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第五章 第一節 人生という悪夢の起源

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「ナヤリフス様、お怪我はありませんか? 先ほど、狂犬の……じゃない、うちの村のマイトが入って行ったので、お様子を伺いたかったんですけど、足がすくんで……」
「私か? 私なら大丈夫だ。かわいい狂犬もいたものだな。うちで飼いたいくらいに」
「なかなか肝の据わった方ですよね、ナヤリフス様は……あっ、うちの村長はどうですか?」
「カセンデラ=オミンか? つい先ほど、殺された。マイトに、な」
「えぇ……ついに……」

 こんな会話があったかどうかは知らないが、とにかく『村長殺しの罪』を背負ったマイトは迫害され、今となっては恐れ知らずな若者がマイトの家の前で集まっている。彼らは武装しており、いつでも死神の首を切り落とせるように準備していた。

「……こんなはずじゃなかったんだ、こんな……」

 近くで、男性の声が、聞こえる。
 キトリには、その声の主がわかった。冷酷な声の中に、人間としてのあらゆる悲しみを内包したような、不思議な男性の声……カルライン=マイト。もはやキトリにとっては、マイトの声は死をもたらす声ではなく、『安心できる、落ち着ける声』となっていた。きっと彼は、近くでうずくまっているはずだ。いつまでも借りた毛布にぬくぬくと、入っているわけにはいかない。キトリは身を起こして、寝台に掴まって泣いているマイトの頭を撫でる。

「大丈夫、何が何だかわからないけど、大丈夫、だよ」
「……!?」

 いきなり撫でたからか、マイトを驚かしてしまったし、撫でると決めたキトリ本人でさえ驚いていた。異性に触れる経験をしていないし、いきなり頭を撫でるというのも、変な話である━━キトリの方は、すぐにわかった。原因を究明すべきは……マイトの方だ。

「あっ、あわゎわ……なんだ、キトリか……いきなりだったから思考が止まったじゃないか、次からは『今から撫でますよ』と言ってから撫でてくれないか?そうしてくれ、是非そうしてくれ!」
「私、ついうっかり手を出してしまって……ごめんなさい、何か不快な思い出を想起させたみたいで」

 キトリが謝ろうとすると、マイトは暗い声でそっと呟く。

「いいさ……キトリは悪くない、キトリは……」

 不思議な言い分だ。まるで、キトリ以外に悪の原因を求めているような。確かにマイトは、人間の集いからすれば悪人である。一部を破壊して、連れ去って戻さない。これまででもう、マイトは六百七十六人を殺してきたから、もはや大量殺人犯、もしくは戦争犯罪者と言ってもおかしくないだろう。しかしキトリはこうも思う。
(ふつうは一人か二人殺せば、そこで飽きるか割りの合わなさを感じるかでやめると思うけれど、生業とは言えども、ここまで手を汚す必要はあるのかな?)
 つまりは、『マイトの殺意に誰かが介入している』か、『マイトの名誉を汚すために、他人の罪をなすりつけている』か、その両方か。そのどちらでもなく、単にマイトの意志であったならば、キトリとしては擁護できる部分などどこにもないし、むしろさらに罵倒を繰り広げるところなのだが、もしそうだったとしても、明らかに人数の桁がおかしい。キトリの一番兄貴が殺してきた人間の数は生涯で六百七十二人、そのどれもが兄自身の意志である。一番兄貴は享年二十八歳、対してマイトは十四歳の、まだ少年である。そんな歳の若い人間が、ここまで大勢の人間を殺せるものだろうか?……というよりも、『また』人数が増えていないだろうか?
 きのう、村長の邸宅で眠らされた後のキトリの、ぼんやりとした聴覚が正しいなら。カセンデラ=オミン、村長は、キトリが次に飲むはずだった茶を飲んでしまって、その作用からか死んでしまった。マイトが現れた時、村長はすでに死んでいるはずだ。それが、マイトの罪として加算されているなら。そして、これまでマイトの罪だと思っていた人数が、実は半数以上もなすりつけられているなら。本当の悪は、マイトなのか、それとも……呪術師ナヤリフスか。
 答える本人がそばにいるのだから、問いを投げかけようとキトリは思った。

「マイトさん、これだけ聞いてもいいですか? それ以外には詮索しませんので。あくまで私たちは『火山を殺す』ために集っただけの仲です。ですが、聞いておかないと動きに支障が出ると思って……」
「……あいつのせいで、ほぼ何もかも剥き出しにされたようなものだからな。いいさ、なんでも答える」
「『これまでマイトさんが殺してきた人数は、本当に、マイトさんの意志によるものでしょうか?』どうしても私は、私と同い年の人間が、ここまで罪を犯したとは思えなくて……」

 質問をした瞬間、マイトの呼吸が不安定になった。これはいけないと思って、キトリは口を塞ぐが、マイトはそのままの調子で答える。

「やっと……やっと……すまないキトリ、おそらく、話している間に心が乱れてしまうだろうから、そういう時は叩いてくれて、殴ってくれて構わないから……だから、だから最後まで、話を聞いてくれ……!」

 今の一言で、キトリは理解してしまった。マイトはおそらく、まともな家庭環境で育っていない。意見をしたら暴力を振るわれるか、もしくは、その代償に罪を背負わされるか。キトリの想像できるところといえばこのくらいだろうが、産みの親、もしくは育ての親の罪を背負わされるほど苦しい仕打ちが、他にあるだろうか?
 静かな怒りと、根本からの悲しみ、その両方を感じ取りつつ、キトリは息を潜めて真剣に、マイトの話を聴いた。

(以下、一次史料『カルライン=マイトの手記』より引用)

 きっと、最初はふつうの、ありふれた家族だったと思う。父親はふだん、動物を追い回したり、魚を捕って、私有地で野菜を育てて。母親はふだん、家の補修や、掃除や洗濯、子どもを育てて。それが永遠に続くと思っていた。
 ありふれた家族は、そもそも存在していなかった。
 俺は小さい頃、夢を聞いたんだ。父親と母親が何か絡み合っていて、それを邪魔しに行かないと大変な未来が訪れるぞ、と警告してきた夢を。邪魔しに行こうと思って、起き出したまではいいんだけれど、想像の自分と現実の自分は違うんだって、その時よくわかった。何かしら声をあげて、縄を交えるように愛おしく、そして狂おしく響くその声を、怖いと思ったから。怖くて、動けなくて、また夢の世界へと戻っていったから。

 あの時がきっと、運命の分かれ道だったと思う……それと、俺が大きくなって、母親の胸に頭を埋められるぐらいになった時。外へ遊びに行って、帰ろうと思ったときに、家がどこかわからなくなって。迷いに迷って、山の中へ入っていってしまった。怖くて、心が細くなって、泣き出して。怪我もして、決められた門限までに帰ったとしても、それはもうひどく怒られそうで。そうしていると、隣に誰かが座って、俺の背中を這うように撫でたんだ。

「久しぶり……これは、大きな怪我だな。ちょっと待っていてくれ……」

 本当の母親かと思うぐらいに、安心できる声で語りかけた誰かが、薬草か何かを持って俺の怪我に触れる。その時、俺は驚いたんだ。痛みもせずに、染み込んだ感触もせずに、まるで怪我をする前のように、それでいて怪我をした後新しく敷かれたように柔らかく治っていったから。俺の怪我が治ったとわかったから、その誰かは俺の手を取って、山の出口へ……家々と山の境目まで、俺を連れ出してくれた。俺は傷を治してくれたお礼にと、何かを渡したかったけれど、その誰かは。

「お礼はいらないから、また会いにおいで」

 と言って、俺を送っていってくれた。
 それから飯時に、山の中に入って、優しい誰かが助けてくれた話を、実の母親にしたんだ。聞いた母親は、

「そんなにその人がいいなら、その人の子供になればいいじゃない」

 と返して、それっきりだった。いつもなら、父親が止めてくれるはずなのに、この日の父親は早くに寝てしまったから、誰も止めてくれなかった。いつもなら、母親は優しく話してくれるはずなのに、この日は……この日から母親は時折、心を乱すようになっていった。生まれてこの方生きる喜びを知らなかった俺は、母親に『喜びを知るために』と、まずい料理を味あわされて生きてきたけれど、この日から家での食事が、とてつもなくまずく感じてしまうようになった。まるで、毒でも混ぜられているような……
 理由は知っていた。母親はお腹の中に子供を隠していたんだ。俺の時もこうやって、俺の父親に当たり散らしていたらしいから、そういう血筋なんだろうな、と思っていた。聞いた話によると、カルラインの家系で代々持っていたかんしゃくが代を重ねるごとに、どんどんひどくなっていくから、それで子供を産めるか、産めるところまで育てられるか心配になって、俺を隠していた時の母親が、山の神様にお願いをしたんだってさ。
『何でもしますから、この子を無事に産めるようにしてください』と。返事はすぐに帰ってきて、
『お前にできる奉仕など無いのだから、お前の大切にしている宝物から貰っていくぞ。子供は無事産まれるだろう、第一子はな』と、山の神様が返したんだって。

 それから、母親の持っていたかんしゃくは時を経るごとにひどくなっていった。ある時は家中を走り回って叫んだり歌ったり、ある時は家中の家具をひっくり返して何かを探したり、ある時は呼びかけても呼びかけても起きなかったり、起きたと思ったら激しく暴れ回ったり。最初のうちは父親だって助けてくれたけど、最終的には父親は家を出ていってしまった。
 あまりにも我慢ならなくて、あの時のあの山へ向かおうと決めた。でも、お礼なんて考えられない。確かにあの人は『お礼はいらない』とは言ったけれども、お礼を渡さずにまた会うのは違う気がするし、お礼を渡しに行ったほうが自然な気がして。何か、欲しいものでも聞いておいた方がよかったかな?悩みに悩んで、結局。海辺に落ちていた貝殻を拾って、お礼にしようと思った。耳に当てると波の優しくてきれいな音がする、一片も欠けていないきれいな貝殻を。

「私は、確かに『お礼はいらない』と言ったが……可愛いじゃないか」

 そう言って。その人は、俺を強く、苦しいぐらいに抱きしめて、頭を撫でてくれたんだ。よっぽど、お気に召したのだろう。家族よりも優しい、この人になら。山の神様のような、この人になら、なんでも相談していい気がして、母親のかんしゃくの話や、父親の無関心さの話をしてみたんだ。門限に気をつけながら、家では母親の機嫌取りをして。合間合間を縫いながら、全ての悩みを相談したんだ。
 最後の方には、母親を捨てて、この人の家に住みたいとさえ思った。もう、母親は人の心を失って、ただ笛を鳴らすようにしか話さなくなってしまった。不器用だけど、ご飯が美味しくないけど優しかった母親は、もうこの世界には存在しない。その時だった。

「母親がかんしゃく持ち、か……ああ、あの家か。第一子までって警告したはずだが、人間は話を聞かない奴が多すぎるな……」

 何の話だろう? と思って、俺はそっと彼の衣服を引っ張ってみたんだ。柔らかい、まるで神を隠すように丁寧な質感だった。そのあまりにも優しい質感に驚いて、何度も掴んでは、何度も放した。繰り返していると、彼は微笑んで、息をついた。それと同時に、俺は知らない家にいた。
 ふと足元には、まるで抱きしめてくれているような心地の感触があって。嗅いだ覚えのない、甘くて栄養が豊富そうな料理の匂いがあって。これまでいた、山のふもととは何もかもが違っていたから、俺は少しだけ、怖くなってしまった。

「驚かせてしまったか? お前の話を聞いていたら、つい……『魔術』を行使してしまって。もし興味があるなら、私が教えてもいいが。人間ぐらいの知能を持っているなら誰でも扱えるし、お前ぐらいの歳の子供なら上達も早いだろうな……」

 俺はこの時まで、本物の魔術を体で味わった覚えがない。これまで父親に何度か、村の人たちで儀式的な魔術をやっていたところは知っていたけど、どれも薄ぼんやりとしていて、実態がなかった。
 思ったんだ。俺の人生が狂った一番の原因である、あの予言。夢の端からふと現実に立ち上がる時、頭の中へ流し込まれる予言の内容を、俺が制御できるなら……本当の魔術であるなら、能力の制御だってできるだろう。それで、教えて欲しいとお願いしたら。

「ちょうど、私も弟子が欲しかったところだから。お前の方だって、今の状況で家に帰ったら危ないんじゃないか? まずここから、お前の家に戻れる可能性はないし……どうせなら一緒に住まないか?」

 その時の俺はまだ幼かったから、すぐに喜んでうなずいてしまった。でも、断っていたらそれはそれで、この手記が存在しなくなる。世の中には存在してはいけない、しなくていい物事もあるけれども……
 住むと決めたその日は、ご飯を食べて寝ただけだった。幸せでいっぱいの時間だった。『これから育ちが良くなるんだから、遠慮せず食べていい』と言われたぐらいだから、俺は相当、まともな味の料理が怖かったのだと思う。素材の味が生かされていて、生臭くもなく、程よく食欲をそそってくれる。ある美味しい魚料理が気になって、材料が何なのか、どうやって作ったのかを聞いてみたりもした。『鈍魚の酢漬け』と言うらしくて、材料になる鈍魚を獲れさえすれば、簡単に作れてしまうそうだ。
 体重計の上に乗るのが怖いぐらいに食事が進んで、気がつけば食卓に並んでいた皿の上には、空気だけが乗っていた。俺の腹が横たわれと、進言してくるのを知ってか知らずか、彼は即座に寝台の準備をし始めた。準備はすぐに終わって、雲のように柔らかく寝心地の良さそうな布団を出されては、彼はそれをぽふぽふと叩いて俺を誘ってきた。もうその頃には、いまだに名乗られていない彼に懐いてしまっていた。だから、俺は誘われたとわかってすぐに飛び込んでしまった。

[検閲済]

 寝台のうえでふたり、色々な話を聞いた。何でも、子どもが大好きで、子どもを傷つけるような人間が許せないらしい。それと、時折山から降りて店を構えて、村の様子を知りにいく趣味も持っているらしい。人の悩みを聞いて、悩みに応じた薬を出している……って。
 彼は。俺にとっては、神様だった。この世界を作った神様がいるなら、きっと彼を指すんだろうな、というぐらいに。

[検閲済]

 問題は、次の日からだった。
 動き始めからご飯を食べるなんて、今まで一度もなかった。これも割と問題だけれど、本当は、その後に。
 ちょっとしたせせらぎが聞こえる川の近くに連れ出されて、『手を開いてみろ』と言われたから、素直に手を開いた。小刀が手渡されていた。

「今から、一番簡単な魔術を教えようか」

 そう言ってから、彼は俺の耳を彼自身の胸に押し当てる━━まるで抱きしめるようにして、俺に心臓の音が聞こえるようにしてきた。
 とく、とく、と暖かく鼓動するそれを感じ取って、一瞬安心しそうになったが、教えを受けていると意識してどうにか、緊張感を取り戻して。彼は言い放った。

「先ほど。小刀をお前に渡しただろう? その刃先を、ここ……音の鳴る場所へ向け、押し込む。私にはさほど効果はないだろうが、人間であるなら……それは静かになる」

 これまでと変わらない調子で、話してくれたはいいが、その優しく、眠りに誘うような、とろけるような声が。とてつもなく恐ろしくて、脊髄を縛り上げるような薄寒ささえ、感じるようになった。それで一瞬の隙をついて、俺は彼から逃げ出した。
 俺の知っている彼なら、俺が逃げ出して向かう先へ、俺が行かないように止めてくれるはずだ。でも、止められずにそのまま、俺は逃げ出せてしまった。きっと俺は、試してみたかったんだと思う。自身の母親で……

 川から村へは意外と近かったらしくて、すぐに家に戻れてしまった。外からでも、母親の呼び声が聞こえてきた。我が子を呼ぶ声。我が子を叫ぶ声。我が子を嘆く声。我が子を……我が子の産声を。聞けなかった悲しみの声。泣き声。鳴き声。それらは輪唱となって、村中に響き渡るような音量で。家々を破壊して、この世の全てを壊すような勢いで。全ての生き物の鼓膜を破るような勢いで、換えの鼓膜を秒ごとに製造しなければならないようなほどに。それは叫んでいた。
 山にある家から、その声が聞こえなかった理由は単純で、距離と時間の問題だった。要は、遠かったから聞こえなかっただけだし、母親が叫ぶ理由が発生しないような時間だっただけだ。これは極めて自業自得と言えるが、俺は自分の母親を『うるさい』と感じてしまった。
 正常であろう食事をしたせいか、俺の聴覚は過敏になっていたのだろう、これまで母親の泣き声を聞いても『またか、嫌だな』ぐらいにしか思っていなかったのに、先ほど教えてもらったばっかりの、一番簡単な魔術。人間を静かにする魔術を、行使したくなった。

 耳を抑えながら、母親のもとへ向かった。もはや人の形さえ怪しいそれが抱いていた者は、本来ならば俺の妹になるはずだった子ども。死んでしまった、死産された嬰児……。

「お母さん……」

 そう呼んでみて、母親の反応を待つも、決まったような叫び声や咆哮の数々だけだった。俺をはじめから存在しないように振る舞っていた。母親のそばには、処方箋が置いてあった。その近くに山の土ほど散乱していた薬の瓶は、どれも空だった。一気に飲まれたように、それらは乱雑に放り投げられ、中には土を濡らすような量、残された液体を持っていた瓶もあった。
 この村に肉体の病人などいないのだ。いるのは、心の病気を持った人間。それなら、雨のように湧いて出る。表面化した病人がいないから、ここではあまり医療は発達していない。だからかどうかは知らないが、この村には『呪術師』がいる。それは人の悩みを聞いて、悩みに合わせた薬を作り、そして……
確かに俺の母親は、俺が生まれる前から『呪術師』の世話になっていた。家系で引き継いできたかんしゃくをどうにか治すか、軽症にして欲しかったのだろう。
 確かに母親は昔から、父親よりも『呪術師』を好んで、一緒にいたがっていた。その感情を、父親は良しとしていなかった。
 人の姿形さえ怪しいほどに、もはや人としての中身を保てないほどに、凝固し、崩壊した俺の母親だったその生物は、鉱物は、植物は、存在は。人格をも、思考をも失って、ただの巨大な菌塊のようになっていた。それでも『人間であった、生命であった』事実をこの世界に刻みつけようとしているのか、がなりたて、叫び通すのみであった。

 それからは、すぐに体が動いた。まず、母親であった存在の鼓動の場所……心臓を探し当て、そこに携帯していた小刀を突き刺した。一回、母親はさらに大きく叫んだ。けれど、それからすぐに弱り果てて……最後の足掻きか、俺を抱きしめようとしてきた。どろどろに溶けた両腕で。

 こんな母親でも、死んだら葬儀に出なければいけないのか。
 こんな母親でも、母親と呼び慕わなければならないのか。
 こんな、生存欲と生殖欲に塗れた、自己愛の怪物から生まれたなんて。
 忌まわしい、忌まわしい。ただただ、忌まわしい!

 母親の溶解した肉体をただただ切り刻んだ。開いた口からはうめき声と、泣き声が聞こえた。全てが一つに溶けていて、切り刻むのは簡単だった。粘度の高い水を切り刻むように、すぐに母親は細切れになった。
 母親は死んだ。近所迷惑な声は止み、ひとしきりの静寂をもたらした。本来上がっていたはずの声の主は、母親の液の中で浮いていた。俺はその亡骸をすくい取って、家の近くに埋めた。
 俺は、自分の母親を殺した。それだけでも十分な罪だし、やってはいけない行いであるとは理解していた。それでも、湧き上がってくるこの感情は。
━━快楽。悦楽。喜び。安心感。
 いけない感情であると、頭では分かっていた。でも、心から感情が、まるで湧き水のように溢れて、止まらなくて。それで、何だか訳がわからなくなって、混乱して……

 そのまま疲れて寝てしまった。
 次の日、少し外が騒がしくて、起き上がった。どろどろした母親の残骸を払い除けて、何事もなかったように振る舞う準備をした。騒ぎの元へ向かうと、そこには、若い女性たちが何十人も集まっている。中心には誰か、男性のような人間。騒ぎ方から、異邦の人間が来たんだろうな、と思って、近寄っていったんだ。
 そこにいた、人間の形をした何かが、かの『呪術師』だった。彼は周りの女性たちを軽くあしらっては、ゆっくりと俺の方に近づいてきて。そっと、まだ背丈の低い俺に合わせるようにしゃがみ込んで、呪術師は語り出した。

「私に何か、話でもあるような顔をしているな? 人気がない場所に行こうか?」

 呪術師がどういうつもりで、俺に話しかけてきたかはよくわからない。でも、俺が俺の母親を殺したのを知っているのだろうし、俺の母親は呪術師が好きだったようだから、上客がいなくなった原因を、客の息子である俺に求めたのだろう。
 数刻ほど歩いて、ちょっとした岩場まで辿り着いた。そこは確かに人気もなく、空気が静かで、植物の呼吸が聞こえるほど落ち着いた場所だった。呪術師は岩の中で最も座りやすそうな岩の上に座って、自分の太ももを叩いていた。『こっちへおいで』という、合図だろうか。その合図の方法に、いくばくかの期待を抱きながら、俺は呪術師の膝下へ寄っていった。呪術師の腰掛けた岩場まで、手が届くほどの距離まで来た。それと同時に、俺は浮き上がった。呪術師が俺を抱き上げて、自分の胸元へと寄せようとしていたから。俺を、まるで赤子に乳を飲ませるような姿勢にして、呪術師はこう囁いた。

「きのうにでも、実の母親を殺してきたような顔をしているな……そうだろう? あれをお前の母親と、呼びたくはないのだが……まあ、お前がそれですっきりして、日々を送れるならそれでいい」

 まるで、俺を知っているかのように話しかけてきた。低い声が、頭の芯まで響く声が、溶解液のように俺を溶かそうとしてくる。気を強く保たないと、すぐにでも引き込まれてしまいそうな、甘くて栄養価のある、卵料理のような誘惑。手を強く握って、持ってかれないように、自分の意識をはっきりさせて、耐えた。
 植物が呼吸し、仕事の成果を空気に提出している。岩場の表面に住んでいる小さな生き物たちが、巣を作っている。静かに空が笑顔を浮かべている。そんな中、呪術師は、聞き捨てならない言葉を言い放った。

「お前を気に入っているよ。愛している、と言ってしまってもいい。だからこその提案だが、お前を相当の地位に立ててやるし、愛してやるが、代わりに、私のお願いを少しだけ、聞いてくれないか? 難しいお願いではない。少なくとも、実の母親を殺せるお前にとっては、な」

 ただ、恐ろしかった。恐ろしくなってしまった。実の母親に一番かけてもらいたかった言葉を、こうして耳にした事実が怖いんじゃなくて。こんな貌も、素性もわからないような男性からもらった事実が怖かった。
 山の神様は、俺がこうやって転落していく未来を知らずに、俺を止めなかったのか、それか、こうなる未来を知っていて、わざと向かわせたのか。本当は、両方でもない、きっと真実に近い理由があるのだろうけど、それを考えるのは、とても嫌だった。
 傍から聞けば、仲の良い親子のように思えるかもしれないが、子役の方は子どもを演じているつもりはない、という事実には気づかないだろう。俺は刃物の場所を確認してから、今は話を聞くだけ聞いておく、と決めた。その時だった。

「この私を……『呪術師ナヤリフス』を、否定し、無いものとしようとする人間どもの一族を、全員残らず殺して欲しい。もしこの村以外でも存在したならば、殺してしまえ。手段は問わない。鉛苺での毒殺でもいいし、落石で殺すのもいいだろう。偶然を装って海に突き落としてもいいし、単純に刃物で乱切りにしてやるのも良かろう」

 呪術師は、まるでどこかの王族のような張りのある声で、楽園の扉から漏らされたような甘い言葉で、残酷な指示をしてきた。口先でなら何とでも言える、でも、隠しきれない邪悪な気配がある。滑らかな手が、俺の手の中に一枚の木板を差し込んだ。その板には、たくさんの氏族の名前が、雨のように何度も、彫り込まれていた。テレミット、ルバイヤム、クレイヒナ、アルジェン、ウィエレア、レトカセナ、ミファース……そして今の村長をやっている、カセンデラ……

「この中の『ミファース』一族が中々厄介でな、私の前に一切姿を出してくれていなくて、情報をご近所の奥さんの会話に頼る他ない状況で……他は大体一度は顔を合わせたが、こいつらだけよく判らない。だから、はっきり言うが、ミファース一族に関しては、実際に接してみてくれ。それで怪しい様子がなければ、殺さなくて構わない」

 なぜか、俺がお願いを引き受ける前提で話が進んでいた。疑問を持って、息を潜め、できるだけ隙を作らないようにしていると、呪術師は俺の頭をゆっくりと撫で回す。周りには誰も、何も助けてくれそうなものはない。と言うより、この状況を誰が助けようと思うだろうか。傍から聞けば、本当にただの、仲のいい……
 違う。俺が、親に期待する、求めるものは、こんな愛情の皮を被った支配じゃない。もっと血の通った、全身を同日に洗うような、無垢で、無条件の……
自分の欲する愛情と、相手の提供する愛情の種類、これらが違ってくるとき、争いは起きる。たとえ、相手に効かなくとも、少ししか効果が出なくとも、当面の間はこれでいい。

 俺は、呪術師を刺した。刺した感覚はあまりなく、呪術師の、夢のような触り心地の衣服に触れてようやく、突き刺さった実感を得た。一つ一つの器官が分かれているわけではなく、全てがさなぎの中身のように、一体となって、どろどろと溶けているかのような。と言うよりも、人間の形がまるで、虫のさなぎであるような、不気味な感触だった。ここでようやく、呪術師が人間ではなく、何か別の生物……ひょっとしたら生物の理さえ超えているかもしれない……存在であると実感した。
 うまく急所に当たったのか、それとも俺のためにわざと苦しんでいるふりをしているのかどうかはわからないが、ともかく俺は呪術師の身体による拘束から逃れ、自由の身になれた。

「は……はは……ますます気に入ったよ、カルライン=マイト……」

 そう、言いかけていた気がした。
 家に帰って、すっかり蒸発して乾燥した、干し茸のようになった母親の亡骸と一緒に寝た。お腹が空いてきたら、母親を少しずつ食べてやりくりした。食えない味ではない。しかし、父親が帰ってこない。きっとどこか別の家で、幸せに暮らしているのだろう。許せない思いもあったが、復讐心は刃物と一緒に、寝床へ置いておいた。

[検閲済]

 次の日になって、俺は急に高い役職に就いていた。神官であり、異邦の旅人を分解する、拷問官に……全て夢で終わっていればよかった。けれども、これは確かに、あろうことか現実と化してしまっていたのだ!

(引用終了)

 キトリは、先ほどまでの話を聞いて、ナヤリフスへの意見が反対向きになった。これまでもちょくちょく怪しい素振りをしていたが、その直感が確信へ変わった。
 要するに、ナヤリフスは『子どもが栄養と共に必要とする<愛>を欠乏させる状況を作って、優しく振る舞って<愛>を受け入れさせる素地を作り、<愛>を受け取るためなら何でもするような人間を作り、自身の目的を達成しようとする』、至極同然の悪……邪神である。
 そして、自分の一族が狙われていた事実に関しては、驚いた。と言うより、これでキトリの一番兄貴の死因(鉛苺の毒による死ではあるが、時代から考えるに種の処理はしっかりしているだろう)と、その犯人がマイトである事実に対して驚いていた。しかし、今のキトリには、マイトを責める気は全くなかった。むしろ、マイトをそっと抱きしめて、背中を撫で回したいぐらいに悲しい気分になっていた。

(確かにあの時、あなたは『子どもを愛さない親なんていてはいけない』と言っていた、でも、あなたが子どもを愛さない親を作り出しているなら、その正義は本物じゃないでしょ?)
(確かに、子どもをこれ以上持ってはいけないと忠告されていたのに、子どもを作ってしまったマイトのお母さんが悪いけど、だからといって被害者であるマイト本人に償わせるのはどうなの……?)
(子どもが好きなだけなら、親を亡くして路頭に迷っている子どもを保護して、育てるだけでいい。それをなぜ、路頭に迷わせるように仕向けているのだろう?)
(マイトを、何かよからぬ目的のために使おうとしているのでは?)

 気がついたら、キトリも泣き出してしまっていた。親のせいで子どもが危ない目に遭う、という話はよくある事態なのに、それでもやるせなさというか、重すぎる負担を背負わされたマイトが、あまりにも悲惨で、かわいそうになって。自分が泣くだけでは、何も事態が進まないとはわかっている。だから。

「ねえ、ミファースが狙われてたって、本当なの……?」
「読めばわかる」
「うん、でも、あなたは……マイトは、私を……ミファースの一族に属する、私を殺さなかった。嬉しいけれど……それは、どうして?」

 ここまでの話を聞いて、キトリは気を持ち直してから、マイトを励ますために少しだけ、準備をしていた。
 今となっては本拠地から離れ、一人暮らしをしている所だったから、キトリをミファースの一員として数えて良いかどうかは議論点ではあるのだが。

「こういう台詞をわざわざ言わせるなよ……俺は、お前と出会った時から……お前を、キトリを、好きになっていたんだから、な」

 あの時のマイトが、弓の扱いを教えてくれた時のマイトが蘇った気がした。本当は、意志が強くて、体が硬くて、それでいて心が柔らかなマイトだったのだろう。心を閉ざしてさえいなければ、きっと誰にでも好かれる、人の善い好青年へ育っていただろう。持ち前の能力を活かして、困っている人を助けられる、強い人。そんな人の心を取り戻させるような言葉を、キトリは知っている。

「私、あなたを怖い人だと思ってた。村のみんなが言うように、死の擬人化だとか、人間兵器だとか。でも、こう言う機会に本当のあなたを知れてよかった。だってあなたは、本当は、親から愛して欲しくて、もう愛してもらえないとわかってて、それで紛い物の親に良いようにされて……あなたは、人を思いやれる、強い人だと思ってる。だから……いいや、そうでなくとも、私はあなたが好き」
「!!」
「一緒に、火山を殺しに行きましょう」
「言われなくとも!」

 なんだかんだで気が合う二人は、一日が終わるまで色々な話をした。
 自分たちの持っている能力の話。キトリの食生活の話。マイトの食生活の話。キトリによる『魚の獲り方』の話。マイトによる『地鳴鳥の捌き方』の話。違う境遇にいたからか、互いに負けじと色々な話題を持ってきて、議論を白熱させていた。時々物事の解釈が一致しなくて、取っ組み合いの喧嘩に発展する時もあった。それでも基本的には相性が良かったので、勝手に地雷を避けていき、最悪の事態を防ぐように動いていた。
 そんな二人の仲に妬いたかのように、事件が訪れた。

『カルライン=マイトと思われる人物がミファース邸宅を襲撃、ミファースの一族が次々と息絶えている』と。
 この狭い村の中に、カルライン=マイト……マイトという名を持っている人物は、二人もいない。
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