時ノ糸~絆~

汐野悠翔

文字の大きさ
上 下
241 / 263
第二幕 千紗の章

小次郎の変化と本質

しおりを挟む
「兄貴!見張りから報せが届いた! 伯父貴達が兵を引き連れ、武射の営所を明け方に発ったそうだ」

「……そうか、来たか。四郎、すぐ皆に報せを。半刻の後、我らも出陣すると」


 
承平7年――937年8月。
小次郎が罪を許され、京より帰還してからわずか3か月の後、良兼、良正軍は再び挙兵した。

敵陣近くで良兼達の動きを見張らせていた家人よりもたらされたその報せに、小次郎もまた出陣の命を下した。

小次郎からなされた命に、四郎は流行る気持ちを押さえきれないといった様子で「了解!」と元気よく答えた。



「 ところで兄貴、今回の戦は戦いたくないって、ごねないんだな。ちょっと安心した」


先の戦と比べて、迷いなく出陣の命を下した兄に、四郎がふと率直な感想を口にする。


「……敵が攻めて来ると言うのならば、こちらも全力で阻止するまでだ。たとえ相手が誰であろうとな。何も出来ぬまま、大切なものが奪われて行くのは、もう嫌だから……」


四郎の何気ない言葉に、小次郎はどこか遠くを見つめながら、苦しそうに答えた。

彼の瞳には今、あの日、帝という国の最高権力者に手を引かれ、決して手の届かない遠い場所へと連れて行かれた千紗の後ろ姿が見えているのだろう。



小次郎は過去に、叔父との争いを避け、無抵抗のまま土地を明け渡した事があった。
争いの末、伯父達を追い詰めながら、叔父を助けようとした事もあった。

そんな小次郎が、此度は迷う事なく叔父達と戦う姿勢を見せている。

兄の中に芽生えつつある小さな変化を、弟である四郎は敏感に感じていた。

だが変化を感じながらも、その理由を四郎は知らない。

小次郎が京で経験した悔しさを。やるせなさを。
何が兄を変えたのか、四郎はまだ知らない。

兄の変化を感じ、苦しそうに表情を歪めた意味に疑問を持ちながらも、無理に詮索する事はせず、四郎は戦の準備の為、兄の部屋を後にした。




  ◇◇◇



その日の夕刻、小次郎軍と良兼軍は、豊田郡の東に位置する子飼川、その渡瀬で川を挟んで対峙する。

東に良兼率いるおよそ500の兵が、西に将門率いるおよそ400の兵が、それぞれ陣を取り、互いに相手の出方を待ちながら睨み合う。


「おい、将門さんよぉ、いつまでこの退屈な睨み合いなんか続けてるつもりだ? とっととこの川越えて、こっちから攻め入ろうぜ」


対峙して半刻が過ぎようかという頃、お互いに全く動く気配の見せない両軍に、早くも痺れを切らした玄明は不満を漏らし始める。


「そう急くな玄明。このまま相手の出方を見よう」

「出方も何も、奴ら何も仕掛けてくる気配がないじゃないか。全くいつまで待てばいいんだ? 俺様はもう待ちくたびれちまったぞ。お前の部下の調べによれば、相手の兵の数はおよそ500。今回お前が集めた兵だって500は有にいるだろう。まぁ、もしもの時に備えて、お前の弟に100の兵を預け、後ろに控えさせているから、実際に今この場にいる兵数は400なわけだが、だからと言って勝てない兵差じゃない。相手とほぼ互角の力があるのに、何を恐れる事がある? 今回はこっちからばぁっと攻めて、相手をギャフンと言わせてやろうぜ!」

「そうだな。今回は忠輔殿を初め、多くの近隣豪族達が俺に力を貸してくれた。だがな玄明、この軍はまだ集まってから日が浅い。まだまだ足並みは揃っていない。加えて、この軍を指揮する俺自身が、500もの大軍を率いた経験がない」

「はぁ?それが何だっていうんだよ」

「つまり今回の戦には不安要素も多いという事だ。確かに今回、兵の数では伯父達に負けてはいないかもしれない。だが、いくら兵数があろうとも、統率の取れていない軍は弱点も多い。その証拠に先の戦で、少数でありながら叔父が率いる大軍勢に勝てたのは、相手の統率がとれていなかったからだ」

「確かに、前回勝てた理由はそうだったかもしれないけど……」

「だからここは慎重に行くのが得策だと、俺は思っている」

「なんだよなんだよ。ごちゃごちゃ言い訳並べた所で、それはつまり、自分に自信がない、ただそれだけの事だろ?
あぁ情けない!」

「…………そうだな。確かに、自信がないだけ、なのかもしれない」


玄明の嫌味に、小次郎は少し寂しげに微笑んだ。


「だが俺は今、500人もの命を背負っているんだ。その一人一人の後ろには家族がいる。彼等の死を悲しむ多くの者達がいるんだ。1つだって無駄にして良い命などない。一人でも多くの命を守る為には、周りから何と言われようと俺は慎重に行く」


「っ…………」


小次郎の返答に、玄明は一瞬面食らったような顔をする。
その後で困ったように頭をかきむしった。


「あぁ~~!分かったよ。そう言えば、あんたはそう言う奴だったよな!」


友として貞盛を信じたい。
けれど、一国を治める棟梁としては、貞盛を信じきる事が出来ない。

そう言って、小次郎は必死に自我を押し殺して、危険の種であった貞盛を監視してくれと、玄明に頼んだ事があった。

玄明は、そんな出会った頃の小次郎の姿を思い出していた。

彼はいつも、多を生かす事に重きを置き、誰も傷付けまいと物事に慎重で、人の上に立つ際は必死に自我を押し殺す。不器用で、馬鹿みたいに責任感の強い。

そんな小次郎だからこそ、玄明は彼に惹かれたのだ。
力になりたいと思ったのだ。

京から戻って来て、小次郎には確かに変わった所も存在する。だが、根っこの所は何も変わってはいない。
これが、小次郎と言う男なのだ。

玄明は短気を抑え、不機嫌な顔で腕組みをしながら、小次郎の隣で敵軍が動くのを今か今かと待つ事にした。



___________________________

半刻はんとき
およそ1時間


子飼川こがいがわ
現在の小貝川。関東平野を北から南へと流れる一級河川。


渡瀬わたせ
歩いて渡る事が出来る浅瀬
しおりを挟む

処理中です...