竜乗りの語り部

黎鴉

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序曲 竜の嘆き

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 付近の村に住む村人たちからは《嘆きの峡谷》と呼ばれている、小鳥一羽の声もしない静寂の峡谷に、胸が張り裂けそうなほど悲痛な竜の慟哭が反響した。


 それは、親友ともの死を嘆き、もう一度だけでも、一目でも会いたいと願う悲嘆と懐旧の叫び。


 数十年にも及ぶ長い眠りから覚める度、竜は親友が遥か昔にいなくなってしまったことを思い出し、その懐かしさと悲しみと、出来てしまった心の空虚に哭くのだ。


 友よ、友よ────と。


 竜は親友の瞳と同じ──しかし、それよりももっと硬質で、冷たい色の──アメジストの洞窟の天井に小さく空いた穴から紅い満月を見上げ、おもむろに翼を開いて月光を薄蒼紫がかかった銀に煌めくスラリとした体躯に浴びた。


 夜明けの空のような不思議な色の鱗が紅い月の光を反射し、きらきらと眩く煌めく様は、いかなる国の宝物庫の秘宝や財貨すら霞んでしまうほどの美しさだった。


 ────この鱗の色は、親友が初めて褒めてくれたのだったか。

 彼は、他の竜たちからは異端と忌み嫌われ、自身すらも嫌っていたこの色を好きだと言ってくれた初めての者だった。


 怒りに暴れれば、傷つきながらも宥めてくれ、怪我をさせてしまったことに自責の念を抱いて落ち込んでいれば、大好きなワインをくれて慰めてくれた。


 私は彼のことが好きだった。ずっと一緒にいたかった。


 なのに、何故私は躊躇ってしまったのだ。


 私のよく知る竜の鉤爪の下で大量の血を流して弱々しく藻掻いていてもなお、私を安心させようと微笑み続ける彼を目の前にして。


 彼を捕らえていた竜が、たとえ自分の親や兄弟であろうと、私は躊躇うことなくすぐにそいつを殺すべきだったのだ。そうすれば、今のように助けられなかったと後悔をすることもなく、彼が天寿を全うするかに病に倒れるなどして私の手の届かないところに行ってしまうまではずっと一緒に、幸せに暮らせたはずだったのだから。


 あの一瞬の間さえなければ、彼はまだ生きられた。


 私が躊躇いさえしなければ、年若かった彼は何年、いや、何十年と生きられたはずなのだ。


 なのに、あろうことか私の目の前で死なせてしまった。


 あの日、神力に満ちた《神々の庭》の森の最深部に、雲を貫いて立ち聳そびえる神聖樹の前で、すやすやと穏やかに眠る彼に誓ったはずなのに。


 他の大切なものを全て切り捨ててでも、一番大切なものを────彼を、守ると。


 なのに、何故私は躊躇ってしまったのだ。私を捨てた母親なんて、今更自分にとっては何の価値もない存在であるはずなのに、何故なのだ、何故、何故私は────


 竜は首を反り上げ、再び天高くに向かって咆哮した。しかし、今度の声には、聴いているだけで胸が張り裂けそうになるほどの悔恨と絶望が込められていた。


 ひとしきり吼えると、竜は切れ長の黄金色の瞳を悲哀と自責に一瞬閉じた。


 閉じた瞳の端から、次から次へと大粒の涙が零れ、アメジストの床に弾ける。


 彼は優しい人間だった。私はいつも一緒にいてくれる彼が大好きだった。


 なのに助けられなかった。恩を返すこともできなくなった。たくさんの大切なものを貰ったのに、返す前に彼は死んでしまった。


 私は彼を守れなかった。もし……もしも、もう一度過去をやり直せるのならば、私は今度こそ絶対に躊躇わないだろうに。


 月光を浴びるために広げていた翼をたたんで長い尾と首を胴体に引き寄せてスルリと丸くなると、竜は再び、そっといまだ涙の流れ続ける目を閉じた。


 彼のいなくなった後の世界はすっかり色褪せてしまったようだ。あれほどに鮮やかで煌めいていた私の世界は、もう色を失って。


 彼の存在しない世界など、再び語り合うことのできない世界など、私はいらない。いたくもない。けれど、死ぬことは許されない。


 あの日、彼が最期に私に約束させた誓いのせいで。



 私に首筋を噛み千切られて事切れた母親。


 その傍らで、信じられないほどの大量の血を流して倒れ伏した、今にも息絶えてしまいそうなほど蒼白い顔色の、竜である私からみればあまりに脆弱で小さすぎる少年の身体。


『シュー、絶対に……後追いなんて、考えないでね? 君は、僕の分まで生きて…………天寿を全うしてよ? ……………分かった?』


 少年が弱々しく、人化した私の頬にべっとりと自分の血に塗れた手を当て、精一杯の笑みを浮かべる。



 パパパッとあの瞬間がフラッシュバックし、竜は固く目を瞑った。


 ……あぁ、彼に、逢いたい。一目だけでも、もう一度。


 でも、死んでしまった彼に逢うことは絶対にできない。


 ……────だからまた、長い長い夢を見よう。自身の膨大な記憶の海に沈み、懐かしい彼の隣へ。遠い遠い、過去の中へと。


 昔見せてもらった彼の過去から、彼との鮮やかな記憶の最後まで、ずっとずっと辿っていこう。


 たとえそれが、自らの苦しみを増やすような自傷行為であったとしても、それが今の自分にできる、精一杯で唯一のことなのだから。


 思い出に浸り、長い長い夢を見る。それぐらいなら、後追いよりははるかにいいことだろう?


 アル、いや、アーベント。


 私は、お前に出逢ってしまってから孤独が怖くなったんだ。


 だから、せめてあの、面倒なことはたくさんあれど、充実して輝いていた日々へ、お前とともに過ごしたあの懐かしい思い出の中へ、いかせてくれ──────…………
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