僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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九章

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 ふと、デジャブに似た感覚が心を駆けた。その仕組みはすぐ判明した。僕はこれまで青木さんの打ち明け話を、見ず知らずの女の子を出演させた再現映像として脳裏に描いていた。けどそれが『今のあなたの方が一緒にいて楽しい』を経て、青木さん自身が出演する映像に切り替わった。それは知らない人を出演させざるを得なかった天狗時代の彼女ではない、一緒にいると楽しい今現在の彼女だったから、既視感もどきの感覚を僕は抱いたのである。
「その子のくれたヒントをもとに、過去の私と今の私の違いを思い付くまま書き出して行った。二十近くにもなったそれを分類し、その結果を図にまとめた。図を眺め続け一週間が経過したころ、初めての疑問が心をかすめた。それは、ここに書き出されているどれが本物の私なのかな、という疑問だった。その疑問を胸に図を眺め続ける日々が続いた。そして一か月近くたった、十月の連休の最後の日。目覚めた私の心に、答がいつの間にかやって来ていた。それは、『どれも私じゃない』という答だったの」
 どれも私じゃない、という青木さんの言葉に、夏休み明け初日の朝に聴いた、北斗の発言が蘇った。
『振り返ると、俺はバカ過ぎた。運動能力の向上と短所の減少を基準にすると必然的に、運動能力の高い奴と短所の少ない奴が、成長した者になってしまう。向上率と減少率という比率に一応着目していたが、それでもやはり、運動能力の高い奴と短所の少ない奴が成長しているという結果になる。それは、人の心への冒涜だ。人の心は、そんな単純な物差しで測れるものではない。湖校に入学し、素晴らしい人達と直に接し、そして何より眠留を間近で見ていたら、俺はやっとそれに気づけたんだよ』 
 北斗と青木さんの話には符合しない面がある。北斗は運動能力の向上を挙げているが、青木さんには無いのがその最たるものだろう。だがその一方、符合している面も二つある。一つは短所と、天狗時代の青木さん。そしてもう一つが、「人の心はそんな単純な物差しでは測れない」と「どれも私じゃない」だ。
 青木さんはプレゼン大会を経て、天狗だった自分と決別した。北斗はそれを短所の減少と認識するはずだから、両者は符合していると言える。
 また青木さんは、過去と現在の自分の差を一か月間見続け、「どちらも本物の私ではない」と考えた。仮にそのどちらかを本物の自分としていたら、それは青木さんにとって「自分を測る物差し」になったはず。でも青木さんは、どちらも違うとした。従ってそれは北斗の、「人の心はそんな単純な物差しでは測れない」と、符合するのである。
 驚くべきは、北斗は湖校入学を機にこの理論へ至ったが、青木さんは半年早くそれに到達していたという事。僕は今この瞬間まで、北斗を日本一頭脳明晰な同級生と考えてきたが、それを改めねばならなくなった。『頭の悪い僕の物差しでは、人の頭の良し悪しなど到底測れない』に、改めたのである。
 だから、
「とはいえ私の得た答は、その一つだけ。湖校入学までの半年をまるまる費やしても、私は一歩も先へ進めなかったのよ」
 なんて青木さんが自嘲しても、これだけで北斗と青木さんの頭脳に優劣を付けてはならないんだぞと、僕は自分に言い聞かせる事ができた。う~む、やはり輝夜さんの言うように、人は人と関わることで成長していくんだなあ。
 その想いと、
「私が一歩を踏み出せたのは、湖校入学以降。日付は忘れもしない、四月十九日。日直さんが朝のHRで、私の進むべき道を照らし出してくれたのね」
 という話がピッタリ重なったため、僕は胸の中で青木さんに全面賛同していた。教壇直前の席に座る僕は、十組の皆が日直業務を誠実かつ一生懸命こなす様子を、いつも目の前で見てきた。その誰もから深い感慨と、負けずに頑張るぞという活力を、僕は毎日もらっていた。その日々が、さぞ大切なヒントを貰えたんだね良かったねという心からの賛同を、僕に抱かせたのである。僕は大いなる感動を胸に、皆を見渡した。そのとたん、
 あれ?
 首が斜めに傾いた。青木さんと僕を除く四人が宙を見つめ、何かを思い出す仕草をしていたのだ。その予想外な光景に、僕はしばし放心した。青木さんも記憶を探る四人を助けるべく話を中断していたので、会議室を静寂が覆った。それを、
「なるほど」
 猛が破った。ほぼ時を同じくしてハッとした芹沢さんが素早くハイ子を取り出し、「クラスHPにアクセス」の音声コマンドを出した。映し出された2D画面を十指で高速操作し、最後に出てきたウインドウに、芹沢さんは大きく頷いた。続いてその純和風の双眸が、キリッと僕に向けられる。次の瞬間、
 クルッ
 残り三人も一斉にこちらを向いたため、僕は椅子から転げ落ちそうになった。「眠留にはっきり見せてあげよう」と猛に促され、芹沢さんは手元の2D画面を拡大し、円を描いて座る六人の中央に浮かび上がらせる。そこには、
「四月十九日の日直当番、猫将軍眠留」
 と、映し出されていたのだった。

 六つの机を円形に並べた六人の委員は、男女三人ずつに分かれて座っていた。僕は当初、それをただの偶然と感じていたけど、よくよく考えると、この順番で六人が座るのは必然だった。芹沢さんは猛の左側にいるのを好むから、僕も加えて三人でいる時は、猛を中心に左が芹沢さんで右が僕という形になることが多い。教室にいる青木さんは、廊下側の壁を背にして後ろの席の三島といつも話しているから、ここでも左が三島で右が青木さんという並び順になっていた。また芹沢さんと青木さんには独特な雰囲気があったため、京馬と並ぶクラスのムードメーカーの香取さんが、両者の間に進んで座っていた。よって芹沢さんから時計回りに香取さん、青木さん、三島、僕、猛の順になるのは、必然だったのである。そしてそれは僕に、この霊験を降ろした。
 ――この六人が集うことこそが、必然だったのではないか。
 青木さんはそれを証明するかの如く、秘密を明かした。
「私は入学当初から、猫将軍君を素直な人と思っていた。でも日直は、素直なままではしないだろうと思っていた。ううん違う、私は無意識にそう考えていた。大勢の人の前に立つ日直では、『その状況に合わせた自分』になって日直をするはずだと、私は頭から決めつけていたの。だから猫将軍君が、自分をまるで飾ろうとしないいつもの猫将軍君で日直を始めた時は、文字どおり世界が揺れた。出席取りで返事が出来たのはただの条件反射で、あのとき私は心と体を、大地震に揺さぶられていたのよ」
 発表者と当事者を除く四人は、全身で青木さんに同意していた。わけても猛は凄まじく、体の隅々を武者震いのように震わせて相槌を打っていた。
「しかも日直業務が進むにつれ素直さに益々磨きがかかって行ったから、私は眩暈がした。それは京馬君とのやり取りでピークを迎えて、私はもう無理だと観念した。でも不思議なの。限界を超えて気絶するなり何なりしているはずなのに、私はみんなと一緒になって、猫将軍君に拍手していた。みんなと一緒に、あははと笑っていたのよ。私の中には、限界を超えた私と、そうでない私の、二人の私がいたのね。その、限界を超えた方の私が、ポツリと呟いた。『飾りの私が主導権を握るのは、もう無さそうね』 あの日以来、私はその私に主導権を渡していない。だって、それは飾りの私でしかないって、本当の私が知っちゃったからね」
 四月十九日の青木さんをなぞるように、僕も大地震に心と体を揺さぶられていた。でも「本当の私が知っちゃった」の箇所が耳に届くや揺れはピタリと収まり、僕は会議の決まりも場の空気も忘れて、「良かったね」と青木さんへ語りかけてしまった。青木さんがにっこり笑ってくれて、猛を始めとする皆も僕に乗っかってくれたから事なきを得たけど、同じ過ちを繰り返さぬよう僕は心を引き締め聴く姿勢を整えた。そんな僕に何故か皆、笑いを堪える形相を暫し浮かべたのち、同じように聴く姿勢を整える。青木さんはそんな僕らへ、女性らしいしっとりしたお辞儀をして話を再開した。
「あの日から私の研究対象は、猫将軍君になった。今まで思い付いたこともない、新鮮で重要な事柄を私は次々発見していった。飾りの自分は道具や防御壁にもなるから、一概に悪いとはいえない事。でも飾りの自分で他者と接している限り、人は飾りの自分しか育てられない事。飾りの自分の奥にある、本当の自分を育てて成長させるには、本当の自分で他者と関わるしかない事。だから本当の自分を常にさらし、防御壁を取り払った猫将軍君は頻繁に頭を抱えているけど、でもそれが実り、猫将軍君は群を抜いて本当の自分を成長させている事。それらをこの十カ月で、私は次々発見して行ったの。教育AIはそんな私に、研究者として一皮ひとかわむけたねって言ってくれたわ。だからアイに、私はある頼みごとをした。それは、プレゼン大会出場の免除。『研究途中ゆえ発表するには不十分だが、教育AIにそれを開示し重要研究と認定されたら、その認定をもってプレゼン大会に出場したものとする』 生徒の研究を重視する研究学校のこの制度を、私は利用させてもらったのね」
 ガタンッ
 椅子の激しくきしむ音が、会議室に響いた。
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