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八章
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椅子は間違いなく四十二脚あり、ほっと息を吐いた。
何気なく、長テーブルに目をやる。
それが、隙になったのだろう。目の前の長テーブルに寮の長テーブルを連想し、そこで真向かいに座っていた女の子を幻視した僕は、仕事の最中は考えまいとしていたある重要案件を思い出してしまった。職務怠慢を指摘され一分も経たぬ間に、同じ状態になる訳にはいかない。僕は頭を鋭く振り、クリスマス会に関する那須さんのメールを忘れようとした。だが那須さん繋がりでエイミィの件も意識に浮上してしまい、危うく頭を抱えそうになった。考えまいとすればするほど、那須さんとエイミィが心の中で肥大してゆく。僕みたいなヘタレ男が、あんなに綺麗な女の子たちと、ダンスを・・・・
「猫将軍君、こういう広い室内にいると、私は不思議な音が聞こえてくるの。それって変かな」
思考を混乱させ前のめりになっていた僕に、芹沢さんが優しく話しかけてきたのだった。
慌てて上体を起こし、声の方に顔を向けた。すぐ隣に、ちょっぴり恥ずかしげな気配をまとった芹沢さんがいた。それは九月一日の早朝、第八寮の前庭で、前世の記憶を持つことを話してくれた時の芹沢さんと同じ気配だった。あの日、この類いまれな女性はそれを話すことで、僕と昴の苦悩を少しでも減らそうとしてくれた。前世の記憶という、奇異な目で見られるかもしれない秘密を、僕と昴のためにこの女性は打ち明けてくれたのだ。あの時と同じ気配をまとっているという事は、芹沢さんは再び、その身を犠牲にしようとしているのかもしれない。
そんなこと、絶対させる訳にはいかないじゃないか!
僕という存在の核心からほとばしった叫びが、混乱した思考をいっぺんに吹き飛ばしてゆく。するとそれに代わり、以前美鈴にきつく言い渡されたことがくっきり浮かび上がって来た。「大切な女性を守るためなら命もいらぬという本心を、私達三人以外には見せちゃダメだよ、お兄ちゃん」 脳裏に映る妹に了解と告げ、僕は普段の口調で芹沢さんに話しかけようとした。のだけど、
「それ、俺も同じかもしれない。キーンという耳鳴りが微かに聞こえるような、それでいて耳鳴りなんて全然していないような、そんな不思議な感覚に俺はいつもなるな」
知的好奇心を爆発させた北斗に出鼻をくじかれてしまった。しかもすかさず「ふふん、してやったり」という不敵な笑みをこれ見よがしにしたものだから、怒りが爆発した僕は北斗をプロレス技で締め上げようとした。とはいえ、
「それっ、凄く似てるかも!」
と瞳を輝かせる芹沢さんと、
「俺も劇場でいつもその感覚になる!」
と身を乗り出す中島を無視するなどもっての外なので、不本意の極みだが、小学校時代に北斗から聞いた話を僕は思い出すことにした。
『可聴域に含まれない音を、人は気配として感じることがある。大地震直前の地殻が崩壊する極低音を不穏な気配として、静かな体育館に満ちる可聴域を上回る高音を耳鳴りに似た音として、人は稀に感じる事がある。耳で聴きとれなくとも、音という空気の振動を体全体で知覚する能力が、人にはあるのかもしれないな』
僕は心を沈め、ホールの音に耳を澄ませた。生命力強化をしなくても犬笛を楽々聞き分ける僕の聴覚は、四方八方から均一にやって来る微細な高音をはっきり知覚することができた。でも、それだけじゃない。その直感のもと、僕は一層耳を澄ませた。すると耳鳴りに似たその音の奥を、楽しげな気配がちらりとかすめた気がした。
ダンスに青春をかける若者達を見つめ続けてきた、このホール。
雨や風、夏の暑さや冬の寒さから若者達を守ってきた、このホール。
ありがとうございましたと一斉に頭を下げられ、そして熱心にモップ掛けをしてもらってきた、このホール。
それら一連の出来事を楽しげに回想しているホールの想いを、僕は音の気配として微かに感じた気がしたのだ。
その気配を、芹沢さんも感じているのだろう。大和撫子の鑑は楚々とした所作で椅子に腰を下ろし、言葉を紡いだ。
「華道は、音のない世界。書道も基本的に、音のない世界。茶道は音を、静けさを増すために使う。そして筝曲は、音に溢れている。華道と茶道と書道と筝曲は音と異なる接し方をしているけど、私はいつも感じているの。それに打ち込んでいるとき私の中に流れる、楽しげな音楽を」
芹沢さんは胸に両手を当て、そっと目を閉じる。僕ら男三人は床に座るも、姫君を守る三騎士の気構えで、芹沢さんの話に耳を傾けていた。
「その音楽に似た音が、こういった場所で心を震わせることがある。どこか一カ所から聞こえてくるのではなく、身を包むこの広い室内が楽しげに歌っている、そんな音ね」
一般的に女性は、男性より耳が良い。高音部は特にそれが顕著らしく、男性は女性に大きく水を開けられているそうだ。しかしそれだけでは説明できない特別な力を、この稀有な女性に僕は強く感じた。
「その歌には、クリスマス会も含まれている気がする。明日は、きっと楽しい日になる。だから猫将軍君、いろいろあるかもしれないけど、それは明日が終われば良い思い出になっているって、私は思うよ」
返事をする代わりに素早く立ち上がる。そして、
「姫君の仰せのままに」
僕は右手を胸に左手を腰に置き、右足を少し引いて上体を軽く折った。これはダンスの前にする挨拶だから場違いなはずなのに、何故か今はこれこそが、最も相応しい挨拶に思えたのである。そしてそれは、負けじと立ち上がった北斗と中島も同じだったらしい。僕らは頷き合い、三人揃って姫君へ腰を折った。芹沢さんも立ち上がり、スカートを軽くつまんで、優雅に膝を折ってくれた。その、レヴェランスと呼ばれる貴婦人の挨拶に、僕らのテンションはさっきを凌ぐ爆上げ状態となった。
「うおお~~!」
「どりゃ~~!」
「明日は踊るぜ~~!」
などとわめきつつ男三人でホールを駆けまわる。
そんなバカ三人組へ、芹沢さんもさっき以上に楽しげな笑みを浮かべていた。
なのでホールを去るさい僕らは自然に振り返り、
「「「また明日~~」」」
と、四人で声を揃えてホールに挨拶した。
楽しみに待っているよ
ホールから、そう返してもらえた気がした。
何気なく、長テーブルに目をやる。
それが、隙になったのだろう。目の前の長テーブルに寮の長テーブルを連想し、そこで真向かいに座っていた女の子を幻視した僕は、仕事の最中は考えまいとしていたある重要案件を思い出してしまった。職務怠慢を指摘され一分も経たぬ間に、同じ状態になる訳にはいかない。僕は頭を鋭く振り、クリスマス会に関する那須さんのメールを忘れようとした。だが那須さん繋がりでエイミィの件も意識に浮上してしまい、危うく頭を抱えそうになった。考えまいとすればするほど、那須さんとエイミィが心の中で肥大してゆく。僕みたいなヘタレ男が、あんなに綺麗な女の子たちと、ダンスを・・・・
「猫将軍君、こういう広い室内にいると、私は不思議な音が聞こえてくるの。それって変かな」
思考を混乱させ前のめりになっていた僕に、芹沢さんが優しく話しかけてきたのだった。
慌てて上体を起こし、声の方に顔を向けた。すぐ隣に、ちょっぴり恥ずかしげな気配をまとった芹沢さんがいた。それは九月一日の早朝、第八寮の前庭で、前世の記憶を持つことを話してくれた時の芹沢さんと同じ気配だった。あの日、この類いまれな女性はそれを話すことで、僕と昴の苦悩を少しでも減らそうとしてくれた。前世の記憶という、奇異な目で見られるかもしれない秘密を、僕と昴のためにこの女性は打ち明けてくれたのだ。あの時と同じ気配をまとっているという事は、芹沢さんは再び、その身を犠牲にしようとしているのかもしれない。
そんなこと、絶対させる訳にはいかないじゃないか!
僕という存在の核心からほとばしった叫びが、混乱した思考をいっぺんに吹き飛ばしてゆく。するとそれに代わり、以前美鈴にきつく言い渡されたことがくっきり浮かび上がって来た。「大切な女性を守るためなら命もいらぬという本心を、私達三人以外には見せちゃダメだよ、お兄ちゃん」 脳裏に映る妹に了解と告げ、僕は普段の口調で芹沢さんに話しかけようとした。のだけど、
「それ、俺も同じかもしれない。キーンという耳鳴りが微かに聞こえるような、それでいて耳鳴りなんて全然していないような、そんな不思議な感覚に俺はいつもなるな」
知的好奇心を爆発させた北斗に出鼻をくじかれてしまった。しかもすかさず「ふふん、してやったり」という不敵な笑みをこれ見よがしにしたものだから、怒りが爆発した僕は北斗をプロレス技で締め上げようとした。とはいえ、
「それっ、凄く似てるかも!」
と瞳を輝かせる芹沢さんと、
「俺も劇場でいつもその感覚になる!」
と身を乗り出す中島を無視するなどもっての外なので、不本意の極みだが、小学校時代に北斗から聞いた話を僕は思い出すことにした。
『可聴域に含まれない音を、人は気配として感じることがある。大地震直前の地殻が崩壊する極低音を不穏な気配として、静かな体育館に満ちる可聴域を上回る高音を耳鳴りに似た音として、人は稀に感じる事がある。耳で聴きとれなくとも、音という空気の振動を体全体で知覚する能力が、人にはあるのかもしれないな』
僕は心を沈め、ホールの音に耳を澄ませた。生命力強化をしなくても犬笛を楽々聞き分ける僕の聴覚は、四方八方から均一にやって来る微細な高音をはっきり知覚することができた。でも、それだけじゃない。その直感のもと、僕は一層耳を澄ませた。すると耳鳴りに似たその音の奥を、楽しげな気配がちらりとかすめた気がした。
ダンスに青春をかける若者達を見つめ続けてきた、このホール。
雨や風、夏の暑さや冬の寒さから若者達を守ってきた、このホール。
ありがとうございましたと一斉に頭を下げられ、そして熱心にモップ掛けをしてもらってきた、このホール。
それら一連の出来事を楽しげに回想しているホールの想いを、僕は音の気配として微かに感じた気がしたのだ。
その気配を、芹沢さんも感じているのだろう。大和撫子の鑑は楚々とした所作で椅子に腰を下ろし、言葉を紡いだ。
「華道は、音のない世界。書道も基本的に、音のない世界。茶道は音を、静けさを増すために使う。そして筝曲は、音に溢れている。華道と茶道と書道と筝曲は音と異なる接し方をしているけど、私はいつも感じているの。それに打ち込んでいるとき私の中に流れる、楽しげな音楽を」
芹沢さんは胸に両手を当て、そっと目を閉じる。僕ら男三人は床に座るも、姫君を守る三騎士の気構えで、芹沢さんの話に耳を傾けていた。
「その音楽に似た音が、こういった場所で心を震わせることがある。どこか一カ所から聞こえてくるのではなく、身を包むこの広い室内が楽しげに歌っている、そんな音ね」
一般的に女性は、男性より耳が良い。高音部は特にそれが顕著らしく、男性は女性に大きく水を開けられているそうだ。しかしそれだけでは説明できない特別な力を、この稀有な女性に僕は強く感じた。
「その歌には、クリスマス会も含まれている気がする。明日は、きっと楽しい日になる。だから猫将軍君、いろいろあるかもしれないけど、それは明日が終われば良い思い出になっているって、私は思うよ」
返事をする代わりに素早く立ち上がる。そして、
「姫君の仰せのままに」
僕は右手を胸に左手を腰に置き、右足を少し引いて上体を軽く折った。これはダンスの前にする挨拶だから場違いなはずなのに、何故か今はこれこそが、最も相応しい挨拶に思えたのである。そしてそれは、負けじと立ち上がった北斗と中島も同じだったらしい。僕らは頷き合い、三人揃って姫君へ腰を折った。芹沢さんも立ち上がり、スカートを軽くつまんで、優雅に膝を折ってくれた。その、レヴェランスと呼ばれる貴婦人の挨拶に、僕らのテンションはさっきを凌ぐ爆上げ状態となった。
「うおお~~!」
「どりゃ~~!」
「明日は踊るぜ~~!」
などとわめきつつ男三人でホールを駆けまわる。
そんなバカ三人組へ、芹沢さんもさっき以上に楽しげな笑みを浮かべていた。
なのでホールを去るさい僕らは自然に振り返り、
「「「また明日~~」」」
と、四人で声を揃えてホールに挨拶した。
楽しみに待っているよ
ホールから、そう返してもらえた気がした。
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