僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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四章

思い付いた理由

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 八月八日、日曜日の午前四時。
「はい、最初からやり直しましょう」
「はい、最初からやり直します」
 精霊猫の桔梗に促され、僕は猫丸のなた化訓練を最初からやり直した。
 まずは姿勢。顎を引き背筋を伸ばして、体から無駄な力みを一掃する。
 次に、呼吸。心臓の八鼓動を一拍とし、一拍で息を吸い、二拍で息を止め、一拍で息を吐く。肺の下部、中部、上部、そして気管へ順々に空気を入れてゆくこの呼吸法で僕が合格点をもらえたのは、呼吸の訓練を始めて三年目のことだった。言葉にできない様々なコツを感じ取り、それを体得するには、得てして長い年月を要するのだと僕に教えてくれたのは、この呼吸法だったのかもしれない。
 呼吸が落ち着くのを確認した僕は、呼吸に費やす時間を二倍へ増加。息を吸い始めて吐き終わるまで一分以上かかる基本呼吸二倍を潜在意識へ収め、自動化する。次いで松果体に光彩を出現させ、光彩に形状と動きを与えてそれも自動化。ここまで終わらせやっとこさ、僕は猫丸の鉈化訓練を開始する。とはいえ数分を待たず、
「はい、最初からやり直しましょう」
「はい、最初からやり直します」
 なんてやり取りを、再度繰り返すことになったんだけどね。

 午前五時、桔梗との訓練を終える。シャワーを浴び浴室を掃除し、五時半に境内の箒掛けを始めた。先月から美鈴も日曜討伐を行うようになったので、今日の討伐はお休み。本来なら討伐のない日曜は全ての訓練が休みになるのだけど、一向に進展しない猫丸の鉈化に気落ちし、昨日思い切って「明日も僕を鍛えてくれませんか」と桔梗にお願いした。「もちろんいいわ」と桔梗はけろっと答えて、僕の足に体を摺り寄せてきた。物理法則に縛られない精霊猫は肉体を持たないはずなのに、絹のような毛ざわりが肌に感じられ、桔梗の首元を指で掻いた。桔梗は至福の表情を浮かべて、何でもないように言った。「物質体の方が好都合ならそうして、精霊体の方が好都合ならそうする。縛られないということは、自由になること。眠留、訓練はね、自由になるためにするものなのよ」 じゃあねと前足を振り、桔梗は宙へ消えて行った。 
「昨日は聞き流しちゃったけど、桔梗が呟いたあれは、途方もなく奥深い真理だったんじゃないかなあ・・・」
 みたいな独り言を呟きながら、僕は境内をせっせと箒がけした。
 
 その十分後。
「おはよう眠留くん。境内のお掃除、今日もお疲れ様です」
「おはよう輝夜さん。翔薙刀術の訓練、今日も励んでください」
 恒例の挨拶を輝夜さんと交わす。夏休みになっても、輝夜さんと毎朝こうして会話できるのは、客観的に見てどれくらい幸せなことなのだろうか。なんて自問せずにはいられない笑顔で、輝夜さんは今朝も僕を包んでくれた。
「眠留くん、今日は夕食会にお招き頂き、感謝の言葉もありません」
 たおやかに輝夜さんは腰を折る。
「輝夜さん、夕食会の手伝いをしてくださるそうで、僕こそ感謝の言葉がありません」
 HAIとの練習の成果が出ますようにと祈りつつ、僕も腰を折った。顔を上げるとそこに、明け染めの残り香を頬に宿した輝夜さんがいた。
「今の状況では、眠留くんが顔を上げ始めてから、眠留くんよりゆっくり顔を上げるのが、私に求められる作法なの。でも眠留くんの立派な所作を胸に留めたくて、急いで顔をあげちゃった」
 胸に両手を添え、彼女はえへへと笑う。
 そのあまりの愛らしさに、心臓が鼓動を一拍忘れた。
 僕は輝夜さんとまったく異なる理由で、胸に両手を添えたのだった。

 午前七時。
「いただきます」
 僕は朝食に手を合わせた。
 今日は美鈴が討伐日だったから、朝ご飯は祖母が作ってくれた。献立はだいたいいつも同じで、卵かけご飯と納豆、海苔、多種大量のぬか漬け、豆腐と海藻のたっぷり入ったお味噌汁、そしてデザートの季節の果物といった感じだ。質素であっても、一口につき五十回噛んでゆっくり食べれば、一日の始まりに必要な栄養と栄養素を余すところなく摂取することができる。そんな美味しい朝ご飯を、祖父母が食事を済ませた後の台所で、もぎゅもぎゅと盛んに口を動かし僕は食べていた。
「お兄ちゃん、おはよう」
「おはよう、美鈴」
 七時過ぎ、討伐後の一眠りを終えた美鈴が清々しい表情で台所へ入ってきた。HAIが美鈴の部屋を最高の相殺音壁で守ってくれているから、掃除や洗濯の音が美鈴の眠りを妨げることはない。と知りつつも、輝夜さんの愛らしさに掃除を張り切りすぎ騒がしかったのではないかと心配していた僕は、健康そのものの美鈴の表情に大きな安堵を覚えた。
「お兄ちゃんの顔、いつもよりお兄ちゃんしている。何かあったのお兄ちゃん」
 美鈴にお兄ちゃんと呼ばれるだけで幸せな気持ちになるのに、三連続お兄ちゃんを極上の笑みで言ってもらえて、僕は目尻が下がりっぱなしの頬が緩みっぱなし状態になった。そんな僕に美鈴は引き続き笑みを浮かべていたけど、不意に首をちょこんと傾げ、ご飯の用意を止める。そして正面の椅子に座ると、不思議そうに僕を見つめ始めた。どうしたんだいと問う僕へ、美鈴は唐突に訊いた。
「私が結婚して家を出たら、お兄ちゃん泣く?」
「なっ、なんだい急に! けっ、けっ、結婚!!」
 地が裂け空が落ちてくる感覚に僕は襲われた。仮に美鈴へ「小学生なのに、おませさんだなあ」系の想いを抱いたなら、僕はこんな感覚に襲われなかっただろう。しかし僕が抱いたのは、まったく異なる想いだった。それは、小学生といえど妹は女でいつかお嫁に行ってしまうのだという、地が裂け空が落ちてくるほどの、哀しみの想いだったのである。
「そう、結婚。お兄ちゃんを見ていたら、なぜか白無垢の私が思い浮かんだの。私の左後ろに新婦親族が並んでいて、その四番目にお兄ちゃんがいるはずなのに、涙で霞んでお兄ちゃんの姿が見えない。だから今ここで、本人に聞いてみようと思ったの。私が結婚したら、お兄ちゃんは泣くかなって」
「う、嬉しいに決まってるじゃないか。泣くなんてこと無いよ」
 僕は慌てて大嘘をついた。落ち着きと思いやりを最高レベルで兼ね備える美鈴は、いつもならこの手の嘘をつくダメ兄に優しい笑みを投げかけてくれるのだけど、今朝は勝手が違うらしく、容赦ない追撃を放った。
「でもお兄ちゃん、この世にはうれし涙ってものがあるよ」
「あるけど泣かない、兄ちゃんは泣かない」
「お兄ちゃんは他のことではうれし涙を流すのに、私には流してくれないの?」
「そっ、それでも泣かない!」
「お兄ちゃん。お兄ちゃんは私がこの家からいなくなったら、哀しい?」
「それは、哀しいというか・・・・」
 両手で頬杖を突き、美鈴は上目づかいで問いかける。その姿にまごうことなき女性を感じた僕は、さきほどの哀しみに大慌てが加わり、完全敗北の一歩手前まで追いつめられてしまった。こりゃ降参するしかないかと、僕は諦めかけた。
 だがその刹那、美鈴の双眸が潤む。美鈴は瞬くことを忘れて僕を見つめる。涙の粒が急速に膨れあがり両目から止めどなく溢れ、頬を伝い、小さなおとがいを支える真っ白い両手を静かに覆ってゆく。その光景を目にしたとたん、空と大地が揺るぎないものへと戻った。僕は箸とお椀を置き、妹の頭をなでた。
「わかった、訂正する。その時は兄ちゃんが、美鈴の分まで泣いてあげるよ。だから泣き止んで、朝ごはんをお食べ。兄ちゃんが用意してあげるね」
 僕は立ち上がり、美鈴の朝ごはんを用意する。声なく泣く美鈴を背中に感じながら、僕は悟った。
 僕が美鈴の白無垢を見る確率は、さほど高くないのだと。
 だから僕は、夕食会を思い付いたのだと。
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