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9 【深淵の沈黙】
しおりを挟むガイゼルが「手負いの影猫を追え」という命令を下してから、三日が経過していた。
王都の地下深く、黒曜石で築かれた闇ギルドの要塞。
その執務室で、ガイゼルは机に広げられた王都の広域地図を、冷たい青い瞳で見下ろしていた。
コンコン、と控えめなノック。
「……入れ」
音もなく入室したのは、彼の側近であり、狩人部隊の隊長を務める男だった。
「ボス。この三日間、王都全域の『治療師』『獣医』『薬師』、および裏の『魔道具商』を徹底的に洗いました。その報告です」
ガイゼルは、地図から目を離さない。
「……言え」
「はっ。まず、王都に登録されている獣医は三十四軒。そのすべてに、背中に剣傷を負った黒猫が運び込まれた形跡はありません」
「だろうな。ただの獣医で治せる傷ではない」
「はい。次に、非合法の『治療師』および『闇医者』が四軒。いずれも、我々の息がかかった者ですが、そのような猫、あるいは『影の魔獣』を治療したという事実はありませんでした」
隊長は、そこで一度言葉を区切った。
「……問題は、薬師です。王都の薬草店、および錬金術ギルドに、この三日間で『魔力汚染に効く高純度の聖草』や『魔獣用の鎮静剤』を買い求めた者がいないか確認させました。……しかし、該当者はゼロです」
ついに、ガイゼルは地図から顔を上げ、隊長をまっすぐに見据えた。
その深い青い瞳は、怒りではなく、むしろ「楽しむ」かのような、冷たい光を宿していた。
「……面白い」
「……ボス?」
「つまり、こうだ。『猫の飼主』は、我々の監視網を一切使わなかった」
「……と、なりますと…」
「『飼主』は、自分自身で、部下が負わせた『魔力汚染の剣傷』を治癒した。それも、特殊な薬草すら使わずに」
ガイゼルは、ゆっくりと立ち上がった。
「……並の治療スキルではあるまい。王宮の神官クラスか、あるいは、それ以上の『異能』持ちだ」
獲物の輪郭が、さらにくっきりと浮かび上がってきた。
ネズミの大群を使役する、圧倒的な物量のテイマー。
影を渡り、魔力汚染の剣傷にも耐える、異質の黒猫。
そして、それらを外部の助けなしに治療できる、高度なヒーラー。
すべてが、一人の人間のスキルだとすれば。
(……とんでもない『お宝』だ)
ガイゼルの執着が、単なる「興味」から、明確な「所有欲」へと変わっていく。
こんな規格外の力を、自分の管理下に置かず、野放しにしておくなど、裏社会の「皇帝」として許容できることではなかった。
「……もう一つ、報告が」
隊長は、空気が変わったのを察し、さらに緊張した面持ちで続ける。
「『深淵の情報屋』の動きが、あの日を境に、完全に『沈黙』しました」
「……沈黙?」
「はい。裏社会で取引されていた情報が、パタリと止まっています。我々が監視していた『霧の古書店』の店主も、不審な動きは一切なし。まるで……嵐が過ぎるのを待つかのように、王都から『情報屋』の気配が消え失せました」
「……賢いことだ」
ガイゼルは、再び地図に視線を落とした。
「自分が『追われている』と理解している。そして、俺の網にかからないよう、自ら治癒し、息を潜めている」
「……捜索は、難航します」
「いや」
ガイゼルは、地図の上の一点――王都の「中心部」、貴族街や商業区画ではなく、古い区画が迷路のように入り組む「旧市街」を、指でなぞった。
「網の張り方を変える」
「と、申しますと?」
「『治療師』を洗うのはもうやめろ。無意味だ。『飼主』は外に出ん」
ガイゼルは、あの古書店で出会った「ガキ」の、フードの奥の気配を思い出していた。
あれは、光を嫌う、日陰者の匂いがした。
「だが、どんな引きこもりでも『物』は必要だ」
「……食料、ですか?」
「それもある。だが、あの情報屋が報酬として何を好んでいた?」
「……はっ。『金銭』よりも『希少な魔導書』や『古代のアーティファクト』だと」
「そうだ」
ガイゼルは、指先で、地図上のいくつかの点を強くタップした。
そこは、王都の「闇市場」、非合法な「魔道具」の売人、そして「古書」や「骨董品」を扱う、怪しげな商人たちの拠点だった。
「『狩人』たちに、今度はこいつらを洗わせろ。
『猫の飼主』は、必ずまた『趣味』のために顔を出す。
あるいは、食料や生活物資を、地上の『特定の場所』から仕入れているはずだ」
「……しかし、本人が出てこず、また『ネズミ』を使われたら…」
「それでもいい。ネズミが出てきたなら、その『巣穴』を徹底的に追え。王都の下水道を、一匹残らずひっくり返してでもだ」
ガイゼルの青い瞳が、獲物を追い詰める「狩人」のそれに変わっていた。
「……深淵の底で、震えて眠るがいい。
お前の『趣味』が、必ずお前を俺の前に引きずり出す」
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