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そば打ち棒
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起きたばかりの典膳は険しい細目なっていた。
「今、何時だ?」
丁稚が答えた。
「四つ(朝十時)ほどでございます」
「寝過ごしてしまった…食事をとりたいのだが」
「いまはもう朝もとうに過ぎておりまして、食事の準備をする者がいません」
「ならば、台所を使わせてもらえないか?自分で粥でも作る」
「それはかまいませぬが…」
典膳も起き抜けで、丁稚の言葉が頭に入ってなかった。
「ところで何か用か?」
「神子上様と、勝負をしたいという御仁が…」
典膳は一気に目が開いた。
「そうか!」
着替えている間にその御仁が帰ってしまっては惜しい。
典膳は浴衣の帯に刀を差した。
「で、その御仁は?」
「玄関においででございます」
丁稚の言うとおり、玄関先ではまだ小幡勘兵衛が立ったまま待っていた。
小幡勘兵衛、またはその名を小幡影憲と言い代々武田に仕えた軍学者であったが武田氏滅亡後は、徳川秀忠に仕えていた。
小幡の前に、浴衣姿の典膳が現れた。
「このような姿で面目ない。拙者、今しがた起きたばかりでござる」
小幡はまず典膳のおなごのような顔立ちが、引っかかった。
このような顔をしている者が一刀流を名乗って高札を掲げているとは…世間知らずなのか、ただの田舎者なのか…
と、一瞬値踏みをしそうになったがおなごのような顔や浴衣姿でも典膳の強さにははかり知れないものがあると小幡は感じた。
容姿に惑わされると足元を救われる。
一切気にしないと決め、力のこもった声で小幡は挨拶した。
「某、小幡勘兵衛と申す!表の看板にあるとおり勝負を所望したい」
典膳は内心ほっとした。
ようやく自分に挑んでくれる者が現れてくれた…
「拙者は一刀流神子上典膳と申す。勝負は至極心易い
ことであるが、
まだ拙者食事をとっておらぬゆえ、暫くお待ち願いた
い」
そこで心を乱す兵法なのかも知れない。
小幡は表情も変えずに答える。
「それならばしかと腹ごしらえをしてもらい、心置き
なく勝負をいたしたい」
「では失礼いたす」
会釈をすると典膳は台所の米蜜から米を取出し、小さい鍋で米を研ぎそれを囲炉裏にかけた。
一刀斎と修行をしているとき、泊まる場所によっては典膳が食事の用意をすることもあった。
その都度宿の人間に聞いて、米の研ぎ方から汁物の作り方、魚の焼き方など覚えていった。
小幡は端の上がり框《かまち》に腰かけ、典膳の様子を見ながら待つことにした。
米が炊き上がるまでしばらくかかる。
「ただ今、着替えてまいる故、いましばらく」
典膳がそう言ってその場を離れると、小幡は思った。
年は自分と同じほど…いやもっと若いか。
それにしても浴衣姿で現れるとは。
体裁を気にしない剣の修行者なのか…
それともただよほど挑む者がいなくて急いで降りてまいったか…
いやそれとも隙を見せ油断させようというのか?
飯を焚いて待たせて苛つかせるという策?
小幡は軍学者であるゆえあらゆる可能性を考える。
いや…今見たところ、とてもそういうふうには見えん。
なんというかまとっている空気の涼しさのようなもの…
剣に生きる者なればもっと豪気な空気があっても良いはず。
だがその強さに気づかないほど小幡の腕は悪くなかった。
じつは小幡は甲斐の国で武田に仕えていたとき、食客として滞在していたあの新陰流を創始した上泉伊勢守と交流を持つ機会があった。
この頃はまだ陰流を名乗っていた。
敵であったはずの上泉伊勢守を城に招待し滞在させた信玄もおそらく仲間に引き込もうとしていたはず。
それがそうならなくなった理由ができてしまった。
伊藤一刀斎が上泉伊勢守と試合をするためにわざわざ甲斐の国までやってきたのだ。
幸運にも小幡にはその試合を目の前で見ることができた。
小幡にとってそれは生涯、忘れられない戦だった。
二人は木刀で試合をしたのだが、上泉伊勢守は三学円の太刀「一刀両断」で脇に構えをとった。
上段に構えるより、後方に刀の切っ先を向け後ろから思い切り勢いをつけて振り下ろす方が威力が出る。
しかし一刀斎はただ木刀を正眼に構えただけだった。
三学円の太刀一刀両断は構える瞬間に足を入れ替え一歩下がると見せかけじつは間合いが変わってないという仕掛けだ。
それに脇構えで勢いが乗るので初太刀の優位なることこの上ないまさにその名のとおり相手を「一刀両断」にする技だった。
はじめに上泉伊勢守が仕掛けた。
次の瞬間、一刀斎の木剣が上泉伊勢守の木剣を弾くと同時に伊勢守の喉元に切っ先をつけた。
一振りで剣を弾き己の切っ先だけが相手を斬る。
それが一刀流切り落としという極意だ。
その後、上泉伊勢守は剣の道に生きるべく陰流から新陰流を創った。
果たしてこの神子上典膳にその技量があるのか小幡は確かめずにいられなかった。
そして袴姿となった典膳が現れた。
腰に大小を差し、ようやくそれらしい姿になった。
浴衣のときは気付かなかったが、その歩き方を見てやはり並々ならぬものを小幡は感じた。
まったく軸のぶれることなく歩く姿。
まるで不動明王と天女が混在するような見事な歩き方だ。
これはただ事ではない…小幡はそう思った。
典膳が小幡の方を向いて口を開いた。
「勝負の得物はどうされる?真剣、木刀、どちらでも小幡殿にお任せしたい」
「木刀にていたそう」
「承った」
そう言って典膳は茶碗に粥をよそり、ささっと食べ始めた。
典膳は、食べ終わった茶碗を流しに置き、まな板の横にある一尺五寸(約五十センチ)ほどのそば打ち棒を手にした。
はて?そば打ち棒をどうするつもりだ?
…まさかそれで勝負をするつもりではあるまい…
小幡は眉をひそめた。
「今、何時だ?」
丁稚が答えた。
「四つ(朝十時)ほどでございます」
「寝過ごしてしまった…食事をとりたいのだが」
「いまはもう朝もとうに過ぎておりまして、食事の準備をする者がいません」
「ならば、台所を使わせてもらえないか?自分で粥でも作る」
「それはかまいませぬが…」
典膳も起き抜けで、丁稚の言葉が頭に入ってなかった。
「ところで何か用か?」
「神子上様と、勝負をしたいという御仁が…」
典膳は一気に目が開いた。
「そうか!」
着替えている間にその御仁が帰ってしまっては惜しい。
典膳は浴衣の帯に刀を差した。
「で、その御仁は?」
「玄関においででございます」
丁稚の言うとおり、玄関先ではまだ小幡勘兵衛が立ったまま待っていた。
小幡勘兵衛、またはその名を小幡影憲と言い代々武田に仕えた軍学者であったが武田氏滅亡後は、徳川秀忠に仕えていた。
小幡の前に、浴衣姿の典膳が現れた。
「このような姿で面目ない。拙者、今しがた起きたばかりでござる」
小幡はまず典膳のおなごのような顔立ちが、引っかかった。
このような顔をしている者が一刀流を名乗って高札を掲げているとは…世間知らずなのか、ただの田舎者なのか…
と、一瞬値踏みをしそうになったがおなごのような顔や浴衣姿でも典膳の強さにははかり知れないものがあると小幡は感じた。
容姿に惑わされると足元を救われる。
一切気にしないと決め、力のこもった声で小幡は挨拶した。
「某、小幡勘兵衛と申す!表の看板にあるとおり勝負を所望したい」
典膳は内心ほっとした。
ようやく自分に挑んでくれる者が現れてくれた…
「拙者は一刀流神子上典膳と申す。勝負は至極心易い
ことであるが、
まだ拙者食事をとっておらぬゆえ、暫くお待ち願いた
い」
そこで心を乱す兵法なのかも知れない。
小幡は表情も変えずに答える。
「それならばしかと腹ごしらえをしてもらい、心置き
なく勝負をいたしたい」
「では失礼いたす」
会釈をすると典膳は台所の米蜜から米を取出し、小さい鍋で米を研ぎそれを囲炉裏にかけた。
一刀斎と修行をしているとき、泊まる場所によっては典膳が食事の用意をすることもあった。
その都度宿の人間に聞いて、米の研ぎ方から汁物の作り方、魚の焼き方など覚えていった。
小幡は端の上がり框《かまち》に腰かけ、典膳の様子を見ながら待つことにした。
米が炊き上がるまでしばらくかかる。
「ただ今、着替えてまいる故、いましばらく」
典膳がそう言ってその場を離れると、小幡は思った。
年は自分と同じほど…いやもっと若いか。
それにしても浴衣姿で現れるとは。
体裁を気にしない剣の修行者なのか…
それともただよほど挑む者がいなくて急いで降りてまいったか…
いやそれとも隙を見せ油断させようというのか?
飯を焚いて待たせて苛つかせるという策?
小幡は軍学者であるゆえあらゆる可能性を考える。
いや…今見たところ、とてもそういうふうには見えん。
なんというかまとっている空気の涼しさのようなもの…
剣に生きる者なればもっと豪気な空気があっても良いはず。
だがその強さに気づかないほど小幡の腕は悪くなかった。
じつは小幡は甲斐の国で武田に仕えていたとき、食客として滞在していたあの新陰流を創始した上泉伊勢守と交流を持つ機会があった。
この頃はまだ陰流を名乗っていた。
敵であったはずの上泉伊勢守を城に招待し滞在させた信玄もおそらく仲間に引き込もうとしていたはず。
それがそうならなくなった理由ができてしまった。
伊藤一刀斎が上泉伊勢守と試合をするためにわざわざ甲斐の国までやってきたのだ。
幸運にも小幡にはその試合を目の前で見ることができた。
小幡にとってそれは生涯、忘れられない戦だった。
二人は木刀で試合をしたのだが、上泉伊勢守は三学円の太刀「一刀両断」で脇に構えをとった。
上段に構えるより、後方に刀の切っ先を向け後ろから思い切り勢いをつけて振り下ろす方が威力が出る。
しかし一刀斎はただ木刀を正眼に構えただけだった。
三学円の太刀一刀両断は構える瞬間に足を入れ替え一歩下がると見せかけじつは間合いが変わってないという仕掛けだ。
それに脇構えで勢いが乗るので初太刀の優位なることこの上ないまさにその名のとおり相手を「一刀両断」にする技だった。
はじめに上泉伊勢守が仕掛けた。
次の瞬間、一刀斎の木剣が上泉伊勢守の木剣を弾くと同時に伊勢守の喉元に切っ先をつけた。
一振りで剣を弾き己の切っ先だけが相手を斬る。
それが一刀流切り落としという極意だ。
その後、上泉伊勢守は剣の道に生きるべく陰流から新陰流を創った。
果たしてこの神子上典膳にその技量があるのか小幡は確かめずにいられなかった。
そして袴姿となった典膳が現れた。
腰に大小を差し、ようやくそれらしい姿になった。
浴衣のときは気付かなかったが、その歩き方を見てやはり並々ならぬものを小幡は感じた。
まったく軸のぶれることなく歩く姿。
まるで不動明王と天女が混在するような見事な歩き方だ。
これはただ事ではない…小幡はそう思った。
典膳が小幡の方を向いて口を開いた。
「勝負の得物はどうされる?真剣、木刀、どちらでも小幡殿にお任せしたい」
「木刀にていたそう」
「承った」
そう言って典膳は茶碗に粥をよそり、ささっと食べ始めた。
典膳は、食べ終わった茶碗を流しに置き、まな板の横にある一尺五寸(約五十センチ)ほどのそば打ち棒を手にした。
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…まさかそれで勝負をするつもりではあるまい…
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