時ノ糸~絆~

汐野悠翔

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第一幕 板東編

千紗と朱雀帝

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――936年5月
坂東に来て半年が過ぎた。

あの日――景行から道真と忠平の過去を聞かされたあの日以来、朱雀帝は千紗とは別の部屋を借り、閉じ籠り気味の生活を過ごしていた。

そして貞盛以外の人間とは距離を置くようになっていた。

それでも千紗は、朱雀帝を外へ連れ出そうと、毎朝必ず朱雀帝の部屋へと訪れる。

今日も例外ではなく――


「チビ助、祭じゃ! 今日は一年の豊作を願って御田植祭おたうえまつりとやらをやるらしいぞ。笛や太鼓の音に合わせて皆で一斉に田植えをするそうじゃ。どうじゃ、面白そうだろう? お主も一緒に参加せぬか?」
        

庭からの突然の訪問。
縁台に勢いよく膝と手をついたかと思うと、楽しそうに朱雀帝を誘う。

彼女の隣にはヒナと秋成の姿もあった。


「っ………」


だが朱雀帝はと言えば、千紗の姿を見るなり慌てて貞盛の背に隠れてしまう。

あの日以来、朱雀帝はいつもこのような調子で、千紗を拒絶し続けているのだ。

それでも千紗は朱雀帝の態度など少しも気にした様子も見せず、以前と変わらぬ笑顔で朱雀帝に向かって手を差し出した。


「毎日こんな所に閉じ籠っていては楽しくなかろう。ほら、一緒に――」

「申し訳ありませんが、私は……遠慮いたします」

「そうか?……それは残念じゃな。だが、気が変わったらいつでも来い。皆、待っておるからな」

「……」


断られてもなお笑顔を浮かべ続ける千紗は、無理強いすることはせず朱雀帝にそれだけ言い残すと、ヒナと秋成を連れ、来た時同様の慌ただしい様子で彼の部屋を去って行った。


「っ………」


それまで決して千紗の姿を見ようとしなかった朱雀帝だったが、離れて行く足音に慌てて貞盛の背中から顔を覗かせ、彼女の後ろ姿を見送る。

恋しそうな眼差しで、いつまでも、いつまでも――




朱雀帝の部屋を後にした千紗達は、次に屋敷の外へ向かった。

屋敷の外には、普段屋敷で顔を合わせる者達以外にも、近くの村々から集まって来たらしい見知らぬ農民達の姿もあって、多くの人々で溢れかえっていた。

そんな人垣の中から、桔梗が千紗の姿を見つけて声を上げる。


「あ、千紗様、お帰りなさい。寛明様はいかがでしたか?」

「おう桔梗、戻ったぞ。チビ助はやはり参加せぬようじゃ」

「そうですか……。それは残念にございますね」

「まぁな、だが仕方がない。嫌がる者を無理に誘う事は出来ぬ。気が向いたら来るようにと伝えておいた。きっと、祭が始まれば、賑やかな音につられてヒョッコリ姿を見せるだろう。その為にも、うんと祭を盛り上げねばな」

「そうですね! うんと盛り上げて、寛明様をお部屋から誘い出しましょう!!」

「うむ。所で桔梗、お主珍しく化粧などして、何やら洒落た格好をしておるな」

「はい。今日は一年に一度、うんとおめかしが出来る日なのでございますよ。田の神様へ失礼のないように、早乙女の任を受けた者は皆このように着飾るのです。さぁさぁ、千紗様も、ヒナ様も私と同じ早乙女役をなさるのですから、お早くお着替え下さいませ。祭りが始まってしまいますよ」





その頃――
わいわいと賑やかな声を、庭にそびえ立つ塀越しに聞いていた朱雀帝は、何をするでもなくどこか寂しげな表情を浮かべながら、じっと音に耳を傾けていた。

その姿を傍で見守りながら貞盛が静かに声を掛ける。


「本当に宜しかったのですか?」

「…………」

「千紗姫様の誘いを断って、本当に宜しかったのですか?本当は、千紗姫様と一緒に祭事に参加したかったのでは?」

「……」

「千紗姫様の母君が、道真公と血縁者であった事。それが寛明様の中で、今もひっかかっておられるのですか?」          


貞盛の口から出た“道真”の名に、思わず肩を震わせる朱雀帝。

道真の恐怖に取り憑かれた朱雀帝の脳裏に、過去のある光景が蘇る。

狭く薄暗い空間に、ひとりぼっちで過ごした幼い日の記憶が――


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