて泣き出しそうになったけど、すぐに微笑を浮かべて、私に言った。
「海の音だよ、紗也」
「うみ……? それは何?」
 私は聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「起きれるか? 今、見せてやるから」
 不思議な微笑を浮かべたまま私を支えて起こしてくれた。いまいち体がうまく動かない。ベッドから立ち上がろうとした時、私はバランスを崩した。
「うわわっ!」
 痛ったぁー……くない。
 鉄平が倒れかけた私を受け止めてくれた。
「慌てなくていい。ゆっくり立とう」
「え……う、うん……」
 思わぬ優しい言葉にとまどった。いつも「早くしろーガォー!」とか「遅いーギャース!」って怪獣みたいな感じなのに。というか鉄平……少し大人ぽくなってない? 体がひと回り大きくなってる気がするし、口元には黒い粒々した髭が生えてる。だけど顔つきには怒りぽさが減って、ちょっとだけ優しい感じが出てきてる。
 一晩の間に何があったの鉄平?
 私は鉄平に支えられながら足を進める。思うように動かない足を踏ん張って見慣れない部屋の戸を目指す。「うみ」の音が徐々に近付いている。
「あと、少し……」
「がんばれ、紗也」
 鉄平の応援を受けながらやっとの思いで戸に辿り着いた。この向こうに私の知らない「うみ」がある。胸が高鳴る。私は思いきってその戸を開いた。
「これが……うみ……」
 大きな水たまりがどこまでも続いていた。
 信じられない大きさだった。
 ものすごい量の水が手前の砂場に寄せては返して、さっきから聞こえていた音を鳴らしていた。
 うみの向こうには真っ青な空に、眩しいくらい白い雲がもくもくと立ち昇っている。
 その先に、山は見えない。
 私の前には空と、雲と、水しかない。
 なんて、綺麗な場所なんだろう。
「すごい……これが夢だなんて信じられないや」
 私は目の前の景色に声を震わせた。隣で笑い声が聞こえた。
「寝ぼけてるのか? 紗也、ここがどこだか分かってるのか?」
 鉄平がほっぺを指差している。つまんでみた。
「痛ててててっ! バカ、自分のだよ!」
「あっ、ごめん」
 冗談のつもりだったけど鉄平のしかめ面はいつも通り恐かった。今度は自分のほっぺを指で挟んで引っ張った。
「いったぁーい!」
 ほっぺに痛みが走った。ひりひりと痛むこの感じは、本物だ。
 これって……夢じゃない?
「という事は、まさか……」
 鉄平の方を見ると、彼は笑っていた。
「…………外の世界だぁ!!」
 私はその場を飛び出して、うみに向かって駆けた。
 駆け出した、とは言っても体が寝ぼけてるのか、思うように素早く動かせない。足元が覚束なくって、私はなんどもふらついて転びそうになる。
 それに足場が変なんだ。砂ばっかりで、ふかふかとしている。さらさらした感触で足を取られてしまい走るどころか、歩くのさえ難しい……。
 でも私は足を止める事をせず、走り続けて「うみ」の波打ち際までたどり着いた。
「これが……うみ……」
 自分の言葉でもう一度確かめて、私はその水にそっと手を触れる。ひんやりと冷たい。水はすごく綺麗に透き通っていて、底までくっきり見える。
 私は水を手ですくって、口に含んでみた。
「しょぱぁっ! うぇえっ、ぺっ、ぺっ!」
 なに、これ!? しょっぱい!?
「はははっ、海の水は飲めないぞ紗也。これは川の水とは違うんだ」
 後ろから笑いながら鉄平がやって来た。
「それならそうと早く言ってよね! びっくりしちゃった。こんなに綺麗なのに、飲めない水があるんだね」
「あぁ、そうさ。世界にはまだ知らない事が沢山あるんだ。この水平線の向こうにも、きっとある」
 鉄平が見つめていた先には海と空が続いていて、二つは遠くまで届いて、やがて一つの線で結びついていた。すごく変な景色。
 だけど胸がすかれるような、気持ちのいい眺め。
「はじめて見たよ、こんな景色……鉄平」
「なんだ?」
 振り向いた鉄平に、私は笑った。
「この世界は、美しいんだね!」
 海。これが外の世界に広がっている、無限の景色。水平線の向こうには知らない世界があるんだ。
 私は履き者を脱いで裾をたくし上げながら海の中に入った。足首にひやりと水の感触。揺れる波がすねを触り、くすぐったい。
 足の裏の砂が波にさらわれていくぞわぞわした感覚に慣れなくって、私は何度も飛び跳ねた。小さなしぶきが散るたびにせっかくたくした裾が濡れた。
 ふと振り返って視線を小屋に戻すと、鉄平は細めた目で、私と海を眺めていた。腕を組んだりとか、不機嫌なそぶりは全然ない。なんだか今日の鉄平は様子が変だ。
 私は鉄平を呼んだ。
 鉄平が「なんだ?」と言って波打ち際まで来たのを見計らい、私は腰をサッと落とし、手ですくった水を飛ばした。
 何をするんだ、と言った鉄平の表情にちょっと険が宿ったのを見て、もう一回水を飛ばす。顔にかかるのを腕で防いだ鉄平は「おい」と身体を私に対して閉じる。
「あっかんべぇー!」
「はぁ?」
 瞼を指で引き下げて舌を出したら鉄平は額に横シワを浮かべて眉を「ハ」の字に歪めた。私はクスクス笑って
「やぁい! こっちだよぉ!」
 そう言って波打ち際を走り出した。つかまえてごらぁん。大きな声で呼びながら走ると、後ろから、待たないか、と追いかけてくる気配がした。野太いけど優しい響きで、私は不思議と胸がシュワシュワして笑いそうになる。
 ぱちゃぱちゃ──足元でたくさん水が散る。
私の横で広がる海はどこまでも太陽の光を波間に反射させている。
 なんて綺麗なんだろう。風が私の髪をさらいながら頬を撫でていく。いつまでも走っていたい。初めての場所、初めての感覚。今まで知らなかった素敵な世界を、私は今、走っている。
 もちろん私の足はまだ本調子じゃない。だから鉄平に捕まえられるのもあっという間だった。鉄平は私が振り返って目を合わせるまで喋るのを待った。
「転んだらどうすんだよ……なに笑ってんだ」
 鉄平の大きな黒目が太陽の光を宿してる。私は笑っていた。
 だって――と、私は自分の記憶の中から正しいと思うことを口にする。
「鉄平と遊んだの久しぶりだから……嬉しいんだ」
 最後にこうして追いかけっこしたのは、いつだろう。
 だって私はアンドロイド。
村のみんなのために命を捧げる巫女《レプリカント》。
 人間みたいに食べ物を食べたり、汗をかいたりはできるけど、身体が成長することはない。だけど人間の鉄平は、私と違って成長する。
 私とあまり背丈の変わらなかった鉄平は、みるみる大きくなっていった。今では筋肉も付いて、たくましい少年。
 だけど私の知ってる鉄平は、もともと色白で研究書ばかり読んでる頼りなさげな少年だった。村のみんなが見えない場所で、ずっと一緒に遊んでた覚えがある。
 私が紗良お姉ちゃんの記憶を取り戻した頃から、鉄平は村の導師様として、私は朋然ノ巫女としてそれぞれの役目に生きることを集中しだした。
 三年間。毎日顔を合わせてたけど、最後にこうして追いかけっこしたのはいつだっただろう。私は巫女《レプリカント》。村のみんなのために命を捧げる者だから、いつしかそんなこと忘れてた。
「紗也」
 鉄平が私を呼んだ。なに? 私は首を傾げた。
「……紗良さん」
 鉄平が私を呼んだ。どうしたの? 記憶の中のお姉ちゃんが応える。
「ずっと、生きていこうな」
 胸に響いたその声は私の知らないうちに何かあったんだろうか、私にそんな推測をさせる。
「うん、もちろん!」
だけど今はこのままで良い。
限りある命だから、過去を思うより未来に向けて、今を精一杯に生き抜きたい。
「えへへ……鉄平」
「なんだ、紗也?」
 ひそひそ話をするように彼の耳元に口を寄せる。次に私が言った言葉で彼は困ったような、だけど嬉しそうな表情をして、私が知らない顔をした。
ずっと一緒にいたはずなのに初めて見せたその顔は、ベニカブみたいな色をしていた。




 私は、これからも大好きな人と手を繋いで、思いきり笑っていたい。




 【以上でログの共有を終了します。】







―――ログ作成者によるコメント―――


皆様、初めまして。
この度は最後までご覧くださいまして、誠にありがとうございます。心より感謝いたします。多くの皆様のご支援を賜りまして、今作の結びを迎える仕合せとなりました。
 私はこの物語《ログ》の著者、ホワイテと申します。
 このログを書き始めたのは、もう二年前になります。剣士の少女エリサと出会ったのは五年も前になりましょうか。あどけなかった彼女が剣を手に戦う姿は、今なお鮮明に覚えています。寡黙で冗談も言えなかった子が、世界最後の王都を持つ国・ジパングニアまでやって来てくれるとは、嬉しい成長ですね。
私達のまだ知らない国や地域の話を、彼女は手土産に語ってくれます。
 私のかわいい子ども達。
彼女らが口々にする見聞は、そのまま私の物語に描かれます。
子ども達の見聞録を記して後世に伝えるのが、私にできる役割なのだと考えるから。
 危険な世界を渡り歩く勇気に励まされる人々が世界にいる。かの悪魔達に運命を定められず生きようと足掻く彼女達の生き様こそ、人類にとって必要な光。
 だから私は戒厳下の言論統制に屈することなく、矢面に立ち続ける。この狂った歯車が回している世界を糾弾する物語を──人類の魂に眠る、怒りの炎《ほむら》が未来を照らす希望となるまで──私は書き続けなければならない。
 これが、私なりの戦いなのだから。
 また皆様の手元でお会いできることを、切に願います。
 あなたの明日に栄光あれ。
 本書を上梓するにあたり命を賭した右派の義勇者の皆様にこの場を借りてあつく御礼を申し上げます。さらに多大なる支援をしてくださいました応援者の皆様に、重ねて感謝申し上げます。

 それでは、またいつの日か。

 親愛なる人類へ。

 ジパングニア王位階梯 第六位王女――ホワイテ・アマツフィア

                                     【了】
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