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七章
たくさんある
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僕らの乗ったAICAが滑るように走り出した。昴の家は神社の南東、直線距離で300メートルほどの場所にある。つまり三分とかからず着くから、話題を用意する必要はないと僕は考えていたのだけど、それは完全な間違いだった。車内の空気の、その余りの芳しさに、沈黙が五秒続いただけで僕は気を失いそうになったのである。
「眠留くん、あの、変なことを言うようですが、頑張ってください!」
「雪山で遭難し、眠気と戦うアルピニストになった気分だよ、輝夜さん」
「えっと、そういう場合は、どうすればいいのかな?」
「う~ん漫画やアニメなら、敵の魔法使いの睡眠魔法を跳ね除けるためナイフを太腿に突き立てるのがお約束だけど、う~ん・・・・・」
「ねっ、眠留くん、気を失っちゃダメ!」
などと、傍から見たら爆発しろと呪詛されること必至のやり取りを経て、僕は意識をなんとか保ったまま、昴の家に到着したのだった。
ここらでは群を抜いて大きな天川邸の、門扉から玄関をくぐるまでの三十秒近くを利用し、太ももを力任せにつねり続ける。その甲斐あって、出迎えてくれたおばさんと不自然でない挨拶を交わすことができた。おばさんと母はとても仲が良かったから、この人にバレたら母にもバレてしまう気が僕は今でもする。バレて困るようなことは一切してなくとも、きっとこの人は僕にとって、生涯そういう人なんだろうな。
「眠留君と輝夜ちゃんが一緒に来てくれるのは、今日が初めてね。おばさん嬉しいわ」
十二畳はゆうにある広々とした玄関の上り框で、おばさんは幼稚園のころから少しも変わらぬ笑顔を浮かべた。そのありがたさを知っている僕は昴にそれをしばしば伝えるのだけど、「母方の家系の女は代々老化が遅いみたい」というズレた返事を昴は毎回していた。しかしそれは言葉上のズレでしかなく、心の受け答えとしてはこの上なく正しかった。なぜなら僕らはいつも決まって、このやり取りで会話を終らせていたからだ。
「それは良かった。おばさんにはいつまでも、健康で長生きしてもらいたいんだ」
「娘に嫌がられるほど長く生きるのが母さんの目標だから、心配ないわね」
母を亡くした僕と同じ経験を、いつか昴もするだろう。でもそれは、ずっとずっと先のことであって欲しい。僕のその願いを知っているから、心の受け答えとして正しい返事を昴は毎回するのだ。僕と昴のそのやり取りを知っている事もあり、おばさんは僕にまるで遠慮しない。ありがたいのは事実だけど、ヘナチョコとはいえ一応男の僕は、この人に会うたびちょっぴり困るのが常だった。
「む、眠留君また背が伸びたわね。あまり伸びると頭グリグリができなくなるから、嬉しいような悲しいようなだなあ」
おばさんは会うたびそう言って、僕の頭を必ずグリグリする。三十歳前後にしか見えない、170センチ超えの美女にそんな事をされるだけでも恥ずかしいのに、今日は輝夜さんと一緒だったため尚更恥ずかしかった。だがそこは、さすが昴の母親。僕の気持ちを十全に理解しているおばさんは輝夜さんの頭を撫で、
「輝夜ちゃんもいつもの様に食べ過ぎて動けなくなったら、泊まっていってね」
と、フォローなのか爆弾なのか定かでない発言をする。僕と輝夜さんは顔を見合わせ、この人はあの昴の母親なのだから僕らの手に負えなくて当然なのだと、諦めるしかなかったのだった。
オーダーメイドの高級キッチンの奥で一心に料理を作る昴と、視線を交わすだけの挨拶をした僕と輝夜さんはその分、
「おじさん今晩は」
「今晩はおじさん」
「今晩は、二人ともいらっしゃい」
テーブルに座るおじさんへ丁寧に挨拶した。180センチ台半ばの豊かな体躯と、一目で学者とわかる知的さを併せ持つおじさんは、低身長と残念脳味噌に悩む僕の憧れの人だ。植物ファイバーの権威として名高いおじさんは気象庁に勤める父と気が合うらしく、息子の僕以上に父と連絡を取り合っていて、父の近況をよく教えてくれる。いや多分おじさんは、年末年始しか家に帰ってこない父の代わりを、意識して勤めてくれているのだ。昴は容姿の大部分を母親から受け継いだが目だけは父親から受け継いだことが見て取れる、昴そっくりのおじさんの眼差しに触れるたび、僕はそう思わずにはいられなかった。
「眠留、お父さんは今月二十六日の遅くに帰って来るそうだよ」
おばさんは僕に君を付けるが、おじさんは僕を呼び捨てにする。男としての力量は天と地ほど離れていても、太く豊かな声でそう呼ばれると、同じ男として接してもらっている気がして僕は嬉しかった。
「いつもありがとう、おじさん」
「どういたしまして」
腹に響くどっしりしたその声のとおり、おじさんはとても雄大な性格をしている。この人が父親だったからこそ、昴は破天荒レベルの才能に翻弄されず、まっすぐ育ってこられたのだ。昴が男性に、一にも二にも頼もしさを求めるのがその何よりの証拠。本人は決して認めないが、昴は本当は、かなりのお父さんっ子なのである。
そんなおじさんのこと故、輝夜さんへ向ける瞳は誠に優しい。幼稚園入園日から親交のある僕でも、おじさんが昴へ向ける瞳と、おじさんが輝夜さんへ向ける瞳に、差をほとんど見つけられないのだ。それを初めて知ったのは、文化祭だった。文化祭二日目の家族公開日になっても、輝夜さんの南青山の家族は湖校に現れなかった。それでも僕の祖父母と昴の両親から家族同然の眼差しで紅茶を大絶賛された輝夜さんは、寂しい顔を一つもしなかった。十組横の階段の踊り場で、輝夜さんの母方のおじいさんとおばあさんが、僕の祖父母と昴の両親に涙を流しながらお礼を言っている姿が、本当は僕の、文化祭の一番の想い出なのだった。
そんな天川家の広大なリビングに、
「はいは~い、お待たせしました~」
はつらつとした昴の声が響いた。きびきび料理を作る後ろ姿だけでも体調万全なのは一目瞭然だったが、いつもと変わらぬその声に、安堵の気持ちが胸に広がってゆく。翔家の生まれでない翔人は魔想との初戦闘を無事に終えても、肉体へ戻ったあと虚無感に苛まれる事がある。自由な翔体で自在に空を翔けた経験が、肉体を牢獄と感じさせてしまうのだそうだ。日常生活への不満を隠し持っている人ほどそうなる傾向が強く、そのてん昴は危険性が薄いと予想されていたが、人の心は他者には判らぬもの。「昴のような優しい娘ほど虚無感を巧く隠しおおす故、ゆめゆめ油断せぬ事」と水晶に厳命されていた僕らは、いや祖父母は、今日という日を寿命が縮む思いで過ごしたのかもしれない。水晶ほどの眼力はなくとも幼馴染の僕が昴の無事を伝えたら祖父母も少しは気が楽になるかなと思い、テーブルの下でハイ子を操作しさっそくメールを送ろうとした。のだけど、
「今日は眠留と輝夜の記念日だから、こんなのを作ってみたよ」
などと誤解を招く発言を意図的にした昴へ、僕は慌てまくった。しかも慌てるあまり、
「いやややや、確かに僕と輝夜さんは今日初めて僕の部屋で五時間近く二人きりで過ごしましたが、僕は輝夜さんと初めての事など、初めての事など、初めての事など!」
などと、朝食時の失敗を僕は忠実に再現してしまう。おじさんとおばさんと昴が大爆笑したのも同じで、輝夜さんが真っ赤な顔で俯いていたのも同じだったけど、二度目だったことが幸いし失神だけは辛うじて回避することができた。とはいえその寸前まで追い込まれた僕は、失態に気づき頭を抱えてテーブルに激突しそうになった。のだけど、
「ごめんごめん、冗談が過ぎたわ。そのお詫びも兼ねて、眠留の大好物をどうぞ」
そう言って昴がテーブル中央に大皿を置くなり、僕は頭を抱えたまま硬直した。なぜならその大皿に乗っているのは、頭から尻尾まで40センチはある、巨大たい焼きだったからである。
「ねえ昴、僕にこんな大好物って、あったっけ?」
熱々艶々の巨大たい焼きを丹精込めて作ってくれた人へこんな質問をするのは、本来なら無礼千万なことなのだろう。けどこの場にいるのは、昴が僕以上に僕を知っていることを重々承知している人達ばかりだったから、その質問はまたもやリビングを笑い一色に染めた。たい焼きの謎は解けずとも僕の大切な人達がこうも楽しげにしていて、嬉しくない訳がない。僕は何もかも棚上げし、皆と一緒に笑っていた。そんな僕へ、世界中の料理に詳しい輝夜さんが助け舟を出してくれた。
「ねえ眠留くん、十二月に食べる眠留くんの大好物は、何かな?」
僕は首を捻った。どうやらこの巨大たい焼きは、今月食べる僕の大好物を知っていれば、解明可能な料理らしい。ならば多数の残念要素をこの身に背負う僕でも、正解に辿り着けるかもしれない。僕は勇気を出し、真っ先に思い付いた料理名を口にした。
「十二月の大好物は何と言っても、クリスマスイブに食べる、キッシュだよ」
ケーキと和食を用いてキッシュを強引に説明するなら、茶碗蒸しふう惣菜タルト、になるだろう。実際僕が毎年食べてきたのはタルトと同じ形の、直径30センチほどの丸いキッシュだった。つまり目の前に鎮座する巨大たい焼きとキッシュは、似ても似つかない料理なのである。が、
「あれ?」
僕は頭をもう一段傾けた。たい焼きの表面は普通、ホットケーキに似た小さな穴が無数に開いている。でもこのたい焼きに、その穴はない。表面に卵黄を塗り穴を塞ぎ具の旨みを封じ込める、パイの製法で作られているのだ。ほとんどのキッシュにパイのような蓋はないが、それでも生地の内側に卵黄を塗るのはパイと同じなことを思い出した僕は、まさかと思うもピンと来た料理名を告げた。
「このたい焼き、まさかキッシュなの?」
プッと吹き出た笑いを手でふさぎ、昴は答えた。
「そう、このたい焼きはキッシュ。フランスではお祝いの日に、こんな感じの楽しい総菜パイを作るそうなの。だからパイでも良かったのだけど、新鮮な真鯛が手に入ったから、今回は特別にキッシュの調理法でこれを作ってみたのね。さあでは家長のお父さんに、キッシュを切り分けてもらいましょう」
切り分け用の特大ナイフとフォークを手にしたおじさんが、キッシュを丁寧かつ豪快に切り分けてゆく。その切り口から沸き上がった湯気を吸いこんだだけで、僕と輝夜さんはメロメロになってしまった。湯気と一緒に食材の旨みが逃げてゆくことを熟知している昴は、湯気が漏れない絶妙な火加減でこのキッシュを焼き上げた。よってナイフを入れるなり、鯛の旨みを凝縮した絶品の湯気が、もうもうと立ち昇ったのである。「今日は眠留と輝夜さんの記念日だから真ん中の一番大きなところを食べて貰おう」という、おじさんの言葉が耳に入らぬほど、僕と輝夜さんは切り分けて貰ったキッシュを一心不乱に見つめていた。そんな僕らの待ちきれぬ思いを、軽減しようとしてくれたのだろう。
「二人とも、あれを見て。具を少し変えたキッシュをあと二つ焼いているから、動けなくなるまで食べていいからね」
そう言って昴はキッチンを指さした。まさしくその言葉どおり、二台並んだオーブンの中で巨大たい焼きが一つずつ焼かれている光景を目にした僕ら二人は揃って、
「「昴様~~!!」」
とひれ伏す。リビングに三度目の笑いが溢れたところで、おじさんが手を合わせた。
「さあみんな、頂くとしよう。せ~の」
「「「いただきます!!」」」
僕ら五人はその後、超絶美味なたい焼きキッシュに、ほっぺを落としまくったのだった。
それからの出来事は楽しすぎ幸せすぎて、たった一つを除きあまり覚えていない。
それは、僕と輝夜さんは心の透明度において、昴にまったく敵わないという事。
また透明度以外にも、心には広がり、深さ、強さ、そして優しさに陽気さ。
それら多種多様な基準を、心は数多く持っているという事。
心の滑らかさや清らかさだけが、尺度のすべてではない。
心の成長を示す尺度は、
たくさんあるのだ
このたった一つだけが永遠に忘れ得ぬ記憶として、僕の魂に刻み込まれたのだった。
七章、了
「眠留くん、あの、変なことを言うようですが、頑張ってください!」
「雪山で遭難し、眠気と戦うアルピニストになった気分だよ、輝夜さん」
「えっと、そういう場合は、どうすればいいのかな?」
「う~ん漫画やアニメなら、敵の魔法使いの睡眠魔法を跳ね除けるためナイフを太腿に突き立てるのがお約束だけど、う~ん・・・・・」
「ねっ、眠留くん、気を失っちゃダメ!」
などと、傍から見たら爆発しろと呪詛されること必至のやり取りを経て、僕は意識をなんとか保ったまま、昴の家に到着したのだった。
ここらでは群を抜いて大きな天川邸の、門扉から玄関をくぐるまでの三十秒近くを利用し、太ももを力任せにつねり続ける。その甲斐あって、出迎えてくれたおばさんと不自然でない挨拶を交わすことができた。おばさんと母はとても仲が良かったから、この人にバレたら母にもバレてしまう気が僕は今でもする。バレて困るようなことは一切してなくとも、きっとこの人は僕にとって、生涯そういう人なんだろうな。
「眠留君と輝夜ちゃんが一緒に来てくれるのは、今日が初めてね。おばさん嬉しいわ」
十二畳はゆうにある広々とした玄関の上り框で、おばさんは幼稚園のころから少しも変わらぬ笑顔を浮かべた。そのありがたさを知っている僕は昴にそれをしばしば伝えるのだけど、「母方の家系の女は代々老化が遅いみたい」というズレた返事を昴は毎回していた。しかしそれは言葉上のズレでしかなく、心の受け答えとしてはこの上なく正しかった。なぜなら僕らはいつも決まって、このやり取りで会話を終らせていたからだ。
「それは良かった。おばさんにはいつまでも、健康で長生きしてもらいたいんだ」
「娘に嫌がられるほど長く生きるのが母さんの目標だから、心配ないわね」
母を亡くした僕と同じ経験を、いつか昴もするだろう。でもそれは、ずっとずっと先のことであって欲しい。僕のその願いを知っているから、心の受け答えとして正しい返事を昴は毎回するのだ。僕と昴のそのやり取りを知っている事もあり、おばさんは僕にまるで遠慮しない。ありがたいのは事実だけど、ヘナチョコとはいえ一応男の僕は、この人に会うたびちょっぴり困るのが常だった。
「む、眠留君また背が伸びたわね。あまり伸びると頭グリグリができなくなるから、嬉しいような悲しいようなだなあ」
おばさんは会うたびそう言って、僕の頭を必ずグリグリする。三十歳前後にしか見えない、170センチ超えの美女にそんな事をされるだけでも恥ずかしいのに、今日は輝夜さんと一緒だったため尚更恥ずかしかった。だがそこは、さすが昴の母親。僕の気持ちを十全に理解しているおばさんは輝夜さんの頭を撫で、
「輝夜ちゃんもいつもの様に食べ過ぎて動けなくなったら、泊まっていってね」
と、フォローなのか爆弾なのか定かでない発言をする。僕と輝夜さんは顔を見合わせ、この人はあの昴の母親なのだから僕らの手に負えなくて当然なのだと、諦めるしかなかったのだった。
オーダーメイドの高級キッチンの奥で一心に料理を作る昴と、視線を交わすだけの挨拶をした僕と輝夜さんはその分、
「おじさん今晩は」
「今晩はおじさん」
「今晩は、二人ともいらっしゃい」
テーブルに座るおじさんへ丁寧に挨拶した。180センチ台半ばの豊かな体躯と、一目で学者とわかる知的さを併せ持つおじさんは、低身長と残念脳味噌に悩む僕の憧れの人だ。植物ファイバーの権威として名高いおじさんは気象庁に勤める父と気が合うらしく、息子の僕以上に父と連絡を取り合っていて、父の近況をよく教えてくれる。いや多分おじさんは、年末年始しか家に帰ってこない父の代わりを、意識して勤めてくれているのだ。昴は容姿の大部分を母親から受け継いだが目だけは父親から受け継いだことが見て取れる、昴そっくりのおじさんの眼差しに触れるたび、僕はそう思わずにはいられなかった。
「眠留、お父さんは今月二十六日の遅くに帰って来るそうだよ」
おばさんは僕に君を付けるが、おじさんは僕を呼び捨てにする。男としての力量は天と地ほど離れていても、太く豊かな声でそう呼ばれると、同じ男として接してもらっている気がして僕は嬉しかった。
「いつもありがとう、おじさん」
「どういたしまして」
腹に響くどっしりしたその声のとおり、おじさんはとても雄大な性格をしている。この人が父親だったからこそ、昴は破天荒レベルの才能に翻弄されず、まっすぐ育ってこられたのだ。昴が男性に、一にも二にも頼もしさを求めるのがその何よりの証拠。本人は決して認めないが、昴は本当は、かなりのお父さんっ子なのである。
そんなおじさんのこと故、輝夜さんへ向ける瞳は誠に優しい。幼稚園入園日から親交のある僕でも、おじさんが昴へ向ける瞳と、おじさんが輝夜さんへ向ける瞳に、差をほとんど見つけられないのだ。それを初めて知ったのは、文化祭だった。文化祭二日目の家族公開日になっても、輝夜さんの南青山の家族は湖校に現れなかった。それでも僕の祖父母と昴の両親から家族同然の眼差しで紅茶を大絶賛された輝夜さんは、寂しい顔を一つもしなかった。十組横の階段の踊り場で、輝夜さんの母方のおじいさんとおばあさんが、僕の祖父母と昴の両親に涙を流しながらお礼を言っている姿が、本当は僕の、文化祭の一番の想い出なのだった。
そんな天川家の広大なリビングに、
「はいは~い、お待たせしました~」
はつらつとした昴の声が響いた。きびきび料理を作る後ろ姿だけでも体調万全なのは一目瞭然だったが、いつもと変わらぬその声に、安堵の気持ちが胸に広がってゆく。翔家の生まれでない翔人は魔想との初戦闘を無事に終えても、肉体へ戻ったあと虚無感に苛まれる事がある。自由な翔体で自在に空を翔けた経験が、肉体を牢獄と感じさせてしまうのだそうだ。日常生活への不満を隠し持っている人ほどそうなる傾向が強く、そのてん昴は危険性が薄いと予想されていたが、人の心は他者には判らぬもの。「昴のような優しい娘ほど虚無感を巧く隠しおおす故、ゆめゆめ油断せぬ事」と水晶に厳命されていた僕らは、いや祖父母は、今日という日を寿命が縮む思いで過ごしたのかもしれない。水晶ほどの眼力はなくとも幼馴染の僕が昴の無事を伝えたら祖父母も少しは気が楽になるかなと思い、テーブルの下でハイ子を操作しさっそくメールを送ろうとした。のだけど、
「今日は眠留と輝夜の記念日だから、こんなのを作ってみたよ」
などと誤解を招く発言を意図的にした昴へ、僕は慌てまくった。しかも慌てるあまり、
「いやややや、確かに僕と輝夜さんは今日初めて僕の部屋で五時間近く二人きりで過ごしましたが、僕は輝夜さんと初めての事など、初めての事など、初めての事など!」
などと、朝食時の失敗を僕は忠実に再現してしまう。おじさんとおばさんと昴が大爆笑したのも同じで、輝夜さんが真っ赤な顔で俯いていたのも同じだったけど、二度目だったことが幸いし失神だけは辛うじて回避することができた。とはいえその寸前まで追い込まれた僕は、失態に気づき頭を抱えてテーブルに激突しそうになった。のだけど、
「ごめんごめん、冗談が過ぎたわ。そのお詫びも兼ねて、眠留の大好物をどうぞ」
そう言って昴がテーブル中央に大皿を置くなり、僕は頭を抱えたまま硬直した。なぜならその大皿に乗っているのは、頭から尻尾まで40センチはある、巨大たい焼きだったからである。
「ねえ昴、僕にこんな大好物って、あったっけ?」
熱々艶々の巨大たい焼きを丹精込めて作ってくれた人へこんな質問をするのは、本来なら無礼千万なことなのだろう。けどこの場にいるのは、昴が僕以上に僕を知っていることを重々承知している人達ばかりだったから、その質問はまたもやリビングを笑い一色に染めた。たい焼きの謎は解けずとも僕の大切な人達がこうも楽しげにしていて、嬉しくない訳がない。僕は何もかも棚上げし、皆と一緒に笑っていた。そんな僕へ、世界中の料理に詳しい輝夜さんが助け舟を出してくれた。
「ねえ眠留くん、十二月に食べる眠留くんの大好物は、何かな?」
僕は首を捻った。どうやらこの巨大たい焼きは、今月食べる僕の大好物を知っていれば、解明可能な料理らしい。ならば多数の残念要素をこの身に背負う僕でも、正解に辿り着けるかもしれない。僕は勇気を出し、真っ先に思い付いた料理名を口にした。
「十二月の大好物は何と言っても、クリスマスイブに食べる、キッシュだよ」
ケーキと和食を用いてキッシュを強引に説明するなら、茶碗蒸しふう惣菜タルト、になるだろう。実際僕が毎年食べてきたのはタルトと同じ形の、直径30センチほどの丸いキッシュだった。つまり目の前に鎮座する巨大たい焼きとキッシュは、似ても似つかない料理なのである。が、
「あれ?」
僕は頭をもう一段傾けた。たい焼きの表面は普通、ホットケーキに似た小さな穴が無数に開いている。でもこのたい焼きに、その穴はない。表面に卵黄を塗り穴を塞ぎ具の旨みを封じ込める、パイの製法で作られているのだ。ほとんどのキッシュにパイのような蓋はないが、それでも生地の内側に卵黄を塗るのはパイと同じなことを思い出した僕は、まさかと思うもピンと来た料理名を告げた。
「このたい焼き、まさかキッシュなの?」
プッと吹き出た笑いを手でふさぎ、昴は答えた。
「そう、このたい焼きはキッシュ。フランスではお祝いの日に、こんな感じの楽しい総菜パイを作るそうなの。だからパイでも良かったのだけど、新鮮な真鯛が手に入ったから、今回は特別にキッシュの調理法でこれを作ってみたのね。さあでは家長のお父さんに、キッシュを切り分けてもらいましょう」
切り分け用の特大ナイフとフォークを手にしたおじさんが、キッシュを丁寧かつ豪快に切り分けてゆく。その切り口から沸き上がった湯気を吸いこんだだけで、僕と輝夜さんはメロメロになってしまった。湯気と一緒に食材の旨みが逃げてゆくことを熟知している昴は、湯気が漏れない絶妙な火加減でこのキッシュを焼き上げた。よってナイフを入れるなり、鯛の旨みを凝縮した絶品の湯気が、もうもうと立ち昇ったのである。「今日は眠留と輝夜さんの記念日だから真ん中の一番大きなところを食べて貰おう」という、おじさんの言葉が耳に入らぬほど、僕と輝夜さんは切り分けて貰ったキッシュを一心不乱に見つめていた。そんな僕らの待ちきれぬ思いを、軽減しようとしてくれたのだろう。
「二人とも、あれを見て。具を少し変えたキッシュをあと二つ焼いているから、動けなくなるまで食べていいからね」
そう言って昴はキッチンを指さした。まさしくその言葉どおり、二台並んだオーブンの中で巨大たい焼きが一つずつ焼かれている光景を目にした僕ら二人は揃って、
「「昴様~~!!」」
とひれ伏す。リビングに三度目の笑いが溢れたところで、おじさんが手を合わせた。
「さあみんな、頂くとしよう。せ~の」
「「「いただきます!!」」」
僕ら五人はその後、超絶美味なたい焼きキッシュに、ほっぺを落としまくったのだった。
それからの出来事は楽しすぎ幸せすぎて、たった一つを除きあまり覚えていない。
それは、僕と輝夜さんは心の透明度において、昴にまったく敵わないという事。
また透明度以外にも、心には広がり、深さ、強さ、そして優しさに陽気さ。
それら多種多様な基準を、心は数多く持っているという事。
心の滑らかさや清らかさだけが、尺度のすべてではない。
心の成長を示す尺度は、
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