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序章
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長州藩と小倉藩に挟まれた瀬戸内海。
小さな船島という島がある。
岩礁のため、よほどのことがなければ船頭も近寄らない。
慶長十七年(1612年)五月十三日
日の光と潮風を浴びながら船に揺られる武蔵は、
これから倒す小次郎のことを思い出していた。
小次郎と小倉で会ってからのこと…
考えてみれば武蔵は今までの人生で友と呼べる者はいなかった。
唯一自分を慕ってくれた者がいるとすれば、それは小次郎だけだった。
先日、酒を片手に小次郎が対決した海賊の手練れ達の話を聞いたが、夢中で聞いてしまった…
生涯で出会った最高の使い手。
その小次郎をこれから斬る…
さて船島には小倉藩の家臣達が、決闘を見届けるためにすでに集まっていた。
下関の浜辺にも、大勢の野次馬が集まっていた。
家臣達の前で島の上でウロウロしている者がいる。
白の着物に袴、派手な赤い肩衣に背中には長剣、
髷をほどいて腰まで届く髪を垂らしている。
「ありゃあ、巌流佐々木小次郎だな?」
「武蔵の方はまだ来てないようだな」
小次郎は、船島でずっと一人行ったり来たりしているのが浜辺からも見えた。
「あんなうろうろしてるとこを見ると、いらついとるのう」
「苛つかせる作戦か!えずい男じゃのう武蔵は」
野次馬達はそう思った。
小次郎は野次馬達にそう見えるようにわざとうろついてみせた。
阿国《おくに》の言う通り、島の上で大げさに歩き回っていた。
そうすることで、苛ついているように見えるからだ。
しばらく見ていると、小舟が岩礁を避けて船島に近づいて来た。
武蔵だ…手には船の楷楷を持っている。
「なんだありゃ?棒か?」
すると、僧が割って入ってきた。
沢庵である。
「あれはもしや、船の櫂ではないのか?」
「船の櫂だぁ?」
野次馬達は目を細めた。
「そんなもんでやるのか?」
「勝てるわけなかろう。佐々木小次郎といえば島津では
誰も勝てなかったっていうしな」
「いやいや、武蔵もまた試合では一度も負けたことないらしい」
「そうだな。やはり武蔵か!」
そばで聞いていた阿国は我慢できなくなってきた。
確かに小次郎は、これから負ける。
だがやはり、阿国は小次郎を応援したい。
「小次郎の燕返しは、無敵だというよ。それに小次郎はいい男だからね」
「ねえちゃんよ。燕返しはわかるけどよ。いい男ってのは勝負に関係ねえだろ」
小次郎が勢いよく腰の長剣、物干竿を抜き出す。
見ると小次郎の物干竿に対し、武蔵の楷、どちらもちょうど同じくらいの長さだ。
両者、互いに睨み合い…いや、岸辺の野次馬達には見えないが
実際は、少し互いにニヤついていた。
二人でこうして対峙するのが懐かしい…
武者修行時代は、毎日稽古で打ち合っていた…
間合いが熟した。
武蔵が動く。
動いた瞬間小次郎が斬りつける。
物干竿の切っ先が、のけぞった武蔵の眼前で空を切る。
その刹那だった。
振り下した小次郎の物干竿が、下から楷を持つ
武蔵の腕を目がけてすばやく斬り上げた。
燕返しだ!
武蔵は左手を楷から離すと、燕返しの切先がヒュッと両腕の間を切りぬける。
すかさず武蔵が、右手に残った楷を素早く小次郎の頭へと振り伸ばす。
小次郎の動きが止まった。
ああ!という大勢の野次馬達の驚きの声が船島まで響いた。
小次郎の身体は、力が抜けたように地面に倒れ落ちた。
武蔵は倒れた小次郎を一瞥し、小さな声で言った。
「また会おうぞ」
小舟に乗り込むと、海の向こうへと消えて行った。
野次馬達は、自分達が見たものが信じられなかった。
「巌流が負けたのか?」
「武蔵が勝ちやがった」
「あの佐々木小次郎が?」
「武蔵はえずい男じゃ!」
小倉藩剣技指南役、佐々木小次郎はこの日、船島で宮本武蔵に敗れて死んだ。
以後、船島は小次郎を偲んで巌流島と呼ばれるようになった。
見届け人の小倉藩の家臣達が、小次郎の死体を船に乗せて浜辺へと運んで来た。
野次馬達が小次郎の死体に群がろうとするが、小倉藩の藩士達が止める。
「武蔵が勝ったんですかい?」
「ああ!武蔵の勝ちじゃ!」
小次郎の死体を乗せた大八車をひとりの藩士が引っ張ってゆく。
すると阿国と沢庵が、大八車に寄り添ってゆく。
人気のない雑木林にやって来ると、沢庵が合図を出す。
「もう良いだろう」
周囲を見回し、藩士が小次郎に声をかける。
「先生、もう大丈夫でござる」
死んだはずの小次郎が素早く起き上がる。
「着替えを…」
阿国が荷物から着替えを取り出し、小次郎に渡す。
「はい、これ」
肩衣を脱ぎ、小次郎は急いで着替えた。
沢庵は言った。
「ようやく本来の己に戻れるな」
「はい」
阿国もほっとした。
「これで小倉ともお別れか。いろいろあったね、危ないことも」
藩士も安心し「まったくでござる」
阿国は言った。「今度は江戸だね」
藩士の名は小幡、この小次郎と名乗っていた男の弟子になった者だ。
これが、この剣士の最初の死に仕掛けとなった。
つまり死んだふりである。
佐々木小次郎と名乗った者は巌流島で死に、その後三度死んだふりをした。
なぜ男は四度も死んだふりをしたのか?
この物語は、そのすべてを伝えるものである。
巌流島の決闘、大阪夏の陣が始まる三年前の慶長十七年(1612年)のことだった。
小さな船島という島がある。
岩礁のため、よほどのことがなければ船頭も近寄らない。
慶長十七年(1612年)五月十三日
日の光と潮風を浴びながら船に揺られる武蔵は、
これから倒す小次郎のことを思い出していた。
小次郎と小倉で会ってからのこと…
考えてみれば武蔵は今までの人生で友と呼べる者はいなかった。
唯一自分を慕ってくれた者がいるとすれば、それは小次郎だけだった。
先日、酒を片手に小次郎が対決した海賊の手練れ達の話を聞いたが、夢中で聞いてしまった…
生涯で出会った最高の使い手。
その小次郎をこれから斬る…
さて船島には小倉藩の家臣達が、決闘を見届けるためにすでに集まっていた。
下関の浜辺にも、大勢の野次馬が集まっていた。
家臣達の前で島の上でウロウロしている者がいる。
白の着物に袴、派手な赤い肩衣に背中には長剣、
髷をほどいて腰まで届く髪を垂らしている。
「ありゃあ、巌流佐々木小次郎だな?」
「武蔵の方はまだ来てないようだな」
小次郎は、船島でずっと一人行ったり来たりしているのが浜辺からも見えた。
「あんなうろうろしてるとこを見ると、いらついとるのう」
「苛つかせる作戦か!えずい男じゃのう武蔵は」
野次馬達はそう思った。
小次郎は野次馬達にそう見えるようにわざとうろついてみせた。
阿国《おくに》の言う通り、島の上で大げさに歩き回っていた。
そうすることで、苛ついているように見えるからだ。
しばらく見ていると、小舟が岩礁を避けて船島に近づいて来た。
武蔵だ…手には船の楷楷を持っている。
「なんだありゃ?棒か?」
すると、僧が割って入ってきた。
沢庵である。
「あれはもしや、船の櫂ではないのか?」
「船の櫂だぁ?」
野次馬達は目を細めた。
「そんなもんでやるのか?」
「勝てるわけなかろう。佐々木小次郎といえば島津では
誰も勝てなかったっていうしな」
「いやいや、武蔵もまた試合では一度も負けたことないらしい」
「そうだな。やはり武蔵か!」
そばで聞いていた阿国は我慢できなくなってきた。
確かに小次郎は、これから負ける。
だがやはり、阿国は小次郎を応援したい。
「小次郎の燕返しは、無敵だというよ。それに小次郎はいい男だからね」
「ねえちゃんよ。燕返しはわかるけどよ。いい男ってのは勝負に関係ねえだろ」
小次郎が勢いよく腰の長剣、物干竿を抜き出す。
見ると小次郎の物干竿に対し、武蔵の楷、どちらもちょうど同じくらいの長さだ。
両者、互いに睨み合い…いや、岸辺の野次馬達には見えないが
実際は、少し互いにニヤついていた。
二人でこうして対峙するのが懐かしい…
武者修行時代は、毎日稽古で打ち合っていた…
間合いが熟した。
武蔵が動く。
動いた瞬間小次郎が斬りつける。
物干竿の切っ先が、のけぞった武蔵の眼前で空を切る。
その刹那だった。
振り下した小次郎の物干竿が、下から楷を持つ
武蔵の腕を目がけてすばやく斬り上げた。
燕返しだ!
武蔵は左手を楷から離すと、燕返しの切先がヒュッと両腕の間を切りぬける。
すかさず武蔵が、右手に残った楷を素早く小次郎の頭へと振り伸ばす。
小次郎の動きが止まった。
ああ!という大勢の野次馬達の驚きの声が船島まで響いた。
小次郎の身体は、力が抜けたように地面に倒れ落ちた。
武蔵は倒れた小次郎を一瞥し、小さな声で言った。
「また会おうぞ」
小舟に乗り込むと、海の向こうへと消えて行った。
野次馬達は、自分達が見たものが信じられなかった。
「巌流が負けたのか?」
「武蔵が勝ちやがった」
「あの佐々木小次郎が?」
「武蔵はえずい男じゃ!」
小倉藩剣技指南役、佐々木小次郎はこの日、船島で宮本武蔵に敗れて死んだ。
以後、船島は小次郎を偲んで巌流島と呼ばれるようになった。
見届け人の小倉藩の家臣達が、小次郎の死体を船に乗せて浜辺へと運んで来た。
野次馬達が小次郎の死体に群がろうとするが、小倉藩の藩士達が止める。
「武蔵が勝ったんですかい?」
「ああ!武蔵の勝ちじゃ!」
小次郎の死体を乗せた大八車をひとりの藩士が引っ張ってゆく。
すると阿国と沢庵が、大八車に寄り添ってゆく。
人気のない雑木林にやって来ると、沢庵が合図を出す。
「もう良いだろう」
周囲を見回し、藩士が小次郎に声をかける。
「先生、もう大丈夫でござる」
死んだはずの小次郎が素早く起き上がる。
「着替えを…」
阿国が荷物から着替えを取り出し、小次郎に渡す。
「はい、これ」
肩衣を脱ぎ、小次郎は急いで着替えた。
沢庵は言った。
「ようやく本来の己に戻れるな」
「はい」
阿国もほっとした。
「これで小倉ともお別れか。いろいろあったね、危ないことも」
藩士も安心し「まったくでござる」
阿国は言った。「今度は江戸だね」
藩士の名は小幡、この小次郎と名乗っていた男の弟子になった者だ。
これが、この剣士の最初の死に仕掛けとなった。
つまり死んだふりである。
佐々木小次郎と名乗った者は巌流島で死に、その後三度死んだふりをした。
なぜ男は四度も死んだふりをしたのか?
この物語は、そのすべてを伝えるものである。
巌流島の決闘、大阪夏の陣が始まる三年前の慶長十七年(1612年)のことだった。
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