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第三章 第二節 マイトにとって、おそろしいもの(1)

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 手に取れる星の量にも限りがある。この両腕で抱ける命など知れている。
 強欲な触手が、愛にまで手を伸ばしたなら。すなわち、人類が堕落してしまう、と。
 思考する目にも似た、熱を放つ眼が、土地に根を張っている。
 這いずり回る。にじり寄ってくる。堕落の獣。月のない夜。定義のない世界。
 それが這い寄ってくる日が、いつかは知らずとも。

 ━━いいや、日は知れている。また、この手に罪を重ねて、罪を殺さなければいけなくなる。
 これは、ある日耳にした予言。要は、『内政から腐らせて、土地を得ようとする奴がいるから、気をつけろ』という予言だ。
 マイトは知っている。村長が、最近村の郊外に店を構えるようになった呪術師と、関係を持っている件について。その呪術師が、結構な頻度で店の場所を変える件について。そして、店の場所を変える原因が、自分……マイトにある件について。

 ここ最近は、村に攻めてくる馬鹿の始末や、異群地の旅人に対する処刑が多すぎて、落ち着いてゆっくり、村を回れなかった。村を巡回できないとなると、当然、マイトは心配を背負ってしまう。原因とはもちろん、あの呪術師である。また知らない場所で、店を構えてはいないだろうか…… その憂慮が、耳にした予言を預言にした。預言ならば、実行されなければならないから。
 マイトは睡眠に入るたび、予言を受け取る。例えばそれは、どこそこの方角から異群地の人間がやってくるから、対峙して始末しろだとか、近いうちに村の女性が出産するから、立ち会ってやれだとか、暮らしの中で必要な予言ばかりだった。軽く、生活必需品と化していた。
 しかし、あの呪術師がやってくる前の予言だけは違う。結果を教えてくれないし、具体的な内容も教えてくれない。いつもの予言は、常に行なった結果と行わなかった結果を報告してくれる。結果を知っていたところで、マイトが予言を預言にして実行するかは、時と状況による。知らずに行わないなら仕方がないが、知ってて行わないにしても、何かしらの考えはある━━そう、人民には思ってほしいところだが、悲しいかなマイトには、伝える言葉も機会も持っていなかった。
(注記:マイトの出産立ち合いに関して、ここまでの描写で疑問を持たれた方もいると思われるため、注記を残しておく。基本的に、恵まれた土地の中では『血液は忌むべき液体』とされる文化が多く、女性の月経はもちろん、出産もその例になる。マイトのうわさに箔付けを行うためか、もしくは血液という厄を押し付けるための立ち合いか、どちらとも言えない状況だが、少なくともマイトは助産師として働いていた事実もある。意外にも、物事は千の貌を持っている)

 さて、マイトはきょうも起き上がって、一杯の水を飲む。マイトの住んでいる家には書庫と宝物庫、それと台所と寝室がある。これは村の中では特に高い役職に与えられる住居で、かなり設備が整っている。水を飲んだらマイトは書庫に入り、受け取った予言を書き留める。まっさらな粘土板を手にとり、暦と予言の個数を書き込む。
 なぜ、起きた後すぐに記録しないのか? と聞かれれば、すぐに答えられるだろう:『寝起きだと夢と予言の区別がつかないから』と。これを毎日行えば、マイトはきょうやるべき作業を理解できる。積層した毎日を取り出して、早速マイトはきょうの予定を考える……
 きょうは、なんと、誰も出産をしていない。しかも、異群地から誰かが来るような、そういった予言の類もない。他にも、予定は一切ない。例えば、地鳴鳥をさばいて食用にしたり、どこかの漁あみが引っかかって魚が取れないからあみを元に戻せ、だとか、村長の容態が悪いから神事の代わりを果たせ、だとか、さばいた異群地の旅人の内臓を売る、だとか。
 毎日受け取る予言の、上限は五個。よほどの事態でない限り、予言がいっぱいいっぱいになって、本当に重要な……破滅や呪いの予言を受け取れない、という事態はない。そして、きょうの予言はどちらかというと、破滅の予言であった。その内容も、なんと五個全てだいたい同じである。五個くらいならレッテンスパイン全土の図書館を一階増設するほどでもないので、以下に全て記す。

・警告:『千の貌』がラヴァラサ村に店を構えた。方角は北西、人だかりが予想される。
・注意:『千の貌』が営業を開始する。適度な時刻に哨戒し、人民を気絶させろ
・預言:全てを曖昧に戻したくないならば、『千の貌』を殺害し続けろ
・警戒:全ての人民が『千の貌』を支持している
・命令:『千の貌』、もとい、呪術師ナヤリフス=トテフを止めろ

 ……ふだんなら、適当に殺せばいいかな、などと浮ついた考えをするマイトだが、きょうは違う。今のマイトには、村よりも自分よりも守りたいなにか、がある。それは、キトリだ。初めて出会ったあの時から、キトリに対してなにか特別な感情を抱いていた……キトリは純粋で、純潔な存在でなければならない。彼女の腕を血に浸すような事件があってはならない。ミファース=キトリは、カルライン=マイトが守る、と。
いてもたってもいられなくなったマイトは、家を発ち、対ナヤリフス用の大剣を手に取って、外へ飛び出した。

 呪術師であれば、ましてや倒しても復活するような呪術師で、倒される前の記憶を持っているならば、将来的にもっと強くなっているはずである。そうでなければ、呪術師どころか、人間にさえ生まれ変われないからだ。例えば道の小石につまづいて転んだなら、少し意識を取り戻して、『もっと気をつけて歩こう』と思うように、人間に擬態するならば当然の生態である。だから、マイトは目的地にたどり着くまでの間にも、大剣にかけた術式を強固にし、彼の血液でかき消えないように、深く深くへ術式を刻んでいた。それもそう、マイトの何よりの悩みは、毎回、術式が血液で消える件である。

 そして、道中でさえ、かの呪術師を崇める声ばかりを拾った。誰もが若い女性で、村の男性に飽き飽きしているか、刺激的な日常を求めている者たちだろう。

「ナヤリフス様素敵! 抱いて!」
「あぁ……私も薬の材料にされたい……」
「結婚しよ? それとも私を血痕にする?」

(勝手にやってろ、ああいう奴らは話題に乗っかりたいだけだから)

 同時に、『キトリをこんなしょうもない話題に付き合わせたくない』という思いも強化され、マイトはより一層『騒ぎの元凶を殺さなければならない』と思うのであった。
 そして、キトリが頼りにしている巫女たちですら、呪術師ナヤリフスの話題で持ちきりだ。あいつは危険だから、と言ったとしても、誰も聞いてはくれないだろうし、そもそも聞けるような意識を保てない。しかし、マイトは思い出す。村の中で、マイトに対して怖がらない巫女を。

 彼女に対しても、呪術師の話題は同僚から降り注がれて、容赦なくこの村を堕落させようとしている。ここ、ラヴァラサ村の人口の半分は女性だ。だから、この調子で誰もがあの呪術師に頼りはじめると、全てが終わってしまう。だから、キトリがどう思うかは置いておいても、彼女だけはのせられないでいてほしい。彼女が確固として拒否すれば、キトリにも意志が伝わるから。

 ━━にしても、天気が若干悪い。札束草がきしむような音を上げて、それにつられて鉛苺の木も、うめき声のような音を上げ、髪の毛ほどの細さの枝を風にそよがせている。地鳴鳥などのすべての歌う生命が、捧ぐ者のいない歌をやめて、自身の生存だけにすべてを集中させている。まだ、凶兆は全て出揃っていない。『赤い』月はまだ『見えていない』。
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