不思議の街のヴァルダさん

伊集院アケミ

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第8話「ヴァルダさんの嵌め込み」

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「それで私、奥様にご相談差し上げようと、その先生のご自宅にお伺いしたのです。そしたらそこで、とんでもないものを見てしまいました」
「とんでもないもの?」
「奥様が若い男と、窓際でみだらな行為に励んでおられたのです。まるで、こちらに見せつけるかように……」
「旦那のいない間に、不倫という訳ですか」
「ええ。あれは間違いなく、一度きりの過ちではないと思います」

 そういって、ヴァルダさんはいったん口をつぐんだ。陰謀論はノリノリで語る彼女でも、こういう話題は少し話づらいらしい。

「私はいったん店に戻って、二時間ほど時間を潰しておりました。それから再度訪問したところ、今度は二人して何やら密談をしていたのです」
「話の内容は聞き取れましたか?」
「流石に無理です。ですが、その若い男は悪魔祈祷書を開き、口元にいやらしい笑みを浮かべながら、奥様に何やら説明をしておりました。それだけは確かです」

 その刹那、僕の後ろからものすごい勢いで男が一人駆け寄ってきた。さっきからずっと、店の隅で立ち読みをしていた男だ。

「おや、中村先生。そんな顔をしてどうなすったんです? ご気分でも悪いのですか?」
「中村先生……? という事は、この方があのシルレルの?」
「そうよ」
「そんなことはどうでもいい! それよりも、今の話は本当か?」
「今の話というのは?」
「俺の妻が、若い男と不義密通をしていたという話だ」
「これはどうも恐れ入りました。……という事は、あの祈祷書は先生がお持ちになったので?」
「何を白々しい……。わざわざ俺に言い聞かせるかのように、ずっと話をしていたくせに」

 そういうと、その男は懐から分厚い封筒を持ち出した。

「百万だ。あの祈祷書の内金という事にしろ。元々、ちょっと中身を確認してみたかっただけで、そのうち返そうと思ってたんだ。残りの金は、明日持ってくる」
「では、あの本をお買い上げになるという事で?」
「それ以外に何がある? 分かったら、さっきの話の続きを聞かせろ」
「その前に、何故あの男が祈祷書を持っていたのか、少し話を聞かせていただけませんか?」
「いいだろう」

 中村とか言う教授が言うには、その男は、今年の春から妻にピアノを教えている、音大出の若いピアニストだそうだ。ひと月ほど前に、リビングに置いてあった祈祷書を偶然見つけて、大変に珍しがって借りていったという。教授もその時までは、普通の聖書と思っていたから、何の気もなく貸したそうだ。

 それから一週間ばかり経って、妻が流産した。医者の見立てでは、既に安定期に入りかけていたというのに、どうにも解せないという。

「なるほど、それはとても残念なことで……。えっ、それで話は終わりじゃない?」

 すると今度は、たった一人の二歳の息子が四日前に死んだ。不慮の事故による窒息という診断だが、どうも怪しい。祈祷書を借りて行ったピアノ教師が、本の中の毒薬を使ったに違いない。

 それだけではない。自分もこの頃、胃の具合が宜しくない。キリキリと痛む。家内は俺の二番目の妻で、学内の美人投票で一等賞を取った元・教え子だ。おそらくは、若い者同士でウマが合ったのだろう。二人は俺を毒殺し、財産をまんまとせしめた後、一緒になる肚に違いない。

 彼は一気にそうまくしたてた。

「流石にそれは、偶然でございましょう。胎児殺しは犯罪ではございませんが、先生や息子さんを殺せば、それは立派な殺人です。医者が黙ってても、刑事が黙ってはいませんよ」

 ヴァルダさんはそういって彼を諫めたが、まったく聞く耳を持たない。「あのピアノ教師を告発するから、お前も協力しろ」とずっと騒いでいる。そもそも、そのピアニストが本物の悪党だとしても、教授が本を盗み出さなければ、こんなことにはなっていないのだ。盗人猛々しいとは、まさにこの事だろう。
 
 ヴァルダさんは教授に言わせるだけ言わせた後、静かにお茶を淹れなおし、彼に椅子を勧めた。

「まあ落ち付いて、とにかくここへおかけ下さい。御事情は、全て私が見ぬいております。事件の真相は、私がチャンと存じておりますから、全て先生のいいように計らいましょう。急いては事を仕損じます」
「あの……。僕はいったん席を外した方が良いでしょうか?」
「ここまで来たら、最後まで聞いていきなさい。先生もそれでよろしいですね?」

 中村教授は、少し不服そうな顔をしながらも、静かにうなずいた。妻の浮気を立証できるのは、ヴァルダさんだけである。盗みに対する引け目は全く感じていないようだが、彼女にごねられるのだけはまずいと思っているのだろう。

「まずピアニストの告発の件ですが、これは殺人事件を調査することになります。もし先生がソンナ事をされますと、『あの本をどこから手に入れたのか』という事が、警察できっと問題になりましょう。私が警察へ呼ばれまして、正直のところを申立てましたら、先生の御身分は一体どうなるんですか?」
「……」
「あはは。それ御覧なさい。まあ告発の件はともかく、奥様の浮気の件については、喜んでご協力いたしましょう。こちらは民事ですからね。警察が介入してくる事は無いし、相手の男はボンボンの様ですから、たんまり、慰謝料をせしめられるはずです」
「そうだな」
「但し、それには条件があります」
「なんだ?」
「窃盗品の賠償は、正札の三倍が相場です。九百万円お支払いいただけるなら、あの祈祷書をお譲りいたしましょう」
「九百!」
「それに、これまでの口止め料と、浮気調査への協力、そして、あの祈祷書以外にもお手付になった数々の本の代金として、しめて一千万。それで全て、先生の良いようにして差し上げます」
「バカなことを言うな! 恐喝で訴えるぞ!」
「そしたら私は、先生が祈祷書を【お手付】になった証拠の動画を持って、警察に行くだけです。先生は今のお仕事を失い、奥様の浮気を立証することも出来ず、祈祷書を没収される。それでよろしければ、どうぞご自由に」
「……」

 見事なものだと僕は思った。ヴァルダさんはきっと、この教授がやらかすことを見越して、敢えてあの場所に祈祷書を置いたのだろう。この手は一回しか使えないから、過去に盗まれた本についても一切請求はしなかった。まさか教授は、窃盗現場を動画で抑えられているとは思いもしなかったはずだ。

「四百……。いや、五百万なら出す。それ以上は無理だ。家のローンも残っているし、家内は結構金遣いが荒くて、家にそれほど余裕もないんだ。五百で勘弁してくれ」
「なるほど……。では、キャッシュは三百で結構ですよ。裁判にもお金はかかりますし、貯金を全てはたかせるのも可哀想ですしね」
「えっ?」
「その代わり、先生にお譲りしたシルレルの詩集をお返し下さい。それで残額の七百万をチャラにして差し上げます。先生が、私にお支払いになった七十万の十倍。何もご不満はないはずです」
「……」

 教授は一瞬苦々しい顔をしたが、直ぐにそれ以外に手はないことを悟って、ヴァルダさんの提案を受け入れた。

「では、こちらの契約書にサインをしてください。何しろ人間というものは、直ぐに心変わりするものですからね。いえ、奥様の事を申し上げているのではございませんよ」

 そういって、ヴァルダさんが抽斗ひきだしから取り出した契約書には、たったいま語った事が全て書かれていた。つまり、中村教授が、悪魔祈祷書を一千万円で購入し、うち七百万円分をシルレルの詩集で物納するという内容だ。

 金額までバッチリ書いてあるという事は、ヴァルダさんは教授が店に来る前から、この展開を予見していたという事になる。勿論、後々自分にとって不利になりかねない口止め料だとか、調査協力費だのは一切書かれていない。流石はヴァルダさんだと僕は思った。

「契約はこれで完了です。ではこれを」

 ヴァルダさんは先ほどの抽斗の中から、大きめの封筒を取り出すと中村教授に渡した。

「これは?」
「念のため、ご自宅にお伺いした際に、二人の写真を撮っておいたのです。奥様の不貞行為を立証するには、この写真だけでも十分かと思います。お望みであれば、その手の裁判に強い弁護士も紹介できますが、どうされますか?」
「いや、結構だ」
「では、シルレルの詩集は明日中にお持ちください。残額の二百万は、月末までで結構です」
「承知した」

 中村教授は写真を受け取り、まだ小雨の降る街の中に消えていった。

「まあ、今日のところはこんなものかしらね」

 ひと心地付いたと言う感じで、ヴァルダさんがそう呟く。

「お見事でしたね。なんだってずっと、ユダヤの陰謀論なんか唱えてるのかと思ったら、こんな計画があったとは」
「まあ、妻の不貞に冷静でいられる男はそうはいないですからね。彼の疑念を駆り立てるためにも、それらしい話を教授に聞かせる必要があったのです。貴方が居てくれて助かりました」
「ようやく、お役に立てたという事ですね」
「最初は、本当に代金のご相談に上がるだけのつもりだったのです。奥様が浮気をされていたのは、私にとっては幸運でした。それで、浮気現場を写真に収めた後、こんな計画を立てたのです」
「なるほど。七十万で買いたたかれたシルレルも、無事に取り返せましたしね。僕は心の中で拍手喝采したい気持ちでしたよ」
「因果応報という事ですよ。知識のない人間を嵌める輩は、別の知識を持つ人間に嵌められるのです。まあ私は、まだ善良な方です。あの祈祷書も、実際はタダの聖書ですが、三百万位の価値は本当にありますしね」
「えっ?」
「悪魔祈祷書なんて、全部デタラメですよ。だから、警察沙汰になるのは避けたかったのです。大方、私の話を聞いてるうちに疑心暗鬼になって、自分の胃が痛みだしたんでしょう。正直に言えば、動画の話も全部ウソなんです」

 そういって、ヴァルダさんは本当に嬉しそうに笑った。

(続く)
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