26 / 40
王国篇
第十七話④
しおりを挟む
私はもう二度と、鈴木芽亜理に関わりたくないと思った。けれど彼女はまだ気が済まないようだった。
「このこと、あんたのママや、先生に言ってもいいよ。その代わり、あんたのこと殺すから。私、人を殺してみたいの。あんたみたいなやつ死んでも誰も悲しまないから、せめて私の役に立って死ねるんだからよかったね」
その言葉がどこまで本当かわからない。ただ彼女の真っ暗な瞳を見ると、人の心や温度なんて感じられなくて、本気のように思えた。
ただ彼女が怖いからという理由だけではなく、私はこのことを、母に相談することはできなかった。
もしも私がこんな目に遭ったことを母に話したら、私がいじめられていると思われてしまうかもしれない。そうなったらどうなってしまうだろうか。
母は私が学芸会の主役じゃないと先生に怒る。私が誕生日会に呼ばれないと相手の親に文句を言う。それは母が私を好きだからじゃない。私が母の飾りだから。自慢をするための道具だから。その私がいじめられていると知ったら、相手に怒るだろうか。
母はいじめられる方が悪いと思っている。その母にとってのトロフィーが、メッキを塗っただけの偽物だと知ったら、私は捨てられてしまうかもしれない。
私にとって本当に怖いのは、鈴木芽亜理ではなく母かもしれなかった。
私は鈴木芽亜理にされたことを誰にも相談できないまま、次の日を迎えた。
学校に行きたくなかった。鈴木芽亜理は「休んだら殺す」と言っていた。そうでなくとも母が許さないだろう。たとえ風邪を引いても、皆勤賞をとらせるために学校に行かされる。母が売りつけている食品やサプリメントの関係で、私が病気になって休むと都合が悪いようだった。
少し違うかもしれないけれど──毎年、学校で歯科検診があり、虫歯がゼロだと表彰される。私は今年の検診で、虫歯が一つできていて、表彰されなかった。そのことで母は怒り、頬を叩かれ、腕をつねられた。今でもお菓子や甘い物が禁止されている。
そんな母だから、私が登校中に交通事故にでも遭わないと休ませてくれないだろう。
私はこの世界のどこにも、逃げる場所も、隠れる場所もなかった。どうしようもなくて学校に向かう。昨日の夜からずっとお腹が痛かった。私の体が学校に行ってはいけないと、警告を発しているようだった。
それでも、ただでさえ気分が重たいのに、いつもより早く登校する。私は鈴木芽亜理よりも先に教室に着かないといけなかった。
「私、八時には教室にいるから。私より先にいなかったら、お仕置きだからね」
そのお仕置きが、どんなことをされるのかわからない。むしろお仕置きを楽しみにしているような彼女に、私は不安で逆らうことができなかった。
八時前の通学路は、八時ごろから登校する人が多いので、私と同じ小学生の姿はまばらだった。
私は登校中、横断歩道の信号が変わるのを待ちながら、車道に飛び込んでしまおうかと思った。そうすればこの嫌な気持ちから、鈴木芽亜理や母から逃れることができるかもしれない。赤信号の横断歩道を、いくつかの自動車が走り抜けていく。結局それらを見送っている間に、信号は青になっていた。結局、私は怖くて飛び込むことができなかった。
7時53分──学校に着いた。まるで寝静まった棺のように、校舎の中はしんとしていた。
私は下駄箱から吹き抜けを通って、階段に向かう。三年生の教室は二階にある。一階には一、二年生、三階に五、六年生の教室がある。
私は階段の一段一段が、いつもより重く感じられた。同時にどこまでも続いていてほしい、おわらないでほしいと思った。そうすれば永遠に八時にならない。八時になるぐらいなら、ずっと階段を登り続けている方がずっとよかった。
それでも時間は進むし、階段におわりがある。私はクラスの教室の前に着く。教室のドアにかけた指が震えていた。ドアを開くと、ガラガラと滑車が鳴る。もしも地獄に歯車があるとしたら、こんな音を立てるのかもしれない。あるいは処刑のための車輪が轍を刻む音か。
私がドアを開けると、その音に、何人か先に来ていた子たちが私の方を見る。そこに鈴木芽亜理がいないことに、私は安堵した。彼女たちは私を見て一瞬沈黙したあと、すぐに顔をそらして、会話に戻ったり、机に向かって勉強に戻る。私なんていないかのように、再び時間が流れ出した。
無視されるのは慣れている。私の平穏な日常だった。
私は自席に着いて、机に伏した。暗闇の中で身を縮こまらせ、時間が止まることを願った。世界が今すぐ滅ぶことを祈った。
少ししてドアの開く音がした。私は否応なく、ドアの方を見る。
鈴木芽亜理と野間藍涼がいた。鈴木芽亜理はいつもより楽しそうに見えた。野間藍涼は相変わらず困ったような顔をしていた。
鈴木芽亜理が私を見つけると、こちらに向かってくる。私は怖くて、嫌で仕方なかった。不安に心臓が脈打ち、お腹の中が締めつけられるように痛んだ。
「おい、ブタ。何してんだよ」
「え、あ、あの……」
「私が登校してきたら、お前から出迎えろよ」
責めるような言葉の割に、鈴木芽亜理は楽しげだった。
「ごめんなさい……でも……」
ほかにも人がいる前で、どうすればいいかわからなかった。
「ねぇ、アイリ。このブタ、しつけが必要みたいね」
鈴木芽亜理はうすら笑いを浮かべながら野間藍涼を見る。それに野間藍涼は変わらず困ったような顔をしていた。
不意にカッターの刃を繰り出す音が聞こえた。鈴木芽亜理はポケットからカッターを取り出し、腕を垂れ下げたまま、カッターの刃を繰り出す。
彼女の言う「しつけ」が、昨日私にしたようなことなら、そのカッターで切りつけられるかもしれない。
ほかにも人がいるのに、そんなことをするとは思えない。けれど、もし彼女の言ったこと、「人を殺してみたい」というのが本当なら、人がいることなんて関係ないのかもしれない。
私は慌てて椅子から降りて、その場に土下座する。
「ごめんなさい……朝の挨拶、します……」
「ほら、早くして」
鈴木芽亜理は右足を半歩、前に出す。
私はそれに、彼女の上履きに鼻を押しつけた。
まばらに、クラスのほかの人たちから、ざわついた声が聞こえてきた。
「え、何してるの?」
「なんかやばくない?」
「いいんじゃん、あいつだし」
「ざまあみろ、って感じ?」
「鈴木さん、すごい」
私に対する同情や心配の声はなく、鈴木芽亜理をほめたたえる声が聞こえてくるぐらいだった。
「これからはちゃんと、自分から挨拶するんだよ」
「はい……」
それだけで私は解放され、二人は去っていった。
このぐらいで彼女が満足してくれてよかった。ただ私は、惨めな気持ちで、悔しくて涙が出てきた。恥ずかしさと悔しさで、そんな顔を誰にも見られたくなくて、うつむいて顔を隠す。
鈴木芽亜理は今頃どんな顔をしているのだろうか。こんなことをして何が楽しいのだろうか。そんなに私のことが嫌いなのだろうか。
その鈴木芽亜理に、クラスの人たちが集まるのが、聞こえてくる声や音でわかった。
「鈴木さん、何があったの? 砂村さんに土下座させてたけど。何かされたの?」
「ああ、違うの。誤解しないで。あれは土下座じゃなくて、挨拶」
「挨拶?」
「そう。ブタってね、挨拶するとき、鼻をこすりつけるの。だからあれはただの挨拶」
「へぇ?」
「みんなも、してもらったら? きっと喜ぶよ」
「えー、やだよ。きもいじゃん」
それに彼女たちは声をあげて笑っていた。
私は自分の机につくった両腕の囲いを固く閉じて、その中に顔を深く沈めて隠した。せめて泣いていることを知られないように、これ以上惨めな気持ちにならないように。
* * *
休み時間になると、私は鈴木芽亜理に首をつかまれて、教室を連れ出された。痛くて怖くて仕方なかった。
そのままトイレに連れ込まれる。首から手を離して、私を押しやるように突き飛ばす。振り返ると、トイレの出入り口にドアはないけれど、その前に野間藍涼が立ち塞がるようにしていた。その野間藍涼と私の間に鈴木芽亜理は立つ。
そこでようやく私は、彼女たち二人以外に、何人かほかのクラスメイトまでついてきていたことに気がついた。野間藍涼の背後で、嘲笑うように、蔑むように私のことを見ていた。
「マジなの?」
「やばくない?」
「クソうける」
と、彼女たちは卑屈に笑い合っていた。
「いつまでそうしているつもり? あんた、ブタでしょ?」
私は鈴木芽亜理の意図がわかった。私にみんなの前で四つん這いにさせて、恥をかかせることが彼女の目的に違いなかった。
「みんながさ、ブタも調教すれば、挨拶や芸ができるって言ったのに、信じてくれないんだ」
そう言って鈴木芽亜理は馬鹿にしたように笑っていた。
「やだ……」
私は人前で、ましてやトイレの床に手や膝をつくのは汚くて、どうしても嫌だった。すでに朝、何人かの前でやらされたけれど、まだこんなふうに注目されていなかった。また一度やらされたからこそ、あの屈辱的な気持ち、惨めさを思い知った。
「今なんて言った?」
それに鈴木芽亜理が私の髪をつかんで、額がぶつかるほど顔を近づけてくる。怒っているようだった。
「い、いたい……」
私の髪をつかむ手は、髪が抜けるのではないかと思うほどの力だった。すでに何本かちぎれるような音が聞こえた。
私は痛くて怖くて涙が出てきた。
鈴木芽亜理はその真っ暗な瞳を、一重の目を大きく見開いて、私のことを睨んでくる。
「このブタ、自分が人間だとでも思っているのかな。ちゃんとブタだということをわからせてあげないと」
カッターの繰り出される音がした。結局私は、プライドよりも、彼女への恐怖に屈した。
「ごめんなさい、許してください……」
「じゃあ、わかるよね?」
鈴木芽亜理が手を離した。私はどうすることもできなくて、彼女の前に土下座する。トイレの床は冷たく、目に見えないたくさんの菌が、触れたところから私の体を這い上がってくるような気がして、気持ち悪くて仕方なかった。
「うわぁ、汚い」
「マジでやってる」
「私だったら無理」
「本当にブタじゃん」
嘲りや侮蔑の声が聞こえてきた。
「ほら、挨拶して」
鈴木芽亜理が足を前に出す。
私は、それをしたらもう人間ではなくなってしまう、そんな気がした。
どうしたら私は彼女に許してもらえるだろうか。どうして彼女は私にこんなことをするのだろうか。私の母が、彼女の親に何かしたのだろうか。
「ごめんなさい……ママが何かしたのなら、謝るから……許してください……」
「何の話?」
「鈴木さんがこんなことするの、私に怒っているからでしょ? もしかしてママが何かしたの?」
「いや、べつに」
「え? じゃあ、どうして……?」
「あー、ブタのママって、ヤバい人なんだよね。でも私のママも同じか、それ以上にヤバいから、べつに関係ないよ。あんたをブタに選んだのはさ、アイリと話してて、あんたがブタっぽい、て話になったの。人間と同じようにしてるのはおかしいよねって。それだけ。つまりブタはブタらしくしてろってこと」
母のことは関係ないことがわかったけれど、それがどういうことなのかわからなかった。ただ私だから選ばれたということらしかった。
鈴木芽亜理が屈んで、私の目をのぞきこんでくる。
「それにあんたって、クラスのみんなに嫌われてるでしょ? ブタだったら、クラスのペットなら、みんなの人気者になれるんじゃないかな? って。むしろ優しさ、みたいな」
それにほかの人たちも同調する。
「えー、鈴木さん優しい」
「ブタだったらクラスでも飼っていいよ」
私が嫌われ者だから、何をしてもいいと彼女は思ったのかもしれない。誰も私のことを庇ったりしないから。
「ほら、休み時間おわっちゃうよ。早くして。次の休み時間は、ほかにも芸ができるところをみんなに見てもらおうか」
鈴木芽亜理は、真っ暗な黒い瞳を細めて笑う。その目に見られると、いつしか私は息さえもできなくなった。凍りつくほどの暗闇を宿した瞳は、鏡のように私の絶望を映していた。
「このこと、あんたのママや、先生に言ってもいいよ。その代わり、あんたのこと殺すから。私、人を殺してみたいの。あんたみたいなやつ死んでも誰も悲しまないから、せめて私の役に立って死ねるんだからよかったね」
その言葉がどこまで本当かわからない。ただ彼女の真っ暗な瞳を見ると、人の心や温度なんて感じられなくて、本気のように思えた。
ただ彼女が怖いからという理由だけではなく、私はこのことを、母に相談することはできなかった。
もしも私がこんな目に遭ったことを母に話したら、私がいじめられていると思われてしまうかもしれない。そうなったらどうなってしまうだろうか。
母は私が学芸会の主役じゃないと先生に怒る。私が誕生日会に呼ばれないと相手の親に文句を言う。それは母が私を好きだからじゃない。私が母の飾りだから。自慢をするための道具だから。その私がいじめられていると知ったら、相手に怒るだろうか。
母はいじめられる方が悪いと思っている。その母にとってのトロフィーが、メッキを塗っただけの偽物だと知ったら、私は捨てられてしまうかもしれない。
私にとって本当に怖いのは、鈴木芽亜理ではなく母かもしれなかった。
私は鈴木芽亜理にされたことを誰にも相談できないまま、次の日を迎えた。
学校に行きたくなかった。鈴木芽亜理は「休んだら殺す」と言っていた。そうでなくとも母が許さないだろう。たとえ風邪を引いても、皆勤賞をとらせるために学校に行かされる。母が売りつけている食品やサプリメントの関係で、私が病気になって休むと都合が悪いようだった。
少し違うかもしれないけれど──毎年、学校で歯科検診があり、虫歯がゼロだと表彰される。私は今年の検診で、虫歯が一つできていて、表彰されなかった。そのことで母は怒り、頬を叩かれ、腕をつねられた。今でもお菓子や甘い物が禁止されている。
そんな母だから、私が登校中に交通事故にでも遭わないと休ませてくれないだろう。
私はこの世界のどこにも、逃げる場所も、隠れる場所もなかった。どうしようもなくて学校に向かう。昨日の夜からずっとお腹が痛かった。私の体が学校に行ってはいけないと、警告を発しているようだった。
それでも、ただでさえ気分が重たいのに、いつもより早く登校する。私は鈴木芽亜理よりも先に教室に着かないといけなかった。
「私、八時には教室にいるから。私より先にいなかったら、お仕置きだからね」
そのお仕置きが、どんなことをされるのかわからない。むしろお仕置きを楽しみにしているような彼女に、私は不安で逆らうことができなかった。
八時前の通学路は、八時ごろから登校する人が多いので、私と同じ小学生の姿はまばらだった。
私は登校中、横断歩道の信号が変わるのを待ちながら、車道に飛び込んでしまおうかと思った。そうすればこの嫌な気持ちから、鈴木芽亜理や母から逃れることができるかもしれない。赤信号の横断歩道を、いくつかの自動車が走り抜けていく。結局それらを見送っている間に、信号は青になっていた。結局、私は怖くて飛び込むことができなかった。
7時53分──学校に着いた。まるで寝静まった棺のように、校舎の中はしんとしていた。
私は下駄箱から吹き抜けを通って、階段に向かう。三年生の教室は二階にある。一階には一、二年生、三階に五、六年生の教室がある。
私は階段の一段一段が、いつもより重く感じられた。同時にどこまでも続いていてほしい、おわらないでほしいと思った。そうすれば永遠に八時にならない。八時になるぐらいなら、ずっと階段を登り続けている方がずっとよかった。
それでも時間は進むし、階段におわりがある。私はクラスの教室の前に着く。教室のドアにかけた指が震えていた。ドアを開くと、ガラガラと滑車が鳴る。もしも地獄に歯車があるとしたら、こんな音を立てるのかもしれない。あるいは処刑のための車輪が轍を刻む音か。
私がドアを開けると、その音に、何人か先に来ていた子たちが私の方を見る。そこに鈴木芽亜理がいないことに、私は安堵した。彼女たちは私を見て一瞬沈黙したあと、すぐに顔をそらして、会話に戻ったり、机に向かって勉強に戻る。私なんていないかのように、再び時間が流れ出した。
無視されるのは慣れている。私の平穏な日常だった。
私は自席に着いて、机に伏した。暗闇の中で身を縮こまらせ、時間が止まることを願った。世界が今すぐ滅ぶことを祈った。
少ししてドアの開く音がした。私は否応なく、ドアの方を見る。
鈴木芽亜理と野間藍涼がいた。鈴木芽亜理はいつもより楽しそうに見えた。野間藍涼は相変わらず困ったような顔をしていた。
鈴木芽亜理が私を見つけると、こちらに向かってくる。私は怖くて、嫌で仕方なかった。不安に心臓が脈打ち、お腹の中が締めつけられるように痛んだ。
「おい、ブタ。何してんだよ」
「え、あ、あの……」
「私が登校してきたら、お前から出迎えろよ」
責めるような言葉の割に、鈴木芽亜理は楽しげだった。
「ごめんなさい……でも……」
ほかにも人がいる前で、どうすればいいかわからなかった。
「ねぇ、アイリ。このブタ、しつけが必要みたいね」
鈴木芽亜理はうすら笑いを浮かべながら野間藍涼を見る。それに野間藍涼は変わらず困ったような顔をしていた。
不意にカッターの刃を繰り出す音が聞こえた。鈴木芽亜理はポケットからカッターを取り出し、腕を垂れ下げたまま、カッターの刃を繰り出す。
彼女の言う「しつけ」が、昨日私にしたようなことなら、そのカッターで切りつけられるかもしれない。
ほかにも人がいるのに、そんなことをするとは思えない。けれど、もし彼女の言ったこと、「人を殺してみたい」というのが本当なら、人がいることなんて関係ないのかもしれない。
私は慌てて椅子から降りて、その場に土下座する。
「ごめんなさい……朝の挨拶、します……」
「ほら、早くして」
鈴木芽亜理は右足を半歩、前に出す。
私はそれに、彼女の上履きに鼻を押しつけた。
まばらに、クラスのほかの人たちから、ざわついた声が聞こえてきた。
「え、何してるの?」
「なんかやばくない?」
「いいんじゃん、あいつだし」
「ざまあみろ、って感じ?」
「鈴木さん、すごい」
私に対する同情や心配の声はなく、鈴木芽亜理をほめたたえる声が聞こえてくるぐらいだった。
「これからはちゃんと、自分から挨拶するんだよ」
「はい……」
それだけで私は解放され、二人は去っていった。
このぐらいで彼女が満足してくれてよかった。ただ私は、惨めな気持ちで、悔しくて涙が出てきた。恥ずかしさと悔しさで、そんな顔を誰にも見られたくなくて、うつむいて顔を隠す。
鈴木芽亜理は今頃どんな顔をしているのだろうか。こんなことをして何が楽しいのだろうか。そんなに私のことが嫌いなのだろうか。
その鈴木芽亜理に、クラスの人たちが集まるのが、聞こえてくる声や音でわかった。
「鈴木さん、何があったの? 砂村さんに土下座させてたけど。何かされたの?」
「ああ、違うの。誤解しないで。あれは土下座じゃなくて、挨拶」
「挨拶?」
「そう。ブタってね、挨拶するとき、鼻をこすりつけるの。だからあれはただの挨拶」
「へぇ?」
「みんなも、してもらったら? きっと喜ぶよ」
「えー、やだよ。きもいじゃん」
それに彼女たちは声をあげて笑っていた。
私は自分の机につくった両腕の囲いを固く閉じて、その中に顔を深く沈めて隠した。せめて泣いていることを知られないように、これ以上惨めな気持ちにならないように。
* * *
休み時間になると、私は鈴木芽亜理に首をつかまれて、教室を連れ出された。痛くて怖くて仕方なかった。
そのままトイレに連れ込まれる。首から手を離して、私を押しやるように突き飛ばす。振り返ると、トイレの出入り口にドアはないけれど、その前に野間藍涼が立ち塞がるようにしていた。その野間藍涼と私の間に鈴木芽亜理は立つ。
そこでようやく私は、彼女たち二人以外に、何人かほかのクラスメイトまでついてきていたことに気がついた。野間藍涼の背後で、嘲笑うように、蔑むように私のことを見ていた。
「マジなの?」
「やばくない?」
「クソうける」
と、彼女たちは卑屈に笑い合っていた。
「いつまでそうしているつもり? あんた、ブタでしょ?」
私は鈴木芽亜理の意図がわかった。私にみんなの前で四つん這いにさせて、恥をかかせることが彼女の目的に違いなかった。
「みんながさ、ブタも調教すれば、挨拶や芸ができるって言ったのに、信じてくれないんだ」
そう言って鈴木芽亜理は馬鹿にしたように笑っていた。
「やだ……」
私は人前で、ましてやトイレの床に手や膝をつくのは汚くて、どうしても嫌だった。すでに朝、何人かの前でやらされたけれど、まだこんなふうに注目されていなかった。また一度やらされたからこそ、あの屈辱的な気持ち、惨めさを思い知った。
「今なんて言った?」
それに鈴木芽亜理が私の髪をつかんで、額がぶつかるほど顔を近づけてくる。怒っているようだった。
「い、いたい……」
私の髪をつかむ手は、髪が抜けるのではないかと思うほどの力だった。すでに何本かちぎれるような音が聞こえた。
私は痛くて怖くて涙が出てきた。
鈴木芽亜理はその真っ暗な瞳を、一重の目を大きく見開いて、私のことを睨んでくる。
「このブタ、自分が人間だとでも思っているのかな。ちゃんとブタだということをわからせてあげないと」
カッターの繰り出される音がした。結局私は、プライドよりも、彼女への恐怖に屈した。
「ごめんなさい、許してください……」
「じゃあ、わかるよね?」
鈴木芽亜理が手を離した。私はどうすることもできなくて、彼女の前に土下座する。トイレの床は冷たく、目に見えないたくさんの菌が、触れたところから私の体を這い上がってくるような気がして、気持ち悪くて仕方なかった。
「うわぁ、汚い」
「マジでやってる」
「私だったら無理」
「本当にブタじゃん」
嘲りや侮蔑の声が聞こえてきた。
「ほら、挨拶して」
鈴木芽亜理が足を前に出す。
私は、それをしたらもう人間ではなくなってしまう、そんな気がした。
どうしたら私は彼女に許してもらえるだろうか。どうして彼女は私にこんなことをするのだろうか。私の母が、彼女の親に何かしたのだろうか。
「ごめんなさい……ママが何かしたのなら、謝るから……許してください……」
「何の話?」
「鈴木さんがこんなことするの、私に怒っているからでしょ? もしかしてママが何かしたの?」
「いや、べつに」
「え? じゃあ、どうして……?」
「あー、ブタのママって、ヤバい人なんだよね。でも私のママも同じか、それ以上にヤバいから、べつに関係ないよ。あんたをブタに選んだのはさ、アイリと話してて、あんたがブタっぽい、て話になったの。人間と同じようにしてるのはおかしいよねって。それだけ。つまりブタはブタらしくしてろってこと」
母のことは関係ないことがわかったけれど、それがどういうことなのかわからなかった。ただ私だから選ばれたということらしかった。
鈴木芽亜理が屈んで、私の目をのぞきこんでくる。
「それにあんたって、クラスのみんなに嫌われてるでしょ? ブタだったら、クラスのペットなら、みんなの人気者になれるんじゃないかな? って。むしろ優しさ、みたいな」
それにほかの人たちも同調する。
「えー、鈴木さん優しい」
「ブタだったらクラスでも飼っていいよ」
私が嫌われ者だから、何をしてもいいと彼女は思ったのかもしれない。誰も私のことを庇ったりしないから。
「ほら、休み時間おわっちゃうよ。早くして。次の休み時間は、ほかにも芸ができるところをみんなに見てもらおうか」
鈴木芽亜理は、真っ暗な黒い瞳を細めて笑う。その目に見られると、いつしか私は息さえもできなくなった。凍りつくほどの暗闇を宿した瞳は、鏡のように私の絶望を映していた。
10
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
義姉妹百合恋愛
沢谷 暖日
青春
姫川瑞樹はある日、母親を交通事故でなくした。
「再婚するから」
そう言った父親が1ヶ月後連れてきたのは、新しい母親と、美人で可愛らしい義理の妹、楓だった。
次の日から、唐突に楓が急に積極的になる。
それもそのはず、楓にとっての瑞樹は幼稚園の頃の初恋相手だったのだ。
※他サイトにも掲載しております
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
身体だけの関係です‐三崎早月について‐
みのりすい
恋愛
「ボディタッチくらいするよね。女の子同士だもん」
三崎早月、15歳。小佐田未沙、14歳。
クラスメイトの二人は、お互いにタイプが違ったこともあり、ほとんど交流がなかった。
中学三年生の春、そんな二人の関係が、少しだけ、動き出す。
※百合作品として執筆しましたが、男性キャラクターも多数おり、BL要素、NL要素もございます。悪しからずご了承ください。また、軽度ですが性描写を含みます。
12/11 ”原田巴について”投稿開始。→12/13 別作品として投稿しました。ご迷惑をおかけします。
身体だけの関係です 原田巴について
https://www.alphapolis.co.jp/novel/711270795/734700789
作者ツイッター: twitter/minori_sui
女子切腹同好会
しんいち
ホラー
どこにでもいるような平凡な女の子である新瀬有香は、学校説明会で出会った超絶美人生徒会長に憧れて私立の女子高に入学した。そこで彼女を待っていたのは、オゾマシイ運命。彼女も決して正常とは言えない思考に染まってゆき、流されていってしまう…。
はたして、彼女の行き着く先は・・・。
この話は、切腹場面等、流血を含む残酷シーンがあります。御注意ください。
また・・・。登場人物は、だれもかれも皆、イカレテいます。イカレタ者どものイカレタ話です。決して、マネしてはいけません。
マネしてはいけないのですが……。案外、あなたの近くにも、似たような話があるのかも。
世の中には、知らなくて良いコト…知ってはいけないコト…が、存在するのですよ。
小さくなって寝ている先輩にキスをしようとしたら、バレて逆にキスをされてしまった話
穂鈴 えい
恋愛
ある日の放課後、部室に入ったわたしは、普段しっかりとした先輩が無防備な姿で眠っているのに気がついた。ひっそりと片思いを抱いている先輩にキスがしたくて縮小薬を飲んで100分の1サイズで近づくのだが、途中で気づかれてしまったわたしは、逆に先輩に弄ばれてしまい……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる