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星のカプリチッオ
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「ベース、ギター……」
あの後あまりにも自分の不勉強さが恥ずかしかったので、手当たり次第に音楽雑誌を買ってみたがよくわからない。音楽は流行りのポップスを聞くくらいで、ライブに行くというのもあまりなかった。会社の昼休み中に、雑誌のページをめくってみれば千鞠ちゃんの記事が載っているものがある。ネットで名前を検索しても、色々な記事が出てきた。
若き天才とか、天上の歌声とか……彼女を表する言葉たちはどれもこれも凄まじいものばかりだ。
「あ、これにも千鞠ちゃんのってる、ほんとにすごいひとなんだ……」
煌びやかな世界に立つ、千鞠ちゃんは堂々としていてカッコいい。自信も実力も兼ね備えている、そんな人だ。
「朝倉、飯いこうぜ?あっ、朝倉も千鞠ちゃんファンなのか?」
同期の 大杉塔矢が、後ろから覗き込んできた。彼とは、会社で一番仲が良くてハルが産まれる前はよく飲みにも行っていた。シングルファザーになってからは、飲みに行く機会はめっきりへったけれどなにかと協力してくれたり、こうやってこまめに誘ってくれる。俺にとって、本当にありがたい存在だ。
「大杉も?」
「一昨日のライブも行った!もう5年くらい追っかけてるぞ。若いけど渋いギター弾くし、あの歌声がいいよな」
水を得た魚が如く、大杉は千鞠ちゃんについて語り始める。その瞳は、無邪気な少年のような煌めきを宿していた。
「うん、天使みたいだったよね」
「もしかして、一昨日いた?」
「うん、一番後ろに」
「マジかよ、次のは行く?15時オープンからの」
千鞠ちゃんがチケットをくれたライブだ。サインを貰ったアルバムは家に飾っているし、あの日以来毎日千鞠ちゃんの音楽を聴いている。なんというか、すっかり彼女の歌の世界に魅了された状態だ。
「ああ、ハル連れていこうかなって」
「お、いいね。なかなか趣味合う人いなかったから嬉しいな。また会場で話そうぜ。ハルくん俺のこと覚えてればいいけど」
「うん、楽しみにしてる」
大杉は本当に嬉しくて仕方ない様子で、こっちも嬉しくなる。さらに、楽しみになっちゃったな。
***
「パパ、今日はちまちゃんのおうたきけるの?」
「うん、そうだよ」
「たのしみだね」
「うん、パパも楽しみ」
ライブ当日。会場へ入ると、千鞠ちゃんがあらかじめ手配をしてくれていたようで、ハルの好きなジュースや見やすい席に子ども専用の椅子まで用意されていた。周りのお客さんもすごく優しい。本当、つくづく彼女にはお世話になりっぱなしだ。
「ちまちゃんあそこでおうた、うたうの?」
「そう。もうすぐちまちゃん来るよ」
「じゃあ静かにしないとだね」
ステージを見ながら、ハルはしーっと指を口にあてる。ふっと、会場の灯りが落ちて自然と拍手が上がってきた。始まりの、合図だ。この瞬間は、まるで別世界に誘われるようでたまらない。
千鞠ちゃんが出て来れば、彼女が空間を一気に支配する。息を呑むほどに美しくて、息を忘れるほどに凄まじい存在感と歌声が目と耳に飛び込んでくる。なんというか、全身の血がざわつくような感触に襲われて……もっと聞きたいと強く願わずにはいられない。音楽に愛されて音楽を愛している女の子だな、なんて生意気にも詳しくもないのに思った。それくらい、彼女は圧倒的なんだ。
***
「ちまちゃんすごい!きれいでかっこいい!」
「ね、千鞠ちゃんのお歌すごいよね」
「ちまちゃんも、おうたもだいすき!」
ライブは大盛況のうちに幕を閉じ、ハルは大層喜んでいた。その様子を周りのお客さんも微笑ましく見守ってくれている。
「よっ、朝倉!ハルくんこんにちは、おじさんのことわかる?」
大杉も充分楽しんだようだ。満面の笑みで、俺に駆け寄ってきてくれた。しゃがんで、ハルに目線を合わせて優しく語りかける。
「しらない」
「ほら、ハル。こんにちはでしょ」
「……こんにちは」
「ああ……ダメか」
「ごめん、ハルは本当人が苦手というか人見知りで」
ハルは俺に抱きついて、そっぽを向く。千鞠ちゃんに対してあんなに懐いているのが、本当に奇跡みたいで基本的に俺以外の大人には心を開かない。
「いいよ、気にすんなって。そういえば、今日の千鞠ちゃんなんか、いつにも増して柔らかかった。俺、あの歌い方初めてみたと思うんだよね」
「たしかに、こないだより優しい歌声かも」
大杉の言う通り、今日の千鞠ちゃんは以前見た時よりももっと優しくて温かな歌声だった。長年通う、熱烈なファンの彼が言うんだから間違いないだろう。
「ハル」
「ちまちゃん!!」
「わっ、ハル!」
千鞠ちゃんが、手を振ってこちらに向かって来てくれているのにいち早く気付いたハルは俺を振り切って真っ直ぐ彼女に飛びつく。大杉への素っ気なさがまるで嘘みたいだ。
「来てくれて、ありがとう」
「ちまちゃんね、すごいきれいだったよ!おうたもね、ちまちゃんもねとってもきれいでね!あと、かっこよくてかわいい!おめめが、すごくキラキラしてお星さまみたいだった!緑は、僕の好きな色だよ」
「ありがとう、緑は私も好きな色だな。今日はハルのために歌ったからね」
「やさしいおうただった!」
「そっか、嬉しいよ」
ハルのマシンガントークを、ひとつひとつ溢さないように瞳を見ながら受け止めている千鞠ちゃんはきらきらと輝いている。ハルが言ったように、本当にお星さまのようだ。まるで、一際輝きを放つ一等星が如く。
「朝倉さんもありがとう」
「いや、こちらこそ。席とか飲み物とか」
「ああ、別に……それくらい大したことないですよ」
千鞠ちゃんは、少し俯いて視線をそらす。ぶっきらぼうな返事だけど思いやりがあっての行動だったのがよくわかった。
この子って、まっすぐ褒められるの慣れてないのかな。俯いてるのって照れているんだ。ハルと遊んだり、オラトリオで話すうちに段々と千鞠ちゃんの性格の輪郭が露わになっていくんだよね。
「えっちょっと、まって!!朝倉は知り合いなの?嘘……?」
「えーと、色々ありまして……」
大杉が目の前で起こっていることを、処理できずにいるようだ。そりゃそうか、だって大杉はミュージシャンとしての千鞠ちゃんを見てきている。しかも、俺と知り合いだなんて夢にも思わないだろう。事前に説明しておけばよかったかな。
「あ、いつもスーツで来てくれているおにーさん……?」
「えっ!?見ていてくれてたんですか」
「はい、いつも来てくれてありがとうございます。かなり来てくれてますよね?回数もだし、まだ駆け出しのときもいらっしゃってた気がする」
「5年くらい前から、来ています。本当に、千鞠ちゃんの音楽大好きで!!」
千鞠ちゃんは、大杉に見覚えがあったようだ。凄い、よくアーティストがライブで言う「顔、見えているよ」って本当なんだ。まさか覚えてくれているなんて思わなかっただろう、彼は顔を赤くしながら少し上擦った声で一生懸命に千鞠ちゃんへ想いを伝えている。なんだか、頑張れと無意識に応援したくなるくらいに好きだという純粋な気持ちがひしひしと伝わってきた。
「ありがとうございます。サイン、いります?」
「あの、もし迷惑でなければ写真もいいですか?」
「もちろん、おなまえは?」
「塔矢です」
「塔矢さんへ、はいどうぞ。写真は、どうしましょうか」
「ありがとうございます、大事にします……!ごめん朝倉、写真撮って!」
「いいよ、はいじゃあ二人並んで……はい、チーズ!」
大杉のここまでテンション高い姿、そこそこ付き合いあるけど初めて見たかもしれないな。スマートフォンのカメラ越しの彼は、緊張で少しぎこちない笑顔なのも可愛らしい。千鞠ちゃんは、落ち着いているし貫禄すらある。きっと、こんなに熱心なファンが沢山いてくれるんだろう。音楽はもちろんだけど、彼女の人柄もきっと人気の秘訣なんじゃないかな。
「最近、ギター変えられましたよね?」
「すごい、よく気づきましたね。そう、変えてます」
「ちまちゃん!!」
「おっ、と!どうした?」
「ぼくと、おはなししてたのに」
音楽の話が弾み、二人とも楽しそうだった。そんな中、声を張り上げてハルが割って入った。しかも、不機嫌なオーラ全開で。慌てて俺は、止めに入る。
「ハル、こっちおいで」
「パパ、やだ!」
「大杉、ごめん。ほら、ハル?」
「やーだ!」
「ハル、どうしたの?いつもは、いいこだろ?もう帰る?」
「やだ!パパ、なんで、なんでそんなこというの!ぼくはちまちゃんといる!」
「ハル!!」
いやだの一点張りで、らちがあかない。思わず、声を張り上げて名前を呼んでしまった。その次の瞬間、千鞠ちゃんのよく通る声が響く。
「はい、一旦ストップ!」
「へっ……?」
「大杉さん?また来て頂けたらお話しましょう。本当にありがとうございます。お帰り気をつけて」
「あ、本当ありがとうございます。最高でした、また絶対に来ますから!」
「ありがとうございます」
「ハルくんごめん、おじさん帰るから!朝倉、また明日な、お疲れさま」
大杉は相変わらずニコニコだけど、水をさしてしまった事には変わりない。
「大杉、ごめん」
「大丈夫、むしろマジでありがとう!幸せすぎるから」
「ハル、こっちむいて」
「ちまちゃんもおこる?」
「なんで?ハルは悪いことしてないよ。だって最初にハルと私が話していたんだ。悪いのはわたし。ごめんね」
千鞠ちゃんは、しゃがみ込んでハルと目を合わせて優しく言葉を紡ぐ。泣きそうな顔のハルの頭を、優しく撫でてくれていた。
「ちまちゃんはわるくないもん」
「さっきのお兄さんも悪くないよ」
「ぼく、あのひとやだ」
「こら!ハル」
嫌だとか、軽々しく言ってほしくない。ハルにはもっと、綺麗なもので満たしてあげていたい。それに、大杉は大切な友達だ。様々な感情が混ざり合って、でも上手く言葉にできなくて……また、ただ声張り上げてしまうだけになった。
「朝倉さん、任せて」
「千鞠ちゃん……」
「ねぇ、ハル。私ここの片付けしないといけないんだ。終わったら、一緒にご飯食べようよ。なにが食べたい?」
「オムライスがいい。ちまちゃんのつくったの」
「よーしいいだろう。ブリ大根より簡単だ。てことで、朝倉さん外にカフェあるからあったかいの飲んで待っててください。三十分位で出れると思います。ハル、パパと待っていてくれる?」
「わかった」
千鞠ちゃんの頼もしさに押されて、任せることにしたけど予想外の方向に転がってきて思わず面食らう。やっぱりハルは、千鞠ちゃんの言う事はすんなり受け入れていた。
「えっ!?」
「なに、珍しく家片付けてないんですか?」
「いや、そうじゃなくてね……」
「まあいいから、話はあとでゆっくりしまょう。あと、ハルのこと怒らないで。あの子は、怒られるようなことはしてないです」
「うん、そうだよね」
「素早く片付けますから。じゃあハル、またあとでね」
千鞠ちゃんは、ニカっと笑い残して颯爽と走って行った。俺は、ハルの小さな手を繋いでカフェへ向かう。ハルはココアで、俺はカフェラテ。隣同士に座って、少しだけ沈黙が続いた。
「ハル、さっきはごめん」
「……」
「でも、あのおじさんはねパパの大事なお友達だから……いやとかは言ってほしくないな」
「……」
「ね、ハル……」
ダメだ。頑なに口を閉ざしている。初めてかもしれない。ここまで、駄々こねているハルを見るの。明日、大杉に改めて謝らないと。なんで、ここまでヘソを曲げているのか。たしかに、人見知りで知らない人や久しぶりに会う人には素っ気ない態度をとる。だけど、あんなに激しく感情を出すまではなかった。千鞠ちゃんを取られたようにみえたんだろうか。
「ちまちゃん!」
「ハイハイ、おまたせしましたよー」
「ちまちゃん!だっこ」
「千鞠ちゃんは疲れてるから、パパがだっこするよ」
「やだ。パパはやだ」
「あはは、やだだって朝倉さん。いいね、はっきり言おう。嫌なことは嫌だよね。はいどうぞ」
千鞠ちゃんが来た瞬間に、ハルはパァッと表情を明るくさせて飛びつく。今までの不機嫌さは嘘みたい。それだけ、千鞠ちゃんに懐いていて心も許しているのがよくわかった。
「ちまちゃんだいすき」
「ありがとう。私もハルが好きだよ」
「ハル……」
「駄々をこねているって思っていたら、いつまでもハルは嫌って言いますよ」
忌憚のない千鞠ちゃんの言葉に、一瞬射抜かれたような感覚になる。そう、駄々をこねていると思っていた。どうして?なんで、聞いてくれない?そんなあてどない問答だけが渦巻いて、正直辛いなとさえ思っていたくらいだ。
「なんでわかったの……?」
「わかりますよ、朝倉さんは顔に書いてあるから」
俺、そんなにわかりやすいんだろうか。それに、そこそこ子育てはひとりでもうまくやれていたつもりだったんだ。でも、やっぱり力が及ばない事もあるんだって今回まざまざと突きつけられた。それに、うまくやれていたつもりという気持ちがひとりよがりなんだ。
「ちまちゃんは、おうたと楽器ができるの?」
「そうだね、歌は大好き」
「ぼくもすきだよ。ちまちゃんとうたいたい」
「お、いいよ。セッションしちゃう?ピアノ教えようか?」
「うん、やりたい!」
「ハルのすきな歌はなに?」
「きらきら星」
「きらきらひかる」
「おそらのほしよ」
「まばたきしては、みんなを見てる」
「「きらきらひかる、おそらのほしよ」」
「ハルうたうまいね。綺麗な声だし」
「やったぁ!」
冬の透き通った空気に二人の歌声が溶けて、混ざり合っていく。それがたまらなく美しくて、無性に泣きたくなるような気がしたんだ。
あの後あまりにも自分の不勉強さが恥ずかしかったので、手当たり次第に音楽雑誌を買ってみたがよくわからない。音楽は流行りのポップスを聞くくらいで、ライブに行くというのもあまりなかった。会社の昼休み中に、雑誌のページをめくってみれば千鞠ちゃんの記事が載っているものがある。ネットで名前を検索しても、色々な記事が出てきた。
若き天才とか、天上の歌声とか……彼女を表する言葉たちはどれもこれも凄まじいものばかりだ。
「あ、これにも千鞠ちゃんのってる、ほんとにすごいひとなんだ……」
煌びやかな世界に立つ、千鞠ちゃんは堂々としていてカッコいい。自信も実力も兼ね備えている、そんな人だ。
「朝倉、飯いこうぜ?あっ、朝倉も千鞠ちゃんファンなのか?」
同期の 大杉塔矢が、後ろから覗き込んできた。彼とは、会社で一番仲が良くてハルが産まれる前はよく飲みにも行っていた。シングルファザーになってからは、飲みに行く機会はめっきりへったけれどなにかと協力してくれたり、こうやってこまめに誘ってくれる。俺にとって、本当にありがたい存在だ。
「大杉も?」
「一昨日のライブも行った!もう5年くらい追っかけてるぞ。若いけど渋いギター弾くし、あの歌声がいいよな」
水を得た魚が如く、大杉は千鞠ちゃんについて語り始める。その瞳は、無邪気な少年のような煌めきを宿していた。
「うん、天使みたいだったよね」
「もしかして、一昨日いた?」
「うん、一番後ろに」
「マジかよ、次のは行く?15時オープンからの」
千鞠ちゃんがチケットをくれたライブだ。サインを貰ったアルバムは家に飾っているし、あの日以来毎日千鞠ちゃんの音楽を聴いている。なんというか、すっかり彼女の歌の世界に魅了された状態だ。
「ああ、ハル連れていこうかなって」
「お、いいね。なかなか趣味合う人いなかったから嬉しいな。また会場で話そうぜ。ハルくん俺のこと覚えてればいいけど」
「うん、楽しみにしてる」
大杉は本当に嬉しくて仕方ない様子で、こっちも嬉しくなる。さらに、楽しみになっちゃったな。
***
「パパ、今日はちまちゃんのおうたきけるの?」
「うん、そうだよ」
「たのしみだね」
「うん、パパも楽しみ」
ライブ当日。会場へ入ると、千鞠ちゃんがあらかじめ手配をしてくれていたようで、ハルの好きなジュースや見やすい席に子ども専用の椅子まで用意されていた。周りのお客さんもすごく優しい。本当、つくづく彼女にはお世話になりっぱなしだ。
「ちまちゃんあそこでおうた、うたうの?」
「そう。もうすぐちまちゃん来るよ」
「じゃあ静かにしないとだね」
ステージを見ながら、ハルはしーっと指を口にあてる。ふっと、会場の灯りが落ちて自然と拍手が上がってきた。始まりの、合図だ。この瞬間は、まるで別世界に誘われるようでたまらない。
千鞠ちゃんが出て来れば、彼女が空間を一気に支配する。息を呑むほどに美しくて、息を忘れるほどに凄まじい存在感と歌声が目と耳に飛び込んでくる。なんというか、全身の血がざわつくような感触に襲われて……もっと聞きたいと強く願わずにはいられない。音楽に愛されて音楽を愛している女の子だな、なんて生意気にも詳しくもないのに思った。それくらい、彼女は圧倒的なんだ。
***
「ちまちゃんすごい!きれいでかっこいい!」
「ね、千鞠ちゃんのお歌すごいよね」
「ちまちゃんも、おうたもだいすき!」
ライブは大盛況のうちに幕を閉じ、ハルは大層喜んでいた。その様子を周りのお客さんも微笑ましく見守ってくれている。
「よっ、朝倉!ハルくんこんにちは、おじさんのことわかる?」
大杉も充分楽しんだようだ。満面の笑みで、俺に駆け寄ってきてくれた。しゃがんで、ハルに目線を合わせて優しく語りかける。
「しらない」
「ほら、ハル。こんにちはでしょ」
「……こんにちは」
「ああ……ダメか」
「ごめん、ハルは本当人が苦手というか人見知りで」
ハルは俺に抱きついて、そっぽを向く。千鞠ちゃんに対してあんなに懐いているのが、本当に奇跡みたいで基本的に俺以外の大人には心を開かない。
「いいよ、気にすんなって。そういえば、今日の千鞠ちゃんなんか、いつにも増して柔らかかった。俺、あの歌い方初めてみたと思うんだよね」
「たしかに、こないだより優しい歌声かも」
大杉の言う通り、今日の千鞠ちゃんは以前見た時よりももっと優しくて温かな歌声だった。長年通う、熱烈なファンの彼が言うんだから間違いないだろう。
「ハル」
「ちまちゃん!!」
「わっ、ハル!」
千鞠ちゃんが、手を振ってこちらに向かって来てくれているのにいち早く気付いたハルは俺を振り切って真っ直ぐ彼女に飛びつく。大杉への素っ気なさがまるで嘘みたいだ。
「来てくれて、ありがとう」
「ちまちゃんね、すごいきれいだったよ!おうたもね、ちまちゃんもねとってもきれいでね!あと、かっこよくてかわいい!おめめが、すごくキラキラしてお星さまみたいだった!緑は、僕の好きな色だよ」
「ありがとう、緑は私も好きな色だな。今日はハルのために歌ったからね」
「やさしいおうただった!」
「そっか、嬉しいよ」
ハルのマシンガントークを、ひとつひとつ溢さないように瞳を見ながら受け止めている千鞠ちゃんはきらきらと輝いている。ハルが言ったように、本当にお星さまのようだ。まるで、一際輝きを放つ一等星が如く。
「朝倉さんもありがとう」
「いや、こちらこそ。席とか飲み物とか」
「ああ、別に……それくらい大したことないですよ」
千鞠ちゃんは、少し俯いて視線をそらす。ぶっきらぼうな返事だけど思いやりがあっての行動だったのがよくわかった。
この子って、まっすぐ褒められるの慣れてないのかな。俯いてるのって照れているんだ。ハルと遊んだり、オラトリオで話すうちに段々と千鞠ちゃんの性格の輪郭が露わになっていくんだよね。
「えっちょっと、まって!!朝倉は知り合いなの?嘘……?」
「えーと、色々ありまして……」
大杉が目の前で起こっていることを、処理できずにいるようだ。そりゃそうか、だって大杉はミュージシャンとしての千鞠ちゃんを見てきている。しかも、俺と知り合いだなんて夢にも思わないだろう。事前に説明しておけばよかったかな。
「あ、いつもスーツで来てくれているおにーさん……?」
「えっ!?見ていてくれてたんですか」
「はい、いつも来てくれてありがとうございます。かなり来てくれてますよね?回数もだし、まだ駆け出しのときもいらっしゃってた気がする」
「5年くらい前から、来ています。本当に、千鞠ちゃんの音楽大好きで!!」
千鞠ちゃんは、大杉に見覚えがあったようだ。凄い、よくアーティストがライブで言う「顔、見えているよ」って本当なんだ。まさか覚えてくれているなんて思わなかっただろう、彼は顔を赤くしながら少し上擦った声で一生懸命に千鞠ちゃんへ想いを伝えている。なんだか、頑張れと無意識に応援したくなるくらいに好きだという純粋な気持ちがひしひしと伝わってきた。
「ありがとうございます。サイン、いります?」
「あの、もし迷惑でなければ写真もいいですか?」
「もちろん、おなまえは?」
「塔矢です」
「塔矢さんへ、はいどうぞ。写真は、どうしましょうか」
「ありがとうございます、大事にします……!ごめん朝倉、写真撮って!」
「いいよ、はいじゃあ二人並んで……はい、チーズ!」
大杉のここまでテンション高い姿、そこそこ付き合いあるけど初めて見たかもしれないな。スマートフォンのカメラ越しの彼は、緊張で少しぎこちない笑顔なのも可愛らしい。千鞠ちゃんは、落ち着いているし貫禄すらある。きっと、こんなに熱心なファンが沢山いてくれるんだろう。音楽はもちろんだけど、彼女の人柄もきっと人気の秘訣なんじゃないかな。
「最近、ギター変えられましたよね?」
「すごい、よく気づきましたね。そう、変えてます」
「ちまちゃん!!」
「おっ、と!どうした?」
「ぼくと、おはなししてたのに」
音楽の話が弾み、二人とも楽しそうだった。そんな中、声を張り上げてハルが割って入った。しかも、不機嫌なオーラ全開で。慌てて俺は、止めに入る。
「ハル、こっちおいで」
「パパ、やだ!」
「大杉、ごめん。ほら、ハル?」
「やーだ!」
「ハル、どうしたの?いつもは、いいこだろ?もう帰る?」
「やだ!パパ、なんで、なんでそんなこというの!ぼくはちまちゃんといる!」
「ハル!!」
いやだの一点張りで、らちがあかない。思わず、声を張り上げて名前を呼んでしまった。その次の瞬間、千鞠ちゃんのよく通る声が響く。
「はい、一旦ストップ!」
「へっ……?」
「大杉さん?また来て頂けたらお話しましょう。本当にありがとうございます。お帰り気をつけて」
「あ、本当ありがとうございます。最高でした、また絶対に来ますから!」
「ありがとうございます」
「ハルくんごめん、おじさん帰るから!朝倉、また明日な、お疲れさま」
大杉は相変わらずニコニコだけど、水をさしてしまった事には変わりない。
「大杉、ごめん」
「大丈夫、むしろマジでありがとう!幸せすぎるから」
「ハル、こっちむいて」
「ちまちゃんもおこる?」
「なんで?ハルは悪いことしてないよ。だって最初にハルと私が話していたんだ。悪いのはわたし。ごめんね」
千鞠ちゃんは、しゃがみ込んでハルと目を合わせて優しく言葉を紡ぐ。泣きそうな顔のハルの頭を、優しく撫でてくれていた。
「ちまちゃんはわるくないもん」
「さっきのお兄さんも悪くないよ」
「ぼく、あのひとやだ」
「こら!ハル」
嫌だとか、軽々しく言ってほしくない。ハルにはもっと、綺麗なもので満たしてあげていたい。それに、大杉は大切な友達だ。様々な感情が混ざり合って、でも上手く言葉にできなくて……また、ただ声張り上げてしまうだけになった。
「朝倉さん、任せて」
「千鞠ちゃん……」
「ねぇ、ハル。私ここの片付けしないといけないんだ。終わったら、一緒にご飯食べようよ。なにが食べたい?」
「オムライスがいい。ちまちゃんのつくったの」
「よーしいいだろう。ブリ大根より簡単だ。てことで、朝倉さん外にカフェあるからあったかいの飲んで待っててください。三十分位で出れると思います。ハル、パパと待っていてくれる?」
「わかった」
千鞠ちゃんの頼もしさに押されて、任せることにしたけど予想外の方向に転がってきて思わず面食らう。やっぱりハルは、千鞠ちゃんの言う事はすんなり受け入れていた。
「えっ!?」
「なに、珍しく家片付けてないんですか?」
「いや、そうじゃなくてね……」
「まあいいから、話はあとでゆっくりしまょう。あと、ハルのこと怒らないで。あの子は、怒られるようなことはしてないです」
「うん、そうだよね」
「素早く片付けますから。じゃあハル、またあとでね」
千鞠ちゃんは、ニカっと笑い残して颯爽と走って行った。俺は、ハルの小さな手を繋いでカフェへ向かう。ハルはココアで、俺はカフェラテ。隣同士に座って、少しだけ沈黙が続いた。
「ハル、さっきはごめん」
「……」
「でも、あのおじさんはねパパの大事なお友達だから……いやとかは言ってほしくないな」
「……」
「ね、ハル……」
ダメだ。頑なに口を閉ざしている。初めてかもしれない。ここまで、駄々こねているハルを見るの。明日、大杉に改めて謝らないと。なんで、ここまでヘソを曲げているのか。たしかに、人見知りで知らない人や久しぶりに会う人には素っ気ない態度をとる。だけど、あんなに激しく感情を出すまではなかった。千鞠ちゃんを取られたようにみえたんだろうか。
「ちまちゃん!」
「ハイハイ、おまたせしましたよー」
「ちまちゃん!だっこ」
「千鞠ちゃんは疲れてるから、パパがだっこするよ」
「やだ。パパはやだ」
「あはは、やだだって朝倉さん。いいね、はっきり言おう。嫌なことは嫌だよね。はいどうぞ」
千鞠ちゃんが来た瞬間に、ハルはパァッと表情を明るくさせて飛びつく。今までの不機嫌さは嘘みたい。それだけ、千鞠ちゃんに懐いていて心も許しているのがよくわかった。
「ちまちゃんだいすき」
「ありがとう。私もハルが好きだよ」
「ハル……」
「駄々をこねているって思っていたら、いつまでもハルは嫌って言いますよ」
忌憚のない千鞠ちゃんの言葉に、一瞬射抜かれたような感覚になる。そう、駄々をこねていると思っていた。どうして?なんで、聞いてくれない?そんなあてどない問答だけが渦巻いて、正直辛いなとさえ思っていたくらいだ。
「なんでわかったの……?」
「わかりますよ、朝倉さんは顔に書いてあるから」
俺、そんなにわかりやすいんだろうか。それに、そこそこ子育てはひとりでもうまくやれていたつもりだったんだ。でも、やっぱり力が及ばない事もあるんだって今回まざまざと突きつけられた。それに、うまくやれていたつもりという気持ちがひとりよがりなんだ。
「ちまちゃんは、おうたと楽器ができるの?」
「そうだね、歌は大好き」
「ぼくもすきだよ。ちまちゃんとうたいたい」
「お、いいよ。セッションしちゃう?ピアノ教えようか?」
「うん、やりたい!」
「ハルのすきな歌はなに?」
「きらきら星」
「きらきらひかる」
「おそらのほしよ」
「まばたきしては、みんなを見てる」
「「きらきらひかる、おそらのほしよ」」
「ハルうたうまいね。綺麗な声だし」
「やったぁ!」
冬の透き通った空気に二人の歌声が溶けて、混ざり合っていく。それがたまらなく美しくて、無性に泣きたくなるような気がしたんだ。
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